391 Like a Hurricane
05/03/10

 若い年頃ではがちゃがちゃしたロック音楽を聴くことが多い。でも歳をとるにしたがってそういうのは余り聴かなくなる。ぼくもご多分にもれず、学校を卒業し、就職を機会にそれどころではなくなったのか、7、8年の間、音楽なぞめったに聴かないという年月を過ごしていたのだった。その間にぼくは会社を辞め、スーパーの店員となった。そして自分で漬物屋でも始めようかしらんと思い始めるようになっていた。

 ある日のことテレビをみていると、どういうわけかニールヤングというカナダ出身のフォーク・ロック歌手のライブの模様が映し出されたのだった。なんとそのかっこのよいことだっただろう。それまでフォーク歌手だと思っていた彼が感動めくるめくロックの曲を演奏しているではありませんか。ぼくの目と心は完全に釘付けとなってしまい、その曲にはまり込んでしまった。

 早々にその曲の入った二ールヤングのレコード『American Stars‘n Bars(アメリカの星と棒=星条旗)』を買った。そのLPレコードに入っていた目当ての曲は『Like a Hurricane(嵐のように)』というの。この曲では彼のエレキギターが炸裂し、それがまるで天を駆け巡るがごとく、あるいは登りつめ、昇天してしまうという内容。

 その曲に出会ってしまったからか、あるいはその曲を素直に受け入れるタイプの人間になっていたからなのか、とにかくぼくは居ても立ってもいられなくなってしまい、まるで失った日々というか過去を取り戻さなくてはというような気持ちで、当時身近にあったロックを聴かせる喫茶店に通うようになった。それ以来ずっと、ぼくには音楽はなくてはならないもの。結局ロックはブリティッシュに限るというわけで、そのレコードはその他のアメリカンロックのレコードといっしょに売りさばいてしまったのだった。残念!

 昨日息子とCD店に行ってみると、色々ある中で、ニールヤングのそのCDを見つけた。また聴いてみたい、息子にも聴かせたいというので、またまた買ってしまった。車の中でめいっぱい音量をあげて聴いてみると、やはりぼくの目はうっすらとなみだ目に・・。あらためて「すごい」と思った。

 それぞれの個性はちがうものの、こういうような昇天してしまうギターソロというのをニールヤングの他に2.3知っているけれど、そんなにたくさんあるわけでもない。


American stars 'n' Bars
 人はボーカルという方法で歌うわけだけれど、たとえばギターを使った場合にはギターでメロディーを刻む。ニールヤングは決してギターソロがうまいわけではないけれど、ひとつの曲をボーカルとギターソロのふたつのメロディーで、しかもロックにのせて聴くものを魅惑してしまう。

 ある人にとって音楽とは生活に潤いをあたえるものであるかもしれない。またある人には感動や生きるための勇気を得るための、欠くことのできない血や肉であったりもする。ぼくにとって音楽とはまさにそんな生々しく、活力にあふれ、刺激的でかつ攻撃的、熱情的なものであってほしいと思う。


392 ぼくは怖くない
05/03/17


 イタリア映画『ぼくは怖くない』をビデオで観た。この映画は2003年作品で、ガブリエーレ・サルバトーレスという新鋭監督による。70年代末の夏、イタリアの貧しい田舎での出来事を通して、純潔な子どもの心とそれを根底から欺き、深い傷跡を残してしまうおとなたちの邪悪な心の一面を浮き彫りにする。

 これから観てみようという方のために、物語のあらすじを書かないほうがよさそう。とにかくぼくはこの映画を観て、大きなショックを受けてしまったのだった。

 物語りもさることながら、この映画は映像としてもすばらしく美しいもの。麦秋をむかえる少年のふるさとは黄金色に輝く小麦のじゅうたんにおおわれている。本来ならばそんな原風景ともいうべき環境の中で、成長してゆくはずの少年期。

 思えばいかに多くの子どもたちが、自分の親を含めたおとなたちの愚行のおかげで散々な目に合わされていることだろう。戦争がそのよい例かもしれない。正義だかなんだか知らないけれど、なにかの目的で始められた戦争のおかげでおとなたちは武器を持ち敵を撃つ。そのおとなたちの多くは父親であり、息子や娘がある。親たちは命令どおり、あるいは正義感に燃え必死で戦うのだけれど、結局は親同士が殺しあっている。

