311 どんぐりの木 03/08/12 |
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道長の作業所の東は竹やぶになっていて、そこに一本の背の高いどんぐりの木がある。たぶんクヌギだろうと思うのだけれど、秋には落葉して丸くて大きなどんぐりの実をならせる。 そのどんぐりの木にはどういう理由で付いてしまったのか(たぶん子供の仕業)、楕円形の傷がある。その傷はたて25cmよこ20cmくらいのもので、樹皮がそれを覆おうとしてもそうしきれないほどの大きなもの。樹皮はその傷を守ろうとして、大きく盛り上がって囲みこむ感じでその傷を陥没させている。毎年梅雨が明けるころから、子供たちが喜びそうな昆虫たちがその陥没をめあてに集まってくる。よほどおいしい樹液をご馳走になれるのだろう。とにかくたくさんやってくる。少々の雨なぞ降っても、樹皮の盛り上がりの下に隠れればしのいでしまえるほど。 ぼくはといえばそのクヌギの木の西側にパイプハウスの骨組みに銀色のシートをかぶせただけの雨よけをつくって、週に一度くらいしか乗らないぼくの愛車を入れている。 久々の大型の台風10号がやってくる。というのでぼくは少々心配になった。このクヌギは東側を竹やぶで守られているとはいえ、はたして今回の台風に耐えられるだろうか。ぼくが心配する理由は、この木がこちらと竹やぶとの境の不安定な土手のうえに立っているからなのだった。さらにその木がこちらに倒れてくると、ぼくの愛車がつぶされてしまうかもしれない。日が沈み、夜の闇となってきている頃、近畿以西では大雨と暴風でそうとう大変なことになっている様。四国と淡路、本州を結ぶ連絡橋も通行止め。名神高速道も帰省ラッシュと重なって40Kmほどの大渋滞。うーむ、これはクヌギの木、危ないかもしれない・・。 というわけで、愛車を安全な場所に置き換え、通勤用の軽のライトバンで暴風雨の中を帰宅。愛車はつぶされることはないものの、ぼくはこのクヌギのことがなぜか心配だった。愛犬キクの犬小屋が近くにあるからでもない(これは位置関係上、構造上心配がなかったから)。ただ、クヌギのことが心配だったのはなぜだろう。 その夜半、台風は吹き荒れ、愛知県の西側をかすめていった。翌朝、まだ暴風雨の荒れ狂う中、やはりクヌギのことが気持ちを離れず、ぼくはいつもより早い時間に道長の作業所に向かったのだった。 あれほど足踏みで進んでいた台風も、その日の午前中には駆け足となり、風雨も急速に弱まっていったのだった。ぼくはほっとした。後で気付いたのだけれど、道長のとなりの空き地(名目は山林となっていて、栗と柿の木が植わっている)に立っていたはずの松の枯れ木が、なんと倒れていたのだった(運良くとなりの民家とは逆の方向に)。ぼくは冷静にぞっとしたもの。 ぼくは一体なぜ心配をしていたのだろうと考えてみた。そのクヌギは背が高く、幹に傷を負っていて、昆虫たちが集っていて、そうとうな年月をそこで過ごしている。幹の傷のほかに、おそらく多くの昆虫や鳥、動物をもそのクヌギは養っているのかもしれない。ひょっとすると、ぼくの心配はそんなところにあったのかもしれない。 |
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312 盆の釣り情報 03/08/27 |
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ほんとうに久しぶりに釣りに行った。しかも同行者あり(以後『師』と記す)。最近忙しくていっしょに釣りなぞ行く機会がなかったけれど、お盆ということもあり、ここで行かなきゃいつ行けるといったところ。 極近場でクロダイと呼べるサイズが出ている、という『師』の甘い口車に乗ったぼくだった。ふだん、こんなところで釣りなんかするか、といいたくなるような三河湾の奥。初めての釣り場に連れて行ってもらいながら、散々のコケ落しをしながら竿出しするぼくなのだった。せっかく釣れてる釣り場に案内してもらっているのに、そこまでケチをつけなさんな、といいたくなるのだろうけれど、それには情けない理由もあるというもの。ようするに、絶対釣れるという場所で釣れなかったときのために今からそれをけなしておけば、なんとか申し訳も立つのかもしれない。と。 久々三河湾の奥なのだけれど、豪雨も手伝って相当な濁りというか汚濁というか。ポイント一帯へ到着し、『師』の現地調達のカニとカラス貝で石組みを探るも気配なし。こういう地方色の濃い釣り場には、たいてい常連の年配者が居ついているもの。