451 訃報によせて
06/06/07
 親しい友人から電話がかかってきた。一瞬の雰囲気で何か不吉なものを感じる。やっぱりそうだった。訃報。それも彼の息子が・・。ああ、なんということだろう。なんという悲しいことだろう。親である彼が息子の死をぼくに伝えている。21歳。

 ぼくにも子供がいる。そして幸運にも全員元気で生活している。ふたりの娘が嫁いでいったので、今、ぼくの家にはふたりの息子がいる。ひとりは背広を着こんでは、就職活動に奔走している。そしてもうひとりは、漬物屋の仕事をぼくと一緒にしている。

 仕事がなかなか儲からないとか、お金がないとかなんとかいいながら、ぼくらは毎日生活している。「また寝坊をして遅刻」とぶつぶついっては息子とけんかをしている。「おまえ、大丈夫だろうな」なぞといらぬ心配をしている。一体全体、息子の年頃にぼくはどうだったんだろう、と考えてみれば何もいえない立場なのではないかしら。

 ああ、息子たちよ、娘たちよ、お願いだからぼくより先に逝かないでほしい。あなたたちに先に逝かれたら、いったいぼくはどうしたらいいのだろう。

 しあわせとはなんだろう。ただ、だらだら過ぎて行く日常の中で、ぼくはなんというわがままなのぞみを持ち出しては、きみたちにわずらわしさを押し付けていることだろう。そして何より、ぼくはなんと些細なことに心を奪われていることだろう。

 そんなことどうだっていいじゃないか。ここでそんなこと言わなくたっていいじゃないか。気持ちよく許せばいいじゃないか。自分のことを棚にあげなくてもいいじゃないか。これしきのことで怒らなくたっていいじゃないか。よくよく考えてみればいい。みんなそれでもぼくの近くにいてくれてるじゃないか。

 ともだちからの悲しい訃報にやられてしまいそうになって、ぼくは宮崎の我が友に電話をしてみる。あいかわらず電話の向こうでやさしく応対してくれる彼の声に、実感としてぼくはひと安心するのだった。

 人のしあわせとはなんだろう。自分や愛する身近な者たちの健康に感謝すること。そんなことだれにだってわかっているはずなのに、それがわからないでいたりする。こんなふうに身近なだれかの不幸に触れたとき、やっとというか、あらためて思い知る。

 息子よ、娘よ、連合いよ、母よ、姉よ、我が友よ、みんな元気で生きていてくれてありがとう。


452 WATARIDORI
06/06/13


 仏映画『WATARIDORI』を観た。季節ごと、渡りを繰り返す野鳥の姿を写したドキュメンタリー。映像に現された鳥たちや自然が美しく感動的。監督は古くは『Z』、最近では『ニューシネマパラダイス』のジャック・ペラン。

 鳥たちは安住の地を求めてか、子育てのためか、海を大陸を渡る。その距離は数千キロから1万キロ以上にも達するといわれている。地図があるわけでもないのに、一年経つと同じ場所にもどってくる。何を目印にするのか、地球の磁場を感知できるとか、夜空に映る星座を読むことができるとか、とにかく正確に自らの故郷を目指すことができる能力をもっているといわれている。そんな渡り鳥たちが、ひたすら黙々と飛んでゆく様子がこの映画では映されている。またその過程での『生』と『死』がごく淡々と描かれている。

 映画を観ていてまず気付くことがある。それは鳥たちがごく至近距離で写されていること。とくに飛行する場面では、水面近くを、都会の大橋の下をくぐって、またはかなりの高度を、鳥たちの翼がカメラに触れてしまいそうな距離で撮影されていること。しかも鳥たちはごく自然に、こちらを恐れる風もなく空を飛んでいる

 最初ぼくは、これはきっとCG(コンピュータによる特殊映像)にちがいないと思ったほど。でも記録映画でそんな手を使うなんぞ無礼千万と思いきや、なんとすべてが実写に基づいていると聞いて納得する反面、どうしたらそんな自然な撮影ができるのでしょう、と今度は疑問が湧いてきてしまう。

 その答は、鳥たちがエンジン付きの軽飛行機になれるまで気長に待ったのだそう。あるいは卵からかえって飛べるようになるまで、ずっとエンジン音を聞かせることまでしたとのこと。