 おそらく彼らは戦争で行なっている自らの行いを、胸を張って我が子に語ることはむつかしいことだろう。しかしながら子どもたちにとって親は親。すべてをかけて信ずることのできるおとな。

 あるいは子どもたちは自分の親を信じないではいられない。さもなければやっていられないし、どうしようもない。それしかできない。それなのに現実はどうなのだろう。ぼくにも想像はつくけれど、なんともやりきれないどうしようもない現実があったりする。

 映画の舞台となった青空の下に広がる黄金色の麦畑なのだけれど、ある日コンバインハーべスターが麦刈りを始める。あるいは暗雲が立ち込め、大粒の雨が降り始める。そしておとなたちの愚行が遂行されつつあることが発覚し始める。おとなたちにとって子供とはいったいどれほどのものなのだろうか。

 この映画に出会って思い出す映画がある。それは1952年のフランス映画『禁じられた遊び』。名監督ルネ・クレマンの名作。戦渦にもみくちゃにされながら、自分を守ってくれるものさえも失い、それでも絶望という状況を理解できない子どもの姿がなんとも衝撃だった。

 『ぼくは怖くない』という映画では『禁じられた遊び』のような究極的な絶望とはちょっと違う部分がある。それが子どもたちの友情であったり、もみくちゃにされながらも立ち直ろうとする少年の姿があったりもする。そういった一面で納得すれば、この映画は希望といったものを与えてくれているのかもしれないけれど、やはりぼくにはあまりにどうしようもなく愚かなおとなの世界に、ただ衝撃を受けてしまったのだった。


393 誰も知らない
05/03/23


 ビデオで『誰も知らない』という邦画を観た。2003年の作で監督は是枝裕和という新鋭。ほかに『幻の光』、『ワンダフルライフ』『ディスタンス』など。映画制作以前には、テレビ用ドキュメンタリー番組を数多く手掛けているとのこと。この映画『誰も知らない』では台詞が日常会話のごとくとつとつと進められるため、感情表現も大げさなところがまったくなく、それがかえって物語の深刻さというか重々しさにつながっているようだ。

 母けい子と12歳の明と京子、茂、ゆきという5人の家族がいるのだけれど、この子たちはみな父親が違う。そしてすでに離婚してしまっている。今回もあたらしくアパートに引越ししたのだけれど、幼い子がいると入居がむつかしいので、けい子と明二人だけの家族ということにしている。あとの3人は引越し荷物にまぎれてアパートに入り込む始末。3人の子供たちは部屋から出るとまずいというので、ずっと閉じこもったまま。もちろん子どもたちは学校にも保育園にも通っていない。母けい子は子どもたちを残して、平気で帰ってこないことがおおい。明はその間ずっと年下の兄弟たちの面倒をみてやるのだった。

 そしてあるときからけい子は二度と帰ってこなくなってしまう。母親が残していったお金をやりくりしつつ、挙句の果てには前の父親に生活費を乞うたりも。数ヶ月という時が無常に経ち、明は変声期をむかえるほどに。そして取り返しのつかない事態へと・・・。

 そのアパートにいないはずの3人の兄弟たち。そしてその生活。さらには取り返しのつかない事態。それらの現実が誰も知らないところで誰も知らないうちに、淡々と重苦しく展開してゆく。

 社会的な弱者と呼ばれる子どもや年寄り、あるいは障害を持ち、人権を無視された人たちが、人知れないところで生死の狭間を行き来している。悲鳴をあげるでもなく、反抗もせず、ただなされるがままに、あたかもそれが我が身に与えられた運命でもあるかのようにいる。

 思うに『誰も知らない』というのは、ただ単に知らないのではなくて、知るつもりがない、知るものか、はたまた無視という態度につながるのかもしれない。

 この物語に登場するコンビニの店員は売れ残りの弁当を、前の父親は少ないながらも生活費を明に与えてはくれるものの、その結果に大してのこともない。不登校の女子高生は、誰にも知られないという同じ境遇のこの子たちに寄り添うのだけれど、結局は力とはなりえなかったりする。そしてそれがお互いを悲しくというかうつろにさせる。悪びれないバカな親の態度。ただ何かに頼るしか生きるすべを知らない幼子たち。

