『水に棲む猫』天沼春樹/パロル舎(1996)
1998.02.12読了
1998.02.14記


 小学校3年生の時、近所の子どもたちと一緒に、団地の脇を流れる川を溯ったことがある。当時既にその川底はほとんどコンクリートで固められており、流れはくるぶしほどしかなかった。そんな川を、サンダル履きで行列になって溯っていく。6年生から1年生まで、何人いたのだろうか。普段知らない子どもも沢山いたように思う。

 その時は一体どこまで溯ることができたのか、なぜそんな遠足をすることになったのか、全く記憶にない。もし沢蟹を取りに行くということであれば、もっと奇麗な上流へ簡単に行くことができるのに。ただ覚えているのは、なんとなく初夏の土曜日の午後だったということと、そのような遠足はその1度だけだったということだ。小学校3年生の頃であると特定できるのは、単に私が小学校6年生まで毎年のように引っ越しを繰り返していたからにすぎない。

 『水に棲む猫』は、そんな昔の記憶の匂いがする小説だ。

 大人たちが東京オリンピックに熱狂していた年。少年たちは町中の猫を川に流す《儀式》に熱中していた。「猫は再び水の国に生きる」という教義のもと、8人の少年たちは、さながら秘密結社のように結集して、川を目指して行進する。
 《儀式》はすべて、《祭司》と呼ばれる少年の指示で行なわれた。無口で偏屈で、いつも不機嫌そうな顔をした《祭司》は、あらゆる猫の祟りに通じていたが、自ら猫を捕まえることはしない。常に仲間を指示して猫を捕まえさせ、行進の時は猫を持ちながら先頭に立つ。
 猫を川に流すという行為は半年にわたって繰り返され、やがてオリンピックの開幕に時を同じくして静かに終焉を迎える。川が海に流れるように、自然に少年たちの心は《儀式》から離れていく。猫と共に過ごした時間に、《祭司》の少年を独り残して。

 子供がまだ世界にとって異人であったころ、世界は不思議に溢れていた。世界は限りなく広く、深く、不可解で、不気味で、霧のかかった、わからないものだった。大人たちは理解できない、別の世界に住む生き物だった。そんな世界の象徴が「猫」であり、《儀式》は少年たちが世界を見通すために作り上げた、自分たちの「方法」ではないだろうか。

 だが、ひとたび大人の方法で世界を見ることを学んでしまっては、また再びかつての「方法」で世界を見ることは不可能だ。淀んだ水から、水面に顔を上げた時のように、世界は色を変えてしまう。心地よい、羊水の中のような子供時代にはもう戻れない。世界の不思議を感じることができなくなり、自らの視野の広さも、見えない広がりの存在も知ってしまった後では。

 ・・・児童文学じゃないと思うけどなぁ(^^;。
 ちなみに『猫町∞』と、現在未刊の『猫迷宮』と併せて三部作になるらしい。『水に棲む猫』と『猫町∞』との間にはストーリーの繋がりはないが、『猫迷宮』でどう発展するのか・・・。期待(--)b。


=>産経新聞(1996年10月25日)より書評
 こどもの本 水に棲む猫【天沼春樹著】
=>猫MLのページより
 著者・天沼春樹による紹介

ざぼんの実