情報収集には頼みの綱なので、こちらも愛想良くご機嫌を伺っておく。 ぼくは久々精神の集中度100%で気力充実するも、さっぱり音信がない。『師』もアタリなし。またまた雨も。とかくするうち、気付いてみると、たっぷりあるはずの夕刻の時間も駆け足で過ぎてゆこうとしているではないか。さあさあ、そろそろウキ釣りに変更をしようと気を落ち着け、新たな竿を取り出しておもむろ、仕掛けを作りはじめるぼくなのであった。やはり海はいい、けがれた我が心を夕まずめのたそがれ時にゆだね、海鳥の鳴くを聞く。などと気分を出していると、なんと『師』の竿が大きく曲がっているではないか。はっと我に返るぼくに、『師』のタモ網に納まった40cm弱の黒い魚体が・・。とたんにぼくの平静はどこかに吹っ飛んでしまうのだった。早くしないと時合(じあい)が過ぎてしまう。と思えば思うほどに、仕掛けを作る手元は狂ってしまうこととなる。 やっとのことで仕掛け投入、ウキがただよい案の定アタリ。合わせるとまずまずの手ごたえで、30cmは越えるだろうという感触。・・と思っていると、突然フッと軽くなって・・。鈎が外れてしまったのだった。放心状態のぼくはその直後、今度はリールの糸を絡ませてしまったのだった。もうどうしようもなく、でも頼るのは自分しかいないわけで、でもしっかりとかたわらの『師』をけん制するのであった。あわてるあまり、ポケットライトの乾電池まで『師』に換えさせてしまうありさま。さて、戦線復帰でまたアタリで合わせると、今度はリールがフリーになっている。むなしく糸だけが出、またも取り逃がしてしまったのだった。次のアタリはセイゴの小。また次も。てな具合で、それでも小型のクロダイ2匹を獲ったものの、これで気持ちが治まるはずもなく。 人生に一生の不覚という言葉があるけれど、このときがまさにそれにあたるとばかり、憤懣というか、悔恨というか、怒り、悲しみ、ねたみ、嫉妬を、このときとばかり『師』にぶつけ散らすのであった。 |
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313 孫 03/08/26 |
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ぼくはまだまだ若いと思っていたら、なんと『孫』ができてしまったのだった。しかも9月にはもう一人追加で、いっぺんに2人の孫ということに。これは社会的にいえば、めでたい、でかした、いよいよおじいちゃん。ということになるのかもしれない。しかしながら、さっぱりと実感が湧いてこないというのが本音。 ぼくの、自分の子供が生まれた、それぞれの時期について思い起こしてみると・・。長女が生まれた頃は、大卒で入社間もなくでそれどころでもなかった。次女のときは会社を辞めたあとで、スーパーの仕事を覚えなければとたいへんでそれどころでもなかった。長男の時は、あまりはっきりと覚えていないのだけれど、とにかく何かに夢中でそれどころでもなかったのかも知れない。次男の時も大変だったけれど、産むか否かの選択の結果ということもあったせいか、さすがに可愛いと思った記憶がある。風呂も入れたし、オシメだって替えた。動物園にだって、そして夏には彼らの甥2人も引き受けてキャンプにだって連れて行ったもの。キャンプといえば、愛知と長野の県境の『茶臼山高原』が定番になっていた。そこへ我が子4名と甥っ子2名を連れてゆくものだから、にぎやかでなかなかたいへん。 まず、出発当日、全員の健康状態が『良』というわけにいかない、というのがたいへん。たとえば、甥兄弟の下が熱を出して、どう考えても連れてゆけないことがはっきりしてしまったとき。連れて行ってもらえないことを悟った彼は、ただしくしくと泣きべそをかくだけなのだった。仕方なく彼をおいてキャンプに出かけてしまうのだけれど、家に電話をするたび、しょげている様子を聞くと仕方なく、一日でキャンプを切り上げて帰ったこともあった。 夏のキャンプで、みんなで美しい夜空に繰り広げられる、ペルセウス座の流星群の一大ペイジェントに歓声を上げたこともよくおぼえている。 風呂に4人入れるときも、まず4人を湯船に入れておいて、自分のからだを洗っておき、こんどはぼくが湯船に入りながら、4人を並べておいて順番にシャンプーを頭にふりかけ洗う、からだも同様に洗ってやるという、至極合理的な方法。そんな場合、たいてい誰かひとりは大声で泣いているのだけれど、それもまた楽しかった。 ぼくにとって子供たちとの付き合いは、4人そろって楽しかったという思い出として認識できている。