 親として、友として、恋人として、連合いとして、ことによるとぼくたちは『何も知らない』のかもしれない。社会の同じ構成員として、同じ仲間として、親子として、夫婦として、ぼくたちはもっと相手のことを思いやらなければいけない。淡々とした日常の会話の中に、秘めたる感情の表現がなされていることをわすれてはいけない。
『誰も知らない』公式サイトより


394 テープ
05/04/01


 またまたビデオで観た映画のはなし。米国映画の『テープ』というの。これは自主制作で革新的な映画を手掛けるリチャード・リンクレーターという監督による2001年の作品。映画のセットはただひとつアパートの一室だし、登場人物もたったの3人という、まったく安上がりな映画。しかもおもしろい。

 登場人物の3人はかつて同じ高校を卒業している。当時はクールな男だったけれど、今では消防士の傍ら、ドラッグをさばいているちょっとヤバイ立場のヴィンセントは我が安アパートに、映画監督となって明日行なわれる映画祭のために帰ってきているジョンと、自分とは肉体関係にまでは及ばなかったけれど、ジョンとはそれがあったらしい当時の意中の女性エイミーを呼んだのだった。

 たぶんエイミーはずっと後の時間にアパートに来るはずなので、ヴィンセントとジョンは卒業当時の思い出を語り始める。そこでヴィンセントが知ったのは、ジョンは実はエイミーに好意を持っていたわけではなく、にもかかわらずなかば強制的に肉体関係を迫ったという事実。そしてそんな自分の行為に後悔の気持ちを持っているということ。その話をヴィンセントはイラつきながら聞くのだけれど、なんと彼はその会話をそっとテープに録音していたのだった。ヴィンセントはもうすぐやってくるエイミーにそれを聴かせてやるんだとジョンを脅すのだった。ドラッグがなかば効いているので、遊び半分なのか本気なのか・・。とにかく緊迫したうちに会話が進んでゆく。

 そのうちエイミーの登場。彼女は今では弁護士としてはたらいていて、エリート。久しぶりに会った3人はなつかしさもつかの間、卒業当時のジョンとエイミーの関係についての話になると非常に気まずい状態に入っていってしまうのだった。その中でわかったことはエイミーはジョンに好意を持っていたこと。だからジョンと関係を持ったからといって彼をうらむ気もなかった。けれども実はジョンには彼女への好意なぞなかったこと、そして彼女に謝罪しようとするジョンに彼女は次第に苛立ちをおぼえてゆくのだった。

 お互いの誤解というかすれ違いのおかげで、ヴィンセントのアパートには張り詰めたというか、険悪な空気が流れるのだった。何かが起こりそうな雰囲気・・。

 『テープ』という題名から想像するのはなんといってもやはりサスペンス。高校時代の友人3人は、再会したことのなつかしさもそこそこで、あげく、一触即発のひと時へと・・。

 これ以上の話をしてしまうと、これから観てみようという方に申し訳ないのでここで止めるとして。とにかく、ぼくたちのかつての思い出、出来事とは、たとえば当事者が3人いたとすると、それぞれ各人にはちがったものとして記憶されていたりするもの。そんな事柄を年月が経って後、お互いの心理、感情として確認しあうことが、時と場合によってはこの映画のような展開となってしまう場合もあるわけで、何かとても空しいというか、にもかかわらずやっぱり人の心というのは小市民的ではあるけれど、そんなものなのかなと安心もしてしまうのです。
『テープ』公式サイトより


395 四月馬鹿
05/04/06


 4/1はエイプリルフールといって、さしさわりのない程度の嘘をついてもよいとされる日。家族や友達、恋人同士で可愛いうそでお互いが親交を深めたりするのにもってこいの日として知られています。

