361 新天地
04/07/28

 英国では、母国でのレコーディングをすると高い率の税金をとられるという理由もあって、多くのロックミュージシャンたちが米国に脱出していった。暗くじめじめした英国より明るく自由な新天地に移住して、もっと大きな音楽市場で裕福にすごしたいというのがその理由。

 というわけで英国から米国に移住した代表的な連中にロッド・ステュアート、R・ストーンズ、J・レノン・・。なかでもブルースブレイカーズ、ヤードバーズ、クリーム、ブラインドフェイスと宿替えをつづけたミスター・ブルース、E・クラプトンは米国に渡って成功した。

 それに対して自分の活動するところはやっぱり英国なのだ、と母国に留まった連中もいたのだった。やはり名をはせた『フリートウッドマック』というブルースバンドがあった。そのバンドを率いていたのはピーター・グリーンという人物だったのだけれど、かれはバンドが米国に渡ろうという段で自らは英国に残りソロ活動の道を選んだ。米国に渡ったフリートウッドマックはブルース色を捨てファンキーなソウルっぽいバンドに変身。しばらくは売れたけれど、長続きせず尻つぼみ。

 その後P・グリーンは地味なブルースをやりながら今も続いていることは知っていたのだけれど、最近出たそのアルバムを手に入れて少々おどろいたのだった。内ジャケットの写真を見ると5人のオヤジがならんでいる。その中でなんとむかしの面影など皆無といえてしまう肥満男が中心で笑っている。ぼくなぞ、何度も疑ったけれど、やっぱりそれが彼自身だったのだ。

 けれどもそのアルバムを聴いてみてぼくは十分に納得もしたのだった。クラプトンの栄光などどこ吹く風と、渋めでまるで普通に呼吸でもするように自然でくつろいだ歌声と、控えめなトーンのブルースギターが漂う。ぼくは一発で納得がゆき、すっかり楽しくなり、何度もくりかえしそのアルバムを聴いてしまったのでした。

 米国に渡らず英国に残った連中にはレッド・ツェッペリンやクィーン(いずれもメンバーの死亡で解散)、ロリー・ギャラガー(最近亡くなりました)・・。レコーディングだけは米国のレコード会社でこなし、活動は英国でしたり。そのほかやっぱり地道にブルースを続け、パブでもライブをしているのもいたりする。ぼくの知り合いなぞ、わざわざそれ(チキンシャック)を見に行き、日本から来たファンということで、頭をなでてもらって帰ってきたそうだ。そのときかれらは「ブルースしかやらないから、いやな奴は帰ェんねえ」と(もちろん英語で)言ったそう。

 音楽家とは栄光と喝采のなかでよろこびを得るものと錯覚してはいけない。音楽とはそれを演奏するものがいかに精神的に満たされ、それを聴くものにいかに楽しさとよろこびを与えうるかということに尽きる。いくらよく売れる音楽だろうと、時の経過で賞味期限の切れてしまう一過性のものでは意味がない。10年経とうが何十年経とうが、心を満たすことのできる音楽こそが本物といえる。添加物はここでも不使用というのが一番だと思う。

P.グリーン(中央)とかつての彼
まったく面影がない
Peter Green & Splinter Group


362 銃と米国
04/08/05


 カナダ・米国合作のドキュメンタリー風映画、ボーリング・フォー・コロンバインというのを観た。これは米国のジャーナリスト、マイケル・ムーアという人が自らレポーター役で出演、監督、脚本、撮影というもの。出演はムーアの他に、チャールトン・へストン、マリリン・マンソン、ジョージ・ブッシュも、なのだけれど、いずれもインタービューされる立場としてのもの。

