281 省庁の文
03/01/15

 農薬取締法の改正について、自分なりに知っておかなくてはと思い、農水省のHPをのぞいてみた。今年3月から施行が予定されている、『改正農薬取締法』というの。その表題は『農薬取締法の一部を改正する法律』とされており、さらに「農薬取締法(昭和二十三年法律第八十二号)の一部を次のように改正する」という文章で始められている。

 もちろんこの文章は法律の条文なので格式張った明朝体の縦書きなのだけれど、さらにそれを読み下してゆこうと思ったとたん、もうぼくの気持ちはなえてゆくのだった。たとえばこんな感じ。『第二条第二項中第三号を削り、第四号を第三号とし、第五号から第九号までを一号ずつ繰り上げ、同項第十号中「製造業者の製造し、又は加工した」を「製造し、又は加工しようとする」に改め、同号を同項第九号とし、同項に次の一号を加える。・・』ときた。

 気持ちがなえてしまってはいけないと思うものだから、もうちょっと、どこか理解できそうな行(くだり)を探そうと・・・。そうこうするうち、今度はぼくの腹はいらいらと沸騰しはじめるのだった。さらに『施行期日』のくだり。「この法律は、公布の日から起算して三月を超えない範囲内において政令で定める日から施行する」。ンー・・??。

 そのままダウンロードより直接プリントアウトしようと思い、印刷してみるとなんと15頁も・・。一行でも頭が痛くなるというのに、こんなにたくさんの『紙公害』。

 以前、道長の名前を商標登録したときもそうだった。いったいこの文章は文法的に正しいのだろうか。もしそうでも、ぼくが国語の先生なら、一もにもなく「やりなおし!」。だいたい、学校でも口がすっぱくなるほど先生が言っていたのは、良い文章の基本は、主語と述語が明確なことと。あるいは簡潔で短いこと。さらに文章には記録することのほかに、伝えるという大きな目的がある以上、それを作文するものには心構えが必要となる。

 今一度、特許庁に登録商標したときの特許庁の承認を通知する文を紹介すると「この商標登録出願については、拒絶の理由を発見しないから、この出願に係わる商標は、登録をすべきものとみとめます」となる。まったくいつ読んでも、飽きないというかばかばかしい文章なのである。

282 受験勉強
02/01/21


 もう30年くらいも前、ぼくは受験勉強のため、図書館に通ったことがある。当時岡崎図書館はまだ新築されておらず、木造二階建ての古いつくりだった。冬にはストーブくらいは入っていたように記憶しているが、夏にはクーラーなしの蒸し風呂だった。

 なにしろ受験勉強を自分の家でしようとすると、やれ小腹がすいたから即席ラーメンでも作って食べようとか、疲れたから寝転んでそのままうたた寝したり、おやつにトコロテンを食べたり、あくびをしたりしているうちに、いつのまにか一日が終わってしまう。これではいけないというので、夜の受験勉強へとなってゆくのだけれど、これも夜食だ、プリンだみかんだ、ラジオの深夜放送だ、休憩だなんだかんだとやっていると、いつの間にかラジオから早朝番組の「おはようございます」。気分だけは『受験戦争』だ『地獄』だとその気になっていても、やってることは『座る』と『寝る』の繰り返しだけと、まことに情けないことこの上なし。こんなことをしていては、自分がだめになるかもしれない。

 そういう生活環境への悩みに対して、『図書館』というのはいかにもひびきがよいというもの。同じ境遇に陥ってしまっているのはぼくの友たちも同様であるらしく、図書館で!ということになるのだった。図書館に通うことで規則正しい生活ができる。自分で時間割など組んだりなんかして。これでいける!