 ただしぼくが子供のころには、四月馬鹿といえばそれこそ恒例の行事であったように記憶しています。日ごろ親には「嘘をつくな」と口すっぱく言われているけれど、この日ばかりは公認ということでわくわくしたものです。そして毎4月1日ともなると、ありとあらゆるわくわくするような他愛のないうそを考えるのが、まず第一のたのしみ。また今日が四月馬鹿だと知っているのだから、いつ、誰からうそを仕掛けられるかわからない。という緊張感もまたわくわくの材料だった。

 エイプリルフールの起源はというと、どうやらフランス16世紀ごろにあたるといわれています。これにはけっこう込み入った事情があるようです。それまで欧州での新年は3月25日と暦で定められており、その日から4月1日までを春の祭りとしていました。

 このころまで欧州ではユリウス暦という太陽暦(ユリウスとはユリウス・カエサル、すなわちジュリアス・シーザーのこと)を使っていたのですが、この暦だと閏年を4年に一度設定しても、1年で約11分長いことになるのだそうです。このユリウス暦はBC46年から使われてきていたため、約1600年の間に11日ほどの余りを出してしまっていた。その誤差を一気に解消するため、行事の一番少ない10月に補正をしたのだそうです。なんと10/4の次の日を10/15にしてしまった。そして今後このような誤差が出ないようにと、緻密な計算に基づいたグレゴリオ暦(ローマ法王グレゴリウス13世による)を採用した。

 とにかくユリウスをグレゴリオに置き換えるのを機会に、一年の始まりを1月1日に決めてしまいました。それまでは旧暦ではお彼岸のころが新年だったのに、それが寒い冬に移ってしまったことで、人々には不満もあったのでしょう。今までの新年はやっぱり何もせずにすごすわけにはゆかないということで、うその新年として4月1日を祝ったということのようです。

 というような説もあるのですが、いやいや4月馬鹿のお祭りはもっとむかしからあって、奴隷が主人に命令してもよい、子どもがおとなにいたずらをしたりというような、社会秩序に反するようなこともその日だけは許されたり、もちろんうそをつくことも・・。

 このように旧暦を新暦に交代することで、世界中でこれに似たようなことがあるようです。日本でも3月にはひな祭りがあり、お彼岸といえば先祖をお祭りしたりする。中国では万愚節などとも呼ぶらしい。
要するにエイプリルフール、四月馬鹿とは何かといえば、春の訪れをすべての人たちでよろこび、お祝いすることなのでしょう。季節のうちでもっとも楽しむべくはまさに春。四季のはっきりした国々で、いのちがいちばん輝くとき、春に、そのおとずれを喜ばずして、はたまた謳歌せずして何が生命ぞ、といったところでしょうか。

 日本の4月といえば桜の花咲き、新学期、一年生、新入社員・・・。やっぱりあたらしい年の始まりというわけです。1月元旦の正月もおめでたいかもしれませんが、自然界すべてがめいっぱいの、それぞれの表現方法で春の訪れを祝い、また喜びをあらわし、新しい生命を謳歌するのです。これこそがエイプリルフールの起源なのではないでしょうか。

 それにしても子供のころ、エイプリルフールについたうそってどんなのがあったんだろう。きっととってもたのしかったのだろうけれど、どうもそれが思い出せません。たぶんそれくらい他愛のないうそだったのだと思います。

 最近ではエイプリルフールだからといって、うそのつきっこをしなくなってきました。ひょっとして世の中に日常的にうそが横行・蔓延してしまっているからでしょうか。そんななか、他愛のないうそぐらいついて、みなで春の訪れをよろこびあうくらいのユーモアも必要なのかもしれません。


396 遺伝子組み換えナタネの自生
05/04/20


昨年6月末、農水省からナタネ輸入港周辺で輸送途中のこぼれ落ちによるGMナタネの自生が確認されたという調査報告がありました。これは茨城県鹿島港周辺での実態を伝えるものでしたが、それを受けて(以前からも懸念していた)『遺伝子組み換え食品を考える中部の会』や『ストップ遺伝子組み換え汚染種子ネット』などが日本各地で該当する港周辺での実態調査を行なってきました。

