寮美千子×東雅夫 対談@DASACON2 その2

=>その1

 1999年8月28日、東京本郷で行なわれたネット書評者合宿イベントDASACON2のゲスト小説家・寮美千子さんと、季刊幻想文学編集長・東雅夫さんの対談の記録です。
(文中敬称略)

=>DASACONトップページへ
=>DASACON2参加者レポートサイト一覧


詩・童話・小説

 その新人賞を取って苦戦していた時代があったんですよね。で、童話だと短いから編集者が改造しやすいんですよね。ああいう風に変えろとか、こういう風に変えろとか、うるさくてしょうがないんだよね。
 頭に来ちゃって、長いものを書いたら、簡単にあそこを変えろとか言えないだろうと思って。小説書くつもりは全然無かったんですよ。だけどちょっと物量作戦で行かないと、説得できないじゃない。短いシンプルな言葉で、人を圧倒して説得するっていうのは、一番難しいことだと思うんですよね。それに比べたら、300枚書いて説得する方が、3枚の作品で説得するよりもある意味では簡単なんですね。
 わたしはその時に自分で、3枚で説得できる力量が無かったんだと思って、だったら300枚で説得しようかと思って初めて書いたのが『小惑星美術館』。わたしはこういう事をしたいんだ、こういうイメージを持っているんだということを相手にわかってもらうために、これだけの紙数を費やさざるをえないんだと。
 それまで、まさかわたしが100枚以上の長いものを書くなんて思わなかったんですよ。わたしの作品は登場人物が異様に少ないじゃないですか。小説を読んでいても、すぐに誰が誰だかわからなくなっちゃうから、そんな人が小説を書けるわけが無いと思っていたの。子供の頃から不思議だったんですよ。「どうして一人の人が沢山の人の気持ちを書けるんだろう」と。
 だから、書くつもりは本当になかったんですよ。だけど、背に腹は変えられない状況になっちゃって、しょうがないから、エイってやってみたら、「あれ、できるじゃない。なんか普通の小説と違うけど」(笑)。それでできると思って、面白くなっちゃったんですよ、実は。
 でも、あの時点から、寮さんのスタイルは確立されてますよね。形としては。ご自分で小説を書く時に、参考にした作家作品とか、秘かな目標とか野望とか、内心思ってらしたことがあったんですか?
 わたしはないんですよ。賢治が好き、足穂が好き、ブラッドベリが好き、みたいなところはありましたけど、その程度。
 作品を書く時の書き方は、他の、ものを作り上げて書くのとタイプが違っていて、例えば『小惑星美術館』だと、アンモナイトなんかの彫像が宇宙空間に漂っているような美術館のシーンがあるんですけれども、そのシーンが見えるの。イメージとして。どーっと見えて来るんですよ。現実じゃないということは分かっているんだけれど、すっごくリアリティがあって、忘れられないくらい強く見えちゃうんですね。そうするととても居心地が悪くなって、あれは何だったんだろうなあと。それに説明を付けて、ちゃんと収まるところに自分の中で収めないと、イライラしちゃう。何であれができたんだろうと色々と考えているうちに、ストーリーが出来て来るんですよ。
 そうすると、本当にそういう風にして出来たんじゃないかなという気がしてきて、物語はそこに至る地図みたいなもので、わたしだけがあれを見ているんだけれども、わたしだけが一人で隠し持っていることになっちゃうから、ちゃんと地図を書いてみんながそこに行けるようにしなくちゃあ、わたしはそのことを忘れさせてもらえないんじゃないかという気がする。で、物語を書く。でも、書くと忘れられるから、ほっとするんですね。書いている最中に次のものが、ぶわーっと見えてきて……(笑)。