 米国では毎年1万5千人以上が銃による犯罪で死んでいるといわれる。その発生率は日本での10倍以上。これは米国が銃社会だから、と簡単に片付けるわけにはいかない。カナダも銃社会なのだけれど、その発生率は1/3と低い。それではどうして米国では銃による犯罪が多いのだろう。米国人は血の気が多いのだろうか、はたまた闘争的なのだろうか(米国の家庭では4.5丁の銃を所有している計算になるのだそうだ)。ムーア監督はそのような犯罪の多い理由付けを米国の白人種が今まで世界中で、自国内でしてきた幾多の搾取、残虐行為などの数々を例に挙げている。

 米国人はなぜ銃を持つのか。それは米国が銃社会だからではない。襲われるかもしれない、という恐れがあるからではないか。では何に対して恐れを持つのか。それは自らがしてきた諸々の行為に対する『負い目』があるからなのではないか。

 米国よりもさらに殺人事件の発生率の高い国がまだ他にあるそうだ。それは南アフリカ共和国で、なんと米国の8倍も・・。ついこの7月には、サッカーの試合での反則処分をめぐり、反則をとられたチームの監督が審判に銃で射殺されるという事件がおきているとのこと。しかも試合中に。審判はなぜ銃を携帯していたのだろう。それは他ならず、自分が襲われるはずだということを認識しているからに他ならない。それはなぜかといえば、人種差別により搾取することで、自らが潤っているから。だから怖い。だから銃を持つことになる。

 話を米国に戻す。なにも米国人だけの問題ではない。これは米国という国家の問題でもある。米国は世界でもっとも強力な武力を持つ国。さらに核兵器に至っては、米国は所持してもよいが、他の国はいけないなどという理屈もなにもない理屈を通している。イラクや北朝鮮を『悪の枢軸』などと形容しては叩く。その行為はかつてのソビエトに対する武力装備とはちょっと違う意味で赤裸々なのではないか。ベトナムに対してもそうだったと思うけれど、なぜにそこまで攻撃しなければいけないのだろう。『攻撃こそ防御』というけれど、攻撃していなければやられてしまう。相手を悪とし、自らを正義としておかなければ立場がない。もしもイラクやベトナム、北朝鮮が『悪の枢軸』ではないとしたなら、一体それらの国々を何と規定すればいいというのだろう。

 今、米国はなぜ襲われるのかということについて知るべきだと思う。『ボーリング・フォー・コロンバイン』という映画も執拗にそのことについて米国民に問題を突きつけようとしている。


363 終 戦
04/08/18

 また今年もあの暑い夏の日から59年目を迎える。ぼくは戦後の生まれで戦争の体験は何もないけれど、その終戦はぼくが生まれるたった6年前の出来事だった。6年なぞ今で考えたら、ついこの間という感覚。

 その戦争は戦中から戦後へと一気に経過したのだった。沖縄や南方での攻防の悲劇的な結末もさることながら、あの狂った日本人の思考に終止符を打つのには核兵器はあまりにも効果的なものであったのかもしれない。

 あの時開発されて間もなかった核兵器を、米国はどこかで使いたくて仕様がなかった。だから迷うことなく使ったのだろうが、その威力はいかほどであっただろうか。8月6日の広島で約14万人、9日の長崎で7万4千人がその年のうちに命を失ったといわれている。当時両市には市民や軍事関係者、外国人を合わせると推定35万人がいたとされている。なんとその6割以上が犠牲になったことになる。もちろんそれ以後の犠牲者もあるわけで、広島市では1991年までにさらに8万人以上ということになる。長崎では広島よりも強力なプルトニウム爆弾が使われたこともあり、さらに6万人が死没。なんとその合計はその当時の両市の推定人数となってしまう。今当時の広島・長崎を語れるのは、まさに『生き残り』ということになる。

 そんな中で、両市の原爆被爆者の平均年齢は71歳を越えているそうだ。その中で当時を思い起こすことのできる人の年齢はさらに高くなり、80歳以上にも。ノー・モア・ヒロシマ・ナガサキの悲惨な出来事を語れる人がいなくなってしまうのも時間の問題。