これらの自主調査は昨年夏から秋、冬、そして今春と続けられてきました。その結果(まだ結果とはほど遠いですが)、GMナタネの拡散はかなり広がっていること。さらに状況から推測して、すでに他のアブラナ科の植物(野生のカラシナなど)と交配もしているのかもしれない(まだ未確認)ということなどが、大きな問題点として浮かび上がってきています。
『遺伝子組み換え食品を考える中部の会』では三重県四日市港から嬉野町にあるT製油所を結ぶ、国道23号線沿線の調査を3/17と4/7の両日に行ないました。

3/17の調査
この時期になるとナタネはそろそろ開花時期になりかけてくる感。R23沿線では車を走らせながらの目視で確認しましたが、約50Kmの沿道で40〜50くらいの開花がありました。検体として採取したのは21地点、40株以上にのぼりました。それぞれの地点ごとで試験紙を使ったGM判定をした結果、12地点のものが除草剤ラウンドアップ耐性ナタネでした。このうち、R23号沿線での自生についてみてみると、なんとその9割がGM陽性だったのです。

これは当然ですが、輸送経路であるR23号の反対側車線道路脇では、ナタネはほとんど自生していません。そして自生ナタネでGMの確立が高いのは国道沿いでの除草に除草剤が使われているためとみられます。そのためGMナタネだけが枯れることなく生き残ることができてしまうためです。

4/7の調査
先回の調査から1ヶ月を経過していないにもかかわらず、R23沿道は『ナタネロード』と化していました。先回では『点』として確認されたナタネの開花は、今回では『線』と表現しても差し支えないほどでした。

このころには、すでにナタネは開花時期をむかえていてR23沿道ばかりでなく、いたるところでアブラナ科のいわゆる菜の花が咲いていました。ハクサイ、キャベツ、カブ、コマツナ、野生化したカラシナなど、よく見ないと区別しにくいほどよく似ているものです。

三重県四日市市を流れる鈴鹿川の支流、内部(うつべ)川をまたぐ塩浜大橋下の河原では野生のカラシナが一面花を咲かせていました。R23号でこの橋を通過するナタネの輸送トラックからは、当然このカラシナの群落の中にもこぼれ落ちているはずなので(事実GMナタネが見つかりました)、もしかするとすでに交雑が起こっているのかもしれません。

農水省の見解では、セイヨウナタネは『在来種と交雑する可能性もゼロではないが、一般的に雑種は繁殖力が弱く、はびこることはない』としているものの、元筑波大・生井兵冶氏(受粉生物学)によれば、違う種類との間での交雑種も代を重ねるうちに繁殖力を得る可能性もあるとしている。

R23沿の民家の庭先のGMナタネ(毎年咲くのでよろこばれているのかも)

また本来一年草のはずのセイヨウナタネですが、鈴鹿市林崎町の田の畦では、除草剤散布のおかげでGMナタネだけが居残り、1年以上も枯れずに花を咲かせ、タネの入ったたくさんのさやを作っていました。周りには同じようなセイヨウナタネの太さ3センチはあろうかという株が何本も生えていました。

昨年夏から自主調査をしてきましたが、そのたびごと、季節ごとにあたらしい事実を確認してきました。そしてナタネの最盛期の春にいたって、これは放っておくと大変なことになるのかもしれないという危機感までおぼえてしまいます。
多年草化したGMナタネ

現在見つかっている2種類の除草剤耐性GMナタネには、すでに国内での栽培認可も降ろされてはいるものの、その安全性自体にもまだ不確かな部分もあるといわれています。これらのGMナタネはまだ国内では栽培されていないだけに、限られた場所での自生に止まっているうちに、何らかの根本的な対策が取られる必要があるものと強く確信します。
名古屋港にて(これもGM)大群落!


397 釣りばか教
05/04/22


 久々釣り仲間と釣。今回はとにかく最近釣にいってないので、せめて身近なところでもいいからということで、かと思うとメバルが釣れているという消息筋からの情報もあり、ぜひゆこうというので三河湾の某ポイントへ。

 思えば釣り人というはどうしてかようにバカなのでしょう。真夏の炎天下であろうが、台風接近で海が荒れていようが、年末で忙しかろうが、はたまた真冬で夜釣り、北風が吹きすさぼうが。そういったことには一向にめげることなく、ひたすら時をうかがっては、水のあるところに駆けつけては竿を出したがる。