 それは作家の「業」というやつではないかと思うんですが(笑)。
 そうなの、大変なんですよ。
 そういう意味では、その後『ラジオスター・レストラン』があって、『ノスタルギガンテス』ですよね。『ノスタルギガンテス』は確かにスタイルは共通してますけど、ちょっと前の2作とは違いますよね。あれはご自身としてはどの辺を……。
 最初の2作は初めだったので、世間にあるいわゆる「物語」のスタイルをどこか踏襲しようとする気持ちがあったんですね。3作目にいたった時に――実は1番目に取りかかって、書き上がったのが3番目なんですけど――今までのスタイルの物語りに縛られている自分じゃなくて、わたしのやりたいことをわたしにやらせてあげるにはどうしたらいいかなって。
 それまで言葉もわかりやすいように、人が読んで受け取りやすいようにというところに随分配慮したので、すごく自己規制したんですよ。それをやめようと思ったんですね。ストーリーの展開に奉仕する言葉みたいなのが、前2作にはあったんです。
 物語を次の段階に進めるための言葉、説明のための言葉、そういうものをなるべく入れないで、その時その時の感覚みたいなものを全開にした、つぶやきとか詩的言語の連なりのままで、しかもそれが単なる無意味な言葉の羅列じゃなくて、全体として大きな物語の流れになっているような、そういう書き方ができないだろうかと思って、書いた作品なんです。だから気持ち良かったですね、本人は。
 そういう陶酔感とか、書いていて気持ちいいんだろうなあという感じはダイレクトに伝わってきますね。「これは小説じゃなくて、散文詩のように思えた」というような感想()を書いてらっしゃる方がいましたけれども。
 例えば天沢さんは、詩人であると同時にファンタジーも書いていて、やっぱり詩的な感性とファンタジーの繋がりは、かなり濃いと思うんですけれども。僕が見ていても、詩というのは、特に現代詩なんかだと逆にそこからちょっと飛びすぎてしまって、うまく読者に伝わってこなかったり、独りよがりになったりすることがままあるような気がするんですが、そういう所が『ノスタルギガンテス』では、非常に幸福な形で成功していると思います。
 嬉しいです、そう言っていただけると。
 実は、わたしの書いたものが最初に活字になったのは詩なんですよ。『ユリイカ』の巻末の投稿欄。その頃は外務省もやめちゃって、次の仕事につく前で、何して生きていこうかなと思って、それでもの書くのが好きだったから、細々と書いてはいたけれども、人に見せたことがなかったの。他者はどういう評価をするものなんだろうと思って、生まれて初めて投稿というものをしてみたんですよ。そしたらその作品が載ったのね、1回目で。
 あれは結構、激戦なんですよ。
 そう、だから評価してくれる人もいるんだと思って安心して、二度と投稿しなかった(笑)。
 それはやっぱり、恐竜の詩とか?(笑)
 「お嬢さん、お嬢さん、あなたのリボンが火事ですよ」って。鈴木志郎安さんが選者でした。安部公房の特集号でしたね。
 なんて批評されましたか?
 なんて批評されたかなあ。忘れちゃった。
 そんな記憶に残るほどのことでもなかった!?
 うん、なんか、ピントの外れたことを言っているなあと(笑)。外れてたの、こっちかもしれないけど。
 面白いなー(笑)。