何というか、人生の貴重なひと時を、運命的な関係の一同が楽しく共有していることの喜び、しあわせ。 今度、孫ができたということで、その孫が無条件で可愛いと言い切ることはちょっと難しい気がする。幼い表情、笑い顔が可愛くないといえばうそになるのかもしれないけれど、なぜかぼくにはそういった対面ということよりも、もしかすると、彼だか彼女らと共有する時間という現実のほうがすごく楽しい。だから、ぼくのところへ生まれたばかりの孫を連れて来られても、残念ながら、可愛いという実感が湧いてこない。でも、彼らが少し大きくなってぼくといっしょに遊べるようになったら、きっと楽しいだろうと思う。 |
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314 S B L 03/09/03 |
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『遺伝子組み換え食品を考える中部の会』から愛知県農業総合試験場を訪問した。今回は遺伝子組み換えの話ではなく、環境に負荷をかけない農業のための研究についての座談の場を持たせていただく、というのが趣旨。 農試側からは、今回窓口になっていただいている企画普及部の大矢さんと、環境基盤研究部、そして農業経営課の方計6名の出席。中部の会からは9名。あの遺伝子組み換えイネの反対運動のときに、その研究の室長をしてみえた井沢氏も出席してくださった。 その座談の中でとくに印象深かった話はというと、愛知農試が自信を持って育種開発した『SBL』という品種のイネ。このSBLのSは『縞葉枯病(stripe)』で、BLは『いもち病(blast)』の略とのこと。 愛知県農試でのイネの育種の歴史は大正年間から受け継がれていて、すでに90年の伝統を刻んでいる。その中で一番興味深かったのは、愛知農試でのこの25年あまりの育種のながれについての話。昭和50年代、全国で縞葉枯病が激発した。そのため、縞葉枯病に強い品種をという要求と、さらにいもち病にも抵抗性の高いものを求めての研究が行われた。そのため東南アジアのインディカ種も取り入れての研究が行われた。こういった作業は気の遠くなるような気力と根気、さらに体力のいるものであったといわれる。幾度となく繰り返される交配の作業と、その種子の保存。不要とも思われるたくさんの資料、サンプルをも捨てることなく取って置いた結果として、ある事実が浮かび上がってきたという。それは、縞葉枯病の抵抗性になぜかいつもいもち病の抵抗性も付いてまわる、という事実であったという。その事実から推理し、過去のデータを整理するなかで、次のような仮説が得られた。『S』と『BL』に抵抗性のある遺伝子が、極近い場所でワンセットになっているのではないか、と。 実はその仮説はあたっていて、このSBLの遺伝子を持ったイネを目的のイネ品種に掛け合わせることで、ふたつの病気に強い品種ができてしまうという結果が得られたのだった。 品種の抵抗性にはふたつあり、真性抵抗性とほ場抵抗性。真性抵抗性の場合、ウィルスがその抵抗性を何年かのうちに崩壊してしまうという残念な傾向がある。それに対し、ほ場抵抗性とは、たとえば実際にいもち病にかかってしまったイネが、自身の品種の力でそれを克服できてしまう性質。 愛知農試が作り出した品種というのが、まさにこのほ場抵抗性のSBLだった。今では縞葉枯病はほとんど日本では克服されたものの、いもち病だけは大きな課題となっている。そんな中で、たとえかかってしまっても自力で克服してしまうというのは、世界的にも画期的なものと言えるのだそうだ。 愛知県農試での、イネの育種へのたゆまぬ努力の中に、あのラウンドアップ耐性の遺伝子組み換えイネも選択肢に含まれていたことについて、複雑な気持ちにさえなってしまうのだった。 |
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315 団 子 屋 03/09/10 |
