301 ほ た る
03/06/03
 道長が音羽町へ作業所を移転してきたころ、田んぼに水を引く水路にたくさんのホタルがいたもの。ところが、以後徐々に減り、現在では毎年数えてみても激減してしまっている。このあたりでは山のふところが浅いため、とくに冬には水が減り、水路が干上がってしまうのがホタル激減の原因かもしれない。

 夜、ふと作業所の裏の竹やぶの方へ行ってみると、ホタルが光っている。それも1匹だけ。周りを見てもいないし、田んぼの水路を見に行っても見つからない。でも、今年も少ないけれど、ホタルは見られそう。

 音羽町の峠を隔てたとなりに、額田町鳥川(ぬかたちょうとっかわ)というところがある。ここには、鳥川小学校や地域の保存会のおかげで、毎年ゲンジホタルが数多く見られる。岡崎の実家への帰り道、ちょっと遠回りをして鳥川へ行ってみる。鳥川川(とっかわがわ)、鳥川小学校をさらに下る。ちょうど沢に橋がかかったあたりが『ほたるの宿』と呼ばれていて、この界隈ではいちばんホタルの数がおおい。ホタルの幼虫と餌になるカワニナの放流の多いこの辺では、地域の保存会による売店まで開かれていて、風物詩といったところ。

 車を降りて川をのぞいてみると、数十匹のホタルが静かに飛び交っているのだった。暗い沢の中に青白いホタルのほのおが明滅しながら宙を行く様は、なんとも美しいものなのだろう。考えてみれば、ぼくが子供のころには、田んぼの近くならどこでもこんな風景が見られたもの。しかも、その数は保存会のこんなのとは、比べ物にならないほど多かった覚えがある。ちょうど今から40年もむかしだったことになる。

 音羽町の近辺でも、自然にホタルが現れる地域もあるのだけれど、やはりそういうところは今ではめずらしい。ホタルの生息に適した条件を調べてみると、■phが7以上の弱アルカリ、■BOD(生物化学的酸素要求量)が低く(2mg/リットル以下)水が汚れていない。■水中に酸素が多く含まれている。■炭酸カルシウムが多く含まれている。■水温が年間を通して25℃以下。■農薬や合成洗剤が含まれていない。■川底に幼虫の隠れるための石、砂があり、多くの植物が自生している。■えさのカワニナがいる。などだそうだ。そのほか、生態系を重視する目的などで、河川の改修工事をしたりした場合、その直後または翌年に、ホタルの大量発生が見られたりすることもある。音羽町でも同じことがあった。ただしそのメカニズムについては分かっていないらしい。

 いずれにしても、今、どの地域でも上に挙げたようなホタルの生息条件が、すべて満たされたような場所は本当に少なくなっている。またあったとしても、まさに風前の灯といっていいのかもしれない。音羽町のとなりの鳥川にしてみても、毎年の養殖、放流という保護活動がなければ、梅雨時の風物詩といえるほどの風情も味わえないものとなってしまうのかもしれない。

 あるいはもしかすると、保護する以前に、自然環境の回復のための努力を、今することこそが肝要なのかもしれない。

額田町立鳥川小学校のHP
http://www.town.nukata.aichi.jp/school/tokkawa/index.html

302 春眠暁を・・・
03/06/10


 ふつう夜の就寝はすべからく、いつもの時間に床につき、夜中に目覚めることなく、さわやかな朝のめざめを得られる、というのが誰もがのぞむ生活のリズム。しかしながら、それは仕事もあまり忙しくなく、いらいらもそこそこという日常においては可能なこととはいえ、その反対の場合などにはそうもいかなかったりするもの。

 まだ残っている仕事からおのれのからだを解放し、やっとたどり着いた我が家。後は風呂へ入って寝るだけ、という段階なのだけれど、ちょっとだけ寝転んでテレビでもつけて、・・と。こういったパターンはよくないと思いつつ、まもなく襲ってくる睡魔。しばらくの間『意識不明』の状態がつづいたことは覚えているのだけれど、まさかそれが2時間もしくは3時間も続いていたとは思いもよらず。

