331 蛍 の 光
04/01/01
年の初めに『蛍の光』
NHKラジオの深夜放送で『蛍の光』について話していました。

レストランや百貨店などで閉店時間が近づくと、おごそかに、かつ、せかす意味で流されるのが唱歌『蛍の光』。学校の卒業式では、この唱歌は欠かすことのできないもの。厳粛な別れの曲なのに、なぜか血が沸くのです。

ところで『蛍の光』は原曲スコットランド民謡、というのは周知のこと。それに18世紀末、詩人ロバート・バーンズの詩がつけられたものだといわれています(実をいうとはじめはちがった曲にその詩がつけられていたのだそうです)。曲名は Old Long Since(昔からずっと)。その歌詞は次のようなものだそうです。「昔日を忘れることなぞできないし、想起されざるべきでもない・・・/昔日のため、君よ、昔日のため/懇情の杯をあげん/昔日のために」。つまりは、古い友との再会を祝杯を挙げ、喜びを分かちあわん!というもの。

それに反して日本ではちがった意味で唄われている。つまり年末年始でいえば『年末』。

原曲の趣旨に反して、明治初期にこの曲が日本に紹介されたとき、本来とは違った意味の歌詞がつけられました。作詞は稲垣千頴(いながき・ちかい)というひと。そしてさらに意外なことに、この唱歌には実は3・4番もあるのです。

3.筑紫のきわみ 陸(みち)の奥 
  海山遠く へだつとも
  その真心は へだてなく
  ひとえにつくせ 国のため
4.千島のおくも おきなわも
  やしまのうちの まもりなり
  いたらんくにに いさおしく
  つとめよわがせ つつがなく


この詩によれば、つまるところは愛国心をあおるためのものということになります。ぼくも驚いてしまいました。そして海軍水兵のあいだでは、「今度、このたび、国のために/遠く離れて西に行く/君としばらく袖別つ/国のためなら是非もなし/君も身体を大切に・・・」とも唄われたとのこと。

元祖というべき稲垣千頴の歌詞は難解ということもあり、戦前の卒業式などではもっとちがう歌詞でも唄われたとのこと。「一つのもりにむつまじく/唄い合いたる野辺の鳥/今日は東に西に北に/名残惜しくも別れ行く・・・」。この歌詞は明治から昭和の初期にも教科書に載っていたということです。さらに大正初期の女学校では「朝な夕なにおこたらず/勤めはげみしその操/今日あらわれてつきのかつら/香ぼりてまししめでたさよ(ちょっと意味がわかりませんが)」と唄われたこともあるとのことです。さらに太平洋戦争中には、日本の曲ではないということで唄われなくなったこともある。

では、日本以外ではどうだったのでしょう。朝鮮では(反日を含めた)愛国を。モルジブでは国歌になったことも。新年を祝う唱としても米国、カナダで唄われたり。世界中で親しまれ愛唱されているこの曲は『再会』『友情』であったり『別れ』であったり、『愛国』であったり、一見ちがった意味のために唄われているようにも思えます。

しかしながら、この曲に共通していえることは、この曲を唄うとき、『わたし』がここにいるとしたら、『あなた(たち)』がこの場にいなくてはならない。つまり、そこに共通して存在するのは、この曲を唄うとき、私たちにはかけがえのない結びつきがあるのだということだと思う。それはお互いを思いやる心であり、愛情なのだろう。

ただ一つ、これだけは望みたいことがあります。こういう美しい音楽が、何か違った目的、不幸のために使われることのないことです。世界中のひとたちが、一堂に会してこの曲を唄える日がいつか来ることを祈ります。

332 愛犬キク
04/01/14


 道長の作業所は夜間無人となるため用心のために番犬が要る、という目的というのはむしろ取って付けたものではあったのだけれど、とにかく、道長にはキクという番犬がいる。そしてけっこう長い付き合い。

 思い起こしてみるとこのキクとの出会いはこんなだった。まだ道長の作業所を音羽に移転して間もないころ、山奥の生活改善グループだったかへ見学に行ったときのこと。ある道を車で走っていくと、一匹の親とおぼしき犬についてちょこまかしている雑種子犬を発見。往来の自動車にひき逃げされてもおかしくないほどのあぶなっかしさ。どうも野良犬にしてはおかしいと、辺りを見回すと一軒家。その家人を訪ねると「家にいてもじゃまだから持って行って」と言われ、その場でいただいてしまった。

