461 月光仮面
06/08/30

 ぼくらが小学校低学年だったころ、まだテレビが各家庭に普及していなかったころ。少年少女の話題といえば相撲でいえは大鵬・柏戸、野球は王・長島、プロレスならヒーロー力道山。そしてなんといってもテレビ映画となれば『月光仮面』。これだけは別格に少年少女の心をとらえてはなさなかったのだった。当時後発ではあったけれど、ほかに『まぼろし探偵』『七色仮面』『少年ジェット』などなどとつぎつぎ。

 『月光仮面』の放送が開始されたのが1958年ということになっているけれど、当時ぼくの家にはまだテレビがなかった。向こう三軒両隣ではただ1軒だけ、西隣の家だけがテレビを持っていた。ぼくらのヒーロー『月光仮面』の放送はまだ明るい夕方6時ごろの番組だったので、ぼくと姉その他近所の子供計5人ほどがお邪魔して鑑賞させてもらうのだけれど、ここでひとつの問題発生。どういうわけかぼくだけがその家に入れてもらえないのだった。

 というのもその家の姉と弟、両親ともに極端なわがまま家族で、ちょっと気に入らないと『きびすを返すが如く』いじわる家族に変身。それもこれもぼくが同い年の息子をいじめるというのがその理由。ただし、これは断じて『否』と証言するのだけれど、彼があまりに弱すぎるというだけのこと。ちょっと押すだけで転んで泣き出すというありさま。決してぼくは彼をいじめたことなんぞありません。

 とにかくそんな理由でぼくだけが家の中に入れてもらえず、6人の子供たちがテレビを囲んで『月光仮面』を楽しんでいる間中、真夏にもかかわらず、締め切られた縁側のガラス戸越しに背伸びして番組を鑑賞したおぼえがある。隣家の鬼兄弟は無情にも、家の中だけに聞こえるくらいにテレビの音量を絞っているものだから、外のぼくには白い覆面の下でもぞもぞ動く『月光仮面』の口元に、その台詞を連想することしかできないのだった。

 さらにこの場面で無常なのは、テレビの前にはぼくの姉、お向いの3兄弟も行儀よく座っていて、しかも仲間はずれになっているこのぼくを「中に入れてやって」ともなんともその家人に進言してくれることがなかったのだった。考えてみればなんと薄情なことだったことだろう。何はともあれ、とにかく自分だけでも『月光仮面』が観たい、観ることができさえすればいいという根性を、今さらながらにあっぱれというかコン畜生とばかりに思い起こす。

 どくろ仮面、サタンの爪、マンモスコングなどの巻へと話がすすみ、学校への行き帰りはその話題でもちきり。お祭りで買ってもらったセルロイド製月光仮面のお面、それに風呂敷のマントをまとい、「ワッハハハ。私の名前は人呼んで月光仮面」なんぞと口上をのたまい、どこから取り出すのか二丁拳銃をかまえてカッコをつける。それだけでもう完全に『月光仮面』になったつもり。単なる状況判断から、例によって今日も隣家の小心息子はどくろ仮面役。

 そして今週も隣家の縁側の窓越しに『月光仮面』を観る羽目のぼくなのでありました。
バイクとニ丁拳銃


462 博士の愛した数式
06/09/06


 原作は2004年の芥川賞受賞、小川洋子の人気小説。監督は『雨あがる』『阿弥陀堂だより』の小泉堯史。キャストは寺尾聡、浅丘ルリ子、吉岡秀隆、深津絵里。久々に出会ったすばらしい映画。

 ある高校に新任の数学の先生が赴任する。生徒とのはじめての授業の中で、√(ルート)というあだなのその先生は、あるすばらしい数学者との出会いがきっかけで今教壇に立つ自分が在るのだと語るのだった。

 ルート先生が小学生のころ、母で家政婦の杏子はあるいわく付きの家の家政婦に就いた。その家の離れに住む元天才数学者の世話が彼女の仕事なのだけれど、その老博士はむかしの事故で記憶障害となり80分以上過去の記憶を失ってしまう前向性健忘症。そのとき以来、博士の記憶の蓄積はとまってしまっている。だから今会っている人と別れたり、睡眠をとったりすると記憶はとぎれてしまう。だから博士は、自分には記憶障害があるというメモ書きを衣服の一部にクリップ止めしている。さらに忘れてはならないことを同じようにして記憶しておこうとしている。

