511 通信販売
07/12/19

 道長ではほそぼそながらインターネットを利用した通信販売もしてる。通信販売というとお客様と電話で対応するわけでもなく、まして直接顔をあわせるということもない。だからそのイメージは一見無味乾燥というか、事務的なもののようにとらえてしまいがちというもの。だからせめて少しでも、という願いを込めて『通信欄』を設けておき、お客様からご意見をいただけるようにしている。でもそこへの書き込みはめったにはないこと。

 つい最近、通信販売であるお客様から注文が入った。で、その『通信欄』にこんな文章の記入があった。『最近食の安全に目覚め市販のお漬物が食べれなくなった、お漬けものの大好きなパートナーにクリスマスプレゼントとして送りたいので、彼の名前宛で24日着でお願い出来ますでしょうか。よろしくお願いいたします』。

 この文章を見、ぼくは胸がいっぱいになってしまったのだった。だって最愛の連れ合いへクリスマスに漬物のプレゼント。これってなんて気が効いているのでしょう。それになんて心がこもっているんでしょう。普段は自動的に受注の確認メールが打ち出されそれですんでしまうのだけれど、今回ばかりはお礼のメールをしたためた。

 『ご注文ありがとうございます。わたしも漬物が好きで漬物の仕事をしています。市販の漬物は添加物で漬け込んでいるかと思うほどです。食べるとはグルメとか空腹を満たすためのものではありません。健康に生きるための基本です。そんな日本の食のために漬物をつくっています。お連れ合い宛で12/24午前着でお送りします。これからもよろしく。道長をご指名いただき、どうもありがとうございました』と返信。

 なんと心温まるプレゼントなのでしょう。そして道長はなんとうれしいくもありがたい注文をいただいたことでしょう。このときぼくはひさびさ、自分が何のために漬物の仕事をしているのかをあらためて確認できたように思う。なぜぼくは安全に、味に、素材にこだわり、躍起になっているのだろう。自分の性格だからか、はたまたただ漬物が好きだからか。でもその答えはいともたやすく見つかってしまったことになる。その証しに道長の漬物がクリスマスのプレゼントに選んでもらえたことに、ぼくはこんなにもよろこんでいる。やっぱり道長のような漬物屋を続けてきてほんとうによかった。

 立場が換わればぼくも買い物をする。そんなとき何の気なしに物を選び、代金を支払い、さほどの感慨もなくそれを使用している自分がいたりしないだろうか。子供のころ、母から与えられる小遣い銭を握りしめ、今日は何を買おうか。あれでもなければこれでもない。店のおばあさんから散々「はやくしろ」と促され、やっとのことで決めた品物を手に路地を歩いたあのとき、やっぱりぼくはうれしかったのではないかしら。おばあさんはああでも、ぼくらを思ってくれていたのかもしれない。

 あのときの思いを忘れかけていたとしたら、今回道長の漬物を大切なパートナーに贈ろうと思ってくださった、インターネットの通りすがりに立ち寄ってくださったお客様に、「ほんとうにどうもありがとうございました」。

道長の通販ページ


512 冬の星座
07/12/26



 アメリカ民謡の父といえばスティーヴン・フォスター(1826‐1864)ですが、彼とほぼ同時代にやはり米国民に親しまれる名曲を数多く残した作曲家にウィリアム・ヘイス(1837‐1907)がいます。日本ではフォスターに隠れてあまり目立たない存在ですが『故郷の廃家(犬童球渓作詞)』や堀内敬三作詞の『冬の星座』などでよく知られておりいずれも名曲です。犬童球渓も堀内敬三も欧米の民謡や歌謡などの名曲に日本人になじみやすい詞をのせて(作詞して)紹介しました。

 ちなみにウィリアム・ヘイスによる原曲では、これとはまったく趣きが違っています。曲名は『Mollie Darling(いとしのモリー)』その詞は長いのでここには記しませんが、愛するモリーへの切々とした思いを歌っています。1872年この歌の楽譜はアメリカでなんと300万部も売れたそうです。

 『冬の星座』の訳詞で知られる堀内敬三は『浅田飴』の創始者浅田伊太郎の三男。米国の工科大学に留学するも、音楽に対する憧憬の深さから音楽学校でも学ぶ結果となり、帰国後は音楽の世界に入りました。作詞から作曲、さらにはラジオの音楽番組も担当。