 「うわっ、もうこんな時間になっちゃった。早く風呂に入って寝なくっちゃ」っと、すでに夜半を大きく回った時刻に気付き、しまったっ。半分寝ぼけながら風呂に入るのだけれど、やっとのことで寝床に入るころには目が覚めてしまっている。眠りに入ろうとする場合、これはけっしてよいタイミングとはいえない。

 仕方なく、枕元のラジオのスイッチをいれる。そのうち眠れるだろうと、うつつのなかでラジオをながしておく。ここでまたいけないのが、いつの間にかその番組を聴いてしまっていたりする。また眠れなくなる。

 これではいけない、というので番組途中でスイッチを切る。しばらくまんじりとせずで、もうちょっと聴けばよかったかも、と思いつつ、今度は落語かなんかのテープをかけてみたりして・・。

 やっとのことで、眠りに入って行けそうな雰囲気になってくる。まどろみの感覚をしばし楽しみながら、このままいい感じで眠りに入ってゆくのだな・・、と思っていると、突然『ガチャッ!』という覚醒音とともにラジカセのテープの終わった音。仕方ないのでまたテープを裏返す。しばらく聞き流すのだけれど、これはちょっと気に入らない。ということで、他のテープにチェンジ。今度のテープは片面60分だし、これなら絶対だいじょうぶ。とにかく1時間のあいだに眠ってしまえばいいんだから。

 やがて廊下のまどの網戸のところで『ガリッ、ガリッ』、そのうちに「ニャー」。二匹の親子ネコが外へ出ようと、網戸に爪をかけているのだった。そろいもそろって弱虫なので、夜な夜な外へ出れば、意地悪ネコにいじめられるのが関の山。網戸の網はステンレスだし、しっかり『しん張り棒』がかけてある。ざまあみろ、だ。

 そのうち、ポロンパタンというしん張りの外れる音。どうやら親子ネコ、出て行ったのか静寂。ちょっと待て、このまま網戸を開けておくとまずいことになる・・。意地悪ドラネコは遠慮もなく侵入してきて、あちこち強烈な芳香のマーキングをして帰るという傍若無人の悪行ぶり。仕方なく網戸を閉めなおしに、薄明の窓辺に立つ僕の耳に、今朝も勤勉な新聞配達氏のおごそかなバイクの音が響くのだった。

303 国定忠次
03/04/08

 ラジオのドラマで、江戸末期の博徒、本名長岡忠次郎こと国定忠次が、赤城山を望む上州から信州へかかる山中で忠実な子分たちと別れるくだりを再現した菊池寛の『入り札』という短編を放送していた。

 忠次は最終的に11名となってしまった子分たちを、道中目立たぬように泣く泣く3名に選抜することになる。その方法をお互いの無記名の投票にゆだねるのだけれど、そこでのやり取りを、最古参ながら、体力気力も下り坂の九郎助という男を通して再現しようとしたのがこの『入り札』という物語。

 忠次は極道ではあったが、正義感が強く男気というか曲がったことの嫌いな人物だったことになっている。だから子分にも、博打は張っても人を欺くようなことはするなといつもきつく言っていた。

 この入り札という手段はほかならぬ忠次が思いついたもの。本当は自分にいちばん役立つ3名を名指しで選びたいところなのだけれど、それはほかの8名の手前できないというもの。この方法なら必然的にベスト3が選ばれるという寸法なのだ。いわば苦渋の末の方法。

 入り札の結果は明らかで、浅太郎、嘉助に4票づつ。喜蔵に2票と九郎助に1票。実はその一票は九郎助が自らを投票したものだったのだ。忠次との離別後、離散する子分たち。その中の一人となって後味悪くさびしく立ち去る九郎助に、弥助という男が軽率にも、九郎助兄貴の一票は自分が入れたのだと嘯くのだった。そんな弥助に無性に腹立つ九郎助だったのだけれど、その心も次第に萎えていってしまうのだった。ほんとうに忠次の身の上を思うのであれば、自分はさておき、役に立ち、信頼に値いする三名のうちの一名に投票すべきだったのではなかろうか。白々しく嘯きながらも、九郎助が卑怯にも自らに票を投ずるはずはないと寄り添ってくる弥助のほうが、自分よりよほどましなのではなかろうか。九郎助はそんなふうに悔恨するのだった。

