『星兎』寮美千子/パロル舎(1999)
19990606読了 19990712記 |
バイオリンをさぼって時間を持て余していたユーリは、雑踏の中でうさぎと出会った。うさぎはうさぎだ。人間と同じくらいの大きさの、本物の―哺乳類そっくりの直立したうさぎが、雑踏の中で、ユーリを見つけてお茶に誘ったのだ。ユーリは、直立した等身大のうさぎの存在に戸惑いながらも、いっしょにドーナツを食べた。いっしょにチャイナタウンへいき、お祭りへ行き、埠頭へ行き、海に来て、波の音を聞き、ヴァイオリンに耳を傾けた。 たまらなく無邪気な無邪気なうさぎ。うさぎなのに。そう、どうしてうさぎはうさぎなのだろう。立って歩く直立したうさぎ。そんなものが、あるはずのないものが、どうしてここにいるのだろう。うさぎは、そのことをどう思っているのだろう。 |
評論家・甲木善久の言葉が適確に想いを語ってくれているのですが……。 この物語は、二つの時間が交差する形で描かれている。「今」のユーリが、うさぎと初めて出会った頃のことを、順に回想していく。うさぎを初めて見た時の自分を評して、「今」のユーリは言う。 『なんだ、うさぎのぬいぐるみだ』と、ぼくは思った。うさぎと出会って、ユーリは「そこにあるものを見る」目を手に入れた。「おとなたち」と同じようではない、自分の目を。そして、その目がどんなに重いものなのかも、「今」のユーリは知っている。 きれいなものを、きれいだと言い、そこにあるものを、あるがまま認める。うさぎは、これまでそうして生きてきた。それは、そうして生きていくしか方法がなかったからだ。等身大の立って歩くうさぎを、雑踏の人々は避け、ドーナツショップの店員は怯えて見上げる。けれども、うさぎはうさぎだ。近寄ればわかる。触れてみればわかる。話してみればわかる。いっしょに歩いてみればわかる。うさぎは言う。 「ぼくは、ぼくのものなんだから」うさぎはうさぎなのだ。他の誰でもない、うさぎという名の1個の魂。この世にただ一つ、ユーリがユーリであるように、他の誰でもなく、うさぎはうさぎなのだ。 人間ではないと否定され、うさぎではないと否定され、うさぎはそこにたどり着いたのだ。他の誰でもない、自分は自分なのだという当り前の、けれども、なぜか悲しい答え。それではなぜ自分は自分なのか。人間の姿ではなく、うさぎの姿をしているのか。人の言葉は分かっても、うさぎの言葉は分からない、「にせもののうさぎ」。 誰から生まれたのかも、どこから来たのかも、どこへ行くのかもわからない。気がつけばうさぎの魂はうさぎの身体の中にあった。銀色の毛皮、赤い瞳、長い耳、よく動く髭。うさぎは、その体も含めて、うさぎなのだ。うさぎはうさぎ。 うさぎは無邪気だ、とユーリは言う。確かにうさぎは、無邪気で、しなやかで、強い。でも強い分、悲しい気がする。 うさぎがこの世に留まるには、きっとうさぎのままでは苦しすぎるから、うさぎは星へ帰ってしまったのだろうか? うさぎがうさぎのまま、この地上で受け入れられれば、うさぎはうさぎのまま、今もここにいたのかもしれないのに。それとも、うさぎがここに留まるためには、うさぎはうさぎをやめなければならなかったのか。うさぎがうさぎの姿をしていなければ、まだここにいたのだろうか。でも、それは、うさぎなの? うさぎは、うさぎだから。
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