 『冬の星座』は戦後間もない1947年に教科書に掲載されたそうです。冴え渡った冬の空にきらめく星座の美しさを歌っています。

 でもよく調べてみると、実は『冬の星座』よりもずっと以前に『他郷の月』という詞で中村秋香という国文学者で作詞家によって発表されていたのです。それも堀内敬三が生まれるずっと前に。その詞は遠く離れた故郷を切なく思う心を歌っています。この詞でのこの曲がどれほど親しまれたのかはわかりませんが、切なる思いという点で原曲とつながるところがあるといえばあります。

 これはぼくのまったくの想像ですが、犬童球渓(1879‐1943)の詞によるやはりヘイス原曲の『故郷の廃家』もあり、イメージを変えて冬の星座を歌ったのかもしれません。それとも戦後の文部省唱歌では暗いイメージが嫌われたのかもしれません。原曲の恋の歌はさらにまずかったのは言うまでもありません。あるいは中村秋香の詞が古く、子供たちには馴染みにくかったのかもしれません。

 世界に『名曲』は数多あります。ベートーベンやモーツアルトのように演奏されることで伝承されてゆく名曲でさえそうですが、大衆音楽とはなんといっても歌うということでのみ伝承されてゆくものです。そのため、その詞が時代に合わなくなったりすることで、せっかくの名曲が消えてしまうこともあるのかもしれません。でも名曲はきっとだれかによってまた世の中に復活されたりして伝承されてきました。これはとても大事なことではないでしょうか。メロディーと詞の出会いによって名曲が歌い継がれてゆくのです。

 戦後時代は変わり続け、日本の文化としての音楽の趣きも大きく変化してしまっています。そんな中、小中学校の音楽の教科書に取り上げられる曲にもその影響を隠し切れません。先にあげた犬童球渓の詞によるヘイスの曲『故郷の廃家』などは昭和40年ころに、すでに教科書から姿を消しています。

 歌は世につれ、世は歌につれなどといわれますが、大衆音楽ほどはかないものはありません。ほんのせつなに流行る曲のいかに多いことか。その中にも実は未来に歌い継がれるべき名曲もいくつか含まれています。でもあまりに新陳代謝のはげしい現代の音楽ビジネスのなかで、それさえも消え去ってしまっているのかもしれません。世の中の技術がすすみ、楽譜からレコード、CDへと変遷し、音質もよくなり、それを再生する装置も改良され、得られる感動もより大きくなって当然なのに、音楽も単なる品物として扱われてしまっている現代。それとともに何か大切なものが失われていってしまうのではないかと残念な気がしてならないのはぼくだけでしょうか。

それぞれの曲は以下のHPで聴くことができます
故郷の廃家 http://www.pdmusic.org/hays/wsh71mdosh.mid
冬の星座  http://www.pdmusic.org/hays/wsh72md.mid

513 食糧自給率
07/01/17


戦後の日本の食糧自給率を調べてみました。残念ながら1960年(昭和35年)以前の詳しい統計がみつかりませんが、戦前の日本では食糧自給率は90%を上回っていたことは確かです(統計上ではあとの数%は台湾や韓国からの穀物・大豆の移入ということになっている)。

右の表で示したのは1960年以降の日本の食糧自給率の推移です。60年に82%あった自給率は順調に下がり続け、90年(平成2年)には50%を切り、06年には40%を上向かせようという努力もむなしく39%を記録してしまいました。これは言うまでもなく、世界的にも救いようのない低水準です。

戦後食糧自給率を下げてしまったのは食の欧米化が大きな要因といわれます。戦後の食糧難の中、学校給食に投入された米国産小麦。学校でのパン食は日本人の食生活も変えていきました。
さらに戦後の復興、高度成長で経済的な発展を遂げる中、食はさらに豊かになってゆく。

ぼくが子供のころには、カレーライスでさえ大変なご馳走でした。さらにすき焼き、トンカツ。

戦前の日本の食と戦後のそれとの大きな違いは家畜の肉と油の消費量が上がったことです。それまでは必要でなかったそれらの食品を得るには大量の穀物、大豆が必要となります。そのための原料は農業国アメリカから安い価格で大量に輸入されるようになり、食糧自給率はそのおかげで順調にさがることになりました。トウモロコシや小麦などはその収穫期に降る雨の量に大きく影響を受けるため、日本の気候に適した作物とはいい難い。大豆は米の栽培期間と重なるため、とくに戦後作られる機会が大きく減ってしまいました。トウモロコシなどは加工用デンプン、油や家畜のえさと用途が広いため爆発的に需要が高まり、大量生産による米国産に100%の依存をする結果となっています。概ねこれらの穀物、大豆の大量輸入が日本の食糧自給率を下げてしまっています。