 というようなこの短編は、まことによくできた物語といえる。赤城山に至るまでには、忠次の子分は50名以上は居た。最後の11名以外は死んだり、捕縛されたり、逃げ出したりして居なくなったわけだ。つまり、その11名は忠次のために命を張れる、男の中の男ばかりと言ってよい。男気には恥ずべき態度なのかもしれない九郎助や弥助かもしれないのだけれど、あるいは他の9名の男たち、はたまた忠次自身も含めて、一家の『最後の審判』でのいきさつの複雑な心の葛藤というのには、まんざら九郎助だけを責めきれるものでもないのかもしれない。

 時代背景としては、文化・文政の江戸文化の花咲いた時代とは裏腹の、飢饉、一揆、打ちこわし頻発という、天保年間。幕府の勢力も衰え、元号も天保から嘉永‐万延‐文久‐元治‐慶応‐明治と忙しく変わってゆくことになる。明治元年まであと18年という嘉永3年、今の群馬県吾妻(あがつま)郡吾妻町にあった大戸の関所で、国定忠次は、かつてその関所を破ったという罪で、磔(はりつけ)獄門とされたのだった。欧州勢の覇権を予感する中、老中水野忠邦、天保の改革が襟を正そうとするのに、邪魔な存在だったというのが、忠次捕縛につながったという一説もあるそうだ。

304 市 電
03/06/28

 音羽町の東に豊橋市があり、ぼくのイメージではけっこう個性的なところだと思っている。豊橋のひとは古いものを好む。その街並みを見ても、超高層ビルが立ち並ぶわけでもなく、ちょっと路地にまわれば昔ながらの商店が立ち並んでいて、おどろくほどにそれがにぎわっていたりもする。

 豊橋の市庁舎は豊川本流と国道一号線の交差する吉田大橋の南側にあり、そのすぐとなりには骨董的に古い市民文化会館が鎮座している。そしてその前を走る通称国一には、これには少々おどろきなのだけれど、なんと市内電車がのんびりと走っている。夏にはなんと、ビヤホールならぬ『ビール電車』まで走っている。

 豊橋のことはさておき、ぼくの生まれた岡崎市にも、かつては市内電車が走っていた。この路面電車は昭和37年6月に残念ながら廃止となってしまったのだけれど、今も色鮮やかにその思い出が焼きついている。

 この『岡崎市内線』の歴史は意外に古く、明治31年にさかのぼる。後の東海道本線の一部が開通していたにもかかわらず、それが市の中心から外れていたため、それへのアクセスのための『岡崎馬車鉄道』がつくられた。非常に人気があった鉄道なのだけれど、動力が馬なので『フン』の始末が問題となり、明治44年電化のはこびに。以後、『市電』として親しまれ、順調に路線を延長していったのだが、文明の利器『バス』の時代到来ということになり、とうとうぼくが11才(小学5年生)のとき、姿を消すことになったのだった。その歴史は63年間の長きにおよぶ。

 市電廃止はぼくらにとっても、非常なショックであったのを記憶している。ぼくはそれまで、市電の始点から終点までの道のりを乗ったことがなかった。だから廃止の記念に美しく飾られた『花電車』の乗車券を始点の『大樹寺』で買ったのだった。そのときの顔ぶれは、ぼくの姉と近所のこども計5名だったか。『福岡町』までの10Kmあまりは、子供のぼくにはたいそう長い距離に感じられたもの。なじみのない風景から見慣れた風景へと、全開の車窓からは心地よい初夏の風が車内を駆け抜けここちよく、乗り出してながめる風景は初夏の陽光に光り輝いていた。それがぼくらがかつて行ったことがない『国鉄岡崎駅』の向こうの郊外にさしかかったとき、その新緑のパノラマが小学生だったぼくの乗っている市電をおおきく包み込むかのようで、今もこころに焼きついていて忘れることができない。鉄路に響く、ガタンゴトンの力強い音までもが、忘れられない思い出となっている。あのとき、ぼくはそんな感動にふるえていたけれど、ほかの4人の同乗者はどうだったんだろう。

