221 健忘症

 物忘れのひどい親から産み落とされ、さらに物忘れのひどい星のもとに生まれてしまったためか、ぼくの場合、忘れっぽい。その悪癖が50という歳をむかえて、磨きをかけてというか、輪をかけてひどいものになってきてしまった。

 いつものようにあたふたと仕事というか雑用をやっつけ(られ)ていると、農協から電話が。『打ち合わせ会』が始まっているので来るように、とのこと。先回も忘れていてかなり遅れて行っているものだから、今回は早めの催促が。

 考えてみると去年もそうだった。毎年12月に開かれる農協主催の『作物品評会』。その場を借りてわれらが『生ごみ生かそう会』も広報のための展示をさせていただいているのだけれど・・・。

 この『作物品評会』は農協の即売所の駐車場で開催するため、会場の設営をその当日と前日に関係者が集まって一気にでかしてしまおうということになっている。ところが昨年の場合は、一生の不覚というか恥というのか、その両方の日ともすっかりと忘れてしまっていたのだった。こんな失態は実際にはあってはならない(ありえない)こと。

 開催当日、なんと農協から「品評会が始まっているが、どうしたのか」という催促。これにはまったく参ってしまった。当日の予定なぞいっしょに参加してもらうつもりの鈴木慶市さんにも知らせていないものだから、まったくひどい慌て様。会場でにわかの展示を仕立てながら「忘れてました」なんぞと言えるはずもなく、平静を装ったのだった。

 その品評会にまつわって、今年もすでに『打ち合わせ会』を二度も忘れてしまったのだった。これほどに健忘が続けば、「やる気がないんじゃないだろうか」と解釈されても仕方のない話。おそらく(というよりは確実に)、今度もまたということになればただじゃ済まされないのかもしれない。そんなわけで、きりりと緊張が走ってしまうのだった。

 また反面、50年間もこんな性癖とともに歩んできたとなれば、そろそろそれを「直そう」などと考えたりせず、逆手にとって『人生の強い見方』につけてしまういい方法はないものだろうか。いやいやそうはいかない。少しくらい若いとか、女性であるとかであれば、まだ救いようもあるのだろうけれど、このヒネた中年おやじではそうもゆくはずもないのだからして。

 自分で話を書きながら、これは笑い話ではすまないのかもしれないぞ。


222 猫の謎


 うちではこどもが夜中になっても帰って来ない、などということにはまったく頓着はないのだけれど、飼い猫(親子でいる)が帰らない、ということになるとちょっと事情がちがっている。

 二匹の飼い猫のうち、娘のほうは夜には必ず帰宅するのだけれど、親のほうはというと帰らないことが時々ある。もうコタツの時期だし、こんな寒い夜に外で凍えているんじゃないか、とか、飛び出して車にはねられたんじゃないか、はたまた近所の性悪猫に意地悪をされているんじゃないかなどと心配をしてしまうというわけ。あげくの果てには子供に外へさがしに行かせる始末。

 最近明るみに出たのだけれどうちの親猫、はす向かいのお宅にときどき立ち寄っては、その家に猫がいないのをいいことに、なんと振る舞いを受けているという事実が発覚した。さらに気が向くと宿泊までしていたのだった。まったく飼い主の知らないところで猫という代物は、こんな秘密を持っていたのだった。

 うちで一生を終えた数々の猫も、思い起こしてみるとけっこう変わった個性をもっているもの。黒の雄猫がいたがその猫はある時期からそれっきり消息不明となり、ある小春日和の午後、縁側の外に置かれていた乳母車のわら束の上で冷たくなっていた。またある猫なぞは自分がオスなのにもかかわらず、拾われてきた他の子猫に出るはずもない乳を吸わせては、乳離れをするまで親代わりをする始末。猫の好物ぶりにも首をかしげたくなるようなものがあったりもする。ゆでたアツアツのほうれん草の芯に狂ってしまう猫もいた。とにかくほうれん草をゆでているともうそれをかぎつけてギャアギャアと鳴き、「菜の芯はおれがもらうんだ」といわんばかり。湯気のもうもうとするほうれん草の芯をやると、『猫舌』とは思えないような食べぶり。そうめん・ひやむぎの好物なのもいた。それもつゆも付けず。子供のころ銭湯に行っていたのだけれど、その道すがらをついてくるのもいた。ぼくたちが銭湯にいるあいだそこいらで何をしているのか、帰り道ではその黒い影が音もなく足元を行き来するのだった。ほかにも切りがない。