 核兵器の被爆を受けた世界でただふたつの都市である広島と長崎にとって、その残酷さを証言する、訴えるという行為はかつては『与えられた』ものであったかもしれないけれど、今となってはできる立場のものがほかにいないという状況になってしまっている。訴えることのできるのは『人』しかいないのだから、第二、第三世代がそれを受け継いでゆくことになるのだろう。しかしながら、それにしてもかつての鮮明な記憶は、今後は、正確な記録に基づいて訴え続けてゆかなければならなくなる。

 「戦争はいけない」。そんなことはだれもがわかっている。にもかかわらず行なわれる。けれども核爆弾はあれ以来59年間使われていない。その気になればいつでも使えるにもかかわらず、使われていない。その理由はその威力があまりに強く、人類の歴史の中で究極の残虐兵器なのだということが世界で認識されているからに他ならないだろう。その意味において、広島・長崎の平和への訴えは非常に大きな意義があるのだろう。

 「これ以上に効果的な兵器はない」と考えられた1945年、核爆弾は躊躇なく使われた。それならば、核兵器が残虐ではなく、効果的と認識されるようになる未来があるとしたら、それこそ背筋が寒くなる。そんな未来に到達する間、最終兵器は進化し続けるのだろう。考えるのも恐ろしい。

 今、その役割は広島・長崎から『日本』へと肩代わりされなくてはいけないのではないか。戦争の悲劇の『正確な記録』の管理はもはや国の仕事とならなければいけないと思う。


364 オリンピック
04/08/18


 ぼくにとって一番古く記憶のあるオリンピックといえばローマ大会。時は1960年、ぼくはまだ小学生だった。そして実はその記憶もあまり定かとはいえない。その理由は当時ぼくがまだ幼かったのと、それが地球の裏側で行なわれていたから。裏側だと昼と夜が逆なので、深夜に起きていられなかったということもさることながら、何といってもラジオの放送に限界があったからだったと思う。

 当時といえばプロ野球の中継でさえ、地元での試合ならまだしも遠方の場合では、太陽の大黒点かその磁気嵐のせいなのか、電波状況が悪かったりすると試合の一部始終をつぶさに聴くというわけにいかなかった。ちょうどこんな感じだった。よく聞こえていたかとおもえば、サーっという雑音とともにほとんど聞こえなくなってしまう。しばらく耳を潜めて待っているとまた聞こえるようになる。そんな波状攻撃が延々と繰り返されるものだから、電波状況の悪い日には放送を聴いているだけでへき易としてしまうのだった。

 感動のスポーツ試合が地球の裏側で繰り広げられているというのに、聞こえたり聞こえなかったりの波状攻撃はきついといえばきついのだけれど、それ以外に方法がないとなれば仕方のないこと。必死で耳をかしげての観戦はなかなかの緊張感があり、固唾を呑むとはまさにこのこと。

 そんな実況放送のなかで、男子水泳山中毅(輪島市出身の当時海の鉄腕アトムと呼ばれた)の、あれはたしか自由形1500mの接戦風景をなんとなくおぼえている。記録をひも解いてみると山中は400m自由形と800mリレーでは銀メダルをとっているけれど、1500ではとっていない(金は豪州のマレー・ローズだった)。たぶんそのとき聴けた実況放送がたまたま1500自由形だったのだろう。それを茶の間で聴いたのか、寝床で聴いたのかまったくおぼえていない(日本とローマでは6時間の時差がある)。

 あのころの『水泳日本』、さらに『体操日本』などと世界を沸かせたけれど、日本の経済が安定的な成長をするようになってからというもの、なんとなくオリンピックでの精彩も欠くことになっていったような気がする。

 そして今、ギリシャ五輪ということになり、ふたを開けてみるとなんと選手たちの異様なまでの頑張りぶりに驚かされてしまう。一体全体この頑張りようはどこから来ているんだろうと考えてしまう。