 現在、日本全国で路面電車は18都市、19路線でまだ健在であるそうだ。一部では交通の妨害になるという、市民からの槍玉に挙げられてしまっている路線もあるそうだ。考えてみると、昔親しまれた路面電車はすべて、邪魔になるという理由から廃止されていったのだろう。にもかかわらず、今になってぼくの生まれた街に、今も市電が走っていてくれたらと、取り留めのない思いが心の中を掛けめぐる。ずっと大事にしまっておいたそのときの切符は、残念ながらどこかへいってしまったのだった。

305 シュマイザーさん
03/07/04


 名古屋での講演のために、その前日夜の名古屋到着のシュマイザーさんは、72歳とはとても想像できない、柔らかな物腰でフレッシュないでたちの方だった。名古屋講演を受持つ遺伝子組み換え食品を考える中部の会からは、名古屋大学の河田昌東さんとぼくとでお迎えした。27日、バンクーバーから名古屋到着。すぐに熊本、徳島、大阪と間に休養日の日曜日をはさんだだけのスケジュールも物ともせず、さらに名古屋、東京、北海道は北見、札幌。さらに日曜日をはさんで、山形、岩手という強行な予定が。そんな駆け足の12日間は誰が考えても大変。

 ホテルのお部屋にお休みになるまでのしばらくの間、夕食をご一緒させていただくことに。はるばるカナダからたいへんな長旅ご苦労様とつくづく同情させていただいたのだけれど、さほどにあらず。今や彼は世界中を駆け回っておみえで、いままで42カ国を講演旅行とのこと。その超人ぶりには、ほんとうに驚かされてしまったほど。

 彼の話の中ではアフリカ諸国、インドなど、途上国の名前がたくさん挙げられ、そこでの講演の様子を語る彼の表情はとても楽しげなのだった。たとえばバングラデシュでは、なんと4カ国語の通訳が必要でたいへんであった、など。そんなところに彼の誠実な心遣いの深さがうかがえるというもの。

 そんなふうに世界中あちこちと旅の連続なので、最近は自身のお宅にいることのほうが少ない。裁判が始まってしまってからは、モンサント社からの脅迫じみた抑圧もなくなったためさほど心配もしないけれど、かれが講演旅行に出てしまうときは念のため、なるべく娘さんのお家にいるようにしているとのこと。

 ほんとうに日本ではそんなことは考えられないのだけれど、こともあろうに自由の象徴とも言うべき米国、カナダでしかも、大きな会社がこのように農民の権利を公然と奪ってしまおうというようなことをしていて、それをGM推進派の国側が見過ごすばかりか裁判という場で、それを擁護するような現実が繰り広げられている。これはほんとうにひどい話だということもおっしゃっていた。

 彼にとっていちばん残念なことは何かというと、菜種一筋、育種にかけてきた50年の苦労が、モンサントのGMカノーラに汚染されてしまったことで失われてしまったこと。そして、2000年を最後にカノーラの栽培ができなくなってしまっていること。彼の手はまさに農夫のそれで、指は太く、ふっくらがっしりとしてたくましかった。

 でも、そういった逆境について、かれは決してめげてしまわない。モンサントとの闘いは、最後の最後まで続ける、とそのやわらかい物腰の口調で言い切るのだった。半世紀を菜種の栽培と育種を続けるためには、最後まであきらめない、それでいてやさしく育むおおらかな気配りがあったのだと思う。世界42カ国の農民たちも、そんな彼の心根、誠実さに心打たれたのだろう。

