321 10年目
03/10/23
 思い起こしてみると、ぼくたちがここ音羽に作業所を移転してきたのは94年の初夏だった。なんともう9年が過ぎたことになる。思い起こしてみるのだけれど、この間、けっこういろんなことがあったのだろう。それなのに今にして思えば、そんなにたいしたことなど何もなかったような気さえしてしまうもの。光陰矢のごとしというけれど、まったくそのとおりでつくづく実感もしてしまう。時間の経過は年齢を増すとともに、とりたててデータのない部分は削除されるのか、はたまた圧縮でもされてしまうのか、量的に考えてもたいしたものでもないような・・。

 ともあれ、この10年近くの間にたしかに、いろいろなことがあったはず。そのときそのとき、けっこう喜怒哀楽の度合いでいえば大きかったと思う。けれど、それらがこんなに早くに過ぎてしまうなんて、やっぱり思いもよらなかった。あれから10才、歳をとったことにもなる。
 ぼくらが音羽町へ移ってきたとき、そこにひとりの頼もしい人物がいた。名前を鈴木農生雄といい、生来のその名はまさに農に生まれた雄。まさに農ひとすじの鈴木さんは、この地域のキーパーソンで、音羽町の農業を一人でしょって立っているといってもよいほど。

 さらにもう一人の鈴木さんが。こちらは慶市さんという方で、道長で使う野菜を作ってくださる方との出会いもあった。高齢にもかかわらず、道長のために減農薬につとめ、生ゴミのたい肥化の実験のための『生ゴミ生かそう会』さえも、ぼくといっしょに付き合っていただいている。とにかくやることが早くて実利的。ほんとにお世話になってきた。

 もちろんほかにもたくさんの人たちとのお付き合いをさせていただいてきたけれど、よく考えるとそのすべての人たちが『農』で生活をしている人ばかり。それほどに、音羽町でのぼくの月日は『農』との関わりなくして一日も暮れなかったといえる。

 立場を逆にしてみれば(二人の鈴木さんやその他の『農』的な人たちからぼくを見れば)、「道長さんのやってることは、まどろっこしいというか、もっとなんとかならないか」「もっともうけることを考えなくちゃ」というところであったのかもしれない。おそらくは、けっこう遠回りもしているのだと思う。

 でも最近ではもうけることを考えているわけです。それも地域で『農』が大いに盛り上がって、いろんな可能性を実現しながら、生計も立ってしまうといい。さらにそういった『農』の魅力に若い世代の参加も実現してしまいたい。そんなにたくさんの人たちを受け入れられるものでもないのだろうけれど、こんなこともできる、してみたいという試みが日常となればいい、と真剣に考えている。

 そして、そういった活動の積み重ねが、この音羽町を包んでいる緑の環境を守り、育てることにも、直接貢献することになるのだったら、これほどの意義ある人生もないのではないか、とまたも夢を見てしまう。

322 農家資格 7
03/10/29


 種まきをしてから、もう1ヶ月以上過ぎた。今年の冬作は、鈴木慶市さんの骨折事故のおかげで、彼の作付け分も道長が見なければならず、けっこうたいへんな毎日となっている。道長の畑と併せて2反強。なにがたいへんなのかといえば、まず仕事の合間を見て除草、間引きなど。

 草刈などはエンジン草刈機で刈ればいいし、畝の間の除草は管理機で軽く耕してやればよいのだけれど、たいへんなのは間引きと、畝の除草。畝の除草は横着鎌で削ぐような感じでする。これがなかなか重労働。おなじ姿勢で、それも前傾姿勢で横着鎌を振り続けるというのは、とにかく疲れる。

 さらに間引き作業。これは長々のしゃがみ仕事はたいへんなので、商品名『コロまる』という極太の車輪のついた腰掛にお尻を乗せて畑を動き回る。こどもののりものみたいで、なんだこんなもんと思ってしまうのだけれど、これがなかなかのすぐれもの。むかしの百姓もこれがあったら、腰なぞ曲らなくてすんだのかもしれない。