 今日もちょっと釣りバカのぼくとかなり釣りバカの友二人が出かける。ちょっと風が強くて無理なような気がするのだけれど、とにかく行ってみて・・・。車で海に向う途中、「ちょっと無理」「いや風はきっと止む」などと水掛け論のくすぐりあい。目的地についてみるとちょっと風もおさまりそうな雰囲気。・・となんと、釣えさ屋が休み。よせばいいのに山を越えた向こうのエサ屋に直行し、とうとう釣えさ購入。

 再度釣り場へ。一体全体どこからそんな情報を仕入れたのか、軽く20〜30は上回る台数の釣り人の車がずらりとならんでいる。まったくけなげというか、ばかばかしくも、気強いというか、あきれてしまう情景。よくもまあこんな信憑性もない情報を平気で鵜呑みにして集合したものだ。さらにその釣り人たち、竿を持ち、思い思いのポイントに入り猟奇的というか、日頃これほど集中した物腰を見せたことなぞ仕事中にはなかろうというか。はたまた今日このとき、まさに竿を出せたという喜びというか、これからおとずれるかもしれない魚からのアタリを夢見てか、釣り人の表情はまさに至福。

 世の中にいろんなわけのわからない宗教があったりするけれど、釣り人ほどけなげなというか、盲目的な信者もいないんじゃないかとつくづく思う。これ以上はないというような苦境の中においても、また獲物を得られずとも思い知ることなく、幾度ともなく愚行を重ねながらも懲りるということをしらない。釣で身を崩すというか、財を築いたものなぞいるはずもなく。もしもそれが『海の神』に詣でる行為であるとしたなら、これほどカモられつづけても「海へ来られ、竿を出せただけでも幸せ」なぞとのたもうなぞ、頭がおかしいとしかいいようがない。

 うちの若息子がまだ釣だから放っておけるものの、もしもこれが新興宗教であったとか、マルチ商法の会員だったりしようものなら、首根っこを掴んでまでもやめさせようとするもの。それが奥深き『健全な趣味』であるがために、あきらめというのか、野放しにしてしまう。そして本人はさらに輪をかけた『バカ』のつく釣り師へと殿堂入りしてしまう。

 日が沈み宵闇の堤防を歩いてゆくと一人の釣り人がわけのわからない(おそらく本人にもわかっていない)道具立ての釣り師が竿を片手に立っている。闇に浮かぶ影に「どうですか」と声を掛ける。元気な声で「だめですねえ」と返事が返ってくる。まったくご同類同士、至福をかみしめるひと時なのです。


398 音羽の猫
05/04/27


 音羽町に借りている借家には『マルコ』という雄猫が囲ってある。田舎だから放し飼いにすればいいのだけれど、家に隣接して県道が走っていて、とても猫を出しておけるような交通事情とはいえない。それにぼくらも音羽に泊まったり、岡崎の実家に帰ったりを半々のような感じで過ごしているため、家にカギをかけて猫を締め出しておくわけにも行かない。結局家の中に囲っておくということになる。

 この雄猫、かなり巨大な割にはかなりの甘えん坊。昼ごはんを食べにおとずれたり、宿泊のため夜音羽の家にいたりすると、これでもかというほどに甘えてくる。こちらが歩くたびにまことにしつこく足にまとわりついてくる。あやうく転びそうになってしまうほど。とくに巨大で重量級ということもあり、危なくて仕様がない。

 以前もう一匹の妹猫といっしょに囲っていたころには、張り替えたばかりの障子やふすまなどが、これはなにかの『腹いせ』なんじゃないかと思うほどにつめを立てられた挙句、その無残な姿をさらす結果となっているのだった。こまめな住人ならすぐにでもきれいに『張替』なぞしようというものだけれど、これまた不精な彼らは「一度はきれいに張り替えた」という事実だけで十分らしく、冬の隙間風を防げばそれでよい程度の透明幅広荷造りテープで補修してオシマイなのであった。

 岡崎の実家で袖とひざを突き合わさんばかりに住んでいるぼくらにとって、音羽の借家は何と広いこと。冬は寒いし、夜は暗いし怖いしということで、台所と居間、トイレと風呂場の一かたまりの一角だけを住処としても十分な居心地を得てしまうところなぞ、まことに情けなくも貧乏性という感じ。ぼくの奥方なぞ、冬の間、去年の夏からおそらく一度も二階に足を踏み入れたこともないといった具合。

