441 ソラリス
06/03/23
 原作はポーランドの作家スタニスラフ・レムという人。1972年にソビエトで映画化され、異色のSF映画として話題になった。最近では米国でも映画化されてヒットしている。原題『ソラリスの陽のもとに』(むかし読んだことはあるけれどあまり憶えていない)では、人間が未知な惑星ソラリスで体験する異常な事態を通して人間の深層心理に潜む、自らも分析し得ない人の心について考察を進めようとしている。

 なぞに満ちた惑星ソラリスに滞在する者はすべて、自らの心の深層にある最も大切な人物と出会わなくてはならなくなる。それがひとつの巨大な意識として存在するソラリスによって作為的に生み出されるものなのか、はたまたそこに滞在する人物の意志・願望によってなのか、とにかく実体としてその誰かが現れてしまう。もちろん『それ』は人間ではないのだけれど、現実として存在しするその人物そのものなのだった。『それ』には人物としての感情もあれば、(すでに他界しているならば)それまでの記憶もおぼろげながら備えている。『それ』をたとえ宇宙に追放しようが、朝起きてみると再び現れる。『それ』が自ら命を絶ったとしても再び蘇生してしまう。

 考えられない異常な事態を収拾すべく、ソラリスに派遣された精神科医クリス。しかしそれどころか彼はそこで妻レイラと出会うことになってしまう。彼女は数年前、自ら命を絶ち彼の前から去ってしまったのだった。以来、クリスは妻を死なせてしまった悔恨の念に悩み続けていた。

 だからといって彼女との再会が『やりなおし』につながるわけでもない。おぼろげな記憶の中から彼女の意識は自ら再度、泥沼の過去『死』へと行き着いてしまう。そしてクリスの深層心理が望んでいる限り、彼女は何度も彼の前に再生してしまうのだった。
 ソラリスにいる科学者たちは各々の大切な人物の具現化により、それぞれの苦悩を背負わされてしまう。その苦悩は苦悩として他の同僚たちと同様に持つわけだけれど、それぞれがとうてい理解し得ない他人同士極々個人的な苦悩ゆえに、さらにお互いで孤立してしまう。最も大切な人物というのがあたかも実在するかのごとく存在する。しかしそれは現実ではない。

 人間にとって『意識』とはなんだろう。また『理解』するとは、『愛する』とは、『憎む』とは・・『感情』とは、そしてそれらの『内面』を宿している『肉体』とはなんだろう。いくら愛し合う者同士でも互いが理解しあえている部分とは、全体のどれくらいなのだろう。誤解してしまっている部分があるのではないか。それどころか、果たしてぼくは自分自身のいったいどれだけを理解しているといえるのだろう。そのような『自己』が自分以外のだれかを理解し、受け入れることができるのだろうか。

 主人公クリスはその解き得ない苦悩の問に、最後の選択をする。彼は肉体はそうでなくとも、実存する『内面』を選び、受け入れることですべての苦悩から解き放たれるのだった。


442 Yoon Band
06/03/28


 世間では韓流といえば『ヨンさま』となるらしいのだけれど、ぼくの場合はなんといっても『ユンさま』ということになる。その前にこの『韓流』という造語の意味、韓国の大衆芸能の日本での流行を略してこう呼ぶのだそうだけれど、なんとも情けないような言葉。 『ユンさま』とは、ユン・ドヒョンのことで、こちらはロック。ユンは95年ソロデビュー後、97年にユンドヒョンバンドとしてセカンドアルバムを出した。以来、11枚のCDをだしているらしい。バンドとしてはライブ盤を含めて8枚出ていて、ぼくはそのうちの5枚を持っている。

 ぼくがユン・ドヒョンバンド(以後ユンバンド)を知ったのは4年ほど前で、我がむすめが韓国に旅行に行くというので、かっこいいロックのCDがあったら買ってきてとたのんだのがきっかけ。そのときの何枚かの中にワニが口を開けているジャケットのユンバンドUがあったのだった。それを聴いてぼくは完全にノックダウン。韓国といえば、コリアンメロディくらいしか連想できなかっただけに、出会いはとても鮮烈だったと記憶する。

 2002年ワールドカップサッカーのとき、『オー!必勝コリア』という曲で大ヒットしたそうで、まるで韓国の国民的なバンドというような意味付けをされてしまったらしい。そんな汚名?を着せられようが、ユンバンドはなんとかっこいいのだろう。まさに全編正統派ハードロックで、ブリティッシュハードがすきという輩(やから)にはなんともたまらない。それでいて古臭さなんてみじんもない。リズム感、楽曲、演奏、歌どれをとってもすばらしいのひと言。そしてなにがといってユンさまのボーカル、これはただものではなく、とにかくめちゃくちゃいい声でかっこいい。

