計算と呼ぶのも大袈裟な、そんなあたりまえのことを考えて、長谷川くんは十六年と二百二十八日めから先のことはなにも知らないんだ、もっとあたりまえのことに気づいた。わたしにとってはすでに過去になってしまったできごとが、すべてあの人には未来。それも、永遠に手つかずのままの。あの人は、わたしがひとごろしと呼ばれたことだって知らない。
姉の失恋話の最中に、名前すら知らないクラスメートからかかってきたキャッチホン。それがみゆきの「運命」を変えてしまった。みゆきが急かされて電話を無理矢理切った直後、長谷川くんは自殺する。遺書も遺さずに。
そしてみゆきの感情と表情と未来は失われてしまった。「ひとごろし」と呼ばれ、「自分のために泣くなよな」と言われ、みゆきは心を病んで高校を中退し、「いい人」になりたいからとボランティア団体を月代わりで転々とする。
そんな折、弟のクラスメートがいじめを苦にして自殺した。遺書には弟の名前があり、家族は戸惑い苦しみ悲しむ。
だが、そんな状況でみゆきは自分が「笑っている」らしいことに気付く。嬉しくなんかないのになぜ笑うのか。
大切な人を納得できない理由で失った人たちが集う「慟哭の会」でボランティアをしながら、みゆきは長谷川くんの死に思いを馳せる。
重松清は別にいじめをテーマに書くわけではないのだと思う。いじめというのは単純に白黒付けられるようなものではない(干刈あがた「黄色い髪」のように理由がはっきりしている例というのは実際には希では?)。いじめの要因というのは、いじめる側よりもむしろいじめられる側にあると私は思っている(原因、元凶じゃないのよ)。いじめられっ子というのは、恐らくあの年頃の人間であれば誰もが持っている鬱憤などを、引き入れ易い「質」を持っているのだと思うのだ。
重松清の場合は、たまたま書こうとする人間がこのような「質」を持つ人間に重なるだけなのではないだろうか。だから「いじめ」ということに関しても、視点を固めることなく、実に柔軟に繊細に、物怖じすることなく、徹底的に書いてみせる。
だから、重い。
でもね、加害とか被害とか抜きにして、要するに死者よりも生者なのだ、ということ。死なない限り人は生きていかなければならないということ。生きている限り、未来はある。単純で当たり前のことだけれど、でも、これは大切なことだと思う。
久々にうっとりと浸れました。ソロホームランくらい行くかも(^^)。