 おかげで鳥たちはカメラを携えた軽飛行機とカメラマンを恐れることもなく、ごく自然に大空をはばたく。まるで軽飛行機に乗っているのがカメラマンじゃなくてぼくなのかもしれないと。さらにぼく自身が編隊をくんで飛翔している渡り鳥たちの一員なのではないかしらと思ってしまうほど。そんな風に思いつつ、自由にはばたいている彼らを目の当たりにしていたら、ぼくはなんとなくわかってしまったのだった。それもとてもかんたんなこと。

 もしもぼくに翼があったら、高所恐怖症なぞもろともせず大空を飛びまわるだろう。そしてそれはきっと、このうえもなく楽しいにちがいない。さらに空を飛べるとなれば、やっぱりその好奇心から、もっと遠くへ行きたいと思うにちがいない。鳥たちだって然りで、きっと大旅行をしたいと思うだろう。


 ぼくたち人間は『渡り』をする鳥たちを見て、どうして命をかけてまでそんなに遠くまで行かなければならないのかしらと貧しい思索をめぐらす。けれど彼ら渡り鳥からすれば、このめくるめく美しく雄大な大自然を満喫するため、授かった翼を目いっぱい使い、何千キロもの大冒険をしない手はないのではないかしら。

 授かった命を燃焼し、生存期間のすべてを『渡り』という旅のために支度し、使い果たす。これが鳥として生まれたことへのこの上もないよろこびの他なんであろう。

 「もしもぼくに翼があったら・・」。


453 Led Zeppelin
06/06/23


 世界の音楽の歴史の中で、バッハやモーツァルト、ベートーベンなどの偉大な音楽家が残した、いうならば人類の宝ともいうべき交響曲、小曲などの数々は未来永劫、消えてなくなることはないだろう。

 それに対してその時代時代にもてはやされた大衆音楽の多くは、咲いては消えるはかないもの。それにもかかわらず、今も残る美しいメロディーの民謡などは、作曲された年代、作曲者すら忘れ去られているものが多い。とくに音楽は人から人へ歌い継がれる以外にすべのない、その他には楽譜でしか伝えられない、残せない無形の宝。今までに、いったいどれだけたくさんのすばらしい音楽が消えてなくなってきたことだろう。

 科学の発達でレコード技術が発明されたおかげで、多くの音楽が記録され、残されてゆくように思えるのだけれど、やっぱりおなじこと。CDに記録される大衆音楽も、聴かれなくなればただの物でしかなく、音楽でさえなくなってしまう。そしてやがては消えてしまうことになる。まったくはかないものだと思う。

 ぼくのレコード棚やCDラックに並んでいる音楽も、ひょっとするともうおおかたは世間から忘れられかけているものが大半なのかもしれない。世の中のほんの一握りの音楽ファンだけが、それをオーディオ装置で再生しては楽しんでいるけれど、さらに長い年月が経過するころにはそのほとんどが忘れ去られてゆく。

 これはすばらしいバンドのすばらしい曲なのだと、自分の子や孫に伝えようとしても、いずれはやはり消えてゆくのかもしれないと思うと、なんとも切なく、寂しい気持ちになってしまうもの。

 世界はその時代時代に、ヒーローは唯一でよしとしてしまう。レコードの発明で、だれもが音楽を聴ける世の中になった。その中でもっとも花開いたジャンルといえば、なんといっても『ロック音楽』。ローリングストーンズやビートルズ、レッド・ツェッペリン・・。どれも残されて然るべき、なのにその大部分が消えてゆくのだろう。それならば、どんな曲が残り、消えてゆくのだろう。単にすばらしいからなのか、美しいからなのだろうか。

 その判断はほんとうに残念ながら、ちょっとちがっているような気がする。要するに、ヒーローであることが優先されてしまうのではないかしら。ヒーローといえばたぶん『ビートルズ』ということになってしまうのかもしれない。そしてその他は世間で必要のない脇役となり、もしかすると長い年月の中で消滅してしまう。

 レッド・ツェッペリン。1968年、ヤードバーズ(エリッククラプトン、ジェフベック、ジミーペイジの居た)解散のあと、ジミーペイジの意志でよみがえったおそらく最強のロックバンド。前衛的で攻撃的。基本のブルースとロックンロールをこれほどにダイナミックに表現したバンドは他にないのではないかしら。