 さらにユンバンドがかっこよく響く理由に、韓国語の発音がある。日本語のような子音と母音の組み合せが基本の発音と違い、子音だけでの発音もあり、それでいて一語一語がはっきり発音される。リズムにも乗るし、攻撃的な表現も容易ときている。


ユンドヒョンバンドU
こちらのHPで曲が聴けます
 ロック音楽とは(今さら言うまでもないけれど)なんだろう。今から40年以上前、若者たちは電気で増幅するエレクトリックギターを手にした。それに黒人音楽。リズムアンドブルース、ロックンロール、そしてブルース、ソウル。虐げられた者たちが、音楽に希望を託した。そんな希望の音楽が英国の欲求不満で爆発寸前の若者たちに受け入れられた。彼らは彼らなりの精神、感情を黒人音楽のリズムを借りて演奏した。その音は『破壊の音楽』と呼ばれるほどに攻撃的だった。それ以降、40年を過ぎてもなお、ロックはやっぱり破壊と創造の音楽といってさしつかえない。

 そんな中、巷(ちまた)にはえせロックがあふれ、本物なんてほんの一握り。牛肉と同じで骨抜きでなければ受け入れられない世の中で、骨の変わりに『筋金(すじがね)』入りのこれはほんもの。ロックバンド幾多あれど、正統派ハードロックにして、ユンバンドここにあり。どうしてこんないいバンド、日本で評判にならないのかしら。


443 アメイジング・グレイス
06/04/05


 アメイジング・グレイスといえばもうひとつのアメリカ国歌といっても差し支えない名曲です。この曲について調べてみましたが、どうやらこの曲がアメリカで国民的なものになるために、とんでもなく長い実話と時代背景が伴っているようなのです。それはつまり18世紀、波乱万障の人生を生きたひとりの英国人ジョン・ニュートンという人物(この歌の詞を作った)と移民、奴隷制、独立戦争、キリスト教などです。

 このジョン・ニュートンという人物は父親が貿易の仕事をしていた関係で、南アフリカ、アメリカ、英国を巡る船乗りになりました。つまり、アフリカで奴隷を仕入れ、アメリカで売り、労働の結果の農産物や鉱物を仕入れ、英国に戻って売るという『三角貿易』の担い手となったわけです。

 そんなニュートンがどうして『アメイジング・グレイス』などという劇的に神を賛美する詩を作ることになったのでしょう。

 彼の母親は敬虔なクリスチャンで、息子が幼少のころには、彼を牧師にしようとさえ思っていたようです。しかし彼が7歳のころ死去。その反発からかジョンは非行、放蕩をし、さらには家を出て船乗りというやくざな仕事に入っていった。そして挙句、彼は奴隷貿易の船員としてはたらくようになってしまうのだった。

 奴隷船で運ばれた黒人たちの扱いは劣悪で、移送途中で病気や脱水、栄養失調などで死亡するものがあとを絶たなかった。おそらくニュートンも黒人たちに対して、同様の扱いをしていたはずです。今考えてみれば、勝手に人を拉致してきて、人身売買しようなど、あってはならないことです。

 ところが彼がこの仕事から足を洗って、心から改心をしようと決心するきっかけになる出来事があったのでした。彼が22歳のとき、航行途中、嵐との遭遇、絶体絶命。しかし船は奇跡的に難破せずにすんだ。なんとそのとき、彼は生まれてはじめて、心底、神に助けを求めたとのことです。

 結局、彼は一等航海士、船長と昇格しますが、良心の呵責からか数年後その仕事から足を洗ったとのことです。そしてその間に勉学にはげみ、聖職にはいっていったのだった。

 その後、人にも恵まれた彼はウイリアム・クーパーという詩人と出会い、54歳のとき、共著で『オルニー賛美歌集』を出版。その中に、かつて自らが嵐の海から生還したときの、救われるはずのない自分が救われたあのよろこび、感謝を謳った詞を載せたのでした。それが『アメイジング・グレイス』。

 とはいっても、当時それらの詞には曲がついていなかったのです。教会での礼拝で詠みあげるのが目的だった。『アメイジング・グレイス』に今の曲が付けられたのは、それからなんと56年ほど経ってから。しかもアメリカで。1807年82歳でニュートンが他界して、さらに28年も後。
 『アメイジング・グレイス』の詞にはそれ以前にも他の曲が付けられたようですが、1835年、『ニューブリテン』という原曲に『サザン・ハーモニー』という歌集のなかで付けられた。その歌集は大ヒットを記録し、以来『アメイジング・グレイス』はアメリカの人たちに歌われるようになった。ただし、今でもなお『ニューブリテン』がだれの作曲なのか、イングランドの民謡なのかもわかっていません。