 博士は住居を母屋と離れに隔てた義姉とおなじ敷地の中に住んでいる。しかしながら、儀姉についての記憶は事故より昔のもので、感情的なつながりは途切れてしまっている。もし儀姉に博士への秘めたる心があったとしても、彼がそれを認識し、心開くことにはならない。はっきりいってこれは悲しいこと。

 ルートというあだ名はその博士が付けたもの。その子は博士の数字にまつわる話にも素直に興味を示すのだった。事実博士は実に数字を数学を魅力的に語る。反面、感情を表したり語ることが苦手。記憶障害がそれを邪魔してしまうから。

 数学とはひとつの学問。あらゆる現象を数式化し、それの理屈を解き明かす。不可能な計算にすら回答を導いてしまう。そして限りなき神秘と好奇心、さらには感動すら与えることができる。人と人は言葉によって語り、相手と意志の疎通をはかる。しかしながらたとえば音楽は音符という言葉で、言語ではとうてい表現できないものを伝えることができる。数学に使われる数字と記号はまさにその言語にあたるもの。

 ぼくなぞ、残念ながら高等学校の段階で数学が嫌いになってしまった。でも人には恥ずかしくなってしまうほどの理屈屋だったりする。もっと数学が好きだったなら、この理屈っぽい性格もすかっとすっきり説得力のある論理家になっていたのかもしれない。


463 911
06/09/13


 5回目の9月11日がめぐってきてテレビではメモリアルなのか祭りなのか、あのときの惨劇を再現しながらなにかを検証するのだと言う。ぼくも何かをしながら見た。たしかに今になって見返しても、なんとすさまじい出来事だったのかとあらためて実感してしまう。その重要性、悲劇性ゆえに、その後米国は911テロの報復となるイラク戦争へと再突入。そして現在に至る。

 1941年にこんなことがあった。ハワイ真珠湾に敵機来襲。以後、太平洋戦争へと突入。米国はその有り余る物量をてこに、極東の日の丸日本を叩き潰すことになった。いうまでもなく、その終結は帝都爆撃、沖縄戦、広島長崎。そして日本は現在に至る。

 ほかにも挙げたら切りがなく、おぞましくもおそらくは究極ともいえるような惨劇があり、それがきっかけとなったであろう殺戮の歴史がそれに続いている。

 5年前のその日、ぼくは仕事から帰り、おそい晩ごはんを食べながら茶の間のテレビで、今までに経験したことのない劇的な映像を目の当たりにしたのだった。それも実況中継で。

 まったく映像とは説得力のあるものだと思ってしまう。百回聞こうが一見にはかなわない。しかしながらそれにも増してあのときの一回限りの出来事が、現代の録画技術によってすれば何度も繰り返すことができる。さらには編集することで、そのときよりももっと説得力のある劇的な映像とすることだってできてしまう。その証拠に5年経った今、再度あのときを思い起こそうという試みさえ可能となる。おそらく今後何年経とうと、この生々しい映像とリアルなCGを交え、それに関係した人々の体験談がこれまた再現映像として付け加えられる。世界の視聴者たちは9/11になるとテレビに釘付けとなり、今まで未公開なのか、はたまた新事実とおぼしき映像を体験することができる。そして何年か前の惨劇を再認識させられることとなる。それを思い起こすためのキーワードはいうまでもなく『カウントゼロ』ということになるのだろう。

 ヒロシマ・ナガサキにはカウントゼロに相当するような物はあっても映像はない。ひたすら語り継ぐという作業が繰り返されている。そしてそれは歴史の一部として埋もれてしまうのかもしれない。

 はたして原子爆弾の悲劇についてさえもCGを駆使した映像に訴えることが可能なのかもしれず、いちるの平和への望みを込めることもできるのかもしれない。一体どうなのだろう。

 映像というのは編集の仕方によっては、大衆に対し何かを扇動することもできてしまう。それは『正義』という言葉による繰りかえしで可能となる。悪にやられたからやり返すという公式のために、映像は非常に効果があるのかもしれない。それに反して人の心を静め、平和を説くことのいかにむつかしいことだろう。