 とにかく、そのような作業を延々と行うわけなのだけれど、これをただ続けるということでは、その日のうちに確実に仕事を完了するというわけにはいかない。つまり、何列ある畝のあそこまで今日中に終わらせよう、というつよい決意が必要となる。そしてさらに、とにかく完結させるんだという気持ちも。

 ところが、ぼくのかみさんともなると少々はなしがちがってくるからいけない。世の中には、ぼくのような考え方のタイプともうひとつ、「とにかくひとつひとつやってゆけば、いつかは作業は終わるだろうタイプ」というのがある。これにはひとつひとつの作業に決められたペースというのがなく、ただひたすらその作業に『没念』し、いわば『無我の境地』に陥っていってしまうというタイプ。これは精神学的に解釈すれば、心の健康には大いに寄与するところ大なのだろうけれど、『没念』するあまり、心が現実からおおきくそれた、どこか遠くのかなた(俗に言う『西方弥陀の彼方』というところ)にいってしまう可能性があったりもする。この場合、本人は現実と時間という意識から逸脱してしまっているため、我に返ったときには辺りが薄暮となっていたり、雨が降り出していたりと始末に終えない。

 その日の労働の結果として、やるだけやって今日は満足というのにはそれはそれなりにいいのだけれど、「えっ、これだけしか終わってないの!?」といいたくなるような仕事量であったりもする。

 そんなだもんだから、ぼくとかみさんが同じ間引き作業をする場合、ぼくはとにかく早く済ませようと先を急ぐ代わり、かみさんのあまりにもマイペースぶりに地団駄ふんでしまうという始末。

 このふたつの仕事の成果として各々次のようなメリットが掲げられる。ひとつは仕事量はともかく、労働によって精神の清廉ができたという安堵感。そしてもうひとつは、ちゃんと仕事を終わったという満足感と、ずどんとくる圧倒的な疲労感。いまさら選択の余地などないのだろうけれど、一体どっちがいいんだろう。

323 
03/11/11

 天候不順で真夏が秋にずれ込んだおかげで、もう11月にもなるのになんとなく冬のおとずれを実感できずにいる。けれど秋は着々と深まってきている。この間までは道長のセキュリティー担当、番犬キクのからだから抜ける毛が最近は硬い『夏毛』になってきた。代わりに冬毛を蓄えているのだろう。秋の装いは山に里に海にもやってきている。

 山では、夏の終わりに花を咲かせた木々が、自らの子孫を得るには十分すぎるほどにたわわな木の実を実らせ、落とし、多くの動物たちの越冬のための食欲を満たす。さらに自らの冬越しのため、紅葉そして落葉。

 海では、秋分彼岸の大潮を合図にその活発な干満の潮流に乗り、魚たちは沖の暗く穏やかな深場へと住処を替える。早まる日没、水温の低下。夏場、あれだけにぎわっていた磯際や防波堤の釣り人の影も、その数を減らしてゆく。

 里では、色づいた稲が収穫され、あんなに美しかった緑のじゅうたんは瞬く間に殺風景な土の地肌をむき出しにしている。コスモス咲き乱れ、燃える夕日にアカネ雲。それに行き交う赤とんぼの群れ。

 秋に共通した色といえば、なんといっても『赤』。赤色といえばいうまでもなく興奮色、燃え立つほのおの色。そんな風景の中、いつの間にか向きを変えた季節風は、今度はその赤色のほのおをまさに吹き消そうと山里海を駆け巡る。やがて景色から赤色が消え去ると、本格的な冬がやってくるというわけ。

 そうそう、山里海のほかにもうひとつ忘れていました。『街』というのがありました。世界は四季とともに移り変わっているのだから、当然『街』にも四季があるし『秋』はやってくる。

 さて、街の中で四季のサインを送ってくれるものにはなにがあるだろう。と考えてみると、街には秋を感ずる材料がなんとすくないことでしょう。落葉する街路樹、夕日の赤色・・。コンクリートのビルの中から秋を実感することは、やはり難しいのかもしれない。

 季節感のない昼食を食べ、百貨店の食品売り場も季節を先取りしためずらし物ばかり。街頭のファーストフードは年中同じようなものばかり。ビジネスマンたちがあつかうニュースのおおかたは、季節と同調してはいてもやはり先取りしたものか、または季節感とはほど遠く。それほどに、街では時間が先行するあまり、季節はおくれて訪れているのかも。心の健康はだいじょうぶ?