 それよりももっと他の、数々のすばらしいバンドと、彼らが残した感動的な音楽が、にもかかわらず忘れられ、消え去ってしまおうとも、どうかレド・ツェッペリンだけでも、ビートルズ時代をひっくり返して君臨した偉大なロックバンドとして、延々として、その音を鳴らし続けてほしいと思う。是非今一度、聴いてみてください。

Led Zeppelin とは『鉛(lead)のツェッペリン飛行船』の意。重さゆえに落ちる、という洒落もあり、その音の重さをも連想させる。
名曲 『Black Dog』こちらで聴けます


454 Amy (エイミー)
06/06/28


 エイミーという豪州映画をビデオで観た。2002年作。ロック歌手の父親がライブ中、主人公の少女エイミーの目の前で感電死してしまうという衝撃的な事故。そのショックがきっかけで彼女はろうあになってしまっている。それを自らも傷ついていながらも何とかしようと努力する母親。それをあたたかく助ける向こう三軒両隣の物語。

 エイミーはロックを演奏するかっこいい父親が大好きだった。しかし母親はすばらしいはずの音楽が、夫の命を奪ってしまったのだという意識から、音楽と隔絶した生活を自らとエイミーに課している。

 世の中に親がいて子供がいる。どんなに美辞麗句で飾っても、ときに子供たちは親たちの都合で生きている。単身赴任、離婚、死別。片親との生活。その他にも家庭が崩壊する原因はたくさんある。そんなとき子供が傷つく以前に、まず親が大きく傷つき、心はすさんでいる。そのおかげで子供もその重荷を負わされることになる。子は親を映す鏡というけれど、傷ついた親の心の乱れは、そのまま子供の心に投影される。自らをはかり知ることのできない子供には、その精神状態やそれによって引き起こされている身体的障害について、克服するすべというか活路を見出すことなぞできるはずもない。

 この映画の中のエイミーの母親の場合、目の前で起こった惨劇によるショックで、音楽を拒否するようになってしまっている。エイミーもまた父親の死で大きく傷つき、心は救われることができない。その結果、エイミーは周囲との関係を閉ざすことで自らの領域を守るという状況を獲得してしまう。だけれども、困ったことには今度はその状況から抜け出す方法がわからなくなってしまっている。この映画の場合、そのカギは音楽にあるのだけれど、母親とエイミーとの間に完全なすれ違いが起こってしまっている。だからさらに解決が難しくなっている。

 この映画をさらにドラマチックにする方法としては、まさにそのカギとなる音楽をもっと前に出して、ミュージカルにでもしてしまう方法もあったかもしれない。けれどそれを敢えてしていない。

 それぞれ貧乏な人たちばかりがバラバラに暮らしている横丁。その横丁に越してきた親子は、音楽によって傷ついてしまっていた。なのにやっぱり音楽が好きなエイミーは、それによって人との関係を取り戻そうとしている。そんな少女を心配する横丁の人たちは、反対に少女の欲していた音楽により救われる結果となる。

 音楽はどうして人を救うことができるのだろう。メロディーが美しいからだろうか、その詞によるものなのだろうか。いえいえ、その答は実にたやすいものだと思う。

 音楽とは言葉。音階とリズムいう言葉があって、それを伝える者がいて聴く者に心を伝える。それが心のこもったものであればあるほど、クラッシックだろうが、ポピュラー、ロック、ジャズ、ブルース、どの音楽だって人の心に直接語りかけることができる。人の心に語りかけるには、それは単語を羅列した言葉ではなくて、直接心に伝わることのできるもの。それは音楽を愛する心なのだ、とこの映画は教えている。


455 不撓不屈
06/07/11


 『不撓不屈』という映画を観た。久々、映画館で。滝田栄、松坂慶子など出演で、監督は『若者たち』などの森川時久。1963年、東京オリンピックのころ、税理士が税務署の小間使いだったころ、大企業有利の税制にそれではいけないと、中小企業者の発展ためになる税務を貫こうとした税理士、飯塚毅という人物がいた。国に対して自らの正等を主張した『飯塚事件』。対して、7年間にも及んだ国からの執拗な弾圧にも屈せず『不撓不屈』の闘いの結果勝訴するまでの物語。けっこう重い内容の映画。主人公の飯塚役の滝田栄の苦渋に耐える面持ちが印象的。