 いずれにせよ911の映像が、平和以外の目的に使われないことを望みたい。


464 電光仮面
06/09/21


 ラジオドラマが好きでよく聴くのだけれど、最近こんなドラマがあった。題名は『電光仮面』。1950年代のテレビのヒーローの草分け、月光仮面をもじってのもの。

 もともとは1998年、関西芸術座という劇団が上演したものをラジオドラマに書き直したものというのだけれど、これがまたたいへんにおもしろかった。

 かつて月光仮面が関東で活躍していたころ、関西では電光仮面がヒーローだった(という設定)。そのヒーローも寄る年波にはいたしかたなく、最近月光仮面は肝硬変で死去とのうわさにがっくりと肩を落とす。当の電光仮面も病を抱え近々入院というありさま。かつてのヒーローも今では娘むこや孫さえもその存在を知らないという情けなさ。一人その事実を知る娘にしても、かつて悪と戦うという大義名分で家庭もかえりみず奔走していた自らの父親に悔恨の念さえ抱いているのだった。

 ある日、今では看板を下ろしてしまっている電光仮面の本拠『紅(くれない)探偵事務所』の近くで様子を伺うあやしい人影。それは電光仮面の宿敵『ブラックキング』。彼が狙うのは電光仮面に奪われたままになっている『魔王の地図』。とはいえ心臓に爆弾を抱えながら、今では一人さびしく余生を送っているだけのただの老人。

 正義と悪の互いの決着も付かぬまま、法的にはとっくの昔に時効が成立してしまってはいるものの「悪に時効はない」と言い張り、ブラックキングに正義の敵意を燃やす電光仮面。一方、いまだに電光仮面と魔王の地図を意識から忘却することができないブラックキング。この宿敵同士、実は互いに固いきずなで結ばれていたのだった。

 かくして一世一代いや冥土の土産の代りに、電光仮面との最後の戦いを挑むブラックキング。その宣戦布告に電光仮面は死ぬ気で決起。もういちど生気がよみがえったか、悪と正義の宿敵同士は決死最後の戦いに及ぶ。心臓の発作にあえぐブラックキングに『魔王の地図』が電光仮面からしっかりと手渡され、悪と正義は固い友情を確認しあう。

 子供たちの心の中で、ヒーローとはいったいなんだろう。そしてその宿敵『悪』とはいったいなんだろう。『悪』は極悪にもかかわらず人の命を軽んじて奪うことなく。ヒーローたる『善』も悪を殲滅しつくすというわけでもなく、どこかでそれを許すという広い心をもっている。

 ヒーローに欠かすことのできない心。それは『愛』と『勇気』と『希望』。世の悪を懲らしめ、奔走する姿はなんと世の中を明るくすることだろう。それに引き換え現代のヒーローというか『正義』とは、なんとすさまじくもすべてを奪い去ることだろう。少しは電光仮面を見習え!!


465 彼岸花
06/09/28


 秋、彼岸のころ、それまですべてが緑一色だった一面の稲田が黄金色になり、ある日一気に稲刈りとなってしまう。田の畦も土手もきれいに草刈がすみ、すっかりすっきりしてしまった風景に赤色の花が咲く。咲いたかと思えばそのうち三々五々。さらに気付いてみればたくさん。彼岸花というのはなんと不思議な花だろう。それは決まって同じ場所に同じころに、それこそ忽然と花を咲かせるからなのかもしれない。

 別名を挙げてみれば、マンジュシャゲ、シビトバナ、カミソリバナ、キツネバナ、ユウレイバナ、ステゴグサ。日本ではなんとなく不吉な花という印象がある。先祖を供養するころ、先祖を祭るような場所で決まって咲くのがその理由なのかもしれない。韓国では『相思花』とも呼ばれる由。花が咲く時には葉がなく、葉があるときには花がない。花と葉が出会うことなく、お互いを思いあうという意味なのだろうか。

 また花言葉には『悲しい思い出』『想うはあなた一人』『独立』『再会』などある由。日本的感覚からすればやはり『悲しい思い出』だろうか。それになんとなく墓場とこの花が似合うのはなぜなのだろう。もしかすると、むかしむかし、先祖を弔うのに野の花を摘んで供えるより、秋の彼岸にきまって咲くこの存在感のある花を墓石の傍らに植えたのがきっかけかもしれない。それにこの花、球根でしか増えることがないのもきまって同じ場所で咲く所以でもあり、もしかすると毎秋さくこの花が先祖や肉親そのものの化身という印象にもなるのかもしれない。