 ただし、岡崎図書館の閲覧室は二階にあり、なんと夏の暑さといったらぼくの勉強部屋と変わりなかったのだった。おまけに夕刻には遠赤外線のたっぷりと効いた西日まであたる始末。

 そんな環境ではあっても、おやつやごろ寝をするわけにはゆかないぶん、規則的な生活が保障される。まがいなりにも形ばかりの受験勉強が日々、繰り返されてゆくのだった。

 規則的な生活には散歩も必要と、昼休みにはとなり町の食堂『どんぱん(うどんとパンの略)』までの道のり500mを消化。ふたたび図書館にもどると「さあ勉強」とゆけばいいのだけれど、『腹の皮がつっぱると目の皮がたるむ』の格言どおり、言い知れぬ睡魔に襲われるのだった。自分の腕を枕に、閲覧室の机に昼寝の時間となる。すぐに起きようと言い聞かせつつ。どれぐらいの惰眠であったのだろう。目を覚ましてみると、いつの間にか西日を浴び、汗びっしょりのぼくの腕にはくっきりと寝アザまで(おそらくは額にも)。

 あかね色に染まった閲覧室で、今日も充実感とは程遠く、でも将来を見据えるぼくの姿があったのだった。


283 もんじゅ


 福井県の夢の核燃料増殖炉『もんじゅ』に対し、設置許可は無効という判決が下された。この判断の結果、使用済みの核燃料の再利用の道が閉ざされたこととなった。

 この高速増殖炉の『高速』というと、いかにも高速で核燃料プルトニウムが増産されるように錯覚するのだけれど、高速の中性子を利用するということであって、その真偽は疑わしいとまでいわれている。しかしながら、この核施設が計算どおりに稼動すれば、原発から排出される猛毒の廃棄物プルトニウムがそのまま燃料として使える。さらに、抱き合わせで核分裂を起こしにくいウラン238を燃焼させることで、あらたにプルトニウムが発生する。そのプルトニウムをまたウラン238と・・・、というようなメカニズムになっているらしい。ただし、このプルトニウムの燃焼をコントロールすることの難しさから、世界各国はさじを投げた状態。

 原子力はかつて『夢のエネルギー』といわれた。少ない燃料で膨大なエネルギーを取り出すことができる。しかしながら、それにともなう危険と、遠い未来まで受け継がれる負の遺産核廃棄物は『夢』を打ち砕くに十分すぎるもの。

 『もんじゅ』の事故のときにもそうであったけれど、関係者によるその場しのぎの事実の隠蔽(いんぺい)。本来あってはならない事態を起こしてしまったという責任の重大性に、思わずついてしまう『うそ』。それが後で取り返しのつかないことにつながるかもしれない、ということ以前に、この『思わず』というのがいちばん問題にしなければならない点なのではないか。

 人間とは不完全な生物といえる。それにひきかえ、科学技術はそれが『理論』に基づいているゆえ、計算違いとか勘違い、見間違い、あるいは知らなかった、いいと思ったなどというあいまいな、要するに『不完全』は許されない。また、不完全な人間が建てる『理論』など物騒で仕様がない。『○×に刃物』という熟語を連想してしまう。

 さらに大きな問題をはらんでいることを忘れてはいけない。ある『科学技術』をネタに誰かが莫大な利益を得る事ができてしまうということ。そして、それには一般市民の犠牲をともなう。

 遺伝子組み換えにしてもそうだが、その技術は「あったらいいな」という初歩的な夢とは裏腹に、安全性よりも経済性ばかりが優先する単なるビジネスへと変貌してしまう。なぜかいつもそうだけれど、それに伴う『つけ』の重大性はなんと大きいことだろう。そして取り返しがつかなかったりもする。

 誰かの『犠牲』と引き換えに獲得される経済、あるいは正義。そしてそういった行為が正当化されてしまう、現代の経済至上主義。それはなかば狂信じみた宗教とも思えてきてしまう。宗教にしろ、科学にしろ、主義、思想、それらすべてが人の苦痛からの解放、平和、幸福という素朴な願いを原動力としているはずなのに。情けない。

284 坂本 九


 最近、テレビ放送50周年とかやらで、古いテレビ番組に関係した音楽をよく耳にする。NHKテレビで60年初期の番組で『夢で逢いましょう』というのがあった。もう逝ってしまった渥美清、坂本九ほかの人気タレント・歌手が毎週日曜日の夜、モダンな都会の雰囲気のこの番組に登場する、音楽あり、コントありの30分。