 戦後の混乱からすべての恥もかなぐり捨て、国を立て直そうと必死ではたらいた日本人。その力は儲らないけれど国の威信をかけた名誉獲得のためスポーツにも傾けられた。そこでは人件費が何ぼ、経費が何ぼという計算なぞ何一つしなかったし、そんなことしていたら何も達成できるはずもなかった。

 リストラだ合理化だといっているけれど、戦後の日本国家は計算や打算もないところで作り直されてきた。そしてそれを支えてきたすばらしい技術力だってそうだと思う。政策や時期待ちで経済がよくなるわけがない。もう一度、人々の力の尊さを確認しなくてはいけない。そして今度はその『質』と『方向』についても。

山中とローズ(メルボルン大会)


365 生きる
04/08/26

 生きるとはどういうことだろう。だれかが死んだりするときまって考える。また死ぬとはどういうことなのか、などとも考えるのだけれど。ひとは生まれて死ぬのだから、本来『死ぬ』に対する言葉は『生まれる』のかしら。

 『生きるか死ぬか』とか『生死の間(はざま)』などとも言う。『生きる』と『死ぬ』、これもまた相対応する言葉ともいえるのだろう。『生まれる』と『死ぬ』が生命にとって始まりと終りという出来事であるのに対して、『生きる』と『死ぬ』については何かそこにさらに重い何かを連想する。

 だれかが死んで、自分が生きている。この場合、死んだ者には(うまくいえないけれど)、その人がひたすら生きようとした挙句の結果がそうなってしまった。そしてそれを傍観する者には、自分は残された、悲しい、無念、さびしいという思いのほかにやはり、生きている、生きるという力というか意志を実感する。

 ひとはというより、自分はどうして生きるのだろうか。この自問はある意味で難題すぎる。どうして難題すぎるのかというと、この自分が生きるようになったきっかけが曖昧であったりするからかもしれない。自分が生まれるとき、そうしようと思ったわけではないということ。そのとき自分は『生きた』わけではなくて『生まれた』。

 それでは自分はどうして『生まれた』のだろう。ぼくが生まれたわけ、それは母親がぼくを生んだから。ここまできてなんとなくやっとわかってきた。つまり、そこには産もうという意志があったからなのではないか。これは何も人間に限ったことではないのだろう。犬や猫、鳥や魚、昆虫などなど、それらみんなが子や卵を産むとき、決まっていい加減などではないということ。子や卵を産むとき、生物はみな必死なのであって気楽なんてとんでもない。生んだ後で知らん振りだろうが、自分で生んでおいてエサとして食べてしまおうが、産むときに限ってはみな強い意志のようなものに促されてそうするのにちがいない。

 よく『生かされている』という解釈をすることがあるけれども、これもある意味正しいのかもしれない。産もうという意志があって『生』を授かったのだから。

 ここで生物が生きているという状態について考えてみる。生物は意志によって『生まれ』『生かされている』というのがまず大前提としてあって、さらに『生きる』という意志が受け継がれているのではないか。そう、ぼくもそうなのだけれど、生物は『生きよう』としているという答が得られるような気がする。

 そんな気持ちというか実感をもって朝めざめて外の世界をながめるとき、何かとんでもなく大きなエネルギーでこの世界が動いているのだなと実感する。鳥たちはさえずり、犬はうーんと伸びをする。猫は鳴きながらからだを摺り寄せてくる。そのほかどんなに小さな生物たちも、エサを求めたり、飛び立ったり、歩き始めたりする。

 誤解をしていてはいけない。すべての生物は『生きよう』として生きている。それならばこのぼくも、少なからず『思考』する生物ならば、ほかの生物たちに負けないくらいに『生き』なくてはいけないと思う。