 彼岸花、それが咲いている様子をイメージしてみる。血のように見事に赤い。意味ありげな花の形。そして忽然と咲いている。これだけをまとめてみると『ひとり激しく燃える心』とでも言い表せるのだろうか。

 原産は中国とされている。それも太古の昔。日本への伝来ももしかすると日本と中国が陸続きのころ。人為的でなく、自然的にそれはなされたのかもしれない。それにしてもこの花の咲く場所は決まって田の畦や墓地のようなところが多い。おそらくこの花が人によって植えられたことの証しなのかもしれない。

 田の畦に植えられた訳は、この花の球根にそのままでは毒素となる『リコリン』という物質を含むため。地中を掘り畦に穴をあけ、田の水を抜いてしまうモグラなどを寄せ付けまいとする願いもあってのことなのだろう。昔から忌み嫌われてきた割には、なんとも人の生活との係りもまた深いのはどうなのだろう。

 これはまったく不覚というべきか、ぼくなぞ今の今まで、この花は春と秋のそれぞれの彼岸に咲くものと思っていたもの。もちろんそれは理屈にあわないことなのだけれど、春にもたしかに咲いているのを見ているような気がしてならない。

 多年草のこの草は、秋花を咲かせ、それが終わると葉を出し、春には球根を残し枯れる。秋、秋分のころ茎を伸ばし花を咲かせる。まったく不思議に宗教感を匂わせる、自己主張のある花であることだろう。

彼岸花について
 彼岸花は不思議な花というイメージがありますが、実際歴史的にも、学術的にもその一面があるようです。

 まず歴史上、この花が日本に伝わったのはかなり昔かもしれないともいわれています。たとえば稲作といっしょに縄文時代に救荒植物(田畑を荒らす動物から守るための植物)としてという説もあり、それ以前に日本と中国が陸続きの時代にという説も。おそらく、この花と農耕とはごく身近で、日本の人里にしかも太古から見られたごく身近な植物であったのかもしれない。でもその割には、古事記、万葉集などの文献にも姿を現わさず、鎌倉時代になってやっと『曼珠沙華』の語が平家物語や足利の僧の詩などに表されているそうです。それともやはり日本に伝わったのは鎌倉時代だったのでしょうか。

 この花は三倍体という形質のため生育力が旺盛な反面、種子での繁殖ができず、球根の株分け以外に方法が無いといわれています。

 その彼岸花はいったいどうして日本中の人里に広まったのでしょうか。それはやはり人の手によるものなのだと思います。その神秘性ゆえに、またなんとも不思議な生態や妖しい美しさゆえに、宗教性というのか、またその花を自分たちより先に死んでいった人たちに重ねて見たのかもしれません。

 その生態を知らないぼくにさえ、やはり不思議な花としか思えません。


466 団塊の狭間
06/10/04

 最近社会的な言葉となっている『団塊の世代』。戦争が終り、復員してきた男子が不景気で仕事もままならず、賃金さえまともに得られなかった時期、ひとつだけたしかに残した財というか宝。その宝は成人のころ学生運動として国家を相手に負けるとわかって戦(いくさ)をやってのけ、いざ社会人となると一転、国家のための企業戦士。バブルを膨らませ、そして破裂もさせた一員。

 思い起こしてみれば、3歳上のぼくの姉はまさに戦後ベビーブーム産で同じ小学校に通っていても、42人のぼくのクラスと比べると56人の姉の教室は、ぼくより確実に大柄な児童と机腰掛で身動きすらできない状況であったことをこの目で見て知っている。そのありさまはぼくのクラスとは明らかにちがうというのか、それだけを目の当たりにしてなにか大きなエネルギーを感じるのだった。

 それに対して昭和26年(1951年)生まれのぼくはといえばなんとなくそれとはちょっとちがっているような気がする。そんなぼくの年代のことを現代用語でいえば『ポスト団塊』ということになるらしい。戦後4.5年で終わったベビーラッシュのすぐあとで生まれたから、ぼくはその『ポスト団塊』の世代ということになる。