 当時、若者のポップ音楽の主流といえば米国志向のものが多かったけれど、日本製のオリジナルでもそれなりにすばらしいものがあった。そのなかで、中村八大作曲、永六輔作詞というのが数あった。『遠くへ行きたい』『上を向いて歩こう』『明日があるさ』など。当時売れっ子の坂本九は、そのほかにも『涙くんさよなら(浜口庫之助・曲詩)』、『見上げてごらん夜の星を(いずみたく作曲、永作詞)』などなどとヒット曲を連発している。

 とにかく50周年がらみのそのころの曲が、ラジオの深夜放送で流れていた。そのうちにとうとう流れてしまったのが、『上を向いて歩こう』という曲。ぼくらの年頃(50才前後)には、とってもなじみの深い曲。情けない話なのだけれど、ぼくはこの曲を聴くと思わず涙ぐんでしまう。

 「上を向いて歩こう/涙がこぼれないように/泣きながら歩く/ひとりぼっちの夜/幸せは雲の上に/幸せは空の上に/上を向いて歩こう/にじんだ 星をかぞえて/思い出す夏の日/一人ぽっちの夜・・・」。この歌はいうまでもなく、米国をはじめ、世界中でヒットした。米国ではsukiyakiという題名だったけれど、いろいろな歌手によってもカバーされている。その英訳された詩というものも、恋人を失い、どうしたらよいか途方にくれるわが身を歌っているという、どうしようもなく悲しい内容となっている。

 この曲がそんじょそこらにはないような、名曲なのだということはよく分かっているのだけれど、それでもぼくは聴くたびに感激してしまう。
 そんな悲しい歌なのだけれど、なぜかぼくはこの曲を聴くと、すごく生き生きとしたものを感じ、勇気さえ奮い立ってしまうのはどうしてなのだろう。それは歌手坂本九の持つ、独特の明るさというか、個性、たぐいまれな歌唱力によるものなのかもしれない。

 1960年代、日本は悲劇の戦争の焼け跡から、必死で抜け出すべく、何もかもかなぐり捨て、米国という巨大な富の国を夢見たものだった。テレビ番組にしろ、ポップスにしろ、憧れは『アメリカ』だった。坂本九のこの曲も2拍子のジャズっぽいというか、ソウルというか、とてもアメリカを意識したものだと思う。それまでロカビリーなど、ほとんど米国ポップスのそのままコピーであったのが、和製のしかもすばらしいこの曲に、いったい幾人の日本人が勇気づけられたことだろう。

 悲しみにも負けず「上を向いて歩こう」と語りかけた坂本九は飛行機事故で逝ってしまったけど、今も彼はこの歌でぼくを勇気付けてくれている。



285 三狭ダム


 中国では国家プロジェクトとして、長江の上流湖北省の宣昌(ぎしょう)のちかく、三狭渓谷の出口付近に、世界最大級の『三狭ダム』というのを1994年から建設している。このダムは堤防の長さ1983メートル、高さ185メートルという桁はずれた大きさ。全面完成を09年と目指している。

 そもそも三狭ダムの建設については、中国革命の父ともいわれる孫文が1919年に提唱して以来の懸案ともいえるものの、その是非については、毛沢東では否、80年代ケ小平は是、姚依林副総理で据え置き、92年全国人民代表大会で決定。李鵬首相で着工ということになった。そのいちばんの目的は、電力の確保ということがいえるようだ。

 ダム建設については、昨今その意義については否定的な面が多い。日本でもすでに計画が推進されてしまっているものが数多くある。岐阜県・徳山ダム、徳島県・細川内ダム、吉野川第十堰ほか。中小型のダムを入れたらきりがないほどたくさんのダムの建設計画が、反対をよそに進められている。

 中国・三狭ダムの場合、それにともなう影響というと想像のつきにくいところ。まず三狭より上流では水没という大きな問題がある。その距離は約500Kmほどで、重工業都市重慶あたりまでに達する。下流では、長江という河があまりに長大で大きいがゆえに、大きな影響が考えられる。乾季である冬には当然、長江の流量は減ることになり、多くの湿地や湖沼のある、湖北省や江西省などでは乾燥化することが予想されている。江西省の『国家級自然保護区』ポーヤン湖では、乾燥化により多くの水鳥に深刻な影響が考えられている。ペリカン、コウノトリ、各種サギ、ガン、カモなど、絶滅が危惧されている種も数多くある。そのほかにも、オオカミ、チョウザメ、スナメリなど。