 もともと我が家は、どちらかといえば猫党というか猫派。ペットも単なる同居人ということで、しつけもせずにほっぽり放しにしておくというのが気楽というのがその理由。だから犬なぞ30年以上飼うこともなかったのだった。

 とにかくその子犬を車で連れて、目当ての生活改善グループへ。季節は初夏でちょっと暑い日でもあったため、窓を少し(10cmくらい)開けたままにして、その子犬を車の中に寝かせておいたのだった。その間にグループの方のお話をいろいろと聞かせていただいていた。

 さて見学も済んで車に戻ってみるとなんと、あの子犬の姿がない。まさか窓の隙間から出てしまったのだろうか。いやそうにちがいない・・・。どうしよう。辺りは小川と森に囲まれ、子犬が一体どっちの方角に彷徨したのか見当もつかないのだった。生活改善の人たちにもお願いしていっしょに探したのだけれど、さっぱり見つからない。もう少し窓の隙間を狭くしておけばよかった、と後悔するももはや遅し。

 ・・・でもひょっとすると・・・と車の中をもう一度調べてみると、なーんとシートの下のとんでもなく狭いところにいるではありませんか。しかもすやすやと眠っていたのでした。出会った当日から人騒がせ(なのは実はこちらなのですけど)なそのメスの子犬には、どういう趣味からか『キク』という名が命名されたのでした(なんといつもお世話になっている知り合いの方に姓名判断までしてもらい)。

 夜、一匹で作業所に残してくるのはかわいそうと、しばらくは岡崎の自宅に連れ帰っていたもの。ところがある日一大事。何かをいたずらに噛むという子犬の性癖から、なんと彼女は大切な娘のぞうり(数万円もした)を使い物にならなくしてしまったのだった。届かないところに置いといたつもりだったのに。いまさら無駄なしつけをと言わんばかりに、体罰を食らわしてやったのだけれど後の祭り。その日を区切りに、キクは音羽永住ということになったのだった。

 そんなような賢いとはとてもいえない駄犬と、これもとうてい賢いとはいえない飼い主との付き合いも、もう9年以上となってしまった。まだまだ一昔前のあどけなさを見せる(低脳なのかもしれない)キクなのだけれど、人間で言えばとうに中年を過ぎて初老に近づいているのかも。そんな彼女との付き合い。これからも大切にしてゆきたいと思う。

この年04年7月、旧音羽町下大田面に住居を借りることができ、きくとの同居が実現。そして2年後の06年11月、道長の新作業所を『上林』から約800mはなれた『下大田面』の住居とおなじ場所に移転。今に至る

333 変 わ る
04/01/13

 久々に古い友に会った。学校を卒業して長い年月が経つと、彼らの身内(とくに父母)の訃報に誘われ出向いて顔をあわせる、というかたちが多くなる。今回はN氏のお父さんが亡くなったということで数人との再会。翌日の葬儀は平日ということもあり、全員通夜に参列。こういう機会でもなければ、なかなか出会うことも少なくなってしまった(N氏、ごめんなさい)。

 卒業後30年という歳月はさすがに長く、宵闇越しに見るお互いは白昼にさらされることだけは免れたものの、それでもやはり歳をとったものだと実感してしまう。しわが増えた、白髪がある。髪が薄くなった、太った。子供が成人式を迎える、孫ができた。考えてもみれば、30年前と比べるとなんと変わり果てた姿、現実なのだろう。ある意味、もう取り返しがつかない、という実感さえおぼえてしまう。くくくっ・・・。

 少年や青年の時代、その節目節目の別れ際には将来なつかしくまた出会おうなどと意気投合したものなのだけれど、そのときには将来の自分や友の変貌ぶりについてあまり想像しなかったもの。そのおかげでこういう再会の機会がやってくるたび、ちょっとショック。きっと相手もおなじ感慨をもってぼくを見てもいるにちがいはない。

 それではどうして日常で自分は歳をとってしまったものだ、と実感をする機会がすくないのだろう。ぼくたちはそれこそ毎日鏡に写る自分の容姿をなかば飽き飽きしながらも見ている。たぶん鏡の中の自分を昨日も見ているはず。女性であれば朝な夕なに。もちろん生まれてこのかた、とくに青春を過ぎれば刻一刻と老化し続けている。しかしながら、そのスピードは一見ゆるやかなので現実的に昨日やさっきと比べて歳をとったとは実感しない。これが幸せなところ。