366 ともだち
04/09/01


 16号という大きな台風の直前、古く親しい友人からパソコンにメールが入ってきた。なんでも息子にパソコンのお古をもらってインターネットにつないだから、メールでも出そうと思ったからだそうだ。まだキーボードがうまく扱えないので、息子に打ってもらっているとのこと。

 彼とは岡崎の中学校での同級の友。まったく爺くさい奴で、中学生のくせに神経痛持ち、おっさんみたいで無口。放課時もほかの生徒たちと遊ぶこともほとんど一切無く、なんとも無粋な奴だった。体育もだめ。夏の水泳なぞはそれこそからっきしだめで、先生に無理矢理プールに突き落とされてはお尻をもこもこさせてやっとのことで『5m』といったところ。そんな情けない奴で何をやらせても苦手なのに、あるときある授業で彼はその真価をいかんなんく発揮してしまったのだった。

 ある日の技術家庭の電気の授業。いつもはまったく授業に興味も示さず、昼寝、よそ事の彼なのだけれど、その日に限ってはなぜか目の輝きがまるでちがう。オームの法則だの電流の右ねじの法則、左手の法則など、はたまた電気量(W)と電流、電圧の法則とどれが出てきてもまったく平気の平左で計算もOK。日頃数学も理科もだめなのにどうして電気の時だけ?と頭をひねってしまったほど。

 さらにとうとう3球ラジオ(電源、検波、出力用の3本の真空管を使っているから)の製作という段になって、彼の真骨頂はいかんなく発揮されるのであった。何と彼はクラスの誰ひとりできないであろう、配線図も見ずにそれこそあっという間に3球ラジオを組み立ててしまったのだった。これにはクラスのだれもが感心してしまい、このときばかりは彼の自慢げな顔が印象的だったことをおぼえている。ぼくもそういうことに興味があったので、すぐに友達になってしまった。彼とは中学二、三年の付き合いだった。時々『子供の科学』や『初歩のラジオ』といった雑誌を見ては、彼に教えてもらい、廃物ラジオや電子部品店で部品をあつめていろんなものを作った覚えがある。

 彼の故郷は宮崎県諸県郡国富町といって、けっこうな田舎。彼の親たちは、そこから出稼ぎのような目的で岡崎の繊維会社の工員として働いていた。しかしながら、彼が埼玉県の親類の電気工事店に中卒で就職ということになり、不景気も手伝って、彼の親たちも岡崎を後に宮崎に帰ってしまったのだった。

 その後7、8年は埼玉で過ごしたけれど、結婚を機に宮崎に帰郷。田舎で電気工事店だけでは生計が立ってゆかないので、百姓もやり、建築業という肩書きの何でも業のような仕事を続けてきた。そして何とかがんばって今日に至る。そんな彼はぼくにとって数少ない親友。年に二度か三度しか電話もしないのだけれど。

 台風16号が九州を縦断して行った。ひさびさぼくは彼のことが心配になり、メールで返信したのに電話をかけたのだった。収穫前の稲が倒れてしまったとのこと。でも収穫は大丈夫。これから秋が深まり、里のたよりが恋しくなるころ、宮崎から『国富柿』と新米、そば粉の産直品がとどくのだろう。今から楽しみで仕様がない。友のたより。
むかしからおっさん
のような風貌(左)


367 出戻り猫
04/09/08

 もう何年か前、嫁いだ二番目の娘の所へ、音羽で拾ってしまった二匹の猫がふたたび出戻ってきてしまったのだった。今度借りた音羽の農家住宅が広いのと、子育ての支障をきたすという理由から無理矢理押し付けられてしまったという、まったく無責任なはなし。

 岡崎の実家にも二匹の親子猫がいるし、作業所には愛犬がいる。動物が嫌いなわけではないので、別にわずらわしいというわけではないのだけれど、やっぱり不便なことが起きてくる。