 この映画の舞台になった時代と今とでは、社会の情勢はまったくちがうといえばちがう。当時は戦後10年そこそこということもあり、民主主義なぞそっちのけでひたすら経済を成長させることだけに心血が注がれていたといえる。安保闘争、公害裁判、労働問題など、経済の足を引っ張るような社会運動には、国による執拗な攻撃というものが付きものだった。権利を勝ち取る闘いとは、まさに闘いであった時代。

 今の世の中、平和というのか鈍感なのかわからないのだけれど、一見社会運動が直接の政治運動に結びつくことは少なくなっている。そして、運動自体も過激さはなく、論理が意味をもつ場合が多いのではないかとおおかたの人たちも思っている。それほどに日本は民主国家なのだという思い込みもあるのかもしれない。この映画の時代に頼みの綱ともいえた『日本社会党』も当世には受けないのかすっかり影を潜めてしまっている。

 そんな平和な民主国家とはいえ、いろいろな社会問題はあいかわらずあとを絶たない。では、それをなんとかしようという人々の活動は実を結んでいるといえるんだろうか。食の安全について考えてみる。狂牛病、米国での安全は守られているんだろうか。遺伝子組み換え作物、その安全性がいまもなお問い続けられる中、消費者が望みもしない、首をかしげたくなるようなバイテク作物が商品としての座を得ようとしのぎを削っている。そんな類の食の安全安心とはまったくかけ離れた農畜産物の押し売りに、「なんとかしてくれ」という消費者の願いはといえば、さっぱり受け入れられているとはいえない。

 たしかに『闘い』というひとびとの手段は影を潜めてはいる。だからといってこれは闘いの必要性を感じていないということでは決してない。確実にいえることは、それが無駄なのだという実感によるものでしかないということ。国という概念は必要悪といわざるを得ず、あればあったで戦争は起すわ、人々の搾取はするわ。とにかく論理などまったく歯が立たないから始末にわるい。

 にもかかわらず、決然と論理によって(それを支えきれるだけの潔白さをもって)、腕ずくの権力に立ち向かった人物がいたという事実は、ぼくにも大きな勇気をあたえてくれる。

 今の世に時代錯誤と言われるかもしれないけれど『不撓不屈』、正しいと信ずる事に継続して進み続ける精神の大切さを、あらためて感じさせられる映画といえる。



456 自生GMナタネの今後
06/07/20


 『遺伝子組み換え食品を考える中部の会』に参加して、名古屋港と四日市港周辺のGMナタネの自生拡散の調査を始めてまる2年が経過しました。ぼくたちが調査を始めたのは、04年7月茨城県鹿島港周辺でGMナタネの自生が確認されたという報道発表を受けてのことでした。

 菜の花には季節外れ。梅雨明けの酷暑の日、せめてその痕跡だけでもと、なかば下見のつもりで四日市港を訪れました。ところが意に反してというのか、そこで見たのはまさに今まさに花を咲かせているもの、すでに花が終わってサヤに種をつけたもの、まだ芽吹いたばかりのものなどのまったく季節を無視して自生するセイヨウナタネだったのです。そしてそのうちに除草剤耐性GMセイヨウナタネを確認したのです。

 考えても見ればわかることですが、カナダで栽培されているカノーラ種は春まきの種類。乾燥した夏でも平気なのです(日本の夏はちょっと過酷なようですが)。そしてカナダと比べて温かな日本では、冬も越せてしまう。ようするに一年中『時無し』で生育可能ということなのです。

 日本にGMナタネが輸入されるようになって10年近くが経過しています。その間、カナダでのGMナタネの栽培も年々進み、今となってはその割合は80%といわれています。カナダからの輸入が全体の85%といわれていますから、非GMの豪州産などとあわせると輸入ナタネ全体の68%がGMだということになります。カナダ産の場合、分別による輸入はありませんから『不分別』ということになるのですが、80%という高確率の混入率ともなるとこれはもうGMナタネと考えて差し支えないでしょう。