 だけれども、です。どんな環境に身を置いても、人というものは力いっぱい季節を感じようとしている。朝の通勤のときの肌寒さ、息の白さ。車窓からの風景。ふっと足元に落ちている紅葉。真っ赤な夕日、虫の声。そんなものを感じて、「秋だな」「秋ですね」と呟く。やっぱり『街』でも人は季節を感じている。そしてほっとしたりもしている。

 それにしたって里にいるぼくらは、なんて大きな感動を秋からもらっていることだろう。燃え立つ山、夕日。そして秋の息吹きが運んでくる、秋のかおり。ああ、ぼくは今秋につつまれている。そして、ここが街でなくてよかったと、つくづく思う。

324 リンディスファーン
03/11/12

 英国のポピュラー音楽の歴史といっては大げさだけれど、ラジオやレコードといった音を発することのできる媒体が全盛となった頃から、このジャンルの音楽の歴史がはじまったともいえる。その歴史の中で英国という国には、その狭さに反して、いかに多くのアーティストたちがいることだろう。

 そんな中で、海外(英国にとって)ではほとんど名前の挙がらない人物のなかで、アラン・ハルという人がいる。71年、『リンディスファーン』というフォークロックバンドでデビューしたというのだけれど、そのバンドの音楽を耳にできたのはほんの最近のこと。ぼくがこのアラン・ハルという人を知ったのは、素性のわからない77年発売の『ラジエター』というバンドのレコードだった。そのバンドの中古盤を85年頃手に入れたのだけれど、その当時、ぼくはその地味な演奏のロックンロールに、たいした感動も示さず聴いたもの。そんなレコードなのに、なぜかまた聴いてしまう。また聴いてしまう。そしてまた・・。と、そのうちにぼくの愛聴盤となってしまったのだった。

 最近、『リンディスファーン』の復刻CDが発売されたので、待ってましたとばかりインターネットで注文してしまった。商品到着でさっそく聴いてみる。思ったとおりのアイリッシュの牧歌的なフォークで、覚えやすくポップでリズムのしっかりしたもの。そのメロディーのなかにありました、ありました、アラン・ハルの歌声。それがちょっとあぶなっかしい感じで、その唄い方を『英国で情けない歌声ベスト3に入るひと』と表現した人もいるほど。でも、なぜかひきつけられてしまう。

 英国でのデビュー『Nicely out of Tune』と2ndアルバムをヒットチャートで飾り、日本公演も2回したほど(ぼくはぜんぜん知りませんが)のリンディスファーンなのだけれど、その後ぜんぜん目立たない存在となったらしい。にもかかわらず、今日まで演奏活動を続けていて、40枚以上ものアルバムを出しているとのこと。そしてインターネット上では公式サイトも作られていて、ぼくはその186696番目の訪問者なのだそうです。きっと地元ではなくてはならないほどの存在感のあるバンドなのだろう。最近のライヴでのビデオクリップまで観ることができ、そのかくしゃくとした力強い演奏に、ぼくの目と耳と心は釘付けになってしまった。

 とはいえ、もうそこにはあのちょっと情けない歌声のアラン・ハルの姿は見つけられないのでした。彼についての頁に、『95年11月17日心臓発作で死去』と書かれていた。とても残念で仕方がない。