安定した死

 『ノスタルギガンテス』って、一見すると、きらびやかな幻想みたいな印象があるんですけれども、根っこはものすごく暗くって。
 暗いですよね。絶望的。
 死のイメージが偏在していますよね、全体に。あれはどの辺から出て来たもので……ご本人の中にも、常に何かそういうものがあるんですか、あんまりそうは見えないですけど(笑)。
 わたしは非常に根暗な人間なんじゃないですかね。
 星兎もそうだけど、絶対に死ぬんですよね、みんな。「もうすぐあなたは死にます。癌です」なんて言われたってね、全然びっくりしないと思う。だって、みんな少なくとも100年以内には死ぬんだから。
 逆に、どうしてみんな忘れてられるのかなあっていう感じもするし、逆に言うと"死"の方が安定感があると思うんですよね。ずーっと、もし宇宙の歴史なんかを考えていると、自分が生きている時間の方が圧倒的に短いわけですよね。異常な事態がここに想起していて、それが安定状態に戻るというのが"死"。生まれる前も安定状態で、今ここだけに何かが起こっていて、立ち上がってきていて……。
 だから死ぬのが怖いんじゃなくて、何かが立ち上がって動き続けないと、この存在がありえないんだという、物凄く実は生きているということの方が、死よりもずっと不安定な存在で、生きているのが不安だなと。そういう感覚は、ずっとつきまとっている。だからこそ、生きているこの瞬間が輝いてみえる……はずだ、ということを、追い求めている節もある。
 『ラジオスター・レストラン』でも、恐竜とか化石とかいうことに物凄く執着がありますよね。
 僕も古生物は大好きで、『幻想文学』の第8号で「ロストワールド文学館」という趣味シュミな特集をやったり、最近も図に乗って『恐竜文学大全』というアンソロジーを作ったのはいいけど、姉妹編の『怪獣文学大全』とは段違いに売れなくて落ち込んだりしたんですけれども(笑)、恐竜って何だろうと考えた時に、死のイメージと密接に結びついているものじゃないのかな、と前から思っていたんですよ。
 大絶滅ですものね。
 博物館だって、たまたま恐竜の骨だから大恐竜展なんか、高い入場料を払ってみんな見に行きますけれども、あれが人間や他の動物の骨ばかりが陳列してあったら、物凄くグロテスクな、お化け屋敷みたいな感覚にもなりかねないような……。
 ……わたし、うちの死んだ猫の頭蓋骨を飾ってあります(笑)。
 …………。
 あと単純な話としては、恐竜の復元画を見ても、その多くが殺しあいのシーンであるわけで、常に血なまぐさいイメージと隣り合わせにある。
 だからこそ逆に、『ノスタルギガンテス』で、恐竜の骨が、全部払い落とされてしまった一種の何もない清々しいものであるかのように描かれている、あの感覚はすごくよくわかると思ったんですけどね。

無辺の時

 わたしは植物よりも、石とか砂によりシンパシーを感じるらしいんですよ。
 アンナプルナのベースキャンプ4千6百メートルまでトレッキングしたことがあるんですね。凄いと思うでしょう? その前に登ったのが高尾山なのね。
 なんでまたそんな?
 いや、うっかり(笑)。うっかり行っちゃったんですよ。
 インドにうっかり行くことがあって、「この季節に行くんだったらヒマラヤがきれいだから見てきた方がいいですよ」って言われたんですね、セント・ギガのプロデューサーに。それで行っちゃったんです。
 カトマンドゥにいって、こっちに行くとエベレスト、反対に行くとアンナプルナで、どっちに行こうかなあと思っていたら、エベレストの方は高いんですね、お金が。ホテルとかも。で、アンナプルナの方がリーズナブルだったので、ポカラの方に行ったんですね。10〜11月にかけては、空気が澄んでいて、一番いい季節なんですよ。
 ポカラってすごく小さな町なんですけど、会う人会う人みんなトレッキングに行くとか帰ってきたとかいう人ばかりなんですよ。で、「行けばいいじゃない」って言われるわけ。みんな行くんならわたしも行けるんだろうと思って、でもよく考えたらトレッキングしようと思う人しか、その町にはやってこないんだよね(笑)。