 当然のことだけれど、深刻な問題は自然生物だけにはとどまらないのかもしれない。人間の生活にも大きな影響が現れても来るのだろう。91年には大きな洪水が平野部一帯を襲ったけれど、ダムがかえってさらに大きな洪水を起こしてしまう可能性も将来実現してしまうかもしれない。中国では、樹木の伐採のしすぎで大雨時、洪水の誘発の危険もあり、三狭という狭い渓谷に集中する大量の水にこの三狭ダムが耐えられるとは到底思えない。当初琵琶湖の1.5倍の貯水量というのも、大量の砂を運ぶ長江のこと、当然短期間にダムは土砂で埋め尽くされてしまうのかもしれない。日本のように川に落差があるわけでもなく、ダムの底部からの放水に伴う土砂の排出も一部にとどまってしまうだろう。

 また、あわよくば乾燥化のきびしい、黄河流域への利水も考えられているとも言われている。しかしながら、重工業都市、重慶でしっかりと汚染されているかもしれない水の利用というのも問題となるのかも。

 原発でなく、水力発電という点では、この三狭ダムというのは大きな利点があるのかもしれない(中国の全発電量の1割)。いずれにしても、このダムは中国の将来にどのような影響を与えてゆくのだろうか。


286 農家資格


 農家資格を持っているつもりでいたのだけれど、その更新を忘れてしまっていたため、これはたいへんと手続きをした。農家として音羽町で仕事をするには、まず耕作をしなくてはならない。その面積は4反(400坪)。

 今音羽で野菜を作っていただいている鈴木慶市さんは、当年77歳。まだまだ元気で畑仕事や、生ごみたい肥の切り返しにと、軟弱者のぼくをあざ笑うかのようにかくしゃくとしたもの。とはいえ、あと5年がんばるとのことなので、それまでにぼくが野菜づくりを教わっておかなくてはということになった。

 現実的に、4反の畑を耕すというのは並み大抵ではない。ぼくもこの音羽に最初に移った年、1反の畑に挑戦してみたものの、完敗した経験がある。あくまでも畑仕事を『主』として考えるぐらいでないと、肝心なタイミングというのを逃してしまうことになる。あの時には、大根も人参も、白菜もみじめな姿ということになり、山ごぼうのような大根を泣く泣く収穫?したものだった。

 4反の畑を借りる、というのもなかなか難しいもの。畑の借用書を書いて役場に提出してみたところが、それはすでに他の人に貸してありました(貸してくれた本人がもう忘れている)、とかその畑には栗の木が植わっていてそれでは耕作できないからだめです、とかで何度も役場に足をはこぶ始末。

 それでもやっとのことでなんとか、4反の畑を借りることができた。と一安心、というわけにもいかない。さっそく作付けの支度をしなくてはいけない。とはいっても、貸してもらえるような畑はその持ち主が放っておいてしまっているくらいだから、草だらけとなっている。夏草がそのまま立ち枯れているというのを草刈機で刈るわけだけれど、枯れ草というのはけっこうやりにくい。これを刈り終えたらしっかり天日で乾かして燃す。それでも草の根がのこっているので、それをトラクターで耕してからたい肥を入れる。それからもう一度耕して、畝をつくって、やっとのことで種をまくということになる。去年の草の種がしっかり散らばっているから、今年の耕作は雑草との戦いとなるのだろうか。

 今年は初年ということもあり、「一反がせいぜいだよ、道長さん」だそうだ。そうはいっても、耕作をしないほかの畑も、草刈くらいはしっかりとして、「ちゃんと管理していますよー」と言わんばかりにしておかなくてはいけない。今年の夏は、雑草との戦いとなるのだろう。

