編制

《エリカ・イェスベルセンT》

 頂点に差し掛かる太陽が、店頭に並ぶなじみ客達を優しく包んでいる。春先にしては少々強い日差しが店先の長椅子で井戸端会議に花を咲かせる彼らの額に数粒の汗を誕生させ、皆々に今年の豊作を予感させた。ギーゼキング公国カスター子爵領の清楚な街、ヒュメーンにある『イェスベルセン精肉店』は豊富な品揃えと良心的な価格帯により評判は右肩上がりで、常連客の中には隣国ナーガールジュナ連邦のボーヴォワールから遠路遥々やって来る者もいた。
「ヌース腿肉三百クラン(クランは重量単位、一クランは約一グラム)、おまたせしましたぁ」
 精肉店の娘が羊皮紙で包まれた山岳水牛ヌースの切り身肉を手に、常連の一人である労働者風の初老の男に向け間延びした声で言った。口元目元の緩んだその娘から包みを受け取り、男は金属を引っ掻く音で「ああ、幾らだ?」と応える。
「えーと、百三十スクーロ(スクーロは通貨単位)ですけど……百スクーロにおまけしときまぁす」
 男は毛繕いをするイグルー犬のような仕種で懐から銅貨二枚を引っ張り出し、それをにやけた娘に手渡すと、にこりともせず立ち去った。娘は「毎度ぉありぃ」とやはり間延びした声で言い頭をぺこりと下げた。棚に並んでいた肉が売り切れ、本日最後の客である男が見えなくなると娘は『閉店』と書かれた小板を店先に提げ、通り沿いに向けられた接客窓の滑りの悪い木製引き戸を苦労して閉じた。店の奥の住居兼用の狭い部屋で仕事着を脱ぎ刺繍入りのたっぷりとした普段着に着替える。裏口から外に出てしっかりと戸締まりすると、のんびりした歩調で街路樹の青い匂いの立ち込める石造りの街へと繰り出した。暖かい、散歩に最適の日和であった。
『イェスベルセン精肉店』の十七歳の若き経営者にして唯一の従業員、そして評判の看板娘と一人三役を演じるエリカ・イェスベルセンは、鼻歌混じりの上機嫌でヒュメーンの商店街を冷やかして歩いて行く。
「わったしは可愛いおっ肉屋さぁん、にっこり笑っ顔の店長さぁん、しぃろいバセットきり裂ぁいてぇ、今日も働くエッリカちゃぁん〜」
 子供向け衣料店の前に差し掛かったところでエリカは、半年程前から、週末には必ず来店している常連客を今日に限って見ていない事を思い出した。挨拶以外の言葉を交わしたことは無いが、その自分と同じ年代の女性客はエリカにとってなんとなく気になる存在だった。

 女性が初めて店を訪れたのは白いものが舞い散る冬の直中のある日だった。余りに寒くエリカはメフメトの毛皮服を幾重にも着重ね小さな火鉢を抱きかかえていたほどである。表の方から声が聞こえたのでエリカは苦労して火鉢から離れ接客窓に渋々ながら出向いた。そこには十代後半の女性がいて、着膨れでメフメトにしがみつかれたように見えるエリカに向かって女性にしては低めの、だが良く通る声で「バセットの乾し肉、あるかしら?」と言った。店には注文の品はあった。品揃えの良さはエリカの自慢の一つでもある。だが、エリカは小さく口を開き目を瞬かせ、呆けた顔でその女性を見詰めたまま、返事をするのも忘れ石像と化していた、驚きの余り。
 女性の服装は灰褐色の綿織りの上下だった。肌着ほどに生地が薄く体の線がくっきりと浮かび、肩から先と腿の根元以下、お腹が剥き出しだった。両拳を覆う皮手袋は指先が露出しており、どう見ても防寒用ではない。そして、それだけは大袈裟な分厚い革靴は足元の雪に埋もれていた。雪の欠片が剥き出しの肩に降り、女性の体温を奪ってから水へ変わった。
 毛皮の重みで腕を上げる事すら叶わぬエリカとは完全に対極にある、見ているだけで凍えてくる女性の格好は、暫しの間、エリカをメフメトの剥製に変えたのだった。しかし、まるで自分の周囲だけは真夏だと言うように女性は澄ました顔だった。エリカは、彼女に言わせれば裸に近いその女性の全身を、息を殺してしかつめらしく睨む。
 女性の方はそんなエリカの様子を、注文が聞き届けられなかった為と捉えたらしく「バセットの、乾し肉を、十五キーレクラン(一キーレクラン=約一キログラム)、お願いしたいのだけど」と一句ずつ区切って丁寧に言った。だがエリカからの返事はない。目を点にしたメフメトエリカと、唇の端を僅かに上げた珍獣女性は無言で見詰め合う。静かに舞い下りる雪が街路を白く染め上げる。
「あのー」
 沈黙に耐え兼ねて口を開いたのは女性の方であった。
「ここ、お肉屋さん、よね? バセットは売り切れなの?」
 既に女性の顔から笑顔は消えている。眉をひそめているのはしかし寒さに耐えてではなく、彼女の眼前の押し黙った精肉店員をいぶかしく思っているからである。返事くらいしてくれても良いじゃあないか、女性の表情はそう訴えていた。更に幾らかの時間が過ぎ、やっと我に返ったエリカはその場で飛び上がって「ありますぅ!」と裏返った声で叫んだ。商品棚から注文の品を取り出し肉切り包丁で切り分け素早く羊皮紙で包む。羊皮紙を受け取り代金を払い、やっとの事で目的を達した女性はエリカに向け軍隊式の敬礼のように軽く手を上げると、雪で白く煙る街へと消えて行ったのだった。

 その日以降、週末になると殆ど同じ時間に店を訪れるようになったその奇妙な女性の事を、エリカは密かに〈雪女〉と呼び、それによりどうにか自分を納得させていた。〈雪女〉だから氷点以下の気温だって平気なのだ、と。
 街外れでそろそろ散歩を切り上げ、夕食の準備の為、店に戻ろうかと考えていたエリカは、立ち止まると、ぽんと手を叩いた。
「なぁるほどぉ、春になったから、溶けちゃったのね。うん、きっとそうだ」
 もやもやと立ち込めていた疑念が漸く晴れ、エリカは何度も頷きながら帰路に就いた。

 貴方は今の食卓に満足していますか? 本物のお肉を味わっていますか? 狩り立てのお肉を食べていますか? 当店は最高品質のお肉を良心的な価格で皆さんに提供致します。『イェスベルセン精肉店』! 是非一度お立ち寄りください!
「お肉なら、やっぱりイェスベルセン、だね!」

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