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音羽町の道長の作業所からあまり離れていないところに、800世帯ほどの団地がある。そこには1軒だけ小さなスーパーがあり、この赤坂台団地とその近くの住宅をカバーしている。道長でも毎日の弁当の不足を補うため、また愛犬キクに欠かせない牛乳のため、このスーパーを利用する。 最近その店先で(曜日を決めてなのか)みたらし団子や五平餅などの売り屋さんを見かける。みたらし団子は好きなので、店の前でこの団子屋さんを見ると必ず1パック買うことにしている。 実はぼくもかつて漬物屋を始めたころには、大きな団地の集会所などで曜日を決めて販売をしていた。また、あまり大きくない団地などへは、車に付けた拡声器を鳴らしながら売り歩いたもの。 そのころ自分で作った漬物には僕自身あまり自身もなく、手放しで売れるものでもなかったから、作ったすべてを自分で販売してまわっていた。そんなぼくの漬物を買いに来てくれるお客さんはほんとにありがたく、うれしいものだった。だから、暑かったり、寒かったり、雨降りだったり、大風だったり、はたまた何か他の行事で団地中がそっちに行ってしまっていたりで、お客がまったく来てくれないときなぞみじめな思いをしたものだった。そんな日には我が家の懐具合もさみしく、こんな仕事、もうやめたほうがいいんじゃないか。なぞと堂々巡りの考えをめぐらせてしまうこともあった。目的の団地にゆけば、その界隈の鼻つまみ的存在の『坊や』がぼくの傍に付いてしつこく離れず、ほとほと手を焼いたり、話し好きの奥さんに捕まってしまったりと、いろいろ気苦労もしたものだった。 そんなことを、過去の長い間にわたって経験しているからなのか、この団子屋氏を見かけると『他人事』とは思えない。だから今日もみたらし団子を1パック購入。 考えてみると、商売の基本とは、自分で作ったものを自分で販売するということ。しかも相対で。たくさん売ろうと思えば、たくさん作ってたくさんのお客にそれを売ればよい。でもそれは進めれば進めるほど難しくなる。自分のからだはひとつしかないのだからまったく仕方ない。だから何とかして・・・と思いながら、販売や配達してまわることを止めてゆこうと、今に至ってきた。 そのために、商品の一覧表を作る。消費者団体の担当者の方に宣伝もする。計画をして、今をでなく、先を売る努力をしたりする。仕事場から外に売りに出てゆくということも、めっきりと少なくなってしまった。もしかすると、そんな理由で、せっかく買っていただく、売れるということのありがたさも薄れてしまったりはしていないだろうか。世間では、インターネットでもてがるに商品が売買される。そして半ば、そういった売り買いによって景気が左右されているかのような昨今でもある。 品物の売り買いとは何だろう。社会とは何なのだろう。そういった人と人のつながり合いでそれは動いているのだということを、忘れてはいけないとつくづく思う。 農家資格Y 9/7、人参と紅心大根の種をまいた。最近さっぱり雨が降っていない。今日は孫が生まれて(8月に引き続き今月も)あわただしいのだけれど、水だけはまいてやらなければ。晋示くん(鈴木農生雄さんの息子)に、水やり用のタンクと動力噴霧器を借りようと思ったら、明日なら空いているということで一日我慢。 ところがなんと、今朝目を覚ましてみると雨音がしているではありませんか。おごそかにこみ上げてくる安堵と喜びでほっとしたのだった。『天の恵み』とはまさにこのこと。 日照りの続く空を見ながら、雨の降らないのをなげく農夫に「安心しろ。降らなかった雨なぞない」、と誰かが言う。なるほどそれは道理だな、とも思うけれど、やはり降るときには降ってくれないと本当に困ってしまうのが雨なのだな、とつくづく思うのだった。 少し時期をずらせて、年明けに採る大根の種を捲くつもり(9月下旬に)。 |
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316 メメント 03/09/23 |
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ビデオでアメリカ映画『メメント』というのを見た。なかなか凝った内容。妻を殺された男レニーが、そのショックでそれ以後の記憶を10分以上つなぎとめることができないという『前向性健忘症』というのになってしまう。 事件の現場で、犯人の二人のうち一人は射殺したものの、逃げたはずのもう一人を仇(かたき)として追うことになる。しかし、10分経つと記憶がなくなるという厄介な現実がつきまとうため、レニーはメモを取る。そして手がかりになる肝心な事実については、刺青という手段で。プロの刺青師に入れてもらったり、自分でしたりで、彼の前半身は覚え書きの刺青でいっぱいとなる。忘れてはいけない人物や自分の宿は、ポラロイドで撮った写真にメモ書きすることで覚えておく。 眠りから覚めるたび、あるいは10分経過するたび、レニーは自分の手に書かれた『サミーを忘れるな』という刺青に気付く。