 それで出来そうな気がしちゃって、せっかくここまで来たんだから、一生こんな所には来ないだろうから、ちょっと行けるところまで行ってみようかなと思って、トレッキング・パーミットを取って、シェルパ雇って、苦しくなったら帰ってこようと思っていたら、4千6百メートルの素人が行ける一番高いところまで行っちゃったんですよ。
 高山病にもならず?
 なりました。
 結構大変じゃないですか。
 結構大変でしたよ。
 その途中すごく苦しくなるでしょう? 最初はネパールだから熱帯のすごい森とかジャングルがあったり、段段畑みたいな棚田みたいなのがあって、ずーっと山の上まで耕していて、すごくきれいなのね。そこでみんなお米とか作ってて、懐かしいような雰囲気があって。里の方にはそういう村があったり、森があったりして、きれいなんだけれども、そういうのを見ても全然元気が出ないの。
 アンナプルナってほとんど雲母変岩っていう雲母の変成岩の塊みたいな山なんですね。それがピシっと割れるから、そこら辺の屋根なんかも、薄いスレートみたいな岩で出来ていて、きらきら光っていてすごくきれいで、そういう屋根を見たり、足元に雲母変岩のかけらがきらっと光っているのを見ると、ああ頑張ろう!という気になっちゃう。びっくりしたわたし、自分で。
 森林限界が終わって、石と砂ばっかりの世界になるでしょ。その手前で笹なんかがザワザワと生えているところから、ああ疲れたと思って、雪を頂いたマチャプチャレの岩しかないごつごつとした頂きが見えると、ああ頑張ろうと思うんですね。そういう世界を見れば見るほど、不思議とやる気になれるんですよ。だから、石とか砂はすごく好き。骨とか。
 でも、猫は生きていた方が良かったと思う……(笑)。
 そこから『ノスタルギガンテス』の死んだ猫の話なんかも、ずっと関わってくるんですか?
 うーん、ちょっとね。
 そうした鉱物幻想みたいな感覚も、いわゆる少年ファンタジーとは切っても切れないものですね。
 それが絶対に永遠じゃなくて、永遠のように見えながら、ゆっくり生きて生命があるわけじゃないですか。その無辺の時の中をゆっくりと流れていく生命というものを考えると、気が遠くなりそうになる。きっと癒されるんだと思う。
 山ってのも、考えてみれば、巨大な鉱物の塊じゃないですか。そこに自分がへばりついているような一体感……。
 アンモナイトなんかが出て来ちゃうと、ぐっときますよね。だって、これが海だった時代というのを考えるわけですよ。ここは浅い海で、光が射していて、透明な水の中は光りがいっぱいで……という風景があったものが、今、どういう力に押し上げられて、ここまで来ているんだろうっていう莫大な力のことをイメージしたりとかすると、ぐっとくる。
 化石とか、古代の遺跡なんかに対して思い入れのある人が共通して持っている感覚でしょうね。
 賢治の『楢の木大学士の野宿』とか『イギリス海岸』なんかもそうなんですけれども、頭の中では、みんなそういう場面に出会ったら思うんだろうけれども、それを言葉にどう結びつけていくのかというのが、『ノスタルギガンテス』とか『ラジオスター・レストラン』という形に結びつくかどうか……。
 だから、直接言葉じゃないんですよ。まず映像。それを言葉に翻訳するという感じ。
 翻訳しているわけですね。
 小説を書く時はね。だから、結構辛いの。全部見えてるんだもの。それを言葉に置きかえていく作業ですから。見えているように、読んで見えればいいなと思うわけですよ。わたしが見えているように、どれだけぶれも無く、ずれも無く、人に見えるために、どういう言葉に置き換えたらいいだろうかと苦心するんです。
 そういう作業だから、創作という感じじゃないですね。翻訳ですね。絵から言葉への翻訳だから。絵を見えているだけの時が一番幸せ。