 世の中に、ロック、クラシック、ジャズ・・・とあるけれど、フォークはその中でももっとも根源的な部分の音楽なんだろうと思う。とくに彼らが歌うアイルランドの民謡をベースにしたフォークは、まさに普遍的なもの。民族の心というか、血というか、生活というものがそこにある限り、フォーク音楽はそこにあり、行き続ける。リンディスファーンというバンドの活動も、音楽をこよなく愛する人たちがいる限り終わることはないのだろう。

 公式ウェブサイトは http://www.lindisfarne.de/ です。ごらんください。

325 死 別
03/11/19


 道長の野菜を作っていただいている鈴木慶市さんについては、さらにその先にきびしい現実が待っていたのでした。10月初旬、彼が豊橋市民病院を退院したその次の日、やはりその病院に病気のため入院していたという彼の息子さん(次男)が亡くなってしまったのでした。

 彼の息子さんが入院してしていること自体何も知らないぼくは、慶市さんが退院予定の日、家に戻ってきてめでたしとばかり思っていたのに、なんということなのでしょう。人づてに知り、すでに葬儀が済み、肉親だけでひっそりとした息子さんの家を訪ねたぼくに、それでも気丈な彼は松葉杖で直立し応対をしたのだった。「道長さん・・・。わしが退院してきたときはまだ元気そうで、もう少しもってくれると思っていたのに」とぽつりとぼくに言うのだった。その彼に対面するぼくも、もう言葉に詰まってしまい、ただ気の毒な老人に頭を下げることしかできないというありさま。こういったときほんとうに情けないのは、ただただその現実を受け入れることしかできないこと。そして受けてしまった深い痛手が癒えるまで、時の経つのを待たなければならない。

 それにしても、なんということだろう。76歳の今年、慶市さんには『帯状疱疹』『重症骨折』『死別』と苦難の連続。それがまさに一難去ってまた一難という感じで彼を襲ったのだった。

 ぼくには、肉親との死別はまだ一回しかなく、それは父とのもの。ぼくの父は76才で肺がんで逝った。悲しみもあったのだろうけれど、さびしさというか、頼るものがなくなったというか、大きな空虚ができてしまったような。

 葬儀からあまり経っていないある日、ぼくの父が後ろを向いて座っている姿を、ふっと見たような気がしたようなことがあった。その時、彼がどんな顔をしていたのか、何を考えていたのか、まったく想像のできない後姿だった。ただ無言で後ろ向きに座っている。もしかするとそれがぼくの父親像であったのかもしれないけれど、そういったような存在感であったのかもしれない。そのとき、ぼくは嗚咽した。

 これはぼくには経験のないことで最も経験したくないことだけれど、もし、慶市さんと同じようなことになってしまったとしたら、一体ぼくはどんな我が子をふっと見つけることになるのだろう。たぶんそれはあまりに悲しく、耐えがたい情景となってしまうのだろう。

 『子』にとって『親』というのは、『心』の一部なのだろうか。そして『親』にとって『子』というのは、一部なのではなくて、おそらく大部分なのかもしれない。もしかすると母親などにとっては、心の一部をこえて大部分の肉体にまで及んでしまうのかもしれない。

 肉親の中で、もうひとつ忘れてはいけない関係というのがあることを忘れてはいけない。それは夫婦のそれ。一体どうなんでしょう。考えてみてください。ぼくも考えてみます。

326 
03/11/26


 ぼくは毎日『道』を伝って移動をしている。だから目的地についてしまえば、その道のその先のことについてなぞ、どうでもよかったりする。しかしながら、道が何かの理由で険しかったり、長かったりすると、その意味合いはちょっと変わってくる。ふだんとはちがったそのような『道』をたどっているとき、「この道はいったいどこまで続いているんだろう、とか、この道は陸続きのところならどこまでも続いているわけだし、またここへ戻ってくることもできる、などと、さまざま考えたりする。

 19歳の夏だったか、ぼくはアルバイトをして自転車を買い、7日間の自転車旅行をしたことがあった。コースは岡崎‐名古屋‐大垣‐米原‐敦賀‐越前‐羽咋‐能登‐富山‐高山‐瀬戸‐岡崎。