 犬の個性とちがって猫のそれは、どことなく謎めいているというか妖気をも感じさせたりして。まったく興味の尽き得ない代物といえる。


223 ホテルカリフォルニア


 歴史上もっともすぐれたロックの名盤は、といったら『Eagles』の『Hotel California』を挙げたいと思う。イーグルスといえば米国のバンドだし、イメージとしては西海岸風のポップなもの。そしてこのホテルカリフォルニアというアルバムは、その象徴的かつ代表的なもの、という印象さえあるのかもしれない。

 あまりにもさわやかで、官能的で、計算しつくされ、技術的に究極で、音楽的にもすばらしく、調和が取れていて、エネルギッシュで、インパクトがあり・・・とにかくめくるめく6分30秒(そんなに長かったか)、というのがこの一曲(もちろんこのアルバムに収められている他の曲もすばらしい)。

 そんな曲調とは裏腹に、その歌詞はというとちょっと意味が違ってくる。「ホテルカリフォルニアはすばらしいところなのだけれど、あなたはいちどここに泊まったのなら、チェックアウトこそできても、もう二度とここから立ち去ることはできない」という内容。それはあたかも浮かれきったアメリカという国を比喩しているかのようでもある。米国のロック音楽は英国のそれと比べて技術的にも高いということはいえるのかもしれないし、商業的に価値もあるのかもしれない。しかしながらその重さといい、なんといってもロックには欠かすことのできない攻撃性というか衝撃性ということになると、残念ながら・・ということになる。


 イーグルスというバンドは‘70前後には『James Gang』という名前で活動しており、ジャージーでしかも力強く、インパクトのあるすばらしい存在だったと思う。Joe Walsh、Glenn Freyという(マルチプレイヤー)人物の力が強かったと思うけれど、アメリカのよい部分、つまり新しく、自由で、スピリットがあり、何かを作り上げてゆこうとするエネルギッシュな心意気があったように思う。

 クラッシック音楽といっしょにするのはどうかと思うけれど、あの『新世界より』のなかで、ドボルザークが表現したあの夢と希望に満ちた大陸、アメリカ。ヨーロッパの人々の共通の気持ちがその交響曲に詰め込まれていたと思うのだけれど、この『ホテルカリフォルニア』はかつてのほんとうのアメリカを夢見た一曲なのかもしれない。



224 かえるということ


 今仕事に使っている本みりんを、愛知県碧南市の『角谷文治郎商店』のものに切りかえようと決めた。今までもそうだったけれど、長年使ってきたものを他のものに換えるにはいろいろとむつかしいというか、面倒なことがでてくる。

 まず何がといっていちばん困るのは、今までお世話になってきた業者さんへの対応。ぼくの場合、かなり律儀(りちぎ)な性格なのでこういうのは苦手。別に今までのみりんが悪いわけではなく、むしろ良心的、良質な品質だった。角谷文治郎商店の本みりんはとにかくすばらしい。いちどは使ってみたいと長年思いつづけていたいわばあこがれの本みりんであった。ただそれだけのことだった。

 道長のように職人仕事が生業のものにとって、とくに『調味料』をかえる、というのは実をいえば大冒険といえる。過去においてそういうことは何度もあった。塩であったし、白たまり、酢でもあった。その都度、新たな発見によろこんでみたり、なやんでしまったりとけっこう振り回されたりしたもの。多くの場合、新しい調味料を把握するというかまがいなりにも使えるようになるまでには、最低四季を過ごして一年間の期間がいるような気がする。その季節ごとに調味料の使い方も微妙にちがっているからかもしれない。

 塩の場合、とにかくそれまでのものとは雲泥の差のごとく、全く使い勝手がちがっていた。たとえば今まで使っていた量に対して確実に2割くらいは減ったし(塩度がということではありません)、なんといっても漬物の味が格段に変わった。一方酢を換えた時などは、そのコク味のせいで苦労をさせられてしまった。おまけにお客様からクレームまでもらってしまったりして。もちろんその問題は今は解決されたのだけれど、おかげでほんとうに勉強になった。

 先日、角谷社長が道長へ寄ってくれ、調味料のはなしをいろいろとしてくださった。そしてぼくが今までためしたことのない調味料の使い方なども、ヒントとして与えてくださった。つまり、調味料を使うとは、あるいは使い分けるとは、1+1=1+0.7になったりするし、1+0.3+0.7であったりもする。曖昧な表現だったかもしれないけれど、味のハーモニーは計算通りではないということ。そこが職人の腕の見せどころなのかもしれない。


225 風邪をひいて
02/01/08


 むかし、小学生の低学年だったころ、冬のある日、風邪を引いて学校を休んだことがある。風邪を引いたといっても大したことでもなく、熱があるのかなという程度なのだけれど、とにかくこの些細なきっかけできょうは学校へ行かずにぬくぬくとした寝床で母親に甘えていられる、という安心感というかよろこびをおぼえてしまうのだった。