 ぼくは一年浪人をして1971年に大学に入ったので、その年には残念ながらというかなんというか、とにかく大学闘争は幕を下ろしたあとだった。その残り火が学園をくすぶらせていて、ぼくらもよろこんでヘルメットをかぶりカッコを付けたつもりではあった。けれどやっぱりそれもつかの間で、あれよあれよという間に先輩たちもどこかに片付いたかと思う間もなく、残されたぼくらは空白だらけの学園に残されたというありさま。うーん困った。

 おそらく団塊の世代たちは、権力を相手に戦うことの空しさを身をもって体験したことで、今度はそのあり余るエネルギーを社会の一員としてがんばりぬくという路線に切り替えたのかもしれない。

 ところでポスト団塊のぼくらはといえば空白の思想の世界に取り残され、途方にくれるばかり。結局は自分がしっかりしないとなんともならないという心構えはできたものの、奪い合いをしてまで世渡りをするのは御免とばかり、団塊とはちょっとちがう路線を選ぶことになったような気がする。

 団塊の世代もさらにポスト団塊も定義付ける言葉をぼくは知らないけれどやっぱりちがう。そしてぼくらのあとの世代とぼくらとのちがいもやっぱり大きな何かとしてあるような気がする。もしかするとぼくらのあとをポスト団塊というのかもしれない。ぼくらの世代はごく限られた時期の、それも特殊な時限の狭間世代のような気さえする。仮にぼくらを『団塊の狭間』世代と名づけるなら、団塊の世代の一部始終を手本として見ながら「自分ならこうするんだ」という、あがいた挙句の世代なのではないかしら。要するに少数派です。


467 星になった少年
06/10/15



 動物プロダクションを経営する母親のもと、ゾウを調教するだけでなく、理解し、日本中のゾウたちの親になろうという夢さえもったひとりの少年の物語。

 母親の職業柄からか、みずからの性格からか、一般の子供たちとなじめないテツ少年。母親が買い入れたゾウとの出会いをきっかけに、ゾウ使いになることを決心。単身タイ国の北部チェンマイの山間部にあるゾウ使いの学校に入学するのだった。そこでの生活で異なった国の言葉や習慣との融和、そしてなによりゾウ使いになるための基本であるゾウと心を通わせるまでの苦労は、中学生そこそこの少年にとって少なからぬ苦労であったにちがいない。

 帰国後、本場タイ式のゾウの調教法をもって、日本初のゾウさんショーをひらく。それは単に娯楽として観客を喜ばせるというためだけでなく、たとえば人とゾウがいったいどんな関係でいまここにいるのかというような、とてもたいせつな事柄を伝えるための『場』でもあった。

 そして彼には他にも夢があったのだった。日本のゾウにもタイのように、年をとり引退したゾウたちのが余生をゆったり平穏におくることのできる楽園を造ってやることだった。

 多くの哺乳類の親と子は宿命としてあるとき『別れ』を経験しなくてはならない。それは反発による親との決別なのかもしれない。親にとってそれはある意味でかなしい出来事であるかもしれない。けれど反面、成長したわが子を目の当たりにすることは、大きな喜びでもあったりする。それが人の親と子の関係なのかもしれない。

 それに対し、人との係りを余儀なくされるゾウの場合はどうなのだろう。ゾウが人に服従するためには、その主人たるゾウ使いがその親であるということが条件となる。ゾウを調教するためにはそれが子ゾウでなくてはならなず、そのためには母ゾウと引き離すというとても悲しい儀式をすませなければならない。さもなければ、人に服従しきれない心の片鱗のおかげでゾウが人に危害を加えてしまうという不幸をしでかしてしまうことになるかもしれない。その場におよんで、そのゾウを守ってやるすべはもうないのだ。

 つまるところ、親と子というか人間同士、動物同士が平穏にすごしてゆく条件というものが厳然としてあることになるのだろう。相手を越えてしまうのか、さもなければ服従かの二者択一ということになる。さらにさもなければ、それは社会からの追放ということになり、自然界においては『死』を意味する。

 でも勘違いをしてはいけない。人間を含めた動物たちの関係で服従にしろ服従させるにしろ、そこには常に強い信頼関係が必要なのだということ。愛情というきずながあって初めて平和的な服従もするのだし、そこに決定的なトラブルは生まれない。ぼくら人間社会もこの厳然とした基本を忘れてはいけない。