 楽になるべく走りやすい道を選ぶ、ということになるとどうしても幹線道路ということになるのだけれど、そうすると車の往来が多く排気ガスと安全性に大きな不安があったりする。路側帯とよばれる白線の内側は狭すぎたり、小石が落ちていたりで走りにくい。かといってそれをはみ出すと後ろからクラクションが鳴る。車で走ればなんともないようなゆるくて長い上り坂、峠の山越えなどがなんと辛いことであったことか。

 それでも、それを越えればいずれ下り坂となり、今度はすがすがしい風を満喫しながら走ることができる。青い空、日本海の水平線、夏の太陽がパノラマ。気分は最高。若いぼくも『旅』は人生と同じなんだろうな、などとつくづく納得もしてみたりして。

 そんな道中、いつも感じるというか考えることがあった。それは、この道はいったいどこまでつながっているんだろう、ということ。地図を頼りにそこを右に曲って目的地をめざすのだけれど、まっすぐ行ったらどこに通じているんだろう。今の三叉路で左に進んだのは正しかったんだろうか。などと、走りながら『道』というものの存在を感じ続けている自分があったように記憶している。

 道に沿っては家があり、建物がある。そしてそこを通行する人がいる、のりものがいる。『旅』というのは人の作った『道』をたどって行脚するもの。そのためにペダルを踏み、地図を見、行くという孤独な行為は、まぎれもなく、日常、社会からの脱却といえるかもしれない。ひとり気ままな旅の空、などというせりふが『○×三度笠』なんていうような流行歌にあったかもしれないけれど、そんな状況の自分がこの上もなく自由であるかのようにも思えたりもする。

 でも、ひとたび道に迷えば、人に尋ねる。昼食をとる、飲み物を買う。そして今日の宿。結局、だれかのお世話にならなくてはいけない。そして、そのあたたかさに感激をする。また、反対に傷もつく。

 ぼくらは、ときには一人で、ときには連れ合って旅をしている。その限りにおいては必ずどこかへ帰り着くわけだけれど、その間、なんと多くの人たちと関わることだろう。ぼくらは道しるべなしに旅はできない。旅路の途中には、何かがあってくれなくてはいけない。道も何もなく、ただ進むだけというなら、だれも旅などしない。だからぼくらは旅路で何かを期待できるのだし、進む意味もあるのだろう。たとえ、その帰り着く終点が『あの世』であっても、ぼくらは、楽しく、さびしく、苦しく、悲しく、そしてうれしくて、この道をひたすら行くんだと思う。

327 セロ弾きのゴーシュ
03/12/03


 宮沢賢治は1896年岩手県花巻に生まれている。死後見つけられた詩『雨ニモマケズ』にもあらわされている彼の精神は、多くのひとたちの心にうったえ続けている。

 宮沢賢治の作品の中に『セロ弾きのゴーシュ』というのがある。ベートーベンの第6交響曲のリハーサルで散々文句を言われ、自らの才能のなさに落胆しながらも、必死で練習を重ねる貧乏なセロ弾きのゴーシュ。そんな彼が身の回りの動物たちに励まされながら実力をあげ、とうとう演奏会では賞賛されるまでになるという話。

 この物語に最初に登場する動物は『三毛猫』。シューマンの『トロイメライ』を演奏してくれとの要望に、むしゃくさする彼は『印度の虎狩』という激しい曲(実際には作曲されていない)でいじめてしまう。三毛猫はのた打ち回り、ほうほうの体で逃げてゆく。

 次の日の夜登場は『カッコウ』。「カッコウと鳴いているだけのようだが、実は微妙なのだ。だから正しいドレミを教えてくれ。」と「カッコウ」という何度も同じ表現の繰り返しを要求。その演奏につれてのカッコウの真剣な練習。明け方までの同じことの繰り返しに、とうとうこのカッコウも追い返してしまう。

 三夜目が『子狸』。腹ヅツミの小太鼓の練習をつけてくれと、セロの演奏をせがむ。仕方なくそれに応じるゴーシュに、挙句の果てにはリズムがおかしいから直らないかと注文をつけられてしまう始末。今夜も夜明けまで。