 『アメイジング・グレイス』は第二のアメリカ国歌といっても差し支えない名曲でしょう。黒人にも、白人にもだれからも親しまれています。この歌がすべてのアメリカ人に歌われるわけは、そのすばらしいメロディーだけに由来するものではないかもしれません。

この詞がかくも罪深く、しかもその罪を報いて牧師の道をえらんだひとりの奴隷商人によって書かれたことにこそ、深い意味があるからなのかもしれません。



444 黒人ブルース
06/04/10


19世紀ちょうど『アメイジンググレイス』が『ニューブリテン』という曲を付けられ、出版されたころ、ミンストレル・ショーというどさ周りの演芸が流行していました。1865年、南北戦争が終結し、400年にもわたった奴隷制度に終止符がうたれましたが、あいかわらずきびしい人種差別が続いていました。

ミンストレル・ショーとは
当時庶民の娯楽といえば、せいぜい酒場などでへたくそなカントリーやブルーグラスなどを聴くぐらい。ミンストレル・ショーは各地をどさ周りし、音楽あり、手品、寸劇などと多彩な演芸を売り物にしました。

もちろんすべてのミンストレル・ショーがそうだったとはいえないのでしょうが、白人がススを顔に塗り黒人として出演、なかば黒人をダシにしたような内容で受けをねらっていたようです。音楽的センスに長けた黒人に扮して、かといってそれをたたえるでもなく笑いのネタにした。

当時の黒人たちにはどさ周りとはいえ、お金を出してまでミンストレル・ショーを呼ぶわけにもいかなかった。それにミンストレルが来てくれるはずもなかったのでしょう。だから仕事中の労働歌や、日曜日の教会での礼拝で聖書や詞にメロディーをのせてゴスペルを歌ったり、一日の労働のあと酒場などで、ピアノやギターを伴奏に卑猥な台詞の2ビートを歌ったりが関の山。

かといって奴隷制度が撤廃された後でも、差別の横行する世間をみずから生活のために、黒人が興行してどさ周りなぞあぶなっかしくてできたはずがありません。したがって、ミンストレル・ショーは白人たちだけのたのしみだったのでしょう。


その時代に欠かせないSleepy John Estes
メディシン・ショー
しかしながら、さすがに20世紀ともなってくると、黒人音楽は協会でのゴスペルや労働歌に止まらず、大衆芸能としてのブルースへと発展してゆきます。そして1920年ごろにはメディシン・ショーなどというどさ周りで、好きなブルースを奏りながら食いつなごうというものも出てきた。うまい演奏は聴かせても、特に人種差別のきつい南部の州では、肩身の狭い思いをしていたのではないでしょうか。いっそのことそれで人を寄せておいて、いかがわしい『ガマの油』ならぬメディシン(薬)をドサクサ紛れに売ってしまおうというもの。実際、歴史に名こそ残したブルースマンはいますが、これで生計が立ち、おこがましくも成功した人物はいません。

とにかく、ミンストレルもメディシンもまがいなりにも、れっきとした音楽の媒体であったといえます。レコードやラジオのない時代には、鑑賞にたえるミュージシャンに触れるきっかけは大きな町にある劇場へ行く以外、めったなことではなかったわけです。

ここで注目しておきたいこと
それはメディシン・ショーでは、黒人たちは褐色の顔にさらに墨を塗って黒くして見せたことです。どうしてそんなことまでしなくてはならなかったのでしょうか。それはある意味、ミンストレル・ショーで白人が演じた間抜けた黒人のイメージを再現しなくてはならなかったからかもしれません。

シカゴへと草木がなびいた
そして1930年ごろになると、黒人たちは『北』をめざすようになります。これは世界大戦が起こり、北部のシカゴなどでの工業の発展に伴い、また人種差別のきつい南部より北部へ行ったほうが幸せになれるかもしれないという希望があったからでしょう。

レコードという媒体も庶民のものとなってきたこともあり、またエレキギターの出現で騒々しいドラムなどとの競演もできるようになった。もちろん一握りのブルースマンに限られましたが、『シカゴ』の時代になってやっとのことでブルースという黒人音楽は日の目を見るようになったのでした。その中で、ブルースのゴッドファーザーたる人物はマディー・ウォーターでしょう(1983年没)。

シカゴではどうだったか
その前に、レコードという媒体が大衆のものになってきた時代に、黒人ブルースはどうだったのでしょうか。そのころ(戦後〜60年はじめ)のLPレコードのジャケットを見るとわかりますが、そこにはブルースを奏っている本人の顔ではなくて、全然関係のない金髪の美人女性がギターなんぞ抱えて載っている。それは演奏しているのが黒人なのか白人なのかわからないようにするのが目的だった。そのレコードを買った本人が、黒人音楽を聴いていると他人に悟られないための配慮だったようです(とくに親の目を欺く)。