 43カ国目の日本でも、それは同じであったと確信する。


306 畑の大根
03/07/10


 4月下旬に種をまいた大根は、種まきの半月ほど前に牛ふん堆肥を入れただけだったのだけれど、6月中旬、これがみごとに効いてすごいような大根ができてしまったのだった。

 冬場とちがって、初夏の大根の収穫はほんの一時のあいだに済ませないといけない。実際は一反ほどの広さの畑なのだけれど、「めいっぱい種をまくと後で苦労するから、半分以下の広さにしておきなさい」という鈴木慶市さんのアドバイスどおり、ひかえめに1/3くらいの広さに種をまくだけにしておいた。

 実際の手順では、@種まきから半月以上前、苦土石灰を入れ、耕す。A種まきから2週間ほど前、堆肥を入れ耕す。B種まきの直前に畝を立てる。C種まき(30cmほどの間隔で5粒づつ点まき)。D種まき後1ヶ月で畝間を中耕、間引き、株間に追肥。E種まき後、2ヶ月で収穫。

 という感じなのだけれど、種まきをしてからの時間というのが、瞬く間にすぎてしまったりする。今回など、中耕のあとの追肥と間引きを忘れていたため、大根が20cm近くの長さになってからあわてて間引くという始末。あまり暑くなく、雨も適当に降ったおかげで順調に育ってくれてよかった。レモン大根やあとひきだいちゃんになってます。

 間引きをしたときには、大根もさほど大きくもなっていなかったし、追肥もしそびれたので、どうせ大きくはならないだろうと1週間ほどほうっておいたのがいけない。どんな具合か見に行ってみると、小さかった大根はあまりに立派に育っていたのだった。おまけに雨もしっかり降った後なので、抜くときにメリッとヒビがはいってしまう。ほんとはもうちょっと早くに収穫しないといけなかった。3〜4日のうちに全部を収穫。全部で300Kgぐらい。もうちょっとしっかり世話をすればもっといい大根を採れたかもしれないけれど、ちょっと感じがつかめた今回だったと思う。

 春から夏にはこまめな世話もいるのだろうけれど、なんといってもいちばんの問題は雑草。草は刈っても刈ってもどんどん伸びてくる。畑の何も植えてないところはときどき管理機で浅く耕して『草かき』をする。これを怠けると畑全体が草に覆われてしまい、秋の作付けのときたいへんな労力ということになる。

 大根の収穫後、なんと慶市さんが13馬力のトラクターを安くゆずってくださった。小型で少々旧型だけれど、今の畑を管理するには十分ぎるほどのたくましさ。今までは1Km以上離れた畑まで車で管理機を運んでいたけれど、これならかっこよく乗っていける(ほんとは登録していないので公道はだめなのだけれど)。

 現代の農業からすると道長の装備は若干時代が遅れているのかもしれないけれど、次の秋冬作にむけてちょっと楽しみなところ。冬に向かっては秋のうちの害虫の心配はあるものの、収穫についてはある程度期間を置くこともできるため、こんどは畑全部に作付けをしてみようかしら。そんなにうまくゆくとは限らないのだけれど、何事も経験なのでがんばります。

307 ネットMD
03/07/16


 時代の波というか、ぼくもMDウォークマンというのを買ってしまった。しかもかなり無理をして。一ヶ月以上もいろいろ考えたあげく。録音ができて、さらにパソコンにつなげて音楽などを高速で取り込みできるという、非常に便利そうな機能が満載というもの。それに、手軽にデジタル音が楽しめるということも。

 というわけで、無理な家計からMDウォークマン録再購入。さっそく名古屋でのパーシー・シュマイザーさん(モンサント社とたたかうカナダの農家)の講演を録音。すばらしい。パソコンを利用してCDの音楽を取り込む。ステレオのレコードプレーヤーからアナログレコードを録音。音質もいいし快適。