日本の食糧自給率を上げるには伝統的な日本食にもどすことが、第一の近道だとだれもが答えるのではないでしょうか。そしてぼくもその一人です。でも問題はそんなにかんたんなものなのでしょうか。たしかに米中心の日本食にもどすことが先決です。でももうひとつ大きな問題が残ってしまいます。それは食が豊かになったことで副食のはずのおかずの量が圧倒的に増えてしまっている点です。

一人当たりの米の消費量:
戦後日本人が年間に食べる米の量が激減しています。これはパンやパスタなどの小麦加工食品への移行ばかりが原因ではありません。確実に豊かになったことおかずの量の増加です。かつて一汁一菜といわれた日本の食は、まずたっぷりのごはんがあって、みそ汁と漬物という質素なもの。魚や野生動物の肉は日常的な食材ではなく、偶然の天の恵みであったり、来客や特別な行事のためのご馳走でした。江戸時代の貝原益軒の『養生訓』では、たとえ魚であろうと常に食するのは健康に差し支えるとしていました。

日本人はごはんを食べなくなった
右の表のように1940年以来、日本人の米の消費量は半分以下に落ちてしまっています。宮沢賢治は『雨ニモ負ケズ』の中で『一日に玄米四合、味噌と少しの野菜を食べ』と詠んでいます。玄米4合は今の日本人にとって、とても一日で食べられる量ではありません。しかしまさに主食を米としていた日本人にとって、これが基本的な一汁一菜の基本的な食であったわけです。

飽食と表現して過言でない日本の食。かつてはだれもがごはんを茶碗やどんぶりでお代わりをしたもの。でも最近では、一回の食事で副食が主食のごはんの量を上回ってしまっている。そしてその副食の材料の多くは輸入食材であったり、輸入穀物などで肥育された家畜の肉や乳製品であったりします。そこにはかつての日本食にはありえなかった大量の油脂とタンパク質、糖分が含まれており非常に高カロリーなもの。さらにそれを生産するために大量のエネルギーが消費され、また遠方からの輸送のため無駄な化石燃料が燃やされ二酸化炭素の発生が伴ってしまいます。
1940年ごろ1人あたり一日に3〜4合(茶碗に7〜8杯)の米を消費していたが、80年以降、茶碗に3〜4杯に減少。

地産地消がさけばれるようになった昨今。にもかかわらずなぜか一向にそれが進んでゆかない。国産、輸入を問わず食の安全が守られない。食品への表示制度の基準が非常にさびしい。あたりまえに遺伝子組み換え食品農産物の輸入が増えている。さらにバイオ燃料のおかげで、おそらく今後外国からの輸入穀物に対する安全性はさらに不確かなものになってゆくに違いありません。

戦後60年以上の間、いちばんおろそかにされてきた教育の中で、まず『食育』が筆頭に挙がるのではないでしょうか。世界が日本の食がすこぶる健康的だと認めはじめている中、一方では伝統的な日本の食が崩壊してしまっている。まったくの皮肉といわざるを得ません。

温暖化が問題となり、二酸化炭素の削減が難しいと世界中が御託をならべている。一体日本という国は、食糧自給率の問題を改善できるというのでしょうか。国際的な温暖化対策にも貢献できているとは言い難い日本。いったん膨らんでしまった経済を縮小する以外に方法のない、この二つの食糧自給率と温暖化問題はいわば馬車の両輪。できないでは済まされない。今すぐしないと世界は経済ばかりか、それぞれの民族の存続すらも危ぶまれるような危機に陥ることも考えられる。

人類にとって『進化』とはなにか。どうなることが『進化』なのか。今人類に課せられた命題は、肝心な心の部分での『進化』に他ならないのではないでしょうか。これ以上考えると気持ちが重くなりますが、残された道はそれしかないのかもしれません。


514 食べること
08/01/30


 家族が出かけていてあなたひとりでごはん。そんなとき、仕度はとんでもなく手抜きになってしまうというもの。食の基本は一汁一菜とばかり、ごはんとみそ汁、あとは冷蔵庫の漬物、佃煮。そそくさと食べておしまい。