テツの夢は今、母親により実現されようとしています
この映画の公式サイトより


468 作業所の移転
06/10/20


 漬物の仕事をはじめてもう25年がたってしまった。光陰矢のごとしというけれど、まさにそのとおりだと思う。もともと岡崎ではじめた漬物屋の仕事だけれど、産地で仕事がしたいという念願から、ここ愛知県宝飯郡音羽町へ作業所を移転したのが1994年の春。これもまたついこの間のことのように思い出すけれど、もうそれから12年以上が経過したことになる。うーんほんとに速い。

 そして今度はさらにもう一度、この音羽町の同じ部落内での引っ越しを控えている。これで通算3度目の引越し。とうとう3回目になったかという実感。けれど、その度にちょっとづつだけれど形になってきていると実感もする。一回目よりは二回目、二回目よりは三回目。そういえば三回目なので、三度目の正直。

 日本の農業だ、地産地消だ、遺伝子組み換え作物と、まったくゆめはこんなにも大きいにもかかわらず、ぼくの身辺の現実はなんと歩みののろいことだろうと感心してしまう。ただし、今回のような作業所の新築移転というような変化を遂げるとき、とりあえず夢がかなうかのような厳粛な気持ちにさえなるもの。

 思い返してみれば1994年の春、ぼくたちは今よりもずっと大きい夢に満ちてここ音羽町に作業所を移転したおぼえがある。まったく生活したことのない、今までとちがう土地でちがう人たちの中で仕事をする。しかもとうとう産地にやって来れたという夢だったと思う。そして今回は同じ産地の中での作業所の移転。加えてぼくらのむすこも一員となって。これはぼくの実感。やっとこれで『音羽町大字萩の一員に認めてもらえそうだ』という意識。

 この12年のあいだ、いかに多くの人たちのお世話になったことだろう。音羽米研究会の鈴木農生雄さん、いつも野菜を作っていただいている鈴木慶市さん。音羽町ばかりでなく、近くの市やまちでむかしから農業をしている人たち。農業改良普及センターの普及員さんたち。従業員の方たち。そして作業所の近所でお付き合いをしていただいている住民のみなさん。それとやっぱりそんな道長を遠くから買ってくださっているお客様たち。

 そんな多くの人たちの意識に支えられて少しづつ成長してこられたのなら、こんどはちょっとでも頼りがいのある道長になって、今度は地域ともに、お客様とともに成長してゆけるようにしなくてはいけない。それが何よりのぼくたち道長を応援してくださっている人たちへのお返しなのではないかしら。

 音羽町役場へ行ってあたらしい作業所の住所への変更届けをした。健康保険証が変更となり、今までの作業所に付いていた防災無線が移動となり、あたらしい作業所へと生活自体が移転となる。それともうひとつ大切な、もう12歳と高齢の愛犬キクも登録住所変更。「犬も連れて行きますか」と役場の住民課。あたりまえです。彼女こそぼくらの12年とともに歩み暮らしてきてくれた、一番身近な同胞なのだから。だから彼女にもぼくの日曜大工で、今よりずっと立派な犬小屋を新築してやりましょう。

かなり充実した新作業所です。見学大歓迎です。ぜひどうぞ。
画像をクリックすると拡大します。


469 引越し
06/11/03

 いろいろな事情でのびのびになってきていた道長の作業所新築という夢。いよいよというかとうとう完工のはこびとなったのだった。思えば長き苦節2年何ヶ月。一時は計画実行もこれまでかとなかばあきらめかけたこともあったけれど、よくもここまでこぎつけられたものだと大いなる感心さえしてしまう。

 10月26日、電話が移設となり、そして肝心な冷蔵庫の中身の移動という大仕事の敢行ということに。しかも40〜75Kgほどの漬物ダル20個ほどの『ヨーイドン』の移動には、体力ばかりでなく注意力も必要なだけにほんとうにたいへん。そしてやっぱり精神力も。