 で、録音してきた講演を家に持ち帰って、配布用にいくつかMDにコピーをとろうとやってみる。まずはパソコンに取り込んでから、と思うのだけれど、それがなぜかかうまくいかない。仕方がないので今度は、ウォークマンのイヤホン端子とPCのマイク端子をつないで直接録音(ネットMD用のソフトではそれができないので、ほかのソフトで)。当然これには実際の時間がかかる。やっとのことでPCに録音完了。それではMDウォークマンにコピーを・・・と思うのだけれど、これがまたできない。どこかおかしいのかしらん、と思いながら説明書を見てあきれてしまった。どうやらこの不便さには、著作権の問題がからんでいるらしい。インターネットから取り込んだ音楽などを、デジタルでそのまま何回も複製されたのではたまらないということなのだろう。ということで3回までコピー可。ところがぼくの場合は初めてで、すったもんだするうちにその3回を使い果たしてしまった模様。

 実は、この場におよんで、ぼくがMDウォークマン録再をがんばって買った理由の大部分がくずれてしまったのだった。インターネットから音楽をお金を出して取り込む気などさらさらない。自分で録音した講演や、ラジオの番組、好きなレコードなどを、カセットテープの代わりに、もっと便利に楽しみたいという希望だったのだけれど、これではかえって不便さばかりが目立ってしまう。

 最近、この手の『権利』が氾濫しすぎている。著作権、知的所有権など、無形の所有物を勝手に利用されることから個人や企業を守るという法律なのだけれど、そのために消費者のちがった部分での要求を踏みにじってしまっている。要するに法律的に権利の無いものに対しても『ガード』がかかってしまうというのには、困るし、あきれる。

 インターネットで大切なデータを売る、買う。確かにとても便利なことだとは思う。しかしながら、そんなに重要で大切なデータなど、世の中にどれほどあるというのだろう。だいたい、そんなに大切なデータなら、インターネットで気軽かつ軽はずみな方法で情報を販売、購入などせずに、もっと最善の方法を考えるべきではないか。そのために個人の楽しみが奪われてはたまらない。

 シュマイザーさん、ぼくも被害者なのです。

308 農家資格 W
03/07/30

 農家資格をもっているから農家として認めてもらっていると高をくくっていてはいけない。ということを今回、つくづくと思い知らされてしまったのだった。

 音羽町では、農家資格のためには、最低4反の農地を耕していなくてはいけない。というわけで今年2月、あちらこちらお願いして農地を借り、なんとか『取得』できたのだった。しかしながら、ただ資格があるというだけでは、農地というのは悪意をもってすれば、とんでもないことに転用、転売ということになりかねない。だからちゃんと耕されているかどうかの『現地確認』というのが、役場の産業課でおこなわれる。ということをうっかり忘れていたぼくは、これまた3,4日前配達されてきた、その通知をおとといの夜始めて開いておどろいたのだった。なんと、その『確認』の期日は三日後とのこと。その書面には『注意事項』として、休耕の場合は、草刈をしておいてください。とある。

 道長で丹精込めている畑はその対象とならず、水田がその転作がらみで『現地確認』ということになってしまったというわけ。これはちょっと大変なことになるかも。今年ぼくが借りた該当の田んぼは、おそらくはここ10年間、耕作はおろか、草刈さえされていない荒れ田んぼ。広さ2千平米のその田んぼを、2日間で草刈しなければならない。山付きの田んぼを10年も放っておくとどういうことになるか、推して知るべし。長年の雑草(セイタカアワダチソウ、笹など)が身の丈より高く生い茂り、さらにその中には3本ほどの樹木さえ生えているありさま。堆積した雑草の残骸が田んぼを埋め尽くしているので、どこに畦があるのかさえわからない。うっかり踏み込むと、ずぼっと落ち込む水路。