奴隷制度という究極の人種差別のおかげで、ブルースが生まれた。それを手本にした白人の若者たちがいてロックがある。ここへ来て、ブルースという音楽を通して白人と黒人の間の垣根が取り払われた。音楽を通して人種差別はなくなった。

アメリカで人種差別は今でもあるけれど、黒人音楽の果たした役割はなんと大きくて偉大なのだろう。

かつてBBキングが白人にあこがれたように、クラプトンは黒人にあこがれた

445 力道山
06/04/18


 ぼくの家にやっとテレビ受像機がやってきたころの話。そのころはまだテレビの中継車というものがなかったので、プロ野球のナイターはもっぱら地元ナゴヤ球場のときぐらいだし、他のスポーツといえばたまのプロボクシング、マラソン、大相撲など。そんな中、必ず毎何曜日だったかに放送が決まっているスポーツ番組があったのだった。プロレス中継がそれだった。

 男はみんなプロレスファンなのだけれど、ぼくの父はその前に『熱狂的な』の形容詞が付くほどのファンであったのだった。筋書きのないドラマとは緑にかがやく芝生に舞う白球、プロ野球ナイターとなるのだけれど、こちらはなんとも理解のしがたい『筋書きのあるドラマ』とでもいうのだろうかプロレス中継。それもリアルタイムの生中継ときた。もっとも当時はビデオで撮ってまで放送するようなご時世でもなく、プロレス中継はおそらくは分刻み、秒刻みの舞台進行があったのだろう。

 そんな時代、ぼくの記憶に『街頭テレビ』というのがある。愛知県岡崎市では、その中心繁華街に隣接した某公園にそれが設置されていたのだった。地面から2mくらいの高さ、観音開きの鉄の箱のなか、庶民のあこがれテレビ受像機が格納されていた。人々の仕事帰りとか、日曜日の薄暮のころになると鉄の扉が開けられ、絶対多数の庶民のお目当ての番組が披露されるのだった。夕闇から宵闇のなか、くっきりと映し出されたのは、あれは紛れもなくプロレス中継だった。

 プロレス中継とくれば、もうその人しかいないといっても差し支えない。誰あろう『力道山』。当時のことだから、力道山の相手は『シャープ兄弟』だったのか『ルー・テーズ』だったかは記憶がないけれど、とにかく街頭テレビの周りはけっこうな人だかり。しかも余分な言動を発する者もなかったと記憶する。

 それから幾年(いくとせ)たったやら、我が家にも憧れのテレビ受像機が。ぼくは学校から帰るなり、テレビ受像機のスイッチをパチンとひねる。ややあってボーっとなにやら現れるのは、妙な図柄の画像。ただ無言のテストパターンと呼ばれる(当時のテレビ受像機はすぐに画面が乱れたため、それを調整するための縦横斜めの線と放送局のロゴの入った)静止画像が、延々映されているのだった。さもなければ無信号のジャーという雨降りのような画面。よせばいいのに、その画面にさえ食い入る小学生のぼくだった。

 とにかく、ゴールデンタイムのプロレス中継。もう父のご執心ぶりはただものではなく、周りで誰がなんと言おうがただただリング上の力道山と誰かに釘付けになってしまうのだった。今夜もルー・テーズだかの執拗な反則攻撃に劣勢に陥る力道山。引き攣る父の目。先ほどまで左右に躍動していた父の体がぴたりと止まる(曲ったことが嫌いなので、怒りで体硬直)。空手チョップ、出るか出るかで中継時間あと数分。もっと前から繰り出せばいいのに、とうとう出たぞ伝家の宝刀『空手チョーップ』。おおーっと、中継時間がもうありません。「蔵前国技館からさようなら」。
力道山とブラッシー
http://www.eiko-books.co.jp/blassie/index.htmlより 



446 韓国唐辛子事情
06/05/06


道長では『和風きむち』『割干キムチ』『コチュジャン』『キムチベース』『キムチ鍋のもと』に使う唐辛子に愛農会さんの仲介で、韓国の有機栽培唐辛子を仕入れています。

その唐辛子、とくに材料としてほかの原材料と混ぜ合わせた場合、思いのほか風味と旨味を発揮します。聞くところによれば、韓国産唐辛子はピンからキリまであり、作る場所、乾燥や製粉の方法などの違いで品質に大幅な差が出ます。

原産地はメキシコといわれ、品種も非常に多く世界で2千種以上もあるといわれるほど、まったくつかみ所がないというのが唐辛子。辛さの度合い、香りの良し悪しなどについては世界的に名の知れた唐辛子はありますが、専門家にとってさえ「わからない」というのが正直なところのようです。

今回、愛農会さんが道長で使っている唐辛子を生産している韓国の『正農会』の農家を訪問するとのことで、同行させていただきました。ぼくも唐辛子についていろいろと調べてはみたものの、調べれば調べるほどつかみどころがなく、まったく困ってしまうというのが実感でした。そんなわけで、今回の韓国行きには興味がつのるばかりでした。

