《編制》 |
《ドミナス・ウィルバーフォースT》
「僕はドミナス、ドミナス・ウィルバーフォース。でも、友達は皆ドミノ≠ニ呼んでるよ。ところで、君の名前は? あるんだろ、名前。なんて言うのさ」
イザイ法国パイロン州、カタリカの海岸。苔だらけの朽ちた流木や固い殻で覆われた木の実が幾つも打ち揚げられた砂浜には、打ち寄せる静かな波音と汐の香り以外は何も無く、訪れるものを優しく迎え入れる。波打ち際の僅かに湿り気を帯びた砂地に屈み込むとドミナス・ウィルバーフォースは軟らかな調子で、陽光を反射し銀色に輝く鉄塊に語り掛けた。後ろで結わえた黄金色の髪が照り付ける陽光の元で稲穂の輝きを見せる。
ドミノの傍らの一抱えほどの大きさの歪な楕円形のその鉄塊は、中間に節のある四本の長い突起を、まるで救いを求める愚民の腕のように大空に向けていた。侵食を免れた領地を赤褐色の錆が包囲し、その鉄塊が少なからぬ時間海水に浸されていた事を無言で語る。間を置いて鉄塊から、ぎいぎいとまるで喉を詰まらせたブディンの呻き声のような音がした。ドミノが辛抱強く待っていると、途切れ途切れの雑音は途中から抑揚を伴い、遂に彼の耳に言葉≠ニして伝わる。
「ガ、ガ、……ケイ、……ビィー、ザザッ、シイ、……ギガッ、ガ、ガ……」
言葉のように聞こえたその音は再び聞き取れない単なる雑音と化し、暫くすると途切れてしまった。
「けい、びい? それ、君の名前かい?」
指先で突付きながらドミノは尚も語り掛けるが鉄塊は押し黙ったまま応えない。ドミノは立ち上がり水平線の彼方を上下する海鳥の群れを遠い目で眺める。干潮で海岸線は徐々に後退し、その表情を刻々と変化させる。しかし、静かな情景と相反するように、安堵と焦燥の入り乱れる複雑な感情がドミノの胸を占領していた。それはまたカタリカの街に、イザイ法国全土に垂れ込めるものでもあった。小さな溜め息を吐くドミノの目には優しいうねりを見せる海ではなく、青黒い法国軍の軍服でその身を包んだ彼の友人達の険しい表情が、まるで網膜の傷のように映っていた。彼らの鋭い眼光がドミノを容赦無く貫いている。
「僕には向いていないよ、兵隊や、戦場なんて……」
応えるものの無い呟きは波音にかき消される。雲間からの日差しがドミノの立つ領域に注ぎ、砂浜に彼の姿を黒く描き出す。
血生臭い覇権争いの続くリタルダンド大陸だが、ドミノの暮らす国、イザイ法国には徴兵制度は無かった。二十歳を迎えたイザイ法国民男女には兵役の機会≠ェ与えられるのである。それは名誉であり特権であり自由と平等の象徴でもあった。全ての国民は自らの意志で軍務に就き、自らの意志で平和に貢献する。また、それを拒む事も個人の自由であり何人も兵役への強制力を持たない。ただ一つ、それを良しとしない風潮≠除いては。
その年、ドミナス・ウィルバーフォースが、カタリカに住む二十歳を迎えた男女でただ一人℃u願しなかった事は、彼以外の三百人余りの若者を、人口五千人のカタリカそのものを驚愕させた。ドミノにはそれを裏付け支える彼なりの考えがあった。最前線で凶弾に倒れた父親の後を追うように母親が病死し、十六歳で天涯孤独の身となった彼が反戦思想を持つようになったのは当然と言えば当然であろう。だが、周囲の人々が熱心に説くドミノの声に一切耳を傾けようとしなかったのも、いつしか彼が心を固く閉ざしたのも、或いは当然であったのかもしれない。
我先に軍部に赴く若者を横目に、ドミノは海岸で終日を過ごすようになった。二日前、目的も無く通いつめる砂浜で奇妙な音を発するその鉄塊を見付けたドミノは、重苦しい気分を紛らわすかのように鉄塊に語り掛けていた。感性を刺激された詩人の如く。
何処からかくぐもった重低音が聞こえてきた。ゆっくりと浜辺を見廻すドミノは水平線の上、先刻、海鳥達が舞っていた辺りに光帆船が浮いているのを見付けた。光帆船はマズルカのいななきのような機械音を発し今正に離水しようとしていた。二本の短刀で貫かれた逆さ髑髏{どくろ}の徽章{きしょう}が船体に描かれたイザイ法国軍の大型戦闘艇が引力の鎖を断ち、海水を撒き散らしながら上昇する。短い葉巻型の船体が、屹立する自身の光帆により真っ白な輝きを放ち、全長二百五十メンヒル(メンヒルは距離単位、一メンヒルは約一メートル)の巨体に寄り添うように数艇の小型船が飛行している。