 それに反してしばらく会わない知人の場合はどうかといえば、その人にかかわる情報は最後の出会いでぼくの頭の中で変わらずにファイルされている。だから「(歳はとったけれども)やっぱり昔と変わらない」とたがいにお決まりの一言ということになるのだろうけれど。でもやっぱり考えかたの部分でも変わっている。彼、彼女は以来ずっと確実に老化し、変化しつづけているのだから。よく『武士に二言はない』というけれど、それほどに人の心は変わってしまうもの、ということの裏返しでもあろうというもの。

 からだを構成する70%以上の水が常に入れ替わっている。細胞も。では、人は生まれてこのかた、変わらない部分やことというのはあるのだろうか。生物学的にいえば、遺伝子が変わらないとのことだけれど、これが唯一決定的なのだろうか。

 これははっきりといえる。ぼくらの過去は変わらない。これは確かなことだと思う。でもそれは滑ったり転んだりしながら、ひたすら変わりつづけてきたことの記録でしかないのかもしれない。うーん・・・。いったん記憶として記された情報はけっして変わることはないのだけれど、やっぱりぼくらは変わってゆこうとしているんだと思う。

 なんのために変わるのだろう。その答えはあまりにも明白で、ぼくらはともに『なんとかなりたい』からにほかならない。そのためにぼくらは変わろうとしているんじゃないだろうか。

334 女性起業
04/01/15

 三重県宮川村から来客があった。役場の産業課の方に連れられた、漬物づくりの頑張り屋さん4人。3年ほどまえ何かの資料から道長を知ってくださり、見学に来ていただいたのがはじまりで、それ以来、電話を通じてのお付き合い。

 豊橋でやはり奈良漬を漬けて活動している女性ばかりの、3H南部レディースというグループ(道長のメロン奈良漬などを作ってくださっている)を紹介したところ、ぜひ会って話を聴きたいということになり、今回再度来訪。

 3H南部レディースへは、作業場を提供している小林さん宅におじゃましての会見となった。3Hのみなさんの手料理を囲みながら双方が話をすすめるうち、なんとなく見えてくること。それは『町』と『村』との女性起業のかたちのちがい。まず、3Hの場合。その発足のきっかけは、平成3年の豊橋南部農協の女性部役員たちが、一年を通じての楽しいお付き合いのための資金稼ぎのために何か仕事を起こそうということになり、皆で始めた奈良漬づくり。小林さんのご主人の協力で作業所、冷蔵庫などの設備を提供していただけたたおかげもあり、10年以上の継続ができている。

 それに対し、宮川村『農々工房』の場合。役場では前向きに起業しようというグループを募って、そのための作業所を提供。その中で頑張って残ってゆくグループを積極的に育てるべく、援助をしてきた。そして、『農々工房』が軌道に乗ってきた今では、今後、経営的な面でやってゆけるような段階にもってゆこうとしているとのこと。

 効率のよい都市近郊での『農』に対し、それとは逆の山間地での『農』。これは『農』の地域格差を考えるとき、必ず問題になること。しかしながら次のことを考慮すれば、問題の回答も難しくはないかもしれない。

 町にあって村にないものと村にはあるが町にはないものを環境の視点から箇条書きにしてみる。町にあるものは、高層建築、自動車の渋滞、汚染された水、空気、健全とはいいにくい文化・・。それに対して村にあるものは、きれいな水、空気、昔ながらに受け継がれてきた生活様式食文化など。村にばかりいいことを挙げてしまったのだけれど、こと環境について言えばこれらのことは明白だと思う。

 町がなぜそうなのかといえば、単に人が多いからという理由だけではないだろう。合理性を求めることでのみ、成り立つともいえそうな町での生活。しかしながら、町ではなかば不可能となっている循環という自然界での法則が、村ではそこに豊富にある自然のおかげで可能である点は見逃せない。ここで循環の法則というものについて考えてみたいと思う。すると見えてくることは、この法則ほど合理的なものはないということ。工業的な意味での合理性において、決定的に欠落しているものが実はある。それは合理性を追求のあまり化学的な手段を多用することで時間を短縮してしまっている点。これでは循環の法則がついてゆかないどころかまわってゆかない。究極的に言えば、これは実は合理的でもなんでもない。消費という言葉があるけれど、費やせば消えるということは実はありえないのだから。

