編制

《コルト・イヴァーノフU》

 赤毛の年老いたマズルカ、ベールイに引きずられる事三十分余り。洗濯板でその身を磨り潰される衣類の苦しみを十二分に味わったコルトは、何時の間にか荒れ地を抜け森の中にいた。そこは絵本にでも出てきそうな美しく静かな森だった。だが、小鳥の囀りや差し込む軟らかな日差しは、コルトにむず痒い居心地の悪さを感じさせていた。僻地の寂れた町を渡り歩いては血生臭いいざこざを巻き起こしてきたコルトは、和やかさや可憐さ、神秘的情景や芸術性など、およそ少女趣味ないろいろを特に苦手としていた。生理的に受け付けないのだ。頭蓋を勝ち割られた銃創だらけの死体が二つ三つ転がっていれば、或いは彼の心を和ませたかもしれないが、不幸にもそんなものは無かった。
「……ベールイ、本当に此処か?」
 眠そうな目を瞬かせる相棒にそう尋ねる彼の表情は明らかに「違うだろ?」と訴えていた。普通、マズルカは喋らない。当然、コルトの頼りになる相棒、赤毛のベールイは応えなかったが、返事の代わりに主を無視して歩き始め、先刻、銃声の聞こえた場所へと案内する。ベールイは普通のマズルカには無い、もしかするとコルトにすら無い賢さを兼ね備えてるのだ。
 コルトはベールイの後を重い足取りで追う。ベールイは鞍は装着しているが手綱やその他の一般的な乗用装備は無い。必要が無いからだ。ベールイはコルトの言葉を理解し、彼の命令には機嫌が良ければ殆どの場合従った。最近のコルトの悩みは、彼の相棒がこの頃終日不機嫌で、ちっとも言う事を聞いてくれない事だった。
 暫く歩き、およそ彼らしからぬ事だが、蹄が土を踏む音を聞きながらコルトはぼんやりと考え込んでいた。相棒の機嫌、今晩の宿、寂しい手持ち、ギーゼキング公国で出会った飛び切りの美人達、大掛かりな戦争が始まると言う噂、そして、〈仁将ゼッファー〉の不気味なまでの美貌……。
「ゼッファー、か。あんな上玉、そうそう拝めるもんじゃあねえよな。……だが、あれじゃあまるで……」
 死人のようだ、と言いかけてコルトは言葉を飲み込んだ。辺りには誰もいないし、聞かれたところで不都合はないのだが、コルトは無意識にそうした。顔を合わせたのはほんの五分ほど、しかもそれは二ヶ月も前の出来事だった。それでもそのゼッファーと言う名の〈叡族〉の姿や声はコルトの脳裏にくっきりと焼き付いていた。

 二ヶ月前、コルトはギーゼキング公国外れの安宿に滞在していた。黴臭い寝台や軋む木製階段は値段相応で心地良かった。その宿を盗賊団が襲ったのだ、白昼堂々と。そこは公国辺境の小さな宿場町で、駐留している保安軍は飾りに過ぎず、十数名の手練に敵前逃亡する始末だった。盗賊は悪名高い賞金首集団ではあったが、コルトが勇んで彼らの前に立ちはだかったのは正義感からなどではなく、黄色い悲鳴を上げる街の娘達が目に映ったからにほかならない。
 娘達に手を振り、宿からのんびりした歩調で出てきたコルトに、大砲のようにも見える長身銃を担いだ賊頭が威嚇を兼ねて野太い声で名乗り終わる頃には、盗賊団でまともに動ける人数はその賊頭ただ一人になっていた。
 一部始終を見ていた筈の多くの人々には、コルトが何時銃を抜いたのか捉えられた者はいなかった。腕や足を押さえ地べたでうずくまる盗賊団を見て、彼が恐らく発砲したのだろうと想像したに過ぎない。賊頭の銅鑼声にかき消された乾いた銃声が一つしか聞こえなかったのは、速射の為であった。町中が湧いたのは言うまでも無い。評判はその日のうちに公国宮廷にまで伝わり、コルトはギーゼキング公国統治者〈仁将ゼッファー〉との異例の会見と相成ったのだ。
 ゼッファーは女性の姿をした〈叡族〉であった。彼らには性別は無いと聞いていたが、コルトにはゼッファーは若い女性に見えた。
 不吉な白さを見せるきめの細かい肌、肌の白さを際立たせる床まで伸びる漆黒の髪、同じく漆黒の外衣、手にした鎌の鏡の如き刃には、細めた赤い瞳が映っていた。整い過ぎた顔は若くも年老いても見える。肌から浮き立つ、血の色をした唇が僅かに上下し、囁くような、それでいてはっきりと聞き取れる言葉が零れる。
「其方{そち}が、コルトか?」
 その声を聞いた瞬間、コルトは髪の毛が逆立つような、ある種の恐怖を感じたのだった。彼は必死で狼狽を隠し、絞り出すように「はい」と応えた。顔と同じく不自然なほど美しいその声には感情が、精気が全く無いように思えた。確かに、死人のようであった。
 ゼッファーとの接見が終わると、彼の本能は訴えた、こいつとは決して戦うな、と。