 そんなことでめげてはいられないので、二日間をかけて2台の草刈機と作業員を繰り出すのだった。責任者のぼくは朝8時から草刈開始。援軍のむすこがやってくるまでの2時間くらいの間で、1/8くらいを何とか消化。その日の昼まで二人で奮闘の結果、やっと全体の1/4くらいを消化できたにすぎなかったのだった。しかもこの田んぼ、奥のほうはぬかるんでいる。今日と明日では、ひょっとすると無理かも、という不安が作業員の心をよぎるのだった。

 この際、鈴木さん(音羽米研究会の)にお願いして、トラクターの草刈機という『手』はないだろうか。ということで、恥を承知で・・。「ぬかるんでおるとトラクターが出られんくなるで、あかんかもしれん」という返事に、仕方なく「あきらめよう」と途方にくれる作業員。とにかく昼飯を食べてからがんばろう、ということに。

 だがしかし、昼食後、田んぼへ行ってみると事態は一気に好転してしまっているのだった。なんと、鈴木さんができるところだけでもトラクターを駆ってくださったのだ。「すごい。はやい。ありがたい」の言葉が、なんの隔たりもなく素直に吐き出される。なんと一気に2/3が済んじゃった。クーッ、感涙。かくして、事態の急変で息を吹き返した作業員たちは、黙々と『歩』の駒を進めるのだった。

 さらにその午後、娘の夫君の連休の一日もお借りし、さらに翌日、二番目の息子も駆り出し、なんとか急場をしのいだのであった。そして今、枯れ草に覆われたその田んぼには、『休耕田』という表示札が掲げられている。


309 母の病気
03/07/30


 ぼくが幼少のころ、母(今でも健在です)は結核をわずらっていて、自宅療養をしていたことがある。時は昭和30年ごろで、ぼくはまだ4歳か5歳であったと思う。

 そんな幼い頃のことなので、なにもおぼえていないはずなのだけれど、なぜか思い出として鮮やかに残っていることがある。母はそんな状態だったので、家で寝たり起きたり。外出といえば、バスを乗り継いで病院へ通うくらい。父は仕事なので会社へ行ってしまう。ただ一人の姉は幼稚園。だからぼくの世話はやむをえず、ひとりの家政婦さんに。

 その家政婦さんの名前は川上さんというのだけれど、ぼくにとっては『ばあちゃん』という呼び名しかなかった。おそらくばあちゃんこと川上さんは、朝やってきて、家事を片付けてからお昼ごろには帰っていったのだと思う。そしてたぶん時間のあるときなぞ、ぼくの相手もしてくれたのだろう。

 あるとき、ぼくは川上さんに手をつながれ、ちかくの小川に出かけた。ブリキの小さなバケツのゆれる音と手のひらに握る感触がぼくの記憶に残っている。その小川には魚もいたのだけれど、それに沿う家々からの生活廃水のおかげで、かなり水も汚く、ヘドロがいっぱい溜っていた。だからめったなことではそこで魚を獲る子供はいなかった。魚獲りのできる水のきれいな小川にはさらに数百メートルは歩かねばならず、ぼくも小さかったし川上さんも忙しかったのだろう、その日も近くのそのどぶ川へ。川の東側は竹やぶがうっそうとしていて気味悪く、川はぬかるんでいるので入ってゆくことなぞできない。にもかかわらず、ぼくはにごった川面の下にいるかもしれない黒い魚影を思い浮かべるのだった。

 そんなぼくの目が、鮮やかに映るあるものに釘付けになってしまった。それはほかならぬ、アメリカザリガニだったのだ。おそらくぼくが一生のうちで見たことのある、もっとも大物でりっぱな赤いハサミを、そのアメリカザリガニは持っていた。にごった水にからだの大半を沈めていたのだろう、ただそのハサミだけが鮮明に見えていた。あの薄暗い場所で、どうしてあんなにあのアメリカザリガニのハサミが鮮やかだったのだろう。今でも理解しにくい。その獲物がぼくのものになったかどうかについては、なぜか記憶にまったくない。そのほかの、川上さんとの出来事については、残念ながら何も覚えていない。