 おそらく、村がなければ環境の悪化はさらに加速度的に進むはず。それは物質的にも精神的にも。村を存続させるためのサポートは必然的なものとなるだろう。頑張る『農々工房』への宮川村の援助は明らかに必要なものだと思う。

335 給食の思い出
04/01/28


 今もむかしも『学校給食』というのは楽しくもあり、苦しくもある。おそらく誰しもが、給食についてのいろんな思い出を持っていることだと思う。

 ぼくは昭和30年代、小学校の給食を経験していて、はっきり言って悲喜こもごも。その一番の思い出といえば、なんといっても『ミルク』だった。ミルクとはいえ、これは米国から送られてきた粗悪な脱脂粉乳を無理やりぬるま湯に溶かし込んだもの。おそらく大半の子供たちはこのミルクが嫌いで、息もつかず一気に飲み込んだもの。当時学校の床は隙間だらけの板張りで、冬なぞスーッと吹き上げてくる冷気にちじみあがったもの。だがしかし、この隙間も大きいとかえって救いとなり、嫌いなミルクの処分場ともなるのであった。先生に見つからぬよう、また回りの生徒のまなざしを気にしながらの廃棄物処理。でもどうにも仕方なかったという子供もいたのだった。かといえば何人分ものミルクをうまそうに飲んでしまう子もいた。とにかく残すことは許されず、ほとほと苦労した子供たちもいただろう。

 鯨の肉は淡白不足の時代、よく使われたもの。その献立のうち、鯨の竜田揚げのみそまぶしというのがあった。カリッという食感、鯨とみその風味がたまらなかったもの。ぼくの大好物だった。鯨の肉には他にステーキ風のもあったけれど、たいていは冷めていて歯が折れそうなほどの固さだった。それでもうまかった。

 けんちん汁というのもあり、これは大の苦手献立だった。というのもそれに入っている乱切りの人参、ネギ、玉ねぎなどが、子供の体格からすると一口では無理な大きさなのだった。それでなくても嫌いな半煮え状態の野菜を、どうやって食べればいいのでしょう。こみ上げる悪感に耐えながら、無理やりそれを胃袋にぶち込む苦しさは忘れられない。

 スープなどの汁物には子供たちには楽しみな『肉』ということになるのだけれど、これがまたいけない。豚肉にあってはその脂身の大きいことといったらなかった。さらに何味だかわからないスープに覆いかぶさる液状の豚脂の層。それをすべて飲み尽くす、食い尽くすことの苦しみはすでに拷問の域。

 さらに汁物には鶏肉もよく入っていたもの。しかしながらこの鶏肉もくせ者。なんと羽毛が取り切れておらず、まだ鶏肉の皮に毛が残っているのだった。そのまま口に入れると、妙な食感でこれまた悪感ということになるので、仕方なくこの毛を一本一本抜くという作業までおまけに付いているのだった。

 そんな給食をつくってくれている給食室のおばちゃんたちは、さぞ無骨で雑把であったろうと思うとそうでもなかった。ぼくはソフトボール部員だったのだけれど、日の短い冬の部活は薄暮まで続くので、それが終わって後片付けのころには宵闇ということになってしまっていた。ぼくらが帰ろうとするその時刻にも、まだ給食室には電灯がともっている。そしてなんとありがたくも、彼女たちはぼくらのために給食の食パンの両端を給食で残ったてんぷら油で揚げて、砂糖をまぶしておやつを作ってくれていたのでした。ほんとにたまにしか作ってはもらえなかったけれど、暗い夜道の家路、友とたわむれながら食べたそれはまたとなくおいしく、まごころのこもったものであったと記憶している。

336 豆 ま き
04/02/03

 今では節分だからといってやれ豆まきだなんだとあまりさわがないけれど、ぼくらが子供のころにはなくてはならない行事だった。「鬼は〜外」の元気な子供の掛け声が寒のとなり近所にちょっと恥ずかしげにあがるのだった。