「それでもだ、あいつは上玉には違いない。願わくば今一度、といきたいねぇ。次は酒でも、なあ? ベールイよ」
 物言わぬベールイに歩調を合わせ、コルトは口の両端を歪め不敵の笑みを浮かべる。
「薔薇は、刺があるから美しいのさ。それに、獲物は手強いほど狩り甲斐があるってもんだ」
 コルトは一目見たその瞬間から、〈叡族〉ゼッファーを心底恐れ、しかし同時に彼女を好敵手≠ニ認識したのだった。〈叡族〉に挑む、大陸中を探してもこれ程馬鹿げた考えを持つ者は彼以外いないであろう。人間は〈叡族〉には絶対に敵{かな}わないし、そもそも争う必要は微塵も無いのである。彼ら〈叡族〉は人間にとって無くてはならない同胞であり、また、人間に危害を加える存在ではないのだから。
 言うなれば彼ら、彼女らは天空に浮かぶ太陽や月のようなものなのだ。コルトの考えは彼の台詞にあるように、狂暴な獲物に挑む狩人のそれと同じ、ごく単純な理屈であり、または子供らの理不尽な戯言であった。

 ベールイが小さくいななき目的地に到着した事を知らせる。コルト達は小さな崖の上に出ていた。身を乗り出し崖下を見るとそこには毛皮を羽織ったむさ苦しい集団がいた。皆、銃を手に声も無く森の一本道を歩いていた。
「山賊、か?」
 だが、その様子は足音を殺していると言うよりも、落胆しているように見えた。肩を落とし表情も何処と無く暗く陰っている。
「……大外れだな、こりゃ」
 抜きかけた輪胴拳銃を再び仕舞うとコルトは溜め息を吐いた。悲鳴と銃声を聞き、諍{いさか}いならば助太刀により報酬を、或いは横取りをと考え遥々やって来たのだが、眼下の山賊はどうやら仕事をしくじったらしい。金目のものを持っているようには見えないし、これだけの人数を打ち負かしたのだから彼らの獲物はきっとそれなりの護衛を伴っていたのであろう。誰であろうと負ける気など微塵も無いコルトだったが、余程金に困らない限り追い剥ぎのような真似はしたくなかった。今夜の宿代くらいは、と、山賊の強襲も考えたが、彼らの余りに悲壮な表情は、コルトのような男にさえ哀れみを感じさせるものだった。
 一団が過ぎ去り、コルトとベールイは迂回して崖を降りた。そこは森を東西に横切るほぼ直線の石舗装の無い道で、近隣住民の利用する商業路らしく、荷車のわだちが土に刻まれている。
 山賊のやって来た方角に看板が見えた。一端を鋭角に切り落とし西を指す板切れ看板には『ようこそ! ナーガールジュナ・ボーヴォワールへ』、東を示す板切れには『カスター・ギーゼキング、ヒュメーンはこちら』とそれぞれ刻まれ、杭に打ち付けてあった。下段の、東を示す板切れには『イェスベルセン精肉店へお越し下さい!』と真新しい塗料で書き加えられていた。
 コルトは腕を組み、看板を鹿爪らしい表情で眺める。ベールイは我存ぜぬといった面持ちで大欠伸。
「ナーガールジュナかギーゼキング、ボーヴォワールかヒュメーン、か」
 目的の無い旅を続けるコルトにはどちらでも良かったのだが、それゆえ決め兼ねていた。すぐさま〈叡族〉ゼッファーと出会える訳でもないのでギーゼキング公国にこだわる必要も無く、だからと言ってナーガールジュナ連邦にこだわりがあるでもない。
「こういう時は、これに限る」
 そう言うとコルトは懐から、なけなしの五十スクーロ銅貨を取り出した。右手親指に銅貨を置くと暫し睨み、勢い良く弾いた。空中できりきりと回転する銅貨は再びコルトの手に戻り、左手でそれを受け止めると右手で素早く蓋をした。
「表が西、裏が東だ! いいな?」
 当然応えぬベールイ。ゆっくりと右手を開くと銅貨に刻まれた肖像と目が合った。
「む……」
 左手の銅貨を見詰めコルトは沈黙した。傍らでベールイが草を食む音が聞こえる。間を置いてコルトは殆ど独り言のようなか細い声で言った。
「なあ、ベールイ。……これ、どっちが表だ?」
 賢いマズルカ、赤毛のベールイは賢くない人間、コルトを無視して食事を続けていた。傾きかけた夕日が彼らを朱色に染める。名前も知らない銅貨の肖像がいやに偉そうに思えたコルトだった。

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