まず韓国の行政について。日本の県にあたる『道』があり、『郡』があり、『市』、『町』となります。大きく分けて韓国は8つの『道』からなり、ソウルは京畿道の中に独立した自治体としてあります。国土面積は日本の26%ぐらいの広さ。人口は約6900万人。

今回の旅程(二泊三日)
一日目:ソウルの東北にあたる江原道(カンオンドウ)緑町の有機唐辛子生産者(道長で使っている唐辛子を作ってくださっている)金(キム)さん宅訪問。

二日目:『冬のソナタ』という韓流ドラマのロケ地、江原道春川(チュンチェン)より高速道路で一気に韓国の南端、全羅南道(チュラナンドウ)長興郡へ。正農会会員の唐辛子生産者伴さんを訪問。彼は実家の農業を継ぐため最近帰農したばかりで、有機への転換期間中の無農薬栽培。今回はじめて唐辛子の生産をお願いしました。

三日目:ソウルまで戻って帰国

江原道緑町の金さん

身土不二と唐辛子
日本では最近になって『地産地消』と言うようになりましたが、韓国では『身土不二』といい、いずれも同じ意味で使われています。もちろんその意味は、その土地で採れたものを食べることで、人の健康は保たれる。というようなものですが、その意義からすれば、わざわざ遠い韓国から唐辛子を仕入れることはないわけです。「にもかかわらず」というのには、やはり日本ではそれほどの品質の唐辛子を手に入れることがむつかしいからにほかありません。

どこがちがう、韓国唐辛子
それでは韓国の唐辛子を日本で栽培すればよいということになるのですが、これがうまくゆかないのです。そのいちばん大きな理由は『土』のちがいです。日本が火山性の酸性土壌なのに対して韓国は堆積地層が隆起してできたアルカリ性土壌という条件の違いが、最も大きく作物の出来栄えを左右してしまうと言われています。もし日本がアルカリ性土壌だったなら、やっぱりキムチが伝統食になっていたかもしれません。

いちばんわかりやすい例をあげるとすれば、たとえば漢方にはなくてはならない『朝鮮人参』。韓国では水はけの良いなだらかな斜面で、風と直射日光をさけるため寒冷紗を使って栽培していますが、それと同じ栽培方法をとったとしても日本では同じ品質の朝鮮人参を作ることはできません。

キムチにつかう大根についても、ちょうど朝鮮人参とおなじことがいえます。ぼくにはその理屈を説明することはできませんが、たとえば同じ大根を栽培しても日本ではふっくらみずみずしく育つはずなのに、韓国では水分が凝縮されたような感じに育つ。歯ごたえで表現するなら、日本では『シャリッ』で、韓国では『ガリッ』という感じ。大根のキムチといえばカクテキですが、韓国でそれを食べてみて「これが本場のカクテキなのだ」と実感しました。キムチ漬けして醗酵していてとてもなじみのある風味なのに、その味を日本で出すことは非常にむつかしいのです。日本の大根は下漬けしただけではまだまだ水分が多すぎ、歯ごたえが足らないためもう一度漬け直します。それでやっと『カリッ』としたよい歯ごたえ(ここがちょっとちがう)になるのに、それをキムチ漬けにしても、日本ではなぜかキムチベースの味がのらないのです。なのに韓国の風土は大根を漬けなおさなくても『ガリッ』とするし、かといって大根の組織がつぶれていないので(?)キムチベースのエキス分を取り込み、大根自身の醗酵との相乗効果でさっぱりとしてしかも心地よい酸味をかもし出すといった感じ。

これとおなじことが白菜にもいえ、歯ごたえがカリッとしてしかも味ののったキムチになるのです。まさに古漬けになって白菜の青みが失われても水っぽくなるわけでもなく、ここちよい酸味のおいしいキムチになってゆくというわけです。

なぜ正農会では南北の生産者から唐辛子を
韓国『正農会』では有機唐辛子の生産者を、北は北朝鮮との国境近くの江原道と、韓国本土最南端に設定しています。これはいずれの地方も農薬、化学肥料による影響が最も少ないという理由からです。とくに南部の全羅南道長興郡には正農会の前会長を中心とした、50軒余りの正農会農家があり、有機農業への転換が着実に進んでいます。