 今まで、鈴木慶市さんの野菜づくりに、わかったようなふうで相手をしていたぼくだけれど、これからは百姓1年生のド素人というわけ。「道長さん、何やってるの」と言われそう。とは言え、これからの4〜5年は見よう見まねでがんばろうとおもっている。

 少なくとも収穫のできる季節には、自分の作った野菜で漬物を漬けて出荷して、消費者のみなさんに喜んでもらえるようになりたいとおもう。


287 自然の脅威


 百姓仕事をしようとすると、その大方が天気との相談ということになる。こちらの都合のいいときに作業をすればいい、などというほど百姓仕事は気楽なわけではなくて、今日予定した仕事は雨や風のためにあっけなくおじゃんになってしまったりする。

 今回借り受けることのできた畑は、ここ何年、耕されることがなかったため夏草の立ち枯れで覆われている。それとか、他に切り倒した立ち木、やはりそれに絡んだ夏草。とにかくこの枯れ草を刈ったのち、燃やしてからでないと耕作始めるわけには行かない。枯草を刈る−燃やす−(草の根が残っているので)耕す−たい肥を入れる−耕す−種まき、という手順となる。

 この間刈っておいた草がやっと乾いたため、今日には燃やしてしまわないと、と午前中に。おあつらえ向きに、風も弱い。熊手を持って畑へ。枯草は燃えやすいから、一気に火をつけるのは危ないので、ところどころに固めて火をつけようと。と、これが考えの甘さ、浅はかさ。そのときなぜかにわかに風が吹きだした。あおられた炎がなびいたかと思ったら、なんと風下の枯草に燃え移ってしまったのだった。

 これはまずいと、火の広がりを止めようとするのだけれど、これはまずい止まらない。炎のゆく手には、となりの畑の物置が・・・。どうしよう。携帯電話を取り出して仕事場を呼び出したまではいいのだけれど、もうそれどころではなくなってしまった。ただただ必死で炎とたたかう愚か者の、ダンスにも似た、あわてふためく姿があるのだった。

 そのうち、天の助けか気まぐれか、突風はうそのように収まった。火勢は弱まり、ぼくのほうが優勢に・・。それこそ、死に物狂いの闘争の結果、なんとかぼく一人で消火することができたのだった。このとき、ほんとうに思い知ったのだけれど、「火は生き物」だったのだ
。まるで、ぼくをあざ笑ういたずらな悪魔のような。まだところどころくすぶっている枯草を前に、へなへなとただ立ち尽くすぼく。思い知らされた、とはこのこと。

 午後から豊橋へ鈴木慶市さん(道長の野菜を作っていただいている)とでかける用事があった。道すがら、かれにそのことを話すと、やはり「火は生き物だよ、道長さん」という言葉が返ってきた。枯草を燃す時の心得を、みっちりとかれに教えてもらい、人生半世紀を生きてきたぼくも、ほんとにまだまだ未熟者なのだなとつくづく得心させられたのだった。この日おそらくぼくは、約三日分のエネルギーを使い果たしてしまったであろう。

 農業にはずぶの素人のぼくには、今回の一件はよい勉強になった。農業とは人間の自然をあしらっておこなう行為、などという心構えでは、このようなしっぺ返しを受けたりもするのだろう。

 自然にもよろずの神々があるのならば、「どうか神様、怒らないでぼくの百姓仕事に手を貸してください。あなたの前に出ようなどという考えは二度と持ちませんから。遺伝子の組み換えだっていたしません?!?」

288 一票のラヴレター


 『一票のラヴレター』というイラン映画を観た。イランのキシュ島というところでの選挙投票日、投票箱を持って僻地を巡回する選挙管理委員のお嬢さんと、その護衛役の警備兵の織り成す淡々とした一日。でも、その一日は、兵士にとっては心揺らされるひと時だったのだった。というような映画。

 イラン映画というとよいものが多いそうで、ぼくは以前、テレビで『ともだちのうちはどこ』という映画を観たことがあり、最後に思わずほろりとしてしまったのだった。その映画も淡々としたもので、欧米というよりは、アジアのここちよい『間合い』というか自然な時のながれというか、物語の一部始終を表現してくれ、知らぬ間にその中に入り込んでしまうような内容。なにげもない日常のなかで、些細な事柄をきっかけにでも、人の、若者の、子供のこころは感動し、恐れ、悲しみ、そして恋する。