 そのGMナタネ、今までに四日市港から松坂市までの国道23号線沿いで確実に定着してしまっているというのが現状です。さらに除草作業が徹底されにくい市街をはなれた場所では、セイヨウナタネが種子を付け、すでに世代交代が行われている様子がうかがわれます。セイヨウナタネは条件さえ良ければ、そのサヤからこぼれた種子はすぐにでも発芽します。そして3ヶ月ほどすれば開花し、種子を付け子孫をふやすことになる。その繰りかえしをするうち、除草剤の効かない雑草となってしまうかもしれません。さらにいつか近縁のアブラナ科の植物と交雑するかもしれない。

 GMナタネの自主調査をはじめて3年目。ますますその威勢を発揮しつつあるというのが現状ですが、それを手をこまねいて見守っているわけにもいきません。

 現在、関係の製油会社が国道23号沿線の定期的なナタネの抜き取り作業をしています。しかしながらセイヨウナタネの勢力はそれをはるかに上回っているかの様相を呈しているというのが現状です。

 今後早急ににぞまれるのは、関係の企業ばかりでなく市民や行政など、可能な限り大きな規模でセイヨウナタネの一掃をはかるべく、行動を起すことが緊急の課題なのではないでしょうか。
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457  自転車に揺られて
06/07/27


 ぼくがまだ身長120cmにも満たない頃、幼稚園かそれ以下だったころ、ぼくは家から2キロも離れていない父親の在所に行くことがあった。父の漕ぐ『実用自転車』(荷台が大きく重量感のある業務用)の荷台に縛り付けた竹製のふご(コンテナ)に、頭だけが出る感じで座って連れられてゆくのはなかなかの旅気分でもあったように記憶している。

 今から50年近くも昔だったから、家を出てじきに建物は何もなく景色は開け、一帯は見渡す限り田んぼばかり。むせ返るような緑一色のずっと向こうに矢作川の、これまた緑の堤防が望まれるのだった。父がめざす在所はその堤防のふもとに、それこそ目を凝らせば見えそうな、でも小さなぼくにはとんでもなく遠く感じられる雄大な景色であったように記憶する。

 田んぼの中の二本のわだちのあるちょっと広めの小道を進む。途中、ドジョウやフナのいる小川、工場への引込鉄道の線路を越え、遠いので一人ではゆけない清流の深くてちょっと危険な小川も越え、父の在所の村はずれの石を組んだだけの火葬場も越え、父の漕ぐ実用自転車は黙々と在所を目指すのだった。

 その実用自転車は前輪のタイヤが破れかけていて、中のチューブが盛り出そうになっていた。だから車輪が回転するたび、それを支えるリムに膨れてせり出したタイヤがこすれ当たり、なんともさびしげな音をたてるのだった。『カタッ、カタッ』と一定の間隔で刻まれるリズム。無言でペダルを踏む父。ぼくも何もいわずにただ荷台の竹ふごで揺られてゆくのだった。

 その後間違いなく父の実用自転車はめざす在所に着いたのだろうけれど、なぜかぼくにはそのあたりのやり取りの記憶がまったくない。ただ記憶にあるのは在所からの帰り道。実用自転車の荷台には、スイカやきゅうりなす、黄ナ瓜、カボチャなどの夏野菜が満載となったため、ぼくはハンドルに取り付けられた子供用座椅子に乗せられて帰るのだった。

 行きとちがって帰り道は『前』ということもあり、揺れも直接つたわりくつろぐという感じではなかったけれど、それにおみやげの野菜を満載して仕様がないほど実用自転車は重くなっていたはずなのに、なぜかタイヤがリムに当たる『カタッ、カタッ』の音が軽快に響いて聞こえるのだった。

 在所への往路復路で父とぼくが一体どんな会話をしたものであったか、まったく記憶にない。もしかするとほんとうに何も会話がなかったのかもしれない。

 あれは戦後10年少しの年月が経ったころ。勤めの会社からの給料も滞るほど不景気で、お金も物も、食料さえも乏しい時代で、ひとびとは生きることだけで精一杯だった。しあわせをかみしめる暇もなかった。