 まず借家の農家住宅は県道沿いなので、自動車の往来がかなりはげしい。だから猫を自由に外へ出せない。そもそも猫は自由気ままに生きることを信条に、太古より子々孫々とその血脈を継いできた。ぼくもその生き方に共感さえ寄せてきたわけだし、少しでもその爪の垢を煎じて飲むなりしてあやかろうとしてきた手前、その猫を家の中に閉じ込めておかなければいけないという自体に、いささか無念さも感じてしまうのだった。

 猫幽閉第1日目の翌日、借家に行って見るとなんと風呂場の戸がちゃっかりと開いている。もちろん二匹の猫はもぬけの空。さっそく責任者たる元の飼い主を呼びつけ、捜索の結果、何とか連れ戻すことができたのだった。この二匹の猫もやっぱり実家の親子猫とおなじく、戸は開けてしまうことが判明。

 そんなわけですべての戸のカギをかうべきなのだけれど、なにせこちらが道長の作業所に行っている間、音羽に泊まらず岡崎に帰ってしまう夜なぞ、とにかく戸閉めで暑くなってはいけないということで、二階と風呂場に新たに換気扇設置。こちらへ来て昼を食べたり、泊まったりで風通しのために戸を開けるときでも、猫が絶対に出られないように網戸を粘着テープで貼り付けたりなんかで大変。ガリガリやれば網戸もいつかは破られるので、これも爪の届かないところまで側板を張る。これでは泥棒氏が侵入できないための戸締りではなく、中から出られないための戸締りということになり、なんともおかしなことになってしまった。

 とうとう難攻不落の牙城の落成ということになり、あれだけしたたかであったはずの二匹の猫も、不覚にも自分たちの生活圏というかテリトリーを選ぶ権利もなく与えられた形。

 この農家住宅の修復には相当な労力と資本も投じたつもり。床も自前で張り替えたし、風呂の給湯器も新しく付けた。水道も直したし、引越しの家庭から照明器具や家具なぞも調達した。暑い二階には窓用のエアコンまで付けた。

 数年前からぼくは音羽町の住民になっているわけだし、農地だって手に入れたし、住宅だって借りたのだけれど、岡崎には家族が居るということでそちらがやはりぼくの帰る家ということになる。

 作業所が借家の敷地に引越しすれば、本格的にそちらが我が家という意識にもなるのかもしれないけれど、まだそうはなっていない。飛び石で音羽の借家で暮すのも猫への義理。猫への不義理を重ねると、ストレスのために家の中を無茶苦茶にしてしまうにちがいない。奥の部屋の純白の障子紙はすでに無残な様となっているのだからして。


368 報連相
04/09/15


 報連相という考え方があるということを、今頃知っているようではまるで世間知らずということになる。とにかく『報連相』とは業務をする場合に不可欠な報告、連絡、相談という約束事のことだそうだ。

 たとえばクレームで例えるなら報告とは、担当者の仕事の中で顧客からいただいてしまったクレームについて、たとえば上司に『報告』する。その報告があったことを(たとえば)各課に『連絡』する。そして皆で『相談』して対策をとる。というような感じ。

 とくに製造業ではQCとかQM(品質管理)という活動がおおいにもてはやされる。約30年前、ぼくが学校を卒業後勤めた某通信機器の製造販売会社でもそれを取り入れたもの。おりしも戦後一代で築き上げてきた独立独歩の会社(当時350名ほどの社員)が、バブル景気を控えて、デミング賞という第三者機関の認定する栄誉のために全社一丸、頑張ろうということになったからなのだろう。

 ここでいちばん目標になったのが『ミス』の軽減。生産ラインだろうが、技術設計だろうが、事務だろうがなんだろうがとにかくミスを減らすためにはミスがなぜ起こるか分析し、どうしたら減らせるか話合って対策を出す。その結果ミスをどれだけ減らすことができたかというような『結果』を出す。それにより、会社の信頼度がさらに高まるというもの。ぼくの通ったその会社はその結果デミング賞を受賞した。