 四夜目が『野ネズミ』の親子。今度は子ネズミが病気だというので、セロの演奏でそれを治してくれという注文。その親ネズミが言うには、なんと多くの動物たちが縁の下に潜んでは、セロの演奏で治療をしているというのだった。

 連夜そんなようなわけのわからない特訓を重ねるうち演奏会の当日は訪れ、『第六交響曲田園』は演奏される。これが観客の絶賛を受けることになり、とうとうアンコールがゴーシュに充てられてしまう。バカにされたと思いながらも、腹を決めてあの『印度の虎狩』を演奏。なんとその演奏に賛美が集まるのだった。

 一人住まいの小屋に帰りゴーシュは、あの夜明け、カッコウの飛び去った空をみながら「ああかっこう。あのときはすまなかったなあ。おれはおこったんじゃなかったんだ」と言うのだった。

 ゴーシュを訪れる動物たちのそれぞれの目的というのは、けっこう比喩的なものといえる。三毛猫の場合は意に反して激しい曲となったけれど、とにかく攻撃的な心の表現。カッコウでは、その微妙な音程による表現。子狸ではリズムを。そして、これはちょっと複雑だけれども、野ネズミの親子には生の音楽の音の迫力というか、へき易というか、たまらない音響の渦、はたまた心をいやす妙なる響き・・を。

 そういった、音楽のさまざまな面、要素についてひとりの未熟な音楽家が、ただ生きるためにだけの動物たちから教えられ学ぶ。その対象はなぜか『人』ではなくて、『動物』であるところに意味もあるのかもしれない。

 では、動物たちはなぜゴーシュを訪れたのだろう。それはまず、ゴーシュの家からセロの音が流れていたからに他ならない。そしてその音にはメロディーが付いており、リズムも。それは決してすばらしいものではなかったのかもしれないけれど、それが音楽であったことに意味があるのだと思う。動物たちはいろんな目的で、でも共通していえることは、ゴーシュと音楽という行為を通して、同じ時を共有することの喜びこそがあったのではないだろうか。

 賢治は1933年(昭8)死去。『セロ弾きのゴーシュ』は後に見つかった未発表の作品で、晩年のものとされている。音楽を愛した賢治ならではの作品なのに、どうして発表しなかったのだろう。

328 絵 日 記
03/12/16


 いろいろと人生に未経験の子供たちにとって、おとなたちにはあたりまえな近未来、日常でさえ、好奇心にとんだめくるめく毎日であったりもする。たんすの奥などから出てくるいにしえの『絵日記』などを紐解くにつれ、ぼくが子供のころのそんな毎日というものも知る手がかりもあるのかもしれない。

 もう40年以上経ってしまっているのに、なぜか家にはぼくの小学校低学年のころの絵日記が残っている。もしかすると、「文章や絵がうまくなるかもしれない」なぞという、どうせ当たりもしないであろう親の期待というか欲目からか、このぼくに絵日記をかかせたものなのかもしれない。たぶん「今日はもうかいたのか」という催促に、仕方なくしたためたであろう肝心の絵日記の内容は、といえば、今見返しても情けない。

 ぼくのそのころの絵日記の普遍的なテーマといえば、大方は『食べ物』ということになってしまっている。そして文面も単純なもので、その一例をあげてみると「きょうはおまつりでした。カレーライスをたべました。とてもおいしかったです。」とこれだけ。あとは文章から判断して『カレーライス』とわかるクレヨンで描(掻?)いた絵。そのほかには、茶色で四角く描きなぐったような絵といっしょに、「きょうはチョコレートを・・・」。どうやらこの絵日記、担任の先生に提出いていたらしく、赤ペンで一重マルや二重マルが付いている。