 この『一票のラヴレター』の舞台になっているキシュ島というところは、イランでは唯一、ヴィザのいらないところで、いわば観光の島。人口は18000人ほどの小さな島なのだけれど、観光スポットをはずれれば、砂浜以外は何もないというようなところ。そこでの人々の暮らしといえば、魚を獲ることくらいで支えられていて、昔ながらのイスラムの封建的な文化に縛られている。

 海辺の美しい夜明け、飛来する一機の軍用機から投票箱がパラシュートで投下される。密輸を見張る警備員の青年のその日の任務は、選挙管理委員のお嬢さんのお供。馬鹿らしくて付き合えん、という兵士の一日のはじまりとなった。

 参政権は16歳から認められてはいるものの、女性には自由が与えられておらず、投票にもすこぶる消極的。仮に投票する場合でも、男性が代筆してしまったり。僻地の集落などでは、村の有力者がすべてを治めていたり。

 そんな集落が点々とする僻地では、思うような投票を獲得することができるはずもなく、若き選挙管理委員の娘は失望の連続。そんななか、それでもけなげに票を集めようとする姿に、兵士の心はひかれてゆくのだった。とかく若者の恋との出会いは、さりげないものであったり、その場限りのものであったりでとても淡いものであることが多い。そして、それは実を結ぶことが少ないけれども、その時にははちきれんほどに激情もするものなのだ。

 そんなひと時、一時期のことを、大人であるぼくらはいかに忘却してしまっていることだろう。現実を抱え込んでしまうあまり、大人の心はなんとまずしいことだろう。若き日に抱いた理想、夢の数々は・・・。

 年をとるということで、人の心はだんだんと慣れてしまうのか、あきらめてしまうのか、そういったとても大切なひとときにたいして、対面しようとしない場合が多い。おかげで世界には、戦争が、経済至上主義が、不正が、犯罪が後を絶たない。何気ない日常のなかにこそ、世界の平和、平等のもとになるものが満ちあふれているのかもしれないのに。

289 雨あがる


 イラン映画のほのぼのとした良さもいいのだけれど、邦画で『雨あがる』というのがあり、これもいい。1999年小泉堯史(たかし)監督、寺尾聡、宮崎美子ほかの出演。

 武芸にたけ、弱い人たちにも人気があり、人格的にも優れているのになぜかうだつのあがらない侍(三沢伊兵衛:寺尾聡)と、内助の功のその妻(たよ:宮崎美子)の出世の話。

 長雨で川止めされた人々の中に奉公先にあぶれた貧乏侍がいた。長逗留(とうりゅう)でくたびれ果てた貧乏な人々をもてなすため、侍は恥を忍んで賭け試合で金を工面するのだった。人々は人生にめったにない幸せなひと時に、飲めや詠えの大騒ぎ。

 雨あがりの日、道すがら、城下の侍たちの愚かな果し合いを仲裁する腕前を見てほれ込んだその藩の殿様(三船史郎)が、武芸の師範代に召抱えようということになる。さしあたって、殿のまえで御前試合の結果次第ということに。成り行きとはいえ、なんと殿と手合わせということになってしまう。よせばいいのに、本気で立ち会ってしまい、挙句の果てに、殿を池に落としてしまう。さらに人を『思いやる』という性格が災いして、殿の機嫌を損ねてしまう。そしてさらに、賭け試合をしたことがばれてしまい、指南役の話もおじゃんになってしまう。

 雨のあがった渡舟場の宿。川越えして立ち去った人々。使者が城から来、指南番失格を申し付けるも、才女たる妻はこう述べるのだった。大切なのは、何をしたかではなく、何のためにしたのかなのだ。あなたたちのようなでくの坊にはわかるまい。と。