 しかしながら『品質管理』のための作業には、けっこう人格というか人の個性というようなものを二の次に置かなければならないという不都合が浮き彫りだった。おかげで工場長は生産ラインの女工さんから突き上げをもらい、胃を痛め、社長と付かず離れずで頑張ってきた何人かの腹心も耐えられずに会社を辞めていった。

 そういうタイプの『管理』の方法とは違うというか、非常に曖昧な部分があるのだけれど、ようするにコミュニケーションをしっかりとすることで人と人との信頼関係を築く。それが会社の発展につながるというのが報連相の理念のようだ。かなり日本的な発想が基になっている。

 考えてみるに、日本のように狭い国土の中でかくもたくさんの単一民族がひしめき暮らそうとするとき、物事をはっきりさせすぎてもまずいことが多い。いろんなことを曖昧に済ませておくからこそ、人間関係がうまくいっているのかもしれない。

 アメリカや欧州のように他民族が広い台地で暮らしてゆくには、自己がしっかりとして白黒はっきり言えるようにしておかないと他人に簡単にやられてしまう。

 要するに『報連相』とは、いかにも日本的な品質管理の手法ということになる。しかしながら、報連相にもこれだけは欠くべからざるルールがあることを忘れてはいけない。つまり、自分の仕事に責任を持つ。確実に仕事をまっとうするという姿勢がなければ、後にも先にも人と人との信頼関係なぞとうていもてるはずもないのだから。


369 眠る男
04/09/20


 小栗康平監督、1996年に作られた映画『眠る男』を観た。群馬県の自然美あふれるある町での、ゆったりとした時の流れと人々の心を、動く絵画のような美しい映像で表現している。

 本来の主演である『眠る男』を演じているのは韓国の人気俳優アン・ソンギという人なのだそうですが、映画の中ではただ病床で眠っているだけで、最後にほんの少しのせりふ。インドネシアのクリスティン・ハキムという国民的女優も出演。四季のある異国に出稼ぎに来、むかし亡くしたわが子を思い、心の旅路をさまよう母親として出演。

 この物語に登場するのは山の事故で昏睡状態となってしまった男の高校時代の友達上村(役所広司)とティア(ハキム)、そして眠る男。そしてその生活に介在する周辺の人々。

 眠る男拓次はただ眠っているだけで何も語らない。若いころに残した手記や手紙もあるけれど、どれも断片的で、内面的で理解しにくい。上村はそんな彼を自らの幼年時代の思い出と対比させ、理解しようとする。そこにはふるさとの四季があり、ゆたかな自然と温かな人々の思いやりを見つけるのだった。

 メナムという場末のスナックではたらくティアは、亡くしたわが子と祖国に残してきた家族を思い出す。秋には枯れて死ぬけれど、必ずめぐってくる春がある日本の自然を目のあたりにし、ここでもやはり時間はゆるやかに移ろい流れ、お互いを思いやって生活している人々のあたたかい心を知る。

 眠る男拓次は何も語らぬまま死んでしまうのだけれど、その火葬の煙は里を越え一直線に山の向こうに流れてゆくのだった。

 その煙に惹かれてか、上村は幼少のころ拾った犬を飼うことを父親に拒まれ、山中に住む老夫婦宅に犬を託しに行った思い出をたどり、その廃家を求めて山へさまよう。そしてさらに拓次を求めて山に登る。ティアは孤独になりたいがためかやはり山中にはいる。そこで自然との語らい、その劇的なひとコマに感激し、祖国に帰る。

 群馬のというか日本のゆたかな自然と神秘性を表現するに、小栗監督の映像技術はさすがとしか言いようがなく、すばらしく感動的。自然の移ろいに連れて繰り返される雪や木々の緑、動物たちの営み、そして風。そういったものや事、いのちたちの生と死が写し出す自然とは、ぼくたちの知らないところで、それらが一抹一瞬の出来事のなのにもかかわらず、なんと感動的で生命力に満ちているのだろう。