 ただひとつ、行きつけの町医者に連れて行かれて注射を打たれるかもしれないという不安はあるものの、その代償として、帰りに母親にねだればきっと、いつもは考えられない『大きな箱のおまけ付きグリコかミルキー』かなんかを買ってもらえるかもしれない。というようなかなり確実な期待ももてるのだった。

 熱があるといえばすぐ『注射』という時代だったので、医者に連れて行かれたぼくは腕に突き刺される注射針をにじんだ涙越しに見ながら、しかも帰りには『グリコ』という複雑な心境で一時を過ごすのだった(なぜこんなことまでおぼえているのだろう)。その帰り道、やはり母親はぼくを『イガヤ百貨店(伊賀町にあっていろいろ置いている店なので)』へごほうび代わりにつれてゆくのだった。店先の、子供の手の届かないところにぶら下げられているいくつかの『大箱のオマケ付きグリコ』が今日はぼくのものに・・。だまって指差すぼくの人差し指の向こうのそれを、店のおばさんだったかおじさんだったかがはずしておろしてくれる。何時にない、ぜったいにないやさしさで、よりにもよって彼だか彼女はそのオマケの中身をあけてぼくに品定めまでさせてくれるのだった。目当てのオマケを獲得し、母親の背中に揺られながら「風邪を引いてほんとによかった」という至福の喜びを味わう帰り路なのだった。

 昼にはおかゆのごはんと梅ぼし。火鉢のやかんが湯気をたてる寝床に寝かされ、静かな時間が長々と流れてゆくのだった。そのうち母親は買い物だかなんだかに出かけていったのだろうか、家にはぼくひとりが残されるのだった。ぼんやりとした寝床で、天井板の節々の模様も読み尽くしてしまい、縁側から差し込んで障子に映る日差しが赤味をおびるころ、外で学校から帰った子供たちの話し声が聞こえてくるのだった。

 なぜか記憶はそこで途切れてしまっている。そしてそんな子供のころの風邪を引いた日のできごとが思い起こされることがあるのです。


226 21世紀


 21世紀ははじまったばかり。19世紀前後、イギリスでの蒸気機関に端を発し、産業革命の波は西ヨーロッパとアメリカをおおい尽くした。さらにその後、重化学の発達となり、原子力まで小手先でいじる現代へと加速度を増して突き進んできたという感じ。その間、経済・社会組織も飛躍的に変化を遂げてきてしまった。よいのか悪いのか、とにかく『東側』という世界もすでに過去の言葉となっていってしまいそうな勢い。

 今のところ、経済至上の資本主義は何ものにも代えがたく甘いひびきをもって、あの中国でさえもとりこにしてしまっている。上海の海はひたすら黒くよどみ、空は晴れることのない化学のもやで覆われている。そして今や資本主義を先進してきたどの国々も、その副作用のため、なかば取り返しのつかない環境を作り出してしまった。

 この状況の単純な計算による将来像というのは、いろいろな政府機関、評論家、科学者などが示している。人口は世界的に増えつづけ、将来世界的な飢餓の時代がやってくるだろう。とかなんとか。はたまた反対に先進国で起こっている少子化について、これが実は世界を包んでしまう結果となるだろう(40年くらい先には)。という説もある。

 前者の場合、計算上そうなるであろう未来の予測なのだけれど、少なくとも輸入農産物にたよっている日本ではそのときになって自給率を上げようと慌ててもおそいのではないか。今のうちに農業の先行きを考えなくてはいけないと。後者の場合、またちょっと悲喜こもごもで、少子化の起こる理由をなんと『環境ホルモン』に由来付けていたりする。現在自然界の目に映る部分で起こっている、環境ホルモンが原因とみられるさまざまな動物に見られる生殖障害。そのすべてが種の『増殖』に寄与するのでなくて、『減衰』に向かわせてしまっている。8万種以上も確認されているといわれる、人間が作り出した化学物質の数々。おそらくそれらの環境に対する影響によって、わたしたちの子孫たちはいろいろな問題に遭遇してゆくのかも知れない。

 この二者いずれの未来像を想定しても、けっして明るいとはいえない気がしてしまう。でも、人類の歴史で、かつて未来が明るかったことはあったのだろうか。その泥沼のなかでぼくたちの祖先たちが明るい未来を夢見たおかげが現在なのだと思えば、ぼくらも同じようにそういう未来を夢見てゆきたいとおもう。