 それでも、さすがにできた殿様はやはりちがう。彼の性格の欠点を理解し、それでもその人柄と武芸を見込む。藩を去ろうとする侍夫婦を、自らの馬で追うのだった。

 のんびりと立ち去る夫婦。途中、海を見下ろす絶景に見も心も洗われ、すがすがしい気分を得、清く正しく生きることに心をあらためるのだった。いずれは追い付くであろうけれど、殿と重臣たちは全速力、馬を駆けるのだった。
 腰に刀なぞ差し、いかにも物騒な江戸時代ではあったのかもしれないけれど、やはりこのような長い時間もながれていたのだろう。現代という時を考えてみれば、身分制度もなく、自由もある。すべての国民がさほどの貧富の差もなく暮らしている。川には橋もあるし、自動車でどこへでもいける。けれどもこの映画にあるような、持ちつ持たれつの人の世というか、身分制度はあっても、治める側の人々を思いやる心意気。そんな時代のおごそかに流れてゆく時、太平といったものが、現代には欠けているんじゃないか。

 映画のあらすじを全部書いてしまいましたが、それを知らないでも、全編安心して観られる、木々の緑、自然の美しい映画です。


290 ビートルズ
03/03/21


 1960年代の洋楽ボップスといえば、なんといってもビートルズということになってしまう。ビートルズは1958年ころ、クオリーメンというバンド名でジョンレノン、ポールマッカートニーによって始められ、ジョージハリスンが加入。バンド名をムーンドッグズ、シルバービートルズへと変更し、60年にビートルズとなった。このころには他に二人のメンバーがいたけれど、62年EMIレコードと契約の時、ドラマーがリンゴスターに代わり、4人編成のバンドとなる。63年『プリーズプリーズミー』のヒットで躍り出た。

 ぼくには3つ年上の姉がいて、彼女はぼくが中学に入ったころ日本に紹介されたばかりのビートルズのレコードを買ってきて電蓄でかけまくっていた。ぼくも姉の留守にそっとレコードを取り出しては、聴いた覚えがある。そのころ家にあったレコードといえば、滝廉太郎の『荒城の月』、ペレスプラードの『マンボナンバー6』(B面がなぜか『証城寺の狸林』が訳のわからない言語で演奏されていた)、『岡崎音頭』などとなんとも代わり映えもしなかったし、とくに鮮烈だったことを覚えている。このころ、姉はレコード店にアルバイトに行っていたため、ほかにもリズムアンドブルース系のシングル盤を買ってきていた。中でもこのビートルズというのは別格にカッコ良かったのだと思う。

 中学へ行くと、ビートルズやローリングストーンズ、ベンチャーズなんかが好きなのがぼくのほかにクラスに二人ばかりいた。掃除の時間など、ほうきをギターに見立て、丸覚えのわけのわからない英語風の歌にのせて、本人はかっこいいつもりで真似をしたりした覚えがある。

 ぼくは今もロックが好きで聴いている。今にして思えば、ビートルズというバンドなぞ単なるポップなアイドルバンドで、ほかに本筋のロックでいいものはあまたあるということを良く知っている。たしかにビートルズはジョンレノンというロック魂を持ったすばらしいソングライターがいて(ポールも曲作りに優れた才能はあった)、今聴いても新鮮で色あせない名曲がいくつもある。おそらく歴史に残るロックバンドといえば、ビートルズということになってしまうのだろう。ローリングストーンズがいるじゃないか、というとそうなのだけれど、やはり時代が要求するアイドルというのは唯一で済んでしまうらしくさみしい気がする。

 69年、ビートルズは解散。さらに残念なことは、80年12月、ジョンレノン死亡という結末。これほどにロックを奏ってかっこよく、作曲の天才もちょっといない。1970年前後、そのほか多くのすばらしいロックバンドが生まれた。レッドツェッペリン、クィーン、フー、ディープパープル・・・。これも非常に残念なことに、これほどすばらしい多くのバンドが、メンバーの死亡などもあり解散してしまっている。

 ロック音楽とは、若さのほとばしりであり、素直な表現の世界。それらが解散や死で締めくくられるのは非常にさびしいけれど、なんとなくそれも、若さを象徴してでもいるかのようで、さみしく思えてしまうこともある。