 自然を風景画の一部のように表面的にしか、あるいは単に春夏秋冬の繰り返しにしかとらえていない現代人がいるとしたら、この映画で表現されている自然とはまるで次元の異なった世界なのかもしれない。

 眠る男は実はただ眠っているだけではなく、そのあまりにも静かな動作の奥底で、彼をつつむ四季の移ろい、自然を通して、実はめくるめく感動の世界を満喫しているのかもしれない。

 この映画は、わたしたちが失いかけている日本の原風景をあらためて認識させてくれるすばらしい映画でした。
小栗康平オフィシャルサイト『眠る男』より
http://www.oguri.info/products/nemuruotoko/


370 青春デンデケデケデケ
04/10/02


 92年大林宣彦監督の『青春デンデケデケデケ』という映画があり、心情が先立ってしまってもいけないのだけれど、ぼくの好きな映画。60年代中頃、香川県観音寺市の高校生(林泰文)が、ベンチャーズの人気曲『パイプライン』のエレキサウンド、デケデケデケ(トレモログリッサンド奏法という)に衝撃(いわく、エレクトリックリべレーション『電気的啓示』)を受け、なにがなんでもバンドを結成し、高校生活をすごしてゆくという話し。

 だれにでも青春時代というのがあり、それこそ歳をとってあとで振り向いてみれば「杖を突いたり転んだり」という風で、なんともはずかしくもくすぐったく、狂おしいほどに一途で、わすれたくてもわすれられない思い出の数々なのであります。そんな思いを満載しているのがこの映画。何度観ても楽しくなってしまう。

 この映画のちょっとちがうところは、全体がドキュメンタリー風になっているところ。もちろんストーリーがあってせりふもあるのだけれど、あまりにあたりまえすぎる展開となっている。途中、恋愛や初デート、恩師、父の死などいろいろあって、それらがけっこうクローズアップされてもおかしくないにもかかわらず、ひたすらバンド活動の顛末が披露されるという内容。

 主人公はといえばただ普通の高校生で、ロックが好きであるというだけなのだけれど、それを取り巻く同年代の友やその家族、恩師、父、母といった人たちとの関わり合いがいかにもあったかい。

 登場人物の中で坊主の息子で親の代わりに寺の檀家回りまでしている同級生の郷田(大林嘉之)が出てくるのだけれど、これがなんともはまり役。説得力のあることをずばりと言う、妙に大人びた奴。まして坊主役なのでさらにおもしろい。思い返してみるとこういう奴、妙な存在感のあるまるでおとなを地でいったような人物がひとりくらい同じクラスにいたような気がする。

 そうかと思えば、ぼくらには理解もできない電気回路をひねり出し、アンプなぞを作ってしまうような奴もいた。拍手喝采したくなるようなちょっとおもしろい先生もいた。

 物語は電気的啓示→バンド結成→アルバイト→バンド合宿→恋愛(もあり)→恩師の死→文化祭でライヴ→卒業→受験→バンドメンバー離散という流れ。だれにでもありそうなふるさとでの青春時代。そう、ぼくにだってあった。

 ぼくの青春時代。そのころぼくは自分自身、これは波乱万丈なのではないか。小説にだってなるかもしれない。などと思ったもの。毎日が胸の高鳴ることばかりで生き生きとしていて、まわりを見れば古臭いことばかりで、矛盾だらけで・・。でも自分の力で世界が変わるにちがいないなぞと考えていたりする。

 年月は移り過ぎ、こんなに歳をとってしまった。それなのになんとあのころと変わらないのだろう。少しはおとなになれると思ったけれど、やっぱり振り向けば「杖を突いたり転んだり」。

 果たして世の中に『おとな』と呼べる人物がいるのでしょうか。それとも自分だけなれずにいるのでしょうか。

林泰文(右)と浅野忠信
こちらをごらんください