また長興郡の役場では、有機、特別栽培の農産物の振興をはかっており、それを積極的に流通してゆくための政策も打ち出しているほどです。

唐辛子粉の品質を決定付けるものとは
これはまったくもっともといえばもっともな話ですが、品質を決定付ける要素は次の2点です。
1.
栽培方法と乾燥方法:唐辛子はとくに農薬・化学肥料をよく使います。有機栽培で土作りのできた畑で丁寧に栽培し、太陽で天日乾燥し、風味の邪魔になる種を除いて杵でついて粉にする、という気の遠くなる作業をしたものと、慣行農法で多収穫し、機械乾燥し、そのまま機械製粉してしまうのとでは、それこそ色といい風味といいまさに雲泥の差ほどの品質の違いができてしまいます。
2.気候のちがい:韓国の北と南とで同じ品種の唐辛子を栽培しても、風味が大きくちがってきます。一般に寒暖の差の激しい北部で作られた唐辛子のほうが甘味・風味が強く、辛味が少ない。色はどちらかというと南のほうが赤色の色が鮮やかで辛味が強い。北部の江原道の金さんの唐辛子と南部の伴さんのとを比べてみましたが、それぞれ同じ品種にもかかわらず、まったくといっていいほど質がちがうのです。

リスクがあっても天日乾燥、手間暇かかる杵うち製粉
昨年の金さんの唐辛子は天日乾燥の最中、雨に降られてしまい、かなりの量を廃棄してしまったそうです。そのようなリスクを背負ってさえも、せっかく有機栽培した唐辛子を無造作に機械で乾燥・製粉したのではまったく意味がないのです。

信頼関係があってはじめて・・
韓国と日本とは隣同士の近い存在です。にもかかわらず、一般の業者を通しては唐辛子ひとつとってもよいものを継続的に仕入れることは非常にむつかしいといわれます(中国産さえ混入してしまう)。だからといって、それは韓国や中国の国民性だから仕方ないと片付けてしまうのはまったくの無礼千万なのかもしれません。

日本は過去において中国・韓国に対しておぞましいほどの差別的扱いをしました。悲しいかな、その事実を消し去ることはできないばかりか、その痛みを癒す方法もないのかもしれない。あるいはそのひずみをなくすには、気の遠くなるほどの時間が必要なのかもしれません。しかしながら、それを手をこまねいて見ているだけではいけないのであって、それを少しでも少なくするための努力が必要なのではないでしょうか。

唐辛子を通しての信頼関係をひとつとっても、過去の歴史が大きくのしかかってきてしまうのです。唐辛子を介して韓国の生産者と話をするうち、お互いに確認しあったことは、過去の歴史の問題を抜きにしての唐辛子の交易もないのです。

今回はぼくにとってほんの第一歩なのだ、とただただ実感した韓国唐辛子の旅だったのです。

韓国の南部全羅南道長興郡の伴さん

最後に、江原道での移動にお付き合いしていただいた正農会会長さん、副会長さん。全羅南道での移動は正農会朴さんに同行していただきました。さらに金龍根さんには、三日間の旅程全般にわたりお世話になりました。謹んで御礼申し上げます。


447 むかしはよかった
06/05/08



 普段鳴かず飛ばずというか、むしろさっぱりといったほうがいいような、三河湾の一角のメバル釣場。ぼくが釣りをはじめた20年ほど以前には、今にして思えばまさに別天地、極楽の名にふさわしいところだった。その後埋立、堤防の延長など進み、また三河湾の要所要所にリゾートだレジャーだアウトレットなぞと、大掛かりな埋立も進んだ。潮の流れが悪くなったのか、おかげで汚染も進んだのか、釣り人にとってまったく魅力のないただの大きなよどんだ水溜りのような風情(ふぜい)にまで成り下がってしまっている。

 そんな某堤防で「メバルが釣れている」という色めいた情報。胸を躍らせ、釣り人たちはメバルの仕掛けを用意し、デリシャスな風味のゴカイを仕入れ、さらには軽四に自転車まで積込んで(目的のポイントまでの超特急)洋洋として出かけるのであります。

 むかしはメバルなどあたりまえで、此れしきのうわさで釣り人が大挙ということなぞなかった。昨今、メバル入れ食いの期間は、釣人の意に反してあっという間に終わってしまうところが情けない。そんなとき釣人同士で交わす言葉は「むかしはよかった」。そう、「むかしはよかった」。この言葉はよく年寄りが使う決まり文句。ぼくも若いころよく聞かされうんざりしたおぼえがある。そしてその言葉をぼくも使うようになって久しい。

 そういえば今宵ぼくらが竿を出しているこの釣場で、ぼくが釣りをはじめたちょうど20年位前にも同じように「むかしはよかった」という決まり文句を聞いたおぼえがある。そしておそらくぼくのいなかったそのまた10年か20年前のその場所で、やっぱりだれかが「むかしはよかった」と言ったにちがいない。