227 娘の結婚


 とうとうぼくもそういう立場になってしまったとでも言えばいいのだろうか。いちばん上の娘が結婚した。とはいえ、今までの同棲期間もあるし、同じ市内への嫁入りということで、ぼくにとってはさほどの感情的起伏はないのだけれど。
結婚式もみなの希望で家族だけの立会いで。伊良湖岬。宴は別の機会に会費制で。

 とはいえこちらの母親にとってはたいした事態であったらしく、泣くやら、会食中気分が悪くなってしまい頓挫という羽目になるやら。

 娘の結婚式の次第はともあれ、結婚とはそもそも何なのだろう。愛し合う男女が結びつきあって同じ屋根の下での生活をはじめる、というのでは『同棲』でも用が足りてしまう。結婚には、公に対して行なう『婚姻届』という作業がそれにともなう場合が多い。それにより、社会的には法律的に成立させる部分が必要であるということは確か。ただ、そのために結婚をするというわけでもない。

 結婚に付随して『結婚式』というのがある。「そんなものは必要ない」といわれてしまえばそれまでなのだけれど、人生の区切りというか道しるべに、やはり必要なことだとも思う。当事者二人の結婚に際しての『気の高揚』、そして参加者からの心のこもった祝福がある。それらの人たちのお互いの意識の確認と、あたらしい親戚同士となる人たちの懇親の場でもある。それをキリスト教だか神道だか仏教だかという『宗教』を司る者や、仲人というような第三者の人物を介して厳粛な雰囲気で行なおう、ということなのだろう。

 そんなわけで、『結婚式』→『会食』→『ポーリング大会』→『大浴場』→『宿泊』という次第となり、有意義な一泊二日となった。安くあげるつもりではあったけれど、やっぱりある程度お金もかかってしまったのが癪といえば癪。

 ふと、自分たちの結婚当時のことを思い起こしてみた。その思い出のひとつひとつが、なんとも情けないというか、恥ずかしいことばかり。その繰り返しのおかげで現在の自分がある、と思うとなんともさみしい気もするけれど、少なくとも今現在の自分にはそんな部分みじんもなく、大いなるビジョンに燃えているつもりなのです。





228 わっぱ知多共働事業所


 わっぱの会は名古屋市を拠点に、精神障害者とともに働き、その社会的自立を支援しようという目的で活動しています。すでに30周年を迎えています。

 『わっぱ知多共働事業所』は今年の4月で2周年となる。食の基本である『農』を大前提に置き、その生産作業を通してわっぱの会の活動を進めようというもの。現在健常者のスタッフ10名ほどを含めて、35名ほどのメンバーで運営されています。

 今年は麦と米各1町歩のほか、キウイ、梅、柿などの果樹、野菜全般を4町歩ほどといったところが目標で、「けっこうがんばらないといけない」と所長の黒田 肇さん(わっぱの会13年)。この知多の農場はわっぱの会とは昔から関わりの深い地元(美浜町)の有機農業家、杉浦剛さんの口利きで実現したもの(杉浦さんはとにかくたよりになる方なのです)。

 道長でお願いしているものは『わっぱのたまり漬』という漬物で、その原料となるきゅうり、なすの栽培から加工・漬込みまでの工程をこなしていただいている(道長では袋詰加工のみ)。農薬・化学肥料はもちろん一切使用せず。調味料もこだわりぬいたものをふんだんに使用し、その出来栄えは言うことなし(おかげさまでこの漬物、評判は上々で、現在売り切れ中)。今年はちがった種類も道長で扱わせていただけるようにお願いしています。こうした加工部門は島田さんが責任者となっている(実は島田さんは黒田さんの奥様で、別姓なのです) 。もうじき4才と2才のお子様をかかえ、奮戦中。

 加工品のラインアップとしては、常時20〜30種類はあり、こだわりの消費者にとっては大きな魅力となっている。漬物は白菜キムチ、大根のサワー漬、小松菜の楽天漬(野沢菜漬風)、奈良漬など。その他にトマトソース、各種ジャムなどがあり、バラエティーにも富んでいる。

 製パン事業は名古屋で長年行なわれてきたわけだけれど、その原料となる小麦粉を作るための『製粉機』をこの共働事業所は完備しているところも注目しておきたいところ。現在、その稼働率には余裕があるものの、今後米の転作作物としての小麦の栽培技術も年々アップすることも見込まれ、手狭になってゆくこと間違いなし。この小麦も奨励品種ばかりでなく、パンに適したものも十分に期待でき、今後非常に期待の持てるところ。実際、穀物を利用した加工品の試作、販売が手がけられており、『地産地消』を目下の目標にさまざまな取り組みが始まっている。