 最近の豆まき用の大豆は、すでにお菓子のように加工されたものが、印刷された紙のお面といっしょに店頭に並ぶ。母親はそれをひとつふたつ買ってくるのだろうけれど、子供たちは一向に興味も示さない。もっとも、親たちも興味がないからなのだけれど、寒空に「鬼は〜外」は活気があってたのもしい。

 小学校の頃、節分となると必ず学校では鬼のお面作りが工作の時間にはあった。配られた画用紙に赤や青色の鬼を描きなぐり、二本の輪ゴムをつけて出来上がりという具合。目の穴の位置が肝心なので、穴はあらかじめあけてからクレヨンで、という手順だっただろうか。とにかく出来上がったクレヨンの香のする鬼の面を両耳に掛けてみて、今晩の豆まきがちょっと待ち遠しく思った記憶がある。教室中、思わず「鬼は〜外」の声があがる。

 家に帰ると母親が、買ってきたのか父親の在所でもらってきたのか、生の大豆をフライパンで炒る。カラカラと豆が転がる音が心地よく、「食べたい」と「まきたい」で心もはやるのだった。豆はいっぺんにたくさんフライパンに入れるとうまく火が通らないので、一握りづつくらいを順に炒る。炒りあがった豆はしっかりと風をとおして湿気を飛ばしてやると出来上がりで、やがて五合枡がいっぱいとなる。「まだ食べちゃいかん!」という母親の叱咤(しった)で、つまみ食いはほんの一粒二粒。まことに香ばしく炒りあがった大豆なのだけれど、いかんせん火の通りにムラがあるのか、生しいものも混ざっているのでうっかり元気よくは噛めないのだった。

 父親も会社から帰り、夕食も終え、いよいよ豆まきという段となる。ぼくには姉がひとりだけの姉弟なので、鬼の面はそれぞれが順番にかぶり、豆を投げつけられる役をする。はじめはぼくが鬼の面ということになるのだけれど、なんと姉はぼくに向かってこん身の力を込めて豆を投げつけたのだった。すっかりと怒ってしまった鬼役のぼくは、今度は交代した姉の鬼に、これまた憎しみを込めた「鬼は〜外」をお見舞いする。とうとう毎度のつかみ合いの兄弟喧嘩ということになる。たたく引っ掻くのあげく、姉の付けていた鬼のお面が剥ぎ飛ばされる。そしてその鬼の面の下からは、さらにおぞましくもおどろおどろしく怒りに燃えた正真正銘の赤鬼の顔が現れるのだった。

 節分とはそもそも、季節を分けるのであるから一年に4回あるものなのだろうけれど、旧暦でいえば正月ともいえる春の節分に無病息災を祈って厄払いをしようと西暦706年には宮中で行われたと『続日本記』には記されているそうだ。この行事は中国・明の時代に追儺(ついな)という習俗にちなんでいて、豆がまかれていたと伝えられているそうだ。

 古代のひとたちが食べ物として貴重な大豆をまいてしようとしたことは、大切な収穫物の一部を大地に返し、身近な者たちの健康としあわせを祈ろうとする行為であったのだと思う。今ではそんな行為が忘れられてしまっているようなご時世だけれど、今一度、節分を迎えてその意義を考えなおしてみたいと思う。

337 唐茄子屋政談
04/02/11


 古典落語に『唐茄子屋政談』という噺がある。道楽が過ぎて勘当され行き所がなく、隅田川にかかる吾妻橋から身投げをしようとする若旦那徳三郎は、通り掛かった叔父さんに助けられる。更生のため真夏の炎天下、かぼちゃを天秤棒に担ぎ行商に行かされるのだけれど、その道中でいろんな人に助けられ、励まされ人情に触れるうち、人の道を得る。そして大切な売上金を哀れな親子に恵んでやるのだった。翌日その親子を訪ねてみるとその母親、首を吊ろうとしていたのだった。こともあろうに性悪大家に滞っていた家賃としてもらったお金全てを取り上げられてしまった由。怒った若旦那は大家を懲らしめるのだけれど、その美談が奉行の耳に入り褒美をもらい、勘当も許されるというめでたい噺。