 当時のぼくの母との思い出も、情けないけれどただひとつあるだけ。当時発見されたばかりの結核の特効薬『ストレプトマイシン』の投与を受けるため、母はぼくを連れ病院へ。そこのお医者さんは、なぜか、マッチ棒をいつもくわえて噛んでいた。そのマッチ棒の端はつぶされて、ボロボロに繊維と化していたのだった。マッチ棒を噛んでいるそのお医者さんだけが母との思い出となっている。その通院のバスの中で、母とぼくはどんな会話をしたのだろう。その母の声さえ、ぼくの記憶にはまったくない。

 その新薬のおかげで母は結核を克服することができたのだった。それ以後の母の思いではすこぶる明るく、彼女はいつも笑っていた。おそらく、結核という病魔は母の心と同じく、ぼくのそれをも暗いものにしていたのかもしれない。

 『ばあちゃん』こと川上さんには、その後ぼくが小学校に上がったあと、何度か行き逢ったことがある。川上さんにとってはぼくはかわいく、なつかしくうつったのかもしれない。ぼくも人並みになつかしかったと記憶している。

310 ふだん着で
03/08/08


 背広にネクタイでぱりっときめる、というのも気分も引き締まって、たまにはいいのかもしれない。たまに街に出る機会なぞに、ビジネスマンがそんな姿でさっそうと歩いているのを見るにつけ、なかなかいいものだと思う。

 しかしながら、いざ、スーツなぞまったく無縁な自分がその格好をしなくてはならないというような、いわゆる『かしこまった席』にでなくてはいけないというようなことにでもなると、話は少々ちがってくる。

 ぼくはこのたびいい年になってしまっているものの、若い頃から今にいたるまで、この『かしこまった席』とそうでない席との区分けについては、そのたびごとに悩んできた。大いに悩んだあげく、結局はふだん着と変わらないような服装をえらんでその席に出かけてしまうという結果に。案の定というかやっぱり、来場の諸兄は背広やジャケット風のものを身に着けている。むしろネクタイを着けていない人のほうが少ないくらい。「やっぱり背広ぐらいは着けてきたほうがよかったか」などとその場では反省するも、やはりその次の席でも同じことのくり返しということに。

 そんなぼくは学校を卒業して、ある通信機器を製造販売している会社に入社した。毎日ネクタイに背広姿での通勤。そんな正月年明けの新年会の席。ぼくの上司である課長は、ふだん着でいいからとぼくに言った。そして回覧のお知らせにも『ふだん着』と書いてある。いつも仕事には堅苦しい背広で通勤なので、このときくらいは「気楽にふだん着で会社に来られる」。と内心ほっとしたもの。そして新年会の当日。ぼくはさっそうと綿パンとセーター、ラバーソールの靴によれたコートという気楽ないでたちで会社に向かう地下鉄に乗り換えたのだった。

 地下鉄を降りて会社に向かううち、いつもの見慣れた顔の人たちのいつもと違う服装にぼくは気付くのだった。ふだん着どころか、平日の通勤姿ともちがうではないか。男性社員といえば上下揃いのスーツ(黒だったりして)、女性社員にいたってはあでやかな和装、おしゃれすぎるほどのよそ行き。会社に近づくにつれ、ふだん着で来ているのは唯一ぼく一人なのに気付いてしまうのだった。「だまされた・・」としばらくは考えたぼくなのだけれど、『世間知らず』という言葉が心をよぎる。

 そんな恥ずかしい思いをすれば、次の席からは当然そういうことのないような服装をえらびそうなものを、どういうわけかその段になるとまた、ほんとうのふだん着を持ち出してきてしまう。自分ながらなぜ懲りないんだろう、とそのときは自分の世間知らずにあきれてしまう。

 今年も音羽町の新年恒例会が、正月三日だったかに役場のホールで催された。ぼくは考えあぐねた結果、綿パンにジャケットというよそ行きで。案の定、みな背広姿ばかり。あ〜あ、また今回も・・とほほ、と思うのだけれど、見回せばやっぱりぼくとご同類というやからがちらほら。ああ一安心、一安心。