 そんなぼくらにとっては広すぎる借家なのだけれど、いったいこの巨大猫にとってはどんななのだろう。よく猫の縄張りはその家から周囲100mほどと言われるけれど、それから考えればこの借家では狭すぎるのかもしれない。家の中には鉢植えぐらいしか置いていないので土もない、窓も締め切ってしまえば外もあまり眺めていられない。たった1箇所、昼から日が当たってあたたかく、しかも外の様子が眺められる場所にふかふか座布団を置いてある。暖かだし、外の様子がよく見えるので、その座布団は巨大猫の格好の寝床となっている。


なんとなく妙な顔をしている
 夕刻暗くなってから借家を訪れるぼくらの自動車を見つけるや、玄関に走りより、ニャーニャーと巨大猫とは思えない猫なで声でぼくらをむかえる。「今まで一体なにをしていたんだ」なのか、「さみしかった」なのか、「何かうまいもんを食わせろ」なのか。とにかくうるさいほどの出迎えに、ちょっとうれしいやらへき易とするやら。

 しかしこの巨大猫、ぼくらの居ない長い一日を一体どうやって過ごしているのだろう。これは道長の作業所の番犬『キク』でもそうなのだろうけれど、何かに保護され、安全を確保される代償として『囲われる』という環境を押し付けられている。半ばありがたくも半ば退屈な身の上に、彼らは一体どんな人生観なぞお持ちなのだろうか。


399 悲劇のバンド
05/05/04


 1970年前後といえば、ハードロックが一気に隆盛して花咲いた時期。代表的なバンドといえば、Led Zeppelin、Who、Deep Purple、King Crimson、Cream、などなど。とにかく挙げたら切がないほどたくさん。『ブリティッシュロック大名鑑』という60から70年代を網羅した人名・バンド辞典があるのだけれど、そこには英国のバンド750、そして5000名もの人物が掲載されている。それほどに英国というあんなに小さな国で、まったく数多くのロックバンドがあったものだとおどろいてしまう。

 そんな中で、すべてのロックバンドの頂点はと問われたら、まずレド・ツェッペリンを挙げるのだけれど、にもかかわらず、これはぼくの心情も加味してというか、最もブリティッシュらしいバンドとして、『 Free 』を挙げる。このバンドは68年、ブルースを基盤としたあたらしい音楽を模索する中で生まれたバンド。あまり知られていないけれど、英国ロックの父とまで言われるアレクシス・コーナーという人物が世話をし、命名したといういわば名門の出(このコーナーなる人は自らミュージシャンで、黒人音楽を基盤としてジャズやブルース、ソウルを英国風に大衆音楽化したいわば元祖で『スキッフル』ブームを起した人。あのビートルズもコーナーの門下生ではないものの、スキッフルブームの中から生まれたのだった)。

 とにかくフリーはツェッペリン(やはりブルースをより前進させ、攻撃的に進化させた)とはちがい、全体的にはスローな曲が多いのだけれど、ポール・ロジャースの伸びやかなボーカルとポール・コソフの『泣きのギター』がかっこいい。陽ではなく陰律による曲編成、重々しい演奏にまことにすばらしく個性的なコソフのギター演奏が間奏を飾る。しかしながら、フリーはたった3年の活動で解散してしまうことになる。その間に6枚のアルバムを発表していて、どのレコードも短期間のあいだにみごとに進化をとげている。だから71年の突然の解散はとても残念。

 しかしながら翌72年再結成、新生フリーがふたたび船出をかざる。そのアルバムは『ハート・ブレーカー』で、ポップで重く、力強い秀作。ぼくなぞ、このアルバムを聴くたび心に涙するほど。そしていつもその中に非常に強い意志、つまり「もう一度やり直そう」という志の確認。
 収められている曲目をぼくなりに訳してみる。「お元気ですか」「今朝、ぼくといっしょに」「さあ旅立とう」「つれない奴」「ぼくらはブルースから生まれた」「凡人」「気楽にゆこう」「天使の翼」。大体アルバムの感じが掴めるとよいのだけれど。要するに、もう一度やり直そうという気迫がこのレコードには満ち溢れている。