 この噺の中にはいにしえの江戸の風景なぞもあらわれる。墨田区浅草雷門近くの吾妻橋で助けられ、徳三郎は道のりで3Kmほど南の本所の叔父さんの家に連れていかれる。後日、唐茄子を担がされてふたたび吾妻橋を渡り、浅草を経由して吉原の手前まで約4Kmほどをあっちでつまづきこっちで転び、おぼつかない足取りで行商を・・。あわれ母親の首吊り騒ぎのあったのはその帰り道で、浅草の誓願寺ということになっている。若旦那が勘当される前には、本所の西、両国橋を渡った日本橋横山町の自分の家から、隅田川を舟で上って吉原に通い詰めていたことになっている。

 この噺を古今亭志ん生の語りで聴いたことがあるのだけれど、江戸時代の下町の様子が実にいきいきとほのぼのと伝わってくる。江戸時代はなんと300年も続いた、おそらくは歴史上日本ではいちばん太平な時代であったのだろう。人斬り包丁を提げた侍が横行して物騒な印象もあるけれど、江戸幕府の見事な政治のおかげであったのかもしれない。

 唐茄子屋に登場の若旦那徳三郎は自分の店から江戸の密集地を舟から眺めながら、直線距離でいえばほんの3Kmほどの歓楽街に通っていた。その範囲には商店街、貧民街、田園地帯・・・つまり世間にあるいろいろなものが詰まっている。田舎の百姓たちは畑でできた農作物を街まで運んでは、売ることができただろう。また街に住むものも、舟や徒歩、あるいは籠で、田園地帯を越えたむこうの歓楽街・吉原に通ったことになる。

 今の東京の真ん中で野良着姿の百姓が歩いていたら、おかしな感じがするにちがいがない。けれど、徳三郎の時代ではあたりまえで、街と村が目と鼻の先ほどの距離にあったといってよい。ひとびとが生きてゆくための付き合いというか関係は、歩いてどれだけ、半日、一日というように、いつも徒歩というのが基本だった。よほど何かの都合でもない限り、一月やそれ以上遠くに行ったり来たりすることはなかった。人もそうだったけれど、食べ物だってそうだった。

 さらに、距離が近かったのはなにも街と村だけではなかったんじゃないだろうか。人の心だってもっと近かった。人の声だって近かったし、それをさえぎる機械の音だってなかった。

 吾妻橋を渡り、田原町を経由し、西浅草あたりの田園風景にたどり着き、もうろうの炎天下、唐茄子の売り声を練習しながらふと気付いて「ああ、ここは田んぼだ。向こうに見えるのは吉原だ」とぽつんとつぶやく。そこにはのんびりと心休まる緑のじゅうたんの敷き詰められた、安らぎの原風景が広がっていたのでした。


338 二十四節気
04/02/19

 雨水という季節をあらわす言葉がある。これは二十四節気のうち、一年で節分についで二番目で春をあらわす。この二十四節気は中国で作られた太陽の運行をもとにした暦。月の満ち欠けを基本にする太陰暦で発生してしまう誤差をカバーするため、360度を24で割った15度刻みで一年の季節をあらわそうとしたものとのこと。これは農耕をする場合、太陽をもとにした暦に置き換えないと誤差ができてしまうというのがその理由。だから立春から数えて八十八夜とか、二百十日などといって農作業の目安にしていたりする。これは太陽暦を目安にしている部分の証しで二十四節気とおなじこと。

 東洋では実際の暦と太陽の運行との誤差を修正するためにこのような二十四節気をつくったり、3年に約30日の誤差を埋めるため閏月をつくったりしている。日本ではこの太陰暦を明治の元号になるまで使っていた。この二十四節気は次のように定められている。春/立春、雨水、啓蟄、春分、清明、穀雨−−夏/立夏、小満、芒種、夏至、小暑、大暑−−秋/立秋、処暑、白露、秋分、寒露、霜降−−冬/立冬、小雪、大雪、冬至、小寒、大寒。これら24の季節をあらわす言葉を見るにつけ、なかなか趣のあるものだなと感心もしてしまう。

 月の運行というか満ち欠けというのは一目瞭然の目安であり、一ヶ月のめぐりをいつも目で確かめることができる反面、太陽の運行との誤差が圧倒的に大きいところが問題になる。