『父は空母は大地―インディアンからの手紙』

 山登りの話が出ましたが、この間もトルコに行ってらしたという……。
 皆既日蝕を見に。危機一髪、地震に遭わずにイスタンブールから帰ってきました。
 なんで日蝕を見るのにトルコだったんですか? 地理的なもので? どうでした?
 晴天確率や太陽高度の点で、日蝕観測の条件がすごく良かったです。しかし、今回立地が悪くて、小高い丘や山があって、地平線まで見えなかったのがとても残念でした。牧場みたいなところで見ました。
 皆既日蝕見た人います? 一人だけ? 割とみんな書斎派なんですね。
 わたしは行動派なんです。アリゾナの砂漠も行ったし、色んなとんでもないところに行ってきましたから。
 それもやっぱり「うっかり」行っちゃうんですか(笑)、例によって。
 結構うっかり行っちゃうの。アリゾナに行ったのは、友達がアジアン・カルチュラル・カウンシルっていう財団の奨学金が欲しいから、推薦者になってくれって言ってきたんですよ。それがおいしそうな話だったの。だったらわたしが応募したいわって。
 それで応募したんですか。
 そう。応募したら受かっちゃって。じゃあアメリカ行くかって、アリゾナにでも行くか、隕石クレーターでも見て来るか、で行っちゃったんですよ。
 あ、でもそれは友達が、「ちょっと僕は今年仕事の事情があって、来年受けることにする」って言ったから、わたしが応募したんですよ。
 なるほどね。友達から奪ったわけではないんですね。
 それで受かるとは思わなかったから、慌てちゃってね。英語しゃべれなかったし。でもそれからしゃべれるようになっちゃったんですよ。
 行ったらしゃべれた?
 '92年か'93年? それから突然しゃべれるようになっちゃった。それから翻訳なんかも出しちゃったりして。
 あ、じゃあ翻訳の話もうかがいましょうか。さっき創作そのものが翻訳だという風におっしゃいましたけれども、実際に翻訳そのものをやってみて、どうでした?
 楽でいいですね(笑)。
 ウル・デ・リコの『白い虹の伝説』と、ナンシー・ウッドの『コヨーテを愛した少女』ですね。
 『父は空母は大地―インディアンからの手紙』と。
 これはどうして、それをやってみようと思ったんですか。
 アリゾナのインディアンの居留地に行ったんですよ。そこですごく感銘を受けたんですね。
 アメリカに行った時は、アメリカの宇宙開発という最先端のものと、ネイティブなものと、両極端を見たいという申告を出して受かったので、両方を見たんですね。その時ちょうど毛利衛さんがスペース・シャトルに最初に乗る時の打ち上げの取材と、片やインディアンの居留地に行きましょうというんで、アリゾナに行ったんです。それだけじゃなくて隕石クレーターや化石の森も見て。
 インディアンの人々の暮らしって全然違うんですよ。全く違う人生を生きているんだという感じがした。で、アメリカからお金をもらっていることだし、なにかお役に立ちたいと思ったんです。
 向こうの文化をこちらに紹介したいと思っていた矢先に、チーフ・シアトルという150年前のインディアンの首長が、土地を白人に取り上げられる時に白人に対してしたスピーチを見つけた。白人はお金を出して、二束三文で買ったわけなんですけれども、土地を物のように売ったり買ったりすることができるという概念自体が彼らには全く訳が分からない。
 土地っていうのは、そこに流れる川も、水のきらめきも土地に属しているし、空気のかぐわしさもその土地に属しているし、太陽の光のあたたかさや優しさもその土地に属しているし、きらめく星もその土地に属しているのに、ちょきんちょきんと布を切るように、売ったり買ったり所有したりできるんだろうかと。全くわたしは理解できませんというスピーチなんですよ。
 素晴らしいスピーチで感銘を受けて、それを紹介したいと思いました。
 インディアンっていうのは……今はこういう言い方をしちゃいけないのか。アメリカン・ネイティブとか言うんですよね。
 結構本人たちはどっちでも良かったりするんですよ。むしろ、慇懃無礼。アメリカン・ネイティブって言ってみて、それでなんかエライことしたと思うな、お前ら! みたいな。
 なるほどね。彼らが細々と、しかし粘り強く保持してきたものは、最近いろんな形で注目されるようになってきて、インディアン出身の作家ということで書いてらっしゃる方もいるし……今の白人社会のさらに古層にある、オリジナルなアメリカのルーツといったところで、言葉を発し始めているという。
 だから、わたしは片や宇宙とか石とかに興味があるでしょう。片やネイティブ文化とか神話とかユングの心理学とか精神系に興味があるじゃないですか。興味の根っこは一緒なんですよ。全然違うことをしているんじゃなくて、わたしの中では全く一つの裏表のことで。