 農業のゆくさきがいろいろと懸念されている昨今なのだけれど、それを日本人の文化の原点というところから考え、積極的に取り組んでゆこうとする動きのあることは非常に心強い。

 農業を単にビジネスとして考えてしまうのでなく、わたしたちの生活の基本的な部分、つまり『文化』として位置付けることの大切さを今一度、わたしたちも再確認しようではありませんか。


229 リストラ


 今世間は『リストラ』の波に荒れている。『構造改革』とはいい言葉ではあるものの、ようするにrestructuring=リストラ。政治のリストラについて問題にしてもお話にならないけれど、それがいざ身近なところにあてはめるとこれは非常に現実的なものとなってきている。

 道長が関わっている『安全な食品』の業界でも、そんな動きが明白となってきている。一つにはいくつかの団体の共同事業という形での業務の集約化がある。その将来像について、ぼくの判断では予測できないのだけれど、そういった方向性というのは、今後の社会の動向を考えれば、必然的なものとして考えられると思う。

 昨今、生産コストというのはアジア圏への工場の設定により、間違いなく引き下げられてきた。さらに不景気のあらしのなか、それは加速されている。その結果としての低価格商品の日本への流入により、その脅威はわたしたちの身近な商品にも覆い被さってきている。この現実にたいし、国の保護政策などというのは期待できるとはいいがたい。これは今後農産物にさえ当てはまっていってしまうのだろう。おかげで多くのビジネスとしての農業が淘汰されてゆくことになる。

 ここで一つだけはっきりとさせておかなくてはいけないことがあると思う。それは人間自体をリストラして切って捨ててしまうわけにはいかないということ。日本の経済でできることはあまった労働をみなで分け合うことに詰まると思う。つまり、わたしたちの労働の価値も、今後下がりつづけてゆくのだろうと予測もされてしまう。技術的に向上してくるアジアの労働価値は、それに反して上がってゆくのかもしれない。一方が上がり、一方が下がり、いつか均衡がとれてしまうときが来てしまうのかも知れない。

 そんな状況の中で行なわれてゆく『リストラ』。それに伴って犠牲者が出る・・・というのではなくて、みながその波を日常的なものとして受け入れない限りは、暗い時代となってしまうのにちがいない。

 紋切り型の『リストラ』しかないわけではないと思う。それぞれの立場の人たちが、個性豊かな形で、自分の生活、労働を考え直してみる。それがよりよいわたしたちの文化を創造してゆくための唯一の方法だと思う。


230 さとねっと


 この愛知県には道長が野菜を作っていただいている生産者の人たちが、何人かみえる。その他、野菜を仕入れていないが、お付き合いさせていただいている生産者もいる。その人たち、いずれもが個性豊かで、エネルギッシュで、なんといっても農業に前向きな人たちばかり。

 そんな人たちばかりが寄って、なにかできないか。語りあえないか。という気持ちから、『さとねっと』という集まりを昨年立ち上げてみた。とりあえずはということで、夏にバーベキュー大会を渥美で、晩秋には芋煮会を知多でそれぞれ開催。それぞれ多くの参加があり、盛況ではあった。そして次回を来る2月に予定中なのだけれど、今度はそろそろ『話し合い』をしよう・・・ということで場所と時間を作ろうということになった。

 最近、全国の農業生産地で産直運動といったような活動が盛んに行なわれるようになってきている。これは米の減反政策に端を発した転作作物の利用とかかわりがある。転作というと麦、大豆といったところを、国も奨励して進めていて、今年で2年目となる。

 転作の小麦、大豆で考えられるのが、小麦粉、うどん、パン、みそなど。まだまだ奨励品種(それを生産すれば国から補助金が降りる)も限られており、加工による商品化にも技術的に未熟な点もあるけれど、今後まちがいなく向上もしてゆき、レパートリーも増え、非常に楽しみ。『減反』は日本の食文化という点で考えれば、マイナス材料といわざるを得ないし、情けないかもしれない。でもそれを機会として考えれば、農業のあたらしい可能性も生まれてくる(実際、ビジネスにも通じるのです)。ただしその可能性は、農業者自信が模索しなくては意味がないのも確かなところ。

 そんな時代的な背景もあろけれど、身近にがんばっている前向きな農業者が集まって、創造的というか、現実的なところで結びついてゆこう。というのが今回の『さとねっと』。代々続いてきた農家の後継ぎ。農業を夢見て新規就農しようとしている若者。ぼくのような農産加工業者。消費者に魅力いっぱいの生産者の集団になれるよう、がんばってみたいと考えている。

 そんな状況から、日本の農業はこれからおもしろい。