 これに対し、西洋にはグレゴリオ暦というのがある。これは1582年、ローマ教皇グレゴリウス13世の時に採用された太陽暦。こちらの暦では、1年で約1/4日発生する誤差を4年ごとに修正。さらに400年に3回例外として閏年でない年をもうけたりもしている。正確な天文学的な計算に基づいた暦なので、それでも発生する誤差の1日は3319年に1度だけとのこと。こういった暦の生まれる背景としては『エジプト』『ギリシャ』『ローマ』に代表される文明のつながりを無視することができない。そこには、誤差というか誤りを許さないというか、何か原理や原則を優先する考え方が強い。

 この西洋と東洋の考え方の違いというのは、あまりにも大きいと実感をしてしまう。一言でいうならば、西方が厳格なのに対して、東方は大雑把というか余裕、寛容といえる。このことはふたつの地域での宗教の違いにも明らか。仏教、ヒンズー教などが求めるものも、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が求めるものもいうまでもなく『人の幸せ』に他ならないのだけれど、そのための約束事がとにかく多いのが西方。そして多くの人に理解できるように、整然とした文章で解説というか教えている。それに対して東方では、難しい経文などわからなくてもよろしいということになる。

 誤差は大きくてもその分ちゃんと直せばいいじゃないかという東洋と、それは許さんという西洋。地球は正確に太陽を回っているのだけれど、自然現象には誤差がつきもの。でもその誤差は必ず自然によって修正される。しかしながら誤差を許さないあまり、取り返しのつかない誤差を生み出してしまったのも西洋の『暦』への厳格さであるところが、大きな誤算なのかもしれない。

339 勘違いの啓蟄
04/02/26


 二十四節気の雨水のあとにやってくる暦が『啓蟄(けいちつ)』。これは陽暦でいうと今年は3月5日がその日にあたるそうだ。古来中国では『蟄虫(すごもりむし)戸を啓(ひら)く』といって、春の訪れを知らせる節気として『啓蟄』というのを定めたのだそうだ。

 春はまだ遠いと思っていたら、ぽかぽかを通りすぎてぼかぼか陽気の日が続いてしまった。おかげでモグラやカエルまで間違って出てきてしまう始末。季節に敏感な小動物がそんなだから、われら人間だって間違ってあたりまえ。『啓蟄』ということになってしまう。

 雑用に追われるばかりで余暇を見つける間がなかったのだけれど、このあまりの陽気にぼくも『啓蟄』してしまうのでした。世の中のへぼ釣師は誰も考えることがおなじで、釣竿を持ち出しては、よせばいいのに霞みたなびく海を思い浮かべてしまうというわけ。といってもひとりでは心細いので、ぼくより輪をかけた釣バカ師氏を誘っての釣行ということに。どうせ釣れないだろうから、世間話でもしながら、見聞がてら偵察などと訳のわからない理由付けで誘(いざな)いの海へ。道中の釣エサ屋では豪華岩ムシを買い込み、たいせつな情報収集もちゃんと。

 あちらの堤防、こちらのテトラと見聞をするうち、わけのわからない道具立てのちょい投げ釣師氏と遭遇。海の水はといえば、これがヘドロの海三河湾なのかしらと疑うほどに寒々と澄み切っている。場所を変えさらに見聞はつづく。むかしはよく釣れた岸壁の付け根あたりに到着、見回してみる。そのとき『啓蟄』の言葉が思わずぼくの脳裏に発想され、ぼくの口から発音されてしまうのだった。どこから出現したのか、どう見てもへぼな釣師ちらほら。ヨットの係留場では、鋤簾(じょれん)に6mはあろうかという竹竿を付けたいでたちの初老氏、岸壁の真下をさばいては大粒のあさり掘り。しゃれた色の軽トラでさっそうと現れた中年氏、自分のヨットの具合でも見に来たのか、舫(もや)いを締めなおすとそそくさと退場。

 そして肝心なぼくら二名のこれもやっぱりへぼ釣師たちも、おもむろに着替えをすると余裕綽々(しゃくしゃく)たる足取りで延々テトラの積まれた岸壁を歩き出すのだった。春だからなのだろうか、はたまた仕掛けを振り込む竿先に来るあの生命反応への期待からなのだろうか、わくわくとしてしまうへぼ釣師たちなのでした。