 一体全体、むかしむかしのそのむかしには、この三河湾はどんな海だったのだろう。それこそ、釣りをこよなく愛する江戸だか平安、弥生、縄文の誰だかが、この「むかしはよかった」という言葉を発することがなかったころのこの三河湾はきっと、今にして思えば何にも代えがたい美しさと豊かさに満ちあふれていたにちがいない。もちろん防波堤だとか大規模な埋立、岸壁、護岸などという構造物はなかった。せいぜい木組みの桟橋、石組みの短い堤防程度。人間が大自然から宿を借り、その恵みだけで生活をしていた時代。

 おそらくは科学という言葉が使われるようになって以来、「むかしはよかった」という言葉が使われるようになったのではないかしら。

 科学とは、また経済とは、大切なものを消耗することでしか前に歩むことを知らない。科学が発達し、人類は進化したと思っている人がいるかもしれない。それならば、その科学力をして、これだけ破壊の進んだ地球環境をなんとかしてみろといいたい。究極の環境破壊としての戦争をやめてみろ。

 それができるほどの理性をそだてることさえできず、人類は一歩前に進化したと勘違いしている。「むかしはよかった」ではなく、いつか、「むかしはひどかった」と言えるようになってほしい。

むかしはよかった


448 手前味噌
06/05/12


 ぼくは醗酵したものが大好きで、その中でもとりわけ味噌には目がない。味噌は日本中どこへいってもあるけれど、はっきりいってどこへいっても風味がちがうし色もちがう。白かったり黒かったり、辛かったり甘かったり。

 とにかく味噌についてはその土地土地でちょっとづつちがう。一般に南にゆけばゆくほど塩辛さよりも甘味が増す傾向があるようだけれど、色については一概に言えないような気がする。酒や味噌醤油の醸造技術というか、その嗜好については、地域性だけでは理解できないところがある。江戸時代に盛んとなった、たとえば廻船がくまなく日本を廻るようになったことが、味噌醤油の醸造技術を全国に広めたという事実が歴史的にはあるらしい。けれども、風土による甘辛のちがいの他には、さほどのちがいはないのではないかしら。

 さてさて、日本にあまたある味噌の中で、またまた理解できないものに『手前味噌』というのがある。これも、気候が温暖か寒冷かによって甘い辛いの差こそあれ、さらに千差万別。そしてさらにまた理解しがたいのは『手前味噌』はうまいという点。よく、「一辺でいいから自分で味噌を作ってごらん、とにかくおいしいから」と家で味噌を仕込んで使ったことのある人は、かならず口をそろえて自画自賛。これすなわち『手前味噌』。

 『手前味噌』はうまい、とはほんとうはどうなのかしら。それを科学的に証明した人はいないけれど、実際に手前味噌はうまいとぼくも思う。そしてそれには理由があって、たぶんそうだろうなとぼくは想像する。ようするに『蔵元』と『家』での仕込み方のちがいなのではないかしら。

 『蔵元』では大量の大豆を蒸し、麹菌を付けて仕込みをするけれど、なにぶん失敗は許されない。そこでほとんど無菌の状態にしておいて麹菌を付けるということをする。それに対して『家』では近頃は麹も使うけれど、たとえば加熱した大豆を丸めて縄で結び、軒につるしておもに稲わらに居る麹菌を付ける。

 『蔵元』も『家』の場合もどちらもこうして作るのは『味噌玉』だけれど、ふたつのあいだには大きなちがいがある。どういうことかというと、『蔵元』では単一の麹菌が付くのに対し、『家』の場合はおもに麹菌だけれど、そのほかにいわゆる雑菌も付いてしまうということ。

 ようするに『蔵元』の味噌は『生粋(きっすい)』で、『家』の味噌は『雑種』。家でつくる雑種の味噌では気をつけないと表面のまずい部分を除かないといけないこともある。けれどその下のほうはまことにおいしい。

 ぼくは漬物をつくるとき『あぶなっかしい』味というのを大切にしたいと思っている。これはある一線を越えるとまずくなってしまうけれど、それを越えなければなんとも言えずおいしいということ。これはたぶん、雑菌も醗酵の途中で風味の一躍を担っているにちがいないということ。複雑な旨味はそのおかげで『手前味噌』がおいしい理由なのではないかと思う次第。

 人間も勉強だけした優等生より、あれこれ手を出して失敗しては紆余曲折、オトナになってゆく雑種の方が人間味があっておもしろいのと同じなのではないかしら。


449 子供たちのこと
06/05/25


 我が家はおかげさまで男女4人の子宝に恵まれ、その成長期にはけっこうにぎやかな日々だった。さらに週末ともなると、商売をしているぼくの姉のふたりの兄弟も泊りに来て、その騒々しさといったらちょっとなかった。夜ともなると、全員がひとつの部屋でご就寝ということになるため、一気に我が家は6人兄弟の様相となり、ある意味壮観という雰囲気。