そして、自分が殺された妻の仇を探している事実を再確認するのだった。 サミーというのは、レニーがかつて保険の鑑定士をしていたときに知っていたという、やはり『前向性健忘症』の患者。その男は自分の記憶をメモしきれず、糖尿病の妻への注射による投薬を間違え、彼女を死なせてしまうという取り返しのつかないことをしてしまう。にもかかわらず、その事実さえ記憶にない哀れな男。だから自分の手の刺青を見るたび、レニーは反射的にメモと体中の刺青を見なおし、自らの状況を確認しようとする。 物語は、観客をも『前向性健忘症』を疑似体験させるため、ラストシーンから10分刻みで時間をさかのぼるような設定になっていて斬新。10分ごとの細切れの時間は、レニーを利用しようとする犯罪者たちのうそのおかげで、なんともつじつまの合わない展開を提示しては、観客をナゾめいた迷宮に誘い込む。今、画面展開している筋は、過去のどのようなつながりで起こっているのだろうか。と考えるたびに、今の現実がつかめなくなってしまうという寸法。 そのうち、観客は彼が今まで複数の人物をすでに殺していることを知る。その都度、レニーは肝心なことは写真に残しているはずなのだけれど、自分に都合の悪いらしいこと(たとえば殺した場面の写真)は燃やしたりして抹消してしまうこともあるために、始末が悪い。また、記録しなければならないことがあっても、ペンがなかったりしてそれができなかったりすれば、それが残らないことになる。あるいは、せっかく重要な事柄であるのに、本人がそれに気付かなければこれも記録(記憶)として残らない。そういったあやふやな記録の集積が、今現在の彼の行動を結論付けてしまうことになる。 この映画のラスト、つまり物語でいえば最初のくだりに至って、観客は意外な事実に気付かされることになり、それが『落ち』となる。とはいえ、この映画、字幕を追いながらでは理解しにくいところもあり、一度観ただけでは難しかったりする。ぼくももう一度、観てしまった。 違った意味で『リピーター』の多い作品なのかも知れず、なんともはや、「やられた!」という感じ。 |
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317 おもしろい商売 03/09/22 |
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露天商とはちょっと違うのかもしれないけれど、ぼくが小学校の頃、こんな商売もあったのだった。これも子供の心理をまことにたくみに利用した、いわば『詐欺商法』。 ある日、学校の放課の時間などで誰からともなく『耳より』な話がまわってくる。「今日の夕方、八幡様の亀池のところで、なにやらおもしろい商売があるらしい」といううわさ。その実体のわからない『おもしろい商売』という言葉に、男子たるぼくらは、期待で胸を膨らませるのだった。そんなわけで、学校から帰る途中にも、『おもしろい商売』という言葉が頭の中でぐるぐる、右往左往。家へ帰ると母親にわけを言うでもなく、ポケットに今日の小遣い銭をしのばせ、その指定の場所である八幡様の亀池へと、近所の同年男子と。 指定の場所にはもうすでに10人以上の小学生の男子ばかりがたむろしているのだった。そしてそのうちには15人くらいには膨れ上がったのではなかっただろうか。ちょうどその八幡様の亀池というところは、ぼくらの小学校の学区とはちがうところなので、ぼくらはどちらかといえばちょっと遠慮気味に、距離を置いてその群衆のかたわらに身を置くのだった。 しばらくすると、一人の男がなにやらの風呂敷包みを持って現れる。そして、亀池の傍の木陰のちょっと薄暗いところに陣取るのだった。一体何が始まるのだろうと、ぼくらはそれこそ固唾(かたづ)を呑んで見守ることになる。そのうち、男は風呂敷包みのなかの段ボール箱から小さな白い箱を取り出す。その小箱の中には、なにやら筒状の万華鏡のようなものが入っている。それが『さくら』なのかどうかわからないのだけれど、男は一人の男子を指差すと手招きをし、その子を傍らに連れ出す。そしてその次に、そのナゾの男は言葉少なに、本日の商売の核心に触れるのだった。 何とその筒状のものは、何かを透かしてしまうことのできるメガネであったのだ。連れ出された男子にそのメガネが渡され、明るい空の方向にそれを向ける。そしてそのメガネの向こうに男の指がかざされる。「何が見えた?!」という男の問いかけに、男子は「骨みたいなもんが見えた」とつぶやく。