声も無くその光景を眺めていたドミノは、船団が水平線の彼方に消え去って暫くしてから「ユージーンの船だ」と小さく囁いた。その直後、切り裂くような悲鳴がドミノの鼓膜を激しく叩いた。可聴範囲ぎりぎりの高音が頭を突きぬけ、ドミノは両耳を手で塞ぎその場にひざまずく。耐え兼ねて、彼が叫び声を上げる寸前でその高音は前触れも無く止んだ。
「ジジッ、補助動力ガッ開放。〈ユージーン〉、記憶内重要調査項目にジッ該当、照会中。ガッ、検索完了、……適合。〈叡族ユージーン〉、イザイ・エッダ管理体、詳細はジジッ最高度防壁により未確認。ガガッ、当該情報収集をギッ最優先任務に昇格」
足元の錆びた鉄塊から音が、言葉が響いていた。時々雑音が混じる、男性とも女性とも言い切れない不思議な音階の声だった。ドミノは滲む汗を拭い鉄塊に見入っている。
「ギキッ、相対座ガッ標、……情報ジジッ消失、現地点を絶対基点に設ビッ定。経過時間、九九九九億九九九九万九九九九年九九九九日、……消去。ザッ、現時刻を任務開始時間に再ガッ設定、活動、再開」
言葉は聞き取れるものの内容は理解出来なかった。それぞれの単語の意味は分かるが、全体として何を言おうとしているのか、ドミノは必死に読み取ろうと苦労していた。
「ザッ……機体破損率九十二パーセント、反次元タービン再起動不可。任務遂行に支障ガガッあり、機動スクリュウを含む機関修復を最優先任務に再設定」
「破損! そうか! 君は、動けないんだね。壊れているのかい?」
ドミノが言うと声は「破損率九十二パーセント、再起動不可」と繰り返した。ドミノの問い掛けにその鉄塊は返答したのだ。
「こ、言葉が分かるの? 僕の声が聞こえる?」
「ジーッ、収集情報により言ガッ語構成を分析。音声接触にザガッ問題無し」
「凄い!」とドミノは叫び、目を輝かせた。鉄塊から伸びた突起の一つが節の先を僅かに震わせる。
「機体修復をザッ要請する。反次元タービン再ガッ起動を要請する」
「解った! 修理してあげるよ。鍛冶屋のリャザーノフさんならきっと何とかしてくれる!」
高ぶる気持ちを押さえながらドミノは鉄塊に言った。兵役志願を拒んでから一年間余り、彼は周囲の人々と必要最低限の会話しか交わさずひっそりと暮らしていた。永遠不滅と思われた友情の殆どが跡形も無く消え去り、譲れない思想や信念を捻じ曲げない限り、彼らとの友情が再生する見込みも無い。ドミノは孤独であった。彼は特別に強い精神力の持ち主ではなかったし、どちらかと言えばその心は脆弱だった。だが、安易な迎合に身を委ねるほど彼の誇りは落ちぶれてはいない。「気高く生きろ」という父親の教えを、ドミノは理解した上で実践した。その代償が、孤独であった。
海辺で出会った奇妙な様式の機械は人語を解し、彼、或いは彼女はドミノに偏見や先入観無しに語り掛け、しかも助けを求めている。他者との交流に飢えていたドミノの心を、漂着した機械の無機質な音声が潤し、ドミノを孤独から救い出したのだ。たとえそれが機械的手続き的判断で構築されたものであったとしても、打ちひしがれた一人の若者に差し伸べられた救いの手である事に変わりはないだろう。
「僕はドミナス、ドミナス・ウィルバーフォース。でも、友達は皆ドミノ≠ニ呼んでるよ。ところで、君の名前は? あるんだろ、名前。なんて言うのさ」
背負った機械に言い、ドミノは自分には既に友達などただの一人もいない事を思い出したが、今迄のように胸を締め付ける苦しさは不思議と無かった。錆がぽろぽろと剥げ落ちる機械は見た目の大きさに比べると軽く、ドミノ一人でもどうにか運べた。
「ザガッ、要求に該当する呼称は、〈Kb/c〉、ガッ」
「ケービー・シー? ふーん、何だか呼びにくいね。……ケイビィ、で良いかな? ほら、僕もドミナスだけど、ドミノって方が言い易いだろ? どお? ケイビィ、悪くないと思うけど」
機械との会話は既知の友人との何気ない語らいのように思えた。相変わらず感情のようなものは読み取れないものの、それが逆に心地良いドミノだった。傷つける事も傷つけられる事も無い実質本意の言葉のやり取りは、道端で交わされる他愛ない挨拶のようなある種の軟らかさに似ているとドミノには感じられた。
「ガーッ了解、ドミナス・ウィルバーフォース、ドミノの相互自動変換、及びKb/c、ケイビィのガギッ相互自動変換、登録完了。当機の呼称は現時刻よりKb/cとケイビィを等価併用とする、ザッ」
「改めてよろしく、ケイビィ」
「ザッ、よろしく、ドミナス・ウィルバーフォース・ドミノ」