 それなのに、このアルバムが実を結ぶことなく、フリーは再度解体してしまうのだった。そして「Bad Company」「Back Street Crawler」などのバンドをそれぞれのメンバーは結成。にもかかわらず、悲劇なのは彼らは別れても、結局同じ音楽をそれぞれで奏でつづけるのだった。そしてあのコソフは薬物中毒の挙句、帰らぬ人となってしまう。フリーの最後のアルバム『ハートブレーカー』を聴くたび、いつもぼくは悲劇のバンドを連想し、涙してしまう。


400 どですかでん
05/05/10


 日本の映画の名監督といえば黒澤明。有名な作品としては『姿三四郎』『羅生門』『生きる』『七人の侍』『赤ひげ』『影武者』など。明治末期に生まれ、エノケン、ロッパの映画にも係り、日本の映画の歴史に足跡を残す、いわば映画そのものといってもよい人。そんな黒澤明の70年作品に『どですかでん』という異色なのがある。

 舞台はスクラップとごみのスラム。そこに住むちょっと物騒だったり、変人だったりの人たちの生活を描く。主人公は六ちゃんという『電車ばか』というあだ名をつけられた知恵遅れの少年。彼の母は毎朝「南無妙法蓮華経」のお題目を大声で唱えながら息子の将来を案じ、きょうもまた深いため息をつくのだった。

 雨の日も晴れの日も六ちゃんはリアルではあるけれど、身振りだけの電車の運転をしながら、草も生えないごみ野原を『どですかでん、どですかでん』と轟音とも呪文ともいえないような大声を張り上げて走り回るのだった。現実の町内でそんなことをする者がいれば大騒ぎになるのだろうけれど、この小さな運命共同体ではごく日常の出来事。

 酒の勢いで知らず知らずに嫁さんを入れ違いにしてしまう、ちょっと足りない酒のみのニコヨン(戦後間もないころの日給240円の日雇労働者)コンビがいたり。女房の不倫がショックで廃人となってしまった男に、必死で許しを乞い尽くす女がいたり、酒を飲むとすぐに日本刀を振り回す物騒な奴がいたり、泥棒が入っても「困ったらまたおいで」と盗人に追い銭をするほどの善人のかたまりみたいな小間物細工師の老人がいたり、すべてが女房の浮気の結果の子供たちにもかかわらず、父ちゃんがお前たちの親だと胸を張る内職親父がいたり(今も女房は腹ボテ)、夢想というイメージの世界で理想の家を設計構築する、親子でもなさそうな二人連れがいたり、酒をご馳走しようと会社の同僚を家に呼び、あまりに無礼でひどい彼のワイフと称する女にあきれてひと言言った同僚に、食って掛かかってワイフを弁護するあわれな男がいたり(伴順三郎がその役で、時々おとずれる顔面神経痛の発作を見事に演じる)。などなど。


『どですかでん』のポスター
 ごみの山のスラムという、まことに狭い世界の中。よほど世間からつまはじきされているのか、はたまた居心地がいいのか、どうにも行く先がないのか、そこで住む住人たちが悩み、おびえ、泣き、笑いながら生活をしている。けれどもそのひとつひとつを冷静にながめてみると、なんと現実的で、哀れで、悲しく、楽しく、ほほえましいのだろう。実はそんな場所にこそ、大いなる映画のみなもととなるべき人間模様がある。

 ぼくらも表面(おもてづら)は文化人かなにかを装ってはいるものの、その心に宿している問題、悩み、幸せとはなんて『どですかでん』の彼らと同じなんだろう。

 時代はロックでいえばヒッピーや『ライヴピース』のサイケデリックの時代。薬物を借りて得られる幻覚の世界が極彩色の光と原色の世界であるように、この『どですかでん』を包む映像もその時代を反映している。その光と影が確かに舞台演劇を意識しながらも、しかもそれでは表現しきれないさらに暖ったかな世界を、スラムという極々狭く限られた空間を通して、黒沢明監督は伝えたかったのだと思う。