15人は超すと思われる男子の群れは、なんともいえぬ低いどよめきをあげてしまうのだった。さらに「女子のスカートも透けて見える」という男の発言にさらなるどよめき。そしてその次に、男の決定的な一言。「いらん奴は帰れ、買う奴はこっちへ来い」とか何とかはき捨てるように言う。とうとう、そのなかの我と思わん男子数人がその男に駆け寄るのだった。小遣いの足らないぼくらはさびしく立ち去る。 しかし、翌日学校へ行っても、昨日の『商売』のうわさはのぼらない。たしか買ったはずの本人に感想を聞いても、なんともあやふやな答えしか返ってこない。そして、なぜかその話はそれっきりとなってしまうのだった。 そのメガネの中にはどうやらトリの羽根が仕込んであったらしく、ただそれがぼんやりと見えただけという、まったくお粗末な詐欺商法であったのだ。 そしてその『おもしろい商売』は、二度とぼくらの前には現れることはなかった。 |
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318 ミッシェルガンエレファント 03/10/01 |
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ロックな青年たちの熱烈な支持をもつザ・ミッシェルガンエレファント(以後TMGEと略)というロックバンドが6年あまりの活動を終え、解散するというので、今ちまたでは話題沸騰といったところだそうだ。 このTMGE、日本のバンドにはめずらしく、パンキーでタイト、陰と陽でいうなら陰で攻撃的なかっこいいバンド。そしてTMGEが根ざすところといえば、まさにブリティッシュパンクロック。このブリティッシュという言葉に対して、アメリカンロックというのがあるけれど、こちらはTMGEの目指すところとは逆といってよい。 TMGEのいでたちというと、60年代英ロックのスリムな上下のスーツにマッシュルームカット(ひとりモヒカンもいますが)で、ちょうどビートルズをイメージするとよい(このスタイルをモッズという)。 英ロックのスタイルをどうこう語っても仕方ないので、TMGEの話に戻すのだけれど、彼らはそのバンド活動の終止符として、『Girl Friend』というラヴ・バラードを出している。その曲の中でこんなことを唄っている。「世界はくだらないから、ぶっとんでいたいのさ。宇宙はくだらないから、ぶっとんでいたいのさ。希望はウソだらけで、ぶっとんで・・。だからぼくはあの娘と、ぶっとんで・・・。悲しみでこの世界は作られているから、ぶっとんで・・・。争いはどうして起こってしまうのだろう。そこに理由はないだろう。殴りたいから殴るだろう。殺したいから殺すんだろう。そこに理由はないだろう。I Love you.アルコール、ドラッグ、ロックンロール、ラヴ&セックス。チルドレン、この子達は守りたい・・・」。 ![]() ある意味、象徴的な言葉が羅列されていて、そのイメージが伝わってくるという感じ。世界も、宇宙も希望も何もかも、世の中にあるものはすべてくだらない。増して世界で引き起こされる意味のない戦い暴力。そして失望し、暴走する子等。子供たちは守ってやりたい・・。 まったくそのとおりで、この世の中は本当にくだらないとぼくも思う。そして歴史的に見て、果たして世の中がすばらしかったことがあるだろうか。少なくともこの地球上の人間の歴史といえば、戦争と殺戮の繰り返しといってよい。「歴史に学べ」とはよく言われることだけれど、歴史が教えてくれるのはなんと人間の愚かしさばかりともいえる。 そんなにくだらない世の中だからといっても、でも人たちはなんとけなげにも、切なくも、しかも必死で生きていたりする。どうせ生きて仕事をするのなら、そんな世の中のために、少しでも人のためになるようになりたい。それを生きがいにしたい・・・などと。TMGEにしたって、こんなくだらない世の中に対してさえ、彼らは歌を作り、曲を作り売り出してきた。そしてそれを買い、聴き、感動し、音楽のよろこびを得、救われたものもあるのかもしれない。 TMGEのどのCDを聴いても、ロックンロールでぶっとんでいるものばかり。最後に送り出したこのラヴ・バラードは、いうならばしたたかな彼らにとっての、いわば粋な『蛍の光』、置きみやげなのかもしれない。 こちらで聴けます |
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319 鈴木慶市さん |