 道長が実質的に仕事を休むことのできる曜日といえば週中の木曜日。ということで26日をその中心の日に当てたものの、12年以上ものあいだにたまりにたまった宝ともごみとも区別しがたい膨大な物量はいかんともしがたく。『新作業所への引越し』という明るい光というか心とは裏腹に「目の前のガラクタ荷物、いるのかいらないのか」の二者択一すらしかねるというのか、なかばどうでもいいのだけれどとにかく、決断を下さなければいつまでたっても片付かないという如何ともしがたいもどかしさは、肩のこり、疲れから来る腰と足の痛みへと転化。そして完璧な引越し仕事はあきらめ、とりあえずは『必要なものだけ』という決断に迫られてしまうのだった。うーん。

 平日の引越しということもあり、親戚関係の応援を望むわけにもゆかない。頼みの下の息子はといえば、やれ学校の講義だバイト、彼女との行楽だと言い逃れで、立った半日の手伝いでご勘弁ということになってしまうのだった。ちくしょー。

 さらに翌日には、お化けサイズのコイルの塊り『金属探知機』、どうしてこんなに重いのか『真空包装機』。漬物屋の命『中国福建省の塩』を貯蔵するための『ヨド物置』の分解移設。むすことふたり、腰も半分抜けてしまうような疲労感のなか、引越しの仕事は空しい時を刻むのだった。

 それでもなんとか26日一日だけの休みだけで、なんとか急場をしのいでしまったのだから「すごい」のひと言。ひごろ早起きが苦手で手を焼かせるだけの愚図六だと思っていたわが息子だけれど、この場に及んでなんと威力を発揮してくれ、気力だけが空回りする50なかばのぼくの体力の減退を十二分に挽回してくれるのだった。たのもシー。

 2006年もそろそろ終盤から大詰めへと差し掛かってくる晩秋の時節。さらに寄る年波から来るのか、はたまた生まれつきなのか粗忽の極み『ものわすれ』。

 今のところ、なんとか弾みのついている状態の中、どさくさにもめげず営業活動に追い風となるよう、どうか皆様、ささやかな応援をいただきたくよろしくお願い申し上げます。



470 単騎千里を走る
06/11/09


 05年中国、チャン・イーモウ監督、高倉健主演の『単騎千里を走る』を観た。美しい自然の中国雲南省とそこに住む人たちの人を思いやるあたたかい心。それにふれながら、病床のむすこのため、その果たせぬ目的を代行しようと独り雲南省を訪れる父親の物語。すばらしい映画。

 親と子、とりわけ父とむすことはいったいどういう関係なのだろう。この物語の中では、父親剛一(こういち)は無条件でわが息子と真正面から向き合ったという経験がなく、むすこと理解し合えないというか、そういった負い目からか、素直に対面することができない。

 おそらくはそのむすこ建一にとっても然りで、自分から父親に飛び込んでゆくことのない自分へのもどかしさにも似た念からなのか、やはり素直に父親と対面することができない。

 結局剛一は息子との溝を埋めるべく中国へ旅立ち、まさに『単騎千里を走る』の如、さらに雲南省へと足を伸ばす。そして人のやさしさに出会い、どっぷりと浸かることとなる。その中でかかわりあうヤン・ヤンという少年との時間の経過の中で、遠い過去のわが息子との係わり合いを実感したのかもしれない。むすことの時間とは、こんなにも無条件で暖かなものだったのだと。

 『単騎』とはまさにただ独りという意味なのだけれど、よく考えてみればそれはまったくの独りというわけではない。そこにはまず自分を乗せてただただ走ってくれる馬がいる。その行く手には人々がいる。それらはみな、ただいるだけではなく、係りあうたびに心でつながれる。

 そういえばぼくも思い出す。結婚式かなにかの用でおばの家に行き、父とだれかとそこで留守番をするうち、撮った写真がある。そこで父はなんと優しげな笑みでぼくと写っていることだろう。じつはちゃんとそこでぼくと父は心を通わせていた。9年前父を肺ガンで亡くしたとき、ぼくには後悔の念があった。もっと理解しあいたかったという念。でも会話をするたび、いつもケンカにつながってしまう。だから話し合うことを避けてしまったのだった。お互い反りが合わなかっただけなのかもしれないのに残念でならない。

 男同士の親子、獣としての性からなのか、子の成長とともに複雑な関係となる。彼らはそれを『失った』と錯覚するのかもしれないけれど、どこかでちゃんとつながっているのにちがいない。それをどこかで自覚することさえできれば、それで十分なのかもしれないとさえ思う。

単騎千里を走るオフィシャルHPより