『ラジオスター レストラン』寮美千子著/パロル舎(1991)
1999.8.15記

『ノスタルギガンテス』をめぐって〜寮美千子リーディングパフォーマンス
寮美千子ファンページ「記憶の王国」

ざぼんの実
ざぼんの木

ぼくは、恐竜だった。魚だったこともある。そうだ、蝉の翅だったこともあるんだ。いいや、小さな石ころだった。それが砕けた砂だった。そうだ。水だった。河を流れる水。巨きな海のひと滴。湧きたつ雲。あたたかい雨。ぼくは、吸いあげられてやわらかい緑の草になった……。
 ぼくが、ひとかけらの流れ星になってこの惑星にやってきてから長い長い時間、ぼくは、惑星の上のあらゆるものたちだった。
 そう思うと、ぼくのなかの骨が、血が、心臓が、脳が、ぼくをつくっている、ありとあらゆる物質が、まるでいっぺんに、かつて自分だったものたちのことを夢見だしたんだ。
 ぼくは、いっぺんに恐竜で、魚で、蝉で、石で、砂で、水で、風で、草で、無数のものだった。ぼくの心は、その数え切れない一瞬であふれかえった。

 ある日、少年ユーリは、ヴァイオリンの練習帰りの汽車の窓から、一瞬前に老人だった少年が自分の名前を呼ぶのを聞き、絶滅したはずの牙虎が駆けるのを見た。やがて、その少年だった老人が、ギガント山にある天文台のモリモ博士であり、また、友人のイオも同じ日に夜のように黒い牙虎を見たことを知る。

 そして、町中が人に溢れる星祭りの夜。その日は近づいてはならない筈のギガント山に登ったユーリは、イオとはぐれて一人、プラネタリウムの中のレストランにいた。そこで、ブリキのボーイロボット・ラグと共に、宇宙の悠久の時の流れ、無限の広さと、命の底無しの孤独と、永遠の繋がりを体験する。


 ファンタジー、なのかもしれない。でも、感触的には、寮美千子の既刊長篇4冊の中で、最もSF的な作品。

 ユーリが体験する茫漠とした広がりは、張り詰めた冷たい真空の中にあっても、確かな感触と、温もりを感じさせられる。この世のどこにいても、自分は自分でしかなく、それでいてなお且つ、ありとあらゆる生命の結晶であり、宇宙が始まった最初の一点からの時間(=空間)のすべてを記憶している物なのだという感覚。この宇宙に存在するどんな生命も、無機物も、波も、何もかもが、かつて自分と同じ物であり、そして今も同じ物であり、宇宙が存在する限り、ずっと連鎖し、輪廻し、回転し続ける。その、永遠の巨きさ……。

 食物を食べ、内臓が消化し、細胞が分解し、吸収し、呼吸し、糞をし、生まれ、死に、土に返り、植物を養い、動物の肉となり、さらに大きな動物に食べられる。その動物も滅び、ついに全ての生命が石になって、星が老い、砕け散っても、やがてそのかけらから新しい星が生まれる。星は水を得、大気を育み、やがて生命を抱くものもあらわれるだろう。でも、「生命」と言われるものは、私たちが目にする小さな物だけではなく、一点から始まり、今まさに無限に広がっていくこの宇宙そのものが巨大な生命であり、人間も、動物も、植物も、土も、水も、大地も、星も、光も、波も、そのすべてが等しく生命なのだ。

 どんなに孤独な命も、そこに至るまでの時間を抱き続ける限り、孤独ではない。どんなに一人ぼっちでも、やがて新しい命に迎え入れられる日が来る。

 この宇宙の巨きな時の流れの中では、まるで人間の一生など一瞬のものだけれども、自分はあるべくして、今ここにいる。誰もが、何もかもが、待ち望まれた存在であり、存在するというそのことだけで意味を持っている。それは、ある意味では寂しいことでもあるんだけれども、どこにいても一人じゃない、そう思えることの温かさ。

 ここまでたどり着いた遥かな道のりと、これからたどるべき果てしない暗闇につつまれた時間と空間と、ともすればそこに立つ自分のあまりの小ささに、すべてが無力感と虚無に取り込まれそうな気持ちになっても、つながっているから大丈夫。たとえ、自分たちが破滅への坂を転がり落ちようとしているのだとしても、"破滅しない"可能性は無数にあるのだから。

 果てしない孤独と、それが産み出す温かさ、切なさ。なんだか本当に奇跡的な物語だ。


『ノスタルギガンテス』をめぐって〜寮美千子リーディングパフォーマンス
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