 まずはこのあたりでというわけで釣竿に仕掛けを整えると、なまった足取りでテトラに渡る。豪華岩ムシを釣鈎に掛け、胸弾む投入。うーん、やって来たのだなあ。春霞、のたりのたりの海面(みなも)かな、と。しかしながらというか当然至極というか、このあと、期待どおりの出来事はまったく起こらず、竿先はピクリともしないのでした。遠路はるばるここまで歩いて来ても事態の好転はまったくナシ。

 そのうちにわかに大粒の雨と強力な南東風、春一番。これではいけないのでそそくさと退散する本日トップクラスの愚かなへぼ釣師たち。早すぎた春に勘違いの『啓蟄』。

340 リスクアナリシス
04/03/11

 食品の安全管理のための手法として、最近リスクアナリシスという言葉をよくききます。日本語に置き換えれば「危険分析」とでもいうのでしょうか。これは食品に限らずいろいろな分野で使われているようです。食品の国際規格会議・コーデックス委員会でのガイドライン作りにもこの手法がとられているそうです。

 今問題になっている鳥インフルエンザでも、やはりというかここでも『食』の危機に対するずさんな対応がありました。高速増殖炉『もんじゅ』の事故やBSEの場合でもそうでしたが、目の前で起こっている危機が「自分のところだけはそんなことが起こるはずはない」とか「このことが世間に知れたらどうしよう」などといういわばその場逃れの浅はかで愚かしい人間の性(さが)のおかげで、取り返しのつかない危機へと発展してしまうわけです。

 この『リスクアナリシス』という手法は、そうしたことにならないためのマニュアルともいえます。
リスクアナリシスは次の3つの要素からなっています。

1 リスクアセスメント:危険の評価・査定
2 リスクマネジメント:危険に対する処理・取り扱い
3 リスクコミュニケーション:危険についての意見交換

 リスクアナリシスの手法は実際はそれぞれの要素で何段階にも別れているようですが、それはさておき、たとえば今回の鳥インフルエンザにあてはめてみます。

リスクアセスメント
 鳥インフルエンザについて、それがどういった症状でどういう経路で感染するのかという基本的な知識がまず必要でしょう。その上で鶏舎でどういうことが起こったときに『危険』と判断するのか、という基準がなくてはいけない。

リスクマネジメント
 その上でとらなければならない行動とは、というのがリスクマネジメントにあたるわけです。要するに行政当局への通報がその第一に挙げられるでしょう。それに応じて行政側は鶏や卵の移送禁止やウイルス検査、鶏舎の消毒、鶏の処分などの措置をとることになるわけです。

リスクコミュニケーション
 こういったリスクが発生する以前に、養鶏業者、消費者、行政、科学者、流通関係者などが充分な意見交換を行っておく必要があります。鳥インフルエンザについての基礎知識、その何が危険なのか、感染するとしたらどういう経路が考えられるか、またどういう点については危険ではないのかなどの情報交換がされていなければならない。さもないと風評さわぎによって、本来関連しない人たちにも迷惑がかかってしまうという事態にもなりかねないわけです。しかも決定的な経済被害というかたちで。

 今回の鳥インフルエンザ事件では、養鶏業者の責任が取り沙汰されているようです。実際その無責任さが事態を大きく発展させかねない状況を作り出している。昨年の冬にオランダ、ベルギーを中心に起こった鳥インフルエンザは、予測を上回るスピードで広い範囲に感染していったといわれています。その事実を考えると、今回の日本でも同様のことが起こっても不思議がないわけです。

 では京都での一件は『リスクアナリシス』によっていれば、起こらなかったといえるのでしょうか。この手法がいかに綿密に行われるかどうかという程度の問題なのでしょうか。いうならば、どんなに完璧なシステムがあろうと、マニュアルがあろうと、一番大切な『モラル』『責任感』というものがなければ『危機・危険』に対する『発動』はそのぶんだけ遅れてしまうわけです。

 もうここまで話しが進めば答えは明らかでしょう。『食』における安全の確保は、それに係るあらゆる分野の人たちの信頼関係に基づいた『提携』がなくてはいけない。その関係の中では生産者、消費者、流通、行政、科学者といった人たちのうち、誰が抜けてもいけない。安全な食のための自分たちだけの流通を持っていればそれでいい、とか、自分たちだけが安全な食を享受していればいいという考えだけではいけない。

 食と農、環境の危機が国際化する中、問題の解決には私たちがもう一歩踏み出す必要があるように思います。