 とはいえ、よほど楽しかったのだろう、家族で旅行や海水浴に行った日の絵日記となるとちょっと様子がちがってくる。なにやら、それらしい状態を想像させるような絵。いつもよりちょっと入念に描かれていたりする。とはいってもたいして長くはない文章と、やっぱりここでも『カキ氷』を食べたというエピソードが綴られていたりする。ほかにいろいろ楽しいことやなんかもあったと思うのだけれど、たいてい話題は『食べた』に尽きるところが情けない。

 と、ここまで思い返してみると、絵日記に残されているぼくの日常とは大して『めくるめく』でもなかったんじゃなかろうかという疑問さえ感じてしまう。ほんとうにそうだったんだろうか。

 実はぼくにも幼少のころの断片的ではあるけれど、思い出がある。そしてそれらのことというか、情景、状況といったものが以外に鮮明に心のどこかに残っていたりするもの。これは不思議なのだけれど、それらの思い出の中で『食べた』というものは以外に少ない。さらに、絵日記にあるような思い出の断片は跡形もないともいえてしまう。

 その理由は案外単純なのかもしれない。つまり、幼少のぼくにはそのころのぼくの心理を分析しきれていなかったんじゃないか。表現のできない事柄を記すことは、ぼくには難しすぎたのかもしれない。近所の子供たちとの遊びで、ぼくだけ仲間はずれにされたこと。母親だったかが訳もわからず泣いていたこと。などなどのことがまったく絵日記には記されていない。

 ぼくらの身辺の子供たちもそうなのだとしたら、言葉や文章に表されることのない、そんなかれらの繊細で複雑なめくるめく日常を理解していてやらなければ、とあらためて思う。

329 ひとり遊び


 昭和35年ころ、つまりぼくが10才前後の頃では、学校から帰って家の中であそぶものもないしそこにいては邪魔なので、家内のものはきまって「外へ行っといで」というのだった。だから家へ帰ると、母からもらう涙銭ともいうべき小遣いを握って、蝿帳にある腹の足しになりそうなものをほお張りながら、追い出されるように遊びに出たもの。

 子供たちの遊びといえば、その季節にあったいろいろな創意工夫に富んだものがあったものだと、今になって思い返しても感心させられる。冬ともなれば、寒さを吹き飛ばすためのスポーツ色のつよいものが主なもの。あたりまえな遊びとしてソフトボール、ドッジボール。凧揚げや勢いよくまわした独楽をブリキのふたに載せておこなう、独楽オニ(道長だよりバクナンバーの237参照)など。そんな中、極々地味な遊びがあった。

 その遊びの呼び名は『くすげ』といって、五寸クギを地面に投げて突き立ててするゲームだった。例えばふたりでこの遊びをする場合、一本の短い棒線を地面に書いておきその両端からお互いのゲームを開始する。最初のものはクギを地面に突き立て突き立て、相手を渦巻状に幾重にも取り囲んでゆく。クギが立たずに倒れたら、交代してそれを抜け出し、反対に取り囲んでゆく。線の上を突き立てたとき、相手は出口を失うことになるため、勝負ありということになるのだった。使用する道具が先端の尖ったクギということもあり、なかなかスリルのある遊び。

 どの遊び、ゲームの場合もそうなのだけれど、上手なものとそうでないものとの腕の差は歴然で、ぼくなぞ、このあそびでもあれよあれよという間に幾重にも囲まれてしまい、どうしようもない閉鎖的状況に陥ってしまうのだった。

 そんなわけで、この手の遊びをする場合には、相手を選ばなくてはいけないということになる。さもなくば、ひとりでする。この場合、仮想の相手と自分自身という想定ではじめるのだけれど、自分と同様に上手でない彼のために、取り囲む線の幅は広めにとって差し上げるのだった。ぼくの失敗で番となった相手役のもう一人のぼくはそれを挽回すべく、ゆるやかな幅の活路を出口へと向かう。さらには、わざと失敗してあげたりもする。

 そんな小細工をしながら仮想の相手に闘志を燃やすつもりなのだけれど、所詮はひとり遊び。だんだんと言い知れず、わびしさというかさびしさがぼくを取り囲む空間に満ちてしまうのだった。