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鈴木さんの家に電話をしてみて、まったくおどろいてしまった。何と彼、今年二度目の災難に見舞われてしまっていたのだった(一度目は今春の帯状疱疹)。こともあろうに、納屋の高いところに荷物を上げようとしたところ、はしご段で滑ってしまって転落。手術で金具を入れるほどの骨折をしてしまったとのこと。それもすでに2週間ほども前のこと。この時期、農家はどこも大忙しなので、その情報がぼくのところには届かなかったのかもしれない。 すっかりおどろいてしまったぼくは、翌日さっそく病院へ駆けつけたのだった。はからずも、その病院の情報もどう間違っていたのか、豊橋市民病院であるはずが、豊川市民病院とぼくに伝えられたため、ぼくは豊川へ行って入院してもいない鈴木さんを探してしまったのだった(『川』と『橋』の違いは大きかった。聞き違い?う〜ん・・)。 そんな失敗談を書いていても仕方ないので慶市さんの話に戻すとして、彼は今年で77歳でぼくの母親と同じ歳。さぞ怪我でやつれてしまっていることだろう、と案じながら彼の病室にたどり着いてみると、なんとベッドはもぬけの殻になっている。看護婦さんに「818号の鈴木さんはどちらでしょう」とたずねてみる。彼女はちょっと困り顔をしながら「じっとしてないもんねえ。リハビリか下の売店か、そこらの廊下か、デイルーム(面会室)じゃないかしら」だって。一番近いデイルームへ行ってみると、居たいた、車椅子でテレビを見ていました。 耳も少し遠いので、けっこう大声で呼びかける。こちらを振り向いた鈴木さんの顔は、以外にも元気そうだった。はしごから落ちて、根元近くでボッキリ折れてしまった大腿骨を金具でつなぎ合わせたとのこと。そのほか、腕を3ハリ縫った他には怪我はない。腰まわりを痛めることがなかったのが、不幸中の幸いとでもいうのだろうか。
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320 お 祭 り 03/10/15 |
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秋といえば各地、お祭りのシーズン到来ということになる。岡崎にあるぼくの家の町内でも、去る日曜日、お祭りがあった。そしてお祭りといえば、おみこし、爆竹花火、露店とごちそうというのが子供たちの何よりの楽しみといえるのだった。・・とぼくは思っているのだけれど、昨今の現実はそうでもないのかもしれない。 お祭りの当日、神社の近くを通ると2〜3人の大人に付き添われたおみこしが練り歩いている。ハッピ姿に豆絞りの手ぬぐいの鉢巻、爆竹。うーんお祭りなのだな・・。と感慨にふけろうとすると、変な光景が目に留まる。「わっしょいわっしょい」の掛け声がないと思ったら、なんとおみこしはリヤカーの上に載せられているではありませんか。本来おみこしは7〜8人の子等に持ち上げられるか担がれ、わっしょわっしょの掛け声とともに波打って往来を進んで行くものなのだろうけれど、今回のおみこしは音もなくすーっと、地面と平行線を描くかのように進んでゆくのでした。しかもそのリヤカーを引いているのも、おとなだったりもして。子供たちは手持ち無沙汰な風で、それに付き添う感じ。 今から15年以上前、家の子供たちが小さかった頃には、ぼくも子供会の役をしたもの。その頃でさえ、子供たちの興味をお祭りに向けさせる工夫をいろいろとしていたことを思い出す。子供一人一人にお菓子の詰合せや、何百円のお駄賃を与えてみたりしては、社務所に子供たちを誘ったもの。なのにせっかく送り出したおみこしは10分も経つと帰ってきてしまうというありさま。なんとなくさびしげな目の前のおみこしの行脚に、同情さえ覚えてしまうのだった。 さらに時代をぼくが子供のころに戻せば、お祭りの様相は現在とはてんで違っていた。『年に一度の』という行事のうちでお祭りはベストいくつかに入っただろう。もう一ヶ月も前から指折り待ち遠しかったもの。お祭りの露店なぞ、準備のうちから品定めにまわったり、おみこしなぞ、午後一度社務所を出れば、夕方暗くなるまで帰らなかったし、行ってはいけないというよその町内にまで遠征もした。その道中での悪さというか悪戯は数多(あまた)。日ごろ吠えつけられては恐々通りすぎる家の、猛犬の犬小屋に爆竹を放り込んでみたりするのは、すこぶるおもしろかった。お祭りを堺にその猛犬君、ぼくらが前を通り過ぎるたびひっそりとしてしまうのだった。
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