『あなたの生きなかった未来』
重松清/文學界'96.10P54-101(文芸春秋)
'971213読了
'971213記


 「本気なんだよ。笹岡に、どうしても言っておきたいことがあって・・・なあ。死んじゃうんだぜ、おれ」
 「じゃあ死ねば?」

 姉の失恋話の最中に、名前すら知らないクラスメートからかかってきたキャッチホン。それがみゆきの「運命」を変えてしまった。みゆきが急かされて電話を無理矢理切った直後、長谷川くんは自殺する。遺書も遺さずに。

 そしてみゆきの感情と表情と未来は失われてしまった。「ひとごろし」と呼ばれ、「自分のために泣くなよな」と言われ、みゆきは心を病んで高校を中退し、「いい人」になりたいからとボランティア団体を月代わりで転々とする。

 そんな折、弟のクラスメートがいじめを苦にして自殺した。遺書には弟の名前があり、家族は戸惑い苦しみ悲しむ。

 だが、そんな状況でみゆきは自分が「笑っている」らしいことに気付く。嬉しくなんかないのになぜ笑うのか。

 大切な人を納得できない理由で失った人たちが集う「慟哭の会」でボランティアをしながら、みゆきは長谷川くんの死に思いを馳せる。


 いじめによる自殺の増加に世は戦々恐々としていて、恐らくそれについて書かれた本も沢山あるのだと思う。が、重松清のこの方面への真摯なまなざしというのは秀逸。

 重松清は別にいじめをテーマに書くわけではないのだと思う。いじめというのは単純に白黒付けられるようなものではない(干刈あがた「黄色い髪」のように理由がはっきりしている例というのは実際には希では?)。いじめの要因というのは、いじめる側よりもむしろいじめられる側にあると私は思っている(原因、元凶じゃないのよ)。いじめられっ子というのは、恐らくあの年頃の人間であれば誰もが持っている鬱憤などを、引き入れ易い「質」を持っているのだと思うのだ。

 重松清の場合は、たまたま書こうとする人間がこのような「質」を持つ人間に重なるだけなのではないだろうか。だから「いじめ」ということに関しても、視点を固めることなく、実に柔軟に繊細に、物怖じすることなく、徹底的に書いてみせる。

 だから、重い。

 でもね、加害とか被害とか抜きにして、要するに死者よりも生者なのだ、ということ。死なない限り人は生きていかなければならないということ。生きている限り、未来はある。単純で当たり前のことだけれど、でも、これは大切なことだと思う。

 久々にうっとりと浸れました。ソロホームランくらい行くかも(^^)。


=>重松清『ビフォア ラン』ベストセラーズ(1991)

ざぼんの実