編制

《マルグリット・ビュヒナーU》

 森でミッチが転んで、いや、凶悪な山賊達から辛くも逃れて二日後。家事・雑務を午前中に片付け、マリーは道場で一人稽古にいそしんでいた。外は雨らしく、屋根瓦を打つ音が板張りの稽古場にこだましていた。六十人が一同に鍛練できる広さを持つ道場だが、マリーは、自分や師範を含めても五人以上がいちどきにそこに立つ光景を生まれてこのかた見た事が無かった。拳が空を切る音が薄暗い稽古場で隙間風のように聞こえる。
「せいっ! はっ! たあっ!」
 彼女の父親、師範のハルメット・ビュヒナーは彼女が十七歳を迎えた年を境に色々と理由を付けては道場を留守にするようになった。それから今日までおよそ二年余り、マリーは殆ど毎日一人で稽古を続けていた。一人きりなので組み手も出来ず、マリーはそれ程多くはない型を繰り返すばかりだった。お陰で演舞だけは誰にも負けない自信を持つに至ったが、実戦は、どうやれば良いのか見当も付かない有り様だった。
「おりゃっ! ていっ! しゃあっ!」
 今迄に何度か、マリーは父親が連日何処に通っているのか問い詰めた事があった。門下生がいるでもないので実害がある訳ではなかったが、十二歳のまだ幼かったマリーを半ば力ずくで後継者に仕立てておいて、基本を教えたらあとはほったらかしではあんまりと言うものだ。懸命に鍛練を重ねるマリーは何だか自分が騙された気がして、師範にして父親、ハルメットに幾度と無く迫ったのだ。だが、何時も語尾を濁され言いくるめられていた。
 七十歳に差し掛かり、歩んだ人生より余命の方が少ない老人なので、色事や賭け事の類は除外できるとしても、散歩や井戸端会議とも思えなかった。第一、そんなものであれば隠す必要など無い。たとえ色事だったとしても豪胆にして不敵、或いは厚顔無恥とも言えるハルメットがそれらを自慢する事はあっても、その逆は考えられなかった。賭け事をする程の資産が道場に無いのは言うまでも無かった。こんな廃屋では抵当の価値すら無いであろうし。
 明日こそ絶対に問いただしてやる、そう意気込んで床に就き、今朝起きてみたら別棟の父親の寝床はもぬけの殻だった。
「……ちいっ! 察したか、じじいめ」
 湿気を含んだ床板がマリーの動きに合わせて、ぎいぎいと軋む。型の、足を下ろす部分が擦り切れて僅かに窪んでいる。彼女の鍛練の成果である。霊式黙示流には基本となる型が十二種類あった。どの型も独特で、彼女に言わせると、不格好だった。他の、黙示流よりも有名な、そして実践的な格闘技にはきっと数多くの型があるのだろう、マリーは何時もそう考えていた。そして、それらはもう少し格好良いのだろう、とも。勿論それは彼女だから持ち得る偏見なのだが、黙示流の実戦を見た事が無い彼女を責めるのは酷であろう。他人の持ち物は、得てして良く見えるものである。
「うらぁぁ!」
 込み上げる怒りが道場の窓を震わせ、突き上げられた足先が唸りを上げる。汗が粒となって飛び散り、頭の高さの足先の向こうに、煤けた漆喰壁と『邪正一如{じゃしょういちにょ}』と刻まれた年期のある木目板が見えた。邪正一如、とは霊式黙示流拳術の根源的な教えで、邪と正は別々のものではなく、一つの心から出たものであり元は同一、と言う意味である。まだ父親が熱心に彼女に稽古を付けてくれていた頃、彼は厳しくも優しい口調でそれを繰り返し語ってくれた。
「だ、か、らっ! 何だってのよ!」
 足を上げたままの姿勢でマリーは、そのいかにも偉そうな字面を睨み付けた。怒りは、教えにではなくそれを語った父親に向けられるべきものだったが、振り上げた足を下ろす相手は無く、マリーはその看板を仇と言わんばかりに凝視していた。
「こんな事ばっかり、二年間も毎日毎日――」「マぁリぃー!」
 突然ミッチの大声が稽古場に響き渡り、威厳ある看板を叩き割りそうになっていたマリーをすんでの所で食い止めた。不意に覇気を削がれたマリーは今にも泣き出しそうな歪んだ顔で「なによー」と返した。ミッチは庭に面した縁廊下側の引き戸から顔を出し手招きする。薄暗く独特の雰囲気の稽古場を恐がり、ミッチは決して足を踏み入れようとはしないのだ。最後の一手を空に向けて打ち演舞が終わると、仕方無く自ら廊下に出向きマリーは「なによ」と繰り返した。大きく張り出した軒先の外側、茂った庭木は雨で陰って見えた。ミッチは天候などお構いなしのようで何時もと同じく元気いっぱいの様子だ、マリーとは対照的に。
「ねえマリー、ハル爺は、かかしなの?」
「……何?」
「か・か・し、ほら、畑にいる、あれ」
 ハル爺とはハルメットの事で、ミッチは彼をそう呼んでいる。自分で結わえたらしい二本の三つ編みをいじりながらミッチは「ねえねえ」とマリーに迫る。だが、マリーにはミッチが何を言おうとしているのか、何を自分に尋ねているのか解らず「何?」と繰り返した。思いがけず背筋を悪寒が駆け上る。何やら嫌な予感が、ほんの僅かな予感が胸をかすめた気がした。
「ハックスリがね、聞いたんだって。みんながハル爺をかかしって呼んでるのを。ねえ、そうなの?」
 ハックスリとは近所の子供でミッチの遊び友達である。だが、みんな、とは一体どの連中かマリーには見当が付かなかった。しかし、これはただ事ではない。マリーは立ち眩みで廊下に倒れそうになるのを必死で堪えていた。詳しい事情は分からぬが彼女の父親ハルメットが何処かの誰か、それも大勢に嘲笑されているのは明らかだった。恐らく格闘家≠ニして、である。しかも、ミッチや彼女の友達が聞いたとなれば、それが半ば公然と行われている事は想像に難くない。何度目かのミッチの「ねえ」と言う言葉を合図に、マリーはとうとう廊下に膝から崩れ落ちた。両手を突き頭を重力に任せるがまま、放心していた。
「マリー!」
 青ざめたマリーに驚きミッチが叫ぶ、が、その声はマリーには届いていなかった。視点の定まらぬ両目に不意に涙が浮かび、血の気を失った唇が震えていた。
「……何? 何なの、一体……」
 黒雲から身を投げた雨粒の、地を打つ音が小さな拍手のようであった。

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