 どんなゲームも二人以上でするのがあたりまえなのだけれど、最悪、ひとりでもできないということはない。それなのにいざひとりではじめてみれば、たのしくもなんともないことに今度もまた気づいてしまう。

 そんなような季節のなかで、思い出したように流行ってはしばらくすると次の遊びに移ってゆく他愛のないぼくらの遊びなのだった。そしてそのときどきには、その遊びだけが子供たちの間であきることなく繰り返される。だから苦手だから、とか下手だからとかいう理由でほかの遊びをするわけにはいかない。家の中であそぶのはもっとさびしい。

 いじらしくも、子供たちの世界にも付き合いというものがあり、そのどうしようもない掟のために、冬のある時期、ぼくはあぶなっかしくも、コンクリートで先を尖らせた五寸クギをポケットに忍ばせて学校へ向かうのだった。

330 I S F
03/12/24


 A町の郵便配達夫をしている黒須三太氏は、クリスマスが近づくとわくわくそわそわするのだった。というのも、国際サンタ基金(ISF)のA町支部の会員である彼は、毎年今頃になると郵便配達の町内に住んでいる子供たちに、クリスマスプレゼントを配ってあげるという、ひと昔前なら美談にでもなりそうな役をかってでているからなのだ。

 かつては世界中にくまなくあったISF支部も、今では歯抜けだらけで、黒須氏の住むA町では会員彼一人。町全体の子供たちにもプレゼントをとも思うのだけれど、一年間で貯えた黒須氏のポケットマネーではそれもならない。それに郵便配達をしている町内をはずれてしまうと、それぞれの家族構成や家庭事情なぞわかるはずもないのでした。やはりプレゼントを配ってあげられるのは、せまいいつもの町内だけということになってしまいます。

 かといって、町内のすべての子供にプレゼントというわけにもいきません。それほど黒須氏は裕福ではないからでした。だから彼なりの条件をつけています。プレゼントをあげるのは3人以上の子供の家。家庭の事情でプレゼントがもらえない子供の家、というように。最近では多くの子供たちはあたりまえのように親からプレゼントをもらってしまうから、あえてサンタがプレゼントなぞあげることもないのです。

 親からプレゼントがもらえない子供たちは、毎日郵便屋さんが来たときわにかるよう、ガラス窓の外向きにほしいプレゼントの名前を書いた紙切れを貼っておくのです。サンタさんが実は郵便屋さんだということをうすうす知っているその家の親たちは、あまり高級なおもちゃをお願いしないよう子供たちに言いきかせるのでした。

 それでも、迷いに迷ったあげく、子供たちは何度もプレゼントの第一希望から第三希望までを書き換えては窓に貼ります。その締め切りはクリスマスイヴの3日前まで。だってその日には、黒須氏はすべてのプレゼントを、町のおもちゃ屋で買いそろえないといけないのですから。おもちゃ屋さんは彼のために最優先して注文の品をそろえてくれるのでした。しかも値打ちに。

 こうしてイヴの夜となり、郵便配達車に積み込んだプレゼントをそれぞれの家の戸口に届けます。気配に気付いた家人はありがたくそれを子供たちの枕元に置いてやります。サンタの正体を突き止めてやろうと、さっきまで目を覚ましていた子供たちも眠りの精には勝つことはできず、すでに寝静まっているのでした。

 夜もふけ、雪が降り出してきました。北の冬将軍の張り出しのおかげで、今夜の冷え込みはそうとうなもの。しんしんと音もなく降りしきる雪。見る見る積もってゆく雪。黒須氏は滑り止めのためのタイヤチェーンをつけました。これで一安心、と、彼の心もしーんと深まり落ち着くのでした。

 プレゼントを積んだ郵便配達車が走り出す。タイヤチェーンがシャンシャンと静かな町に響き渡ります。きっと子供たちは夢の中で、トナカイに引かれたサンタのソリの鈴の音を聞いていることでしょう。