『夢みる水の王国』

 これからどんなものをお書きになっていこうかという抱負とか願望とか野望とか。
 具体的には今まで書いた短篇がまとまっていないんで、短篇集をとりあえず出したいと。セント・ギガっていうラジオ局で7年間毎月4作か5作詩を書き下ろししていたんですね。それがまとまっていないんで、字の形でまとめたい。
 それとやりかかりの作品が、大ファンタジーで、先ほどの5日間までの進行で400枚きちゃったっていう。それが一つと、インドを舞台にした大人の女の人が主人公で、バンコク―カルカッタ―カトマンドゥ―ポカラをまたにかけた狂った小説を(笑)。それが書きかけ300枚なんですけれども。
 この2つは実は連動しているんですね。インドの小説は実話っぽいんですけれども、実話じゃないんだよ、絶対(笑)。その小説の中で、物を書いている女の人がカルカッタで短篇を書いているんですよ。それは本当にそうだったんだけれど、わたし仕事を抱えたまま行っちゃったんで、何があっても締切りを守る寮美千子(笑)。ちゃんとカルカッタのホテルで原稿を書いて日本に送ったのね。その短篇が『きらびやかな闇』っていう、短篇集に入れないと思うんだけれども、そういう作品があるんですけれども。
 それを書いている時にそれを読んだ長期滞在の日本人が、その物語の中に入っちゃったんだよね。物語のリアリティと現実のリアリティの区別がつかなくなって、境界線がどんどん解けちゃって、わたしのもう一つの新作のイメージ、『夢みる水の王国』って言うんですけれども、こういうものを書きたいと思うんだという話をすればするほど、その中にどんどん入っていっちゃったんです。それで抜けられなくなっちゃったの、彼。それでとうとう彼は、日本領事館のお世話になって強制送還になっちゃった。そこで何が現実か、何がファンタジーかというものの境界線が一体何なのか。
 しかもインドのカルカッタという土地自体が日本から行ったらSFの世界ですよね。これは現実なんだろうかというような、自分の足場が危うくなるような、自分が常識として持ってきたものがそこでは全然通用しない。別の常識の世界。パラレルワールドに降り立っちゃったみたい。その中でさらにファンタジーを書いているわけですよね。そうなると何がファンタジーで何が現実なんだか、だんだんぐしゃぐしゃになってくる中で、書く人っていうのは絶対にその境界線が分かってるのね。行けるけど帰れるのね。
 だけど帰れなくなる人もいるのね、行ったきりで。境界線が溶けちゃう人が。でも、じゃあ本当にそこに何があったんだろうか。彼の言っていることの方が、一見本当だったりするわけ。例えばわたしは、一角獣と少女が出て来る話なんだけれども、あるシーンを語るでしょ、じゃあねと別れて、彼が町に散歩に行くわけですよ。それで1時間くらいして帰って来ると、さっきわたしがお話した場面そのものの絵が印刷されている紙を持ってかえってきちゃうんですよ。
 今言っているのは創作じゃなくて実話なんでしょ?
 実話なんですけれども。そこで、また書かれていない物語として語っていたのが『夢みる水の王国』。女の子は名前をなくして、一角獣は角をなくして、両方ともアイデンティティをなくしちゃって自分が誰なんだか分からなくなって、その名前と一角獣の角を持っていなくなった自分の影を追かけていく話なんですね。
 山を登った時に石を割るとアンモナイトの化石が出て来て、その中でベルムナイトって言って、巻いてなくてまっすぐな奴が入っているんですよ。真っ黒な石の中をパカっと開くと、黄鉄鉱のなかに金色に輝く一角獣の角状のものが入っているんですよ。これはすごく数が少ないのね。ポカラ中を歩いても3つくらいしか見つからないようなものなんだけれども、一角獣の角を探してという話を書いていると、山に行くと実際に一角獣の角状の物が見つかったりするんですよ。
 その不思議なシンクロニティというか、偶然の一致の中で、何が現実なのかなあと思うと、ちょっと自分の足場もぐらついてくる。でもそういうことって何か起こるんですよね、不思議と。
 ダン・シモンズというSF&ホラー作家が、カルカッタなんて忌まわしい所には原爆でも落としちまえ……などと剣呑なことを言ってるんですけど(笑)、そのフレーズが出てくる、彼の長編ホラー『カーリーの歌』は、やっぱりそういう現実と幻想の交錯へと主人公が誘われてゆく話なんですね。カルカッタって町は、何かそういう幻惑へと人を導く「魔法にかけられた土地」なのかもしれませんね。
 だから、そのインドの中で主人公が語るファンタジーの部分が、こちら側に『夢見る水の王国』として存在すると。そういう関係の二つの作品を書いているということです。
 なるほど。総統から「そろそろ引っ込め」のサインが出ておりますので(笑)、その先が気になる方は、後で個人的に質問していただくということで……。
 わたし、これから書こうとしている作品の内容をしゃべるの大好きなんです。評論家にも怒られるんです。新作の内容を頭から最後まで3時間くらいしゃべっちゃって……。だからその評論家が、「読んだ時に前に読んだような気がした」って(笑)。
 うまくオチがついたところで、今夜はこのへんで(笑)。


=>その1

=>DASACONトップページへ
=>DASACON2参加者レポートサイト一覧

テープ起こし担当:平野まどか