 往路で見た父の背中。復路で背後に感じた父の吐息。『カタッ、カタッ』という音。今もわすれられない。


458 若者のモラル
06/08/03


 最近、若者のモラルの低下が問題になっているとNHKテレビが言っていた。商店街のシャッターなどへの『タグ』と呼ばれるスプレー塗料による落書き。図書館での書物への書き込み、ページの切取り。列車内での席の独り占め、床へ座り込みなどなど。他人への迷惑をまったく自覚していない行為が目立つ。なにもこういった行為は若者に限らず、ということも言えるかもしれないけれど、とにかく最近若者のモラル欠如が目に付くといわれても仕方ない。

 もっとも、今から三十数年むかしの若者は世の中の不条理に立ち向かうべく反抗し、けっこうやりたい放題もした。そしてそれは世間からは迷惑だったのかもしれない。

 現在と‘70年ごろとの違いを考えてみる。共通していえることは当時も今も社会がおかしいということがまず第一。当時、反抗することで世の中が変わるかもしれないと思っていた。今では、どうせどうあがいても変わりっこないと思っている。要するに、当時の若者には『希望』があり、今の若者には『あきらめ』があるのかもしれない。

 よく『子は親を映す鏡』という。それならば『若者は社会を映す鏡』ということができるかもしれない。三十数年前の当時、日本は経済的に自立したかのようであったけれど、国際的には安保だとかで自由を奪われるというか、あからさまな米国のごり押し呪縛にあっていた。今はといえば、もはやグローバル化だか国際化だかの名目の下、実は米国の家来にでも成り果てたかのような状況。不良にやられて言いなりになり、仕方なく悪をしてしまう気弱な少年のように、日本は同じような立場を維持し続けてしまっている。

 かといって自立に燃えていた1945年以前はどうであったかといえばこれまた最悪で、日本国は無茶な教育で若者を言いなりにし、『挙国一致』だ『報国』だ、挙句の果てにはお国のために命を捧げることすら強要したほど。要するに、国が正しかったという事実は、情けなくも太古からの歴史上ありえなかったのではないかしら。

 手本にしようにもどうしようもないほど陳腐な国家・社会に対し取り得べき若者の態度とは、時代に応じ形は変われども『拒否』するという意志を原動力としたものの他なにものでもないのかもしれない。

 それはそうと今の社会の現実はどうだろう。戦争には加担するは、貧富の格差は広げるは、自動車の売り込みの見返りに、安全の確認されない農畜産物を押し売りされるはという、正義という尺度ではかることのできない国家の醜い姿を日常に見せ付けられれば、若者たちはモラルがどうだとか、人を思いやるなんぞちゃんちゃらおかしくってやってられない、というのが共通の意識なのかもしれない。そんなことよりモラルの無いのはむしろ国家・社会の方なのではないかしら。
落書きは楽しいけれど


459 
06/08/16


 また今年も原爆、終戦記念日がめぐってきた。今は平和を装っている日本だけれど、やっぱりというべきか世の中に戦争という忌まわしい災禍がコソボ、ルワンダ、イラクなどに降り注ぐ。そして使われる兵器にしても手を変え品を変え、民主、正義の名のもとに農薬や劣化ウランなど『何でもあり』の世界。

 戦争とは究極的な破壊活動であり、その対象は人や動物の生命、さらには精神、自然環境などとあらゆるものにおよぶ。そしてその影響は深い傷跡として孫や子の代にまで受けつがれてしまう。

 この世というのかあの世なのか、とにかく八百万の神であふれているといわれる。日本でいえば恵比寿様や大黒様がグループをつくっている七福神。天照大神、海彦、山彦、天狗や河童もその一員といえばそう。福の神、貧乏神、死神など挙げれば切りがない。世界中どの地方にいっても様々な神がいる。ヨーロッパにもゼウスだアポロン、ポセイドンとこれまた枚挙に暇がない。世界に一神教だ多神教だといってもやっぱり八百万の神。星座かがやく夜空を見上げても。とにもかくにも世界は八百万の神であふれている。

 そういう八百万の神々は連合や派閥、主義の違いでいさかいなどもあったりもして、たとえば日本でも神無月には出雲で神々の会合が行なわれ、協議の結果人の世をどうするのかを決めているのだそう。

 ということになれば神の世とはなんといい加減なのだろう。その筆頭の一人キリストにしても、そうともそうでないとも取れそうな理屈で正義を説き、悪への報復を是とするかのような解釈もさせたりもする。