 クリスマスともなれば、その存在を疑うことを知らない6人の子供たちが、神々しくもありがたいサンタさんの到来を見届けようと並べた寝床にはいる。おそらく、今年こそはとがんばって目を開けているのだろうけれど、いつの間にかやっぱり今年も夢の中。まったく罪がない。

 かと思えば夏休み。二泊三日のお盆のキャンプ。例によってぼくらの4人の子供とふたりの甥っ子たちは、用意の荷物を枕もとに明日の未明の出発を夢見て、早々のご就寝とあいなるのだった。ところがこの場におよんでやっかいな事態発覚。なんと下の甥っ子、普段では到底ありえない夏風邪で発熱。とにかく明朝の出発を遅らせ、様子を見ようということになるのだけれど、翌朝、とうとうタイムリミット。この場におよびもはやいたしかたなく、本来ならば彼を残して出発というのが順当。『絶対多数の最大幸福』というのが取りうるひとつの選択肢とはいえ、無念の発病にただただ涙に目を腫らす彼に、一同これまた無念の出発断念。いまさらお盆の予定の変更もきかず、二泊三日のキャンプの予定はあえなく一泊二日に変更。

 それでも次の日には「何が何でも」の意志が通じてか甥っ子の熱も下がり、山のキャンプ場へ無事出発。昨日の苦渋の選択を乗り越え、6人の子供たちはかつてない団結心と連帯感という固い絆で結ばれるのだった。湖でのボート乗り、山頂へのハイキング、飯盒炊爨(はんごうすいさん)、持参の安物花火大会。さらにはお盆の夜恒例のペルセウス座流星群。漆黒の闇、満点の星、「あっ、また流れた」の歓喜の声。

 たった一泊二日だけど、「やっぱりみんなで来てよかった」。流れ星を見上げる子供たちの12の瞳は、よろこびとしあわせできらめくのだった。そしてさらに、「今年もやっぱり連れて来てやれてよかった」という、これまた同じ心もちの連合いとぼく。

 バーベキューセットがあるわけでもなく、くつろぎのデッキチェアーも、打ち上げ花火もなかったし、三角の3人用テント、ライトバン車中宿泊と窮屈だったけれど、なんといってもみんながいっしょにいるのだというよろこびは、ほかをさがしてもちょっとなかったかもしれない。

このときは5人?


450 たたり
06/05/31


 黒鯛を釣りたいという一念から、とうとう浜名湖の中でも地元勢しか足を踏み入れないという、しかも立ち込み(胴長をはいて釣場を移動)釣りという、マニアックな方法にまで手を伸ばしてしまったのだった。絶対に釣れるという釣りガイドにもある本命のポイントは釣り人でごった返し、さながら本命パチンコ台を取り合う常連パチプロの世界。肝っ玉も小さく、人と争ってまで釣座争奪戦なぞ心にもなく、順番待ち、人ごみなんぞ、せめてこのときばかりはぼくは御免こうむる。

 そんなわけで、今宵こそはと立ち込み釣り。こんないでたち、街頭で見かけたら機動隊か何かのクーデターかはたまた親衛隊の出撃といったような物々しさ。

 いよいよ待ちに待った竿出し。夕日に染まるたそがれに、たゆとう海、心もいつしか至福の時を迎える。夕刻、セイゴの群れでも回ったのか、一時活気付いた釣場だったけれど、その後大きな潮の動きもなくベタ凪。時は空しくも過ぎ行くのみ。ただただ、執念のかたまりと化し、まだ冷たさの残る海に浸かったまま立ち尽くすこと4時間以上。今宵もだめであったかと無念の納竿となるのだった。

 釣場から駐車場への帰り道「あのあたりの釣場はなんとなくゾクッとするね」という話になった。「そういえば・・」と同行の常連氏、「あの松の木の茂みで首吊り自殺がありましてね・・・」。「だからあまり夜遅くまでここでは釣りをしないんですよ。ゾクッときたら帰るようにしています」ですと。うーん。

 翌日はいつもどおり仕事なのでがんばろうとするのだけれど、なんとなく気合が入らない。宵となり、夕食を済ませた頃からちょっとおかしな感じ。そして感覚はさらに悪寒へと進行するのだった。

 釣友から電話があり、あれこれ話していると「風邪気味の声のようだが、昨日の釣りで物の怪にでも取り憑かれたか。アハハ」とのこと。

 薬箱に風邪薬を切らしていて、『憑き物』に効く薬もありません。どくだみ茶を飲めばトイレが近くなるし。「布団でもかぶってねたら(仕事に差し支えたら許さん・・、の意を含む)」とそっけない連合いのひと言。

 世の諸兄については、体力づくりだとか、趣味悠々だとか、世間の付き合いだとか、明日の活力のため、とかなんとかいっちゃって、ついつい深入り。今回も釣果を上げるどころか、大きく株を下げるばかりか、疲れるというよりは『憑かれ』ちゃったという話。