『ビフォア ラン』 重松清/ベストセラーズ (1991)\971
1991読
1998.01.10記
ぼくは、背後で誠一が色紙をちぎっている音を聞きながら、『まゆみの墓』をぼんやりと見つめた。雨に打たれ、風にさらされて、もう文字はほとんど読み取れない。だが、誠一がでたらめのお経を読み、洋介がへたくそな字で『まゆみの墓』と書いたカマボコ板をぼくが地面に突き刺したときのことは、いまでもはっきりと憶えている。罪悪感とスリルの入り混じった奇妙な気分で、ぼくたちは、つくりもののトラウマを心に刻みつけた。まさか一年後にそのトラウマが帰ってくるなどとは思いもせずに、「これでわしらの青春もカッコよおなったのお」などと軽口を叩いていたのだ。
後悔?
よくわからない。
ぼくたちは、確かにまゆみをトラウマにしたてあげ、勝手な思い出をつくっていった。
だが、それはまゆみの側も同じだった。まゆみは勝手にぼくを恋人にして、基本的には正確きわまりない思い出を、最後の最後で自分を登場させることで歪めていく。
二人の泥棒が、同じ夜にお互いの留守宅に入りこんで家財道具を盗み出したようなものだ。
『幻想・ぼく』と『トラウマ・まゆみ』。
まゆみが『幻想・ぼく』と現実のぼくとが違うことに気付いたら・・・・・・。
「もしも、あたしが死んだらどうする?」
まゆみの声が、耳にこびりついて離れない。
1年の時に同じクラスだった久保田まゆみが、翌年の春ノイローゼで退学した。
やがて、精神病院に入っただの、自殺しただのという噂が流れはじめ--「ぼくたち」、優(男・主人公)と誠一と洋介は、3人で「まゆみ」を殺したことにした。
会話したことすらなかった「まゆみ」の自殺の原因が「ぼくたち」にある--実は「まゆみ」は「ぼくたち」の誰かに恋をしていて、思いを告げられなかったことが原因で自殺したのだ--という、共通の嘘でつくりあげた秘密をトラウマにする、それは高校2年生の退屈が生み出した、単なる遊びだった。
1980年
「ぼくたち」はさえない受験生になった。そして・・・。
「まゆみ」が町に帰ってきた。まるで別人のような明るい笑顔と、かつて優と恋人同士だったという、幻の記憶を携えて。
「まゆみ」のために『幻想・ぼく』を演じることを周囲から依頼された優は、嘘とはいえ「まゆみ」を殺してしまったという奇妙な罪悪感を抱え、やむなく『幻想・ぼく』を演じることになる。そして、「ぼくたち」の作り出した『トラウマ・まゆみ』と、まゆみが作り出した『幻想・ぼく』が現実で奇妙に交差する・・・。
まゆみの嘘の日記が現実の過去を書き換えて、それまで人とのふれあいと時間とによって紡ぎ上げてきた「自分」の存在が曖昧になる。
うそxうそ=ほんとう?
じゃあ、ほんとうって、何?
「わからんのよ。全然、わからん。じゃあ、優ちゃんはなにになりたいん?」
「・・・・・・」
「あたしはねえ、なりたいものはわからんけど、なりとおないもんは、やっとわかったんよ」
「なりとおないもん?」
「そう。あたし、あたしみたいな女の子になりとおないんよね」
それまでの過去を否定して、「自分の好きな自分」に生まれ変わった「まゆみ」の嘘と、確実に迫る卒業と受験という現実。現実と嘘との境界線が歪み、迷いに満ちた「ぼくたち」と幼なじみの紀子を巻き込んでいく。
スタートを告げられる時間は、もうすぐそこまで迫っているのに。
これはパラレルワールド小説なのだ、と思った。様々な嘘や幻想や理想が互いに交差しあいながら、決して現実とは接することがない。それは奇妙なねじれの関係で、でも、そこに、手が届きそうなくらい間近な所に、「ある」。人と人の関係、それが既にパラレルなのだから。
重松清のデビュー作。私は高校2年生の時、この本を読んだ。そして、家を出る決心をした。
どこか、誰も私のことを知らない、別の場所に行けば、新しい私になれるかもしれない。これは、そんな甘い幻想を描いた小説ではない。むしろ、現実と幻想との齟齬によって生じた、悲劇の小説だ。でも、変わりたいと思わなければ、変わることはできないし、変わりたいと思うことは重要な力であるということ、それを教えてくれた。
そして、受験が迫るという緊迫感もね(^^;。結局最後まで勉強しなかったけど。
重松清の既刊単行本では一番のお気に入りですが、現在入手不可。図書館か、古書店で、もし出会うことがあれば、手にとって見てください。
ざぼんの実