 考えてもみればなんと神とは、その教義とは都合よくできていることだろう。もしかすると真の神の言葉がはじめにあったとしても、それを編纂したのがなにかの権力にまつわる『人』である限り『真実』は都合よく表現されてしまっているのかもしれない。

 『神』とは最初に存在したものであるかもしれないけれど、いかんせん、それが『人』の『言葉』というフィルターを通すことで無形の『幻想』から、有形の『物質』へと変幻してしまうというからくりがある。これはある意味おそろしいことで『教義』を手本に『神』の行為、精神を表現しようとするとそこには作為的に曲げられた『人』の醜さが見え隠れしてきてしまう。ようするに『神』の存在ほど、あるものにとっては非常に都合のいいものとしてあつかわれてしまうところに大きな問題がある。

 いったいどこの世に「人を殺せ」という神がいるのだろうか。いったいどこがどうなると、正義の名のもとに人を殺すことが正当化されるというのだろう。そんな『神』なら存在してくれなかったほうがいい。このような殺戮の場にさえ、もしほんとうに神がいるのなら、人の心をなだめるが如くその場に現れ、正義の名のもとにすべての人を救うべきだ。さもなくばその責任を取り、今すぐ人類をこの世から解消するべきなのかもしれない。それとも『神』だけがこの世に存在しても意味がないということなのだろうか。


460 父の戦争
06/08/23


 今は亡きぼくの父から日中戦争(1937〜45)の思い出話を聞いたことがある。ぼくも「またか」なんぞと聞いていたこともあり、その話しの時間的なつながりも、そのときの戦況についても今となってはわからないところが残念。父は終戦後昭和21年、愛知県岡崎へ帰り、そのまま母と見合いさせられ、えーいくっ付けちゃえとばかり翌春4月の結婚へと相成るのだった。この年、父27歳母21歳。

 それはともかく、父が赤紙で日中戦争に徴兵されたころはまだ日本が優勢だったころ。配属されて後、慣れておかなければいけないとして初年兵としてまずさせられたことがあったという。それはなんと人を殺すことであった。スパイとされる中国人が目隠しをされ木杭に縛り付けられており、それを初年兵幾人かで銃剣で突き殺す。父は最初ではなかったもののそれを拒否することもできず、無我夢中で銃剣をかまえ走った。すでにボロボロのむくろとなっている末期の中国人との出会いは、銃剣が木杭に当たる感触でしかなかったと父から聞いた。「そのときが人に小銃を向けた最初で最後だった。」その後終戦まで、殺すか殺されるかの戦闘の場でさえ「断じて人は殺さなかった」と声を震わせて話す父を記憶している。

 曲ったことは大嫌いな父だったけれど、それでも命令に従わざるをえず、戦地の村々では略奪を行なった。牛や豚などの家畜も殺して食糧にもした。

 その他に戦地での体験談を、これまた断片的に話してくれることがあった。雨夜の行軍は真の闇にもかかわらず、灯火の使用は敵に居場所を知らせてしまうため、タバコに火をつけることさえ厳禁だったという。だから各人銃剣の先に白い布を縛り付け、後列のものはそれを頼りに進むのだけれど、何人か前の者が歩きながら居眠りをしてしまいあやうくはぐれてしまいそうになった話。用便を足すのに『大』の場合向こうとこっちに縄を張っておき、用が済んだらそれを跨いで汚れた部分にあてがい、何歩か歩けばきれいになる話などと、ちょっとたのしそうな体験談もあったけれど、それもあとになってはの笑い話でしかないことを父にはよくわかっていたのだろう。そして戦友との悲しい別れの話も。

 戦争を体験した男たちは、ともするとその武勇談を語るのかもしれない。また恥ずべき数々の愚行を「あのときはああするしか仕方なかった」と正当化してしまうのかもしれない。さらには、日本は負けたから悪者になっただけで、もし勝っていれば・・なぞという考えまで現れかねない。

 父はとにかく家族には頑固者だったし、とくにぼくとは話をするたびケンカしてしまうというありさまだった。けれど、その頑固さが銃撃戦の折にさえ、小銃の筒先を人に向けさせなかったとすれば、父はなんと正義であったことだろう。

 今は亡き父。ぼくにも正義感はある。ぼくはぼくの方法で、平和を叫んでゆきたいと思う。