 ちょっと料理に自信があっても、自分ひとりのためにごちそうを作ろうとはあまり思いつかないもの。どうせ自分で自分のために作るのだから、自分の好きなものを好きな味付けで作ればおいしいはずなのに。それがたいしておいしくないのは、相手がいなくて自分ひとりだけだから。

 かと思えば、こどもが学校から帰ってきていっしょにお昼を食べる。おかあさんはきっと何を作ってやろうかと腕をまくってひとくふう。そしてふたりで食べる。するとこどもが「おいしい」といったり、おいしそうな顔をしたりして会話もはずむというもの。

 外出する。ときは昼どき。「さあなにを食べようか。お金はないけど中華か、和食洋食、と」。入った食堂でひとりメニューをえらぶ。しばらくして給仕が運んできてくれた注文の品は(結局カレーライスだったりするけれど)おいしい。たしかにもうひとりだれかいればもっとおいしいはずだけれど、ひとりでもおいしい。

 最初にも書いたけれど、自分ひとりで自分のために食事の支度をして食べる。そして外食でひとり食堂で何かを食べる。いずれもひとりで食べる。自分で作るごはんは手抜きだらけだからかしら。わざわざお金を払って食べるからかしら。この場合おなじひとりでも、食堂で食べたほうがおいしい。

 こういう場合もある。釣りなどに行ったとき、出来合いの食べ物をコンビニで買う。どれにしようかとあれこれ品選びした挙句、アンパン、カレーパン、おにぎり、ペットボトルのお茶を買う。海辺で右手に持った釣り竿の先に神経を集中させながら(そんな合間に魚が釣れるはずもないけれど)それを食べる。遠足気分でおいしいはずだけど、子供のころ遠足でともだちと食べた母親の手作りおべんとうと比べたら足元にもおよばない。

 相手がいて作るごはんはおいしい。また誰かが作ってくれるごはんもおいしい。そして誰かがいっしょにいて食べるごはんもおいしい。それはどうしてかといえば、『作ってあげる』と『作ってもらう』『いっしょに食べる』という、安心できるお互いの存在を意識する気持ちがそこにあるからではないかしら。

 『食べる』とは『食』とは何だろうとよく考える。わかっているつもりでもまた考える。『食べる』とはぼくらが健康に生きてゆくため毎日毎日欠かすことのできないこと。けっして食欲を満たすとか、グルメのためなどでもないはず。何々は何処の最高級でなければだめだとか、それを一流の料理人に調理させたり、器がどうだこうだ。そんなのは不健康なマニアの世界に任せておけばそれでよし。

 ぼくはひたすら不自然でないあたりまえの材料であたりまえに作ろう。ただ誰かにおいしいと喜んでほしいと願って『食』を作ろう。そしてそれがいつも、欠かすことのできない日本の『食』でありたいとも思う。

豊橋市和食房『さでんかん』のメニュー。極力調味料にたよらず、素材の風味を大切にしています。

『さでんかん』
お店の名前の由来は『sardin=イワシ館』ということでしょうか。とにかくイワシのような日本ではごく庶民的な食材を、その風味をたいせつにした調理をし、お客様に提供するというコンセプト。

調味料を使えば、食材はおどろくほどおいしいものとして変身するのかもしれません。でも本来の持ち味をそのまま生かす。これはいちばん基本的なのに、むつかしいことではないでしょうか。

新鮮で良い食材を選び、心をこめて調理する。お客はそのことを理解し、味わう。料理の基本とはそんな有機的なつながりによって成り立つものです。
さでんかん
豊橋市大橋通り3丁目146
電話:0532−55−3751



515 楽 器
08/02/18


 もうずっと昔の話。長女が小学生か中学のころだったと記憶。人並みに音楽の好きな長女が吹奏楽クラブか何かに入部したときのこと。彼女がどの楽器にしようかと選択の折。その時、よせばいいのにぼくはその選択にフルートを勧めたのだった。なぜかといえば、その風を振るわす音がいかにも繊細で表現力に富むと思っていたから。

 何日かして、クラリネットを先生に勧められたと学校から帰った長女から聞いた。その時ぼくは少々がっかりしたものか、顧問の先生にフルートに換えてもらえるように電話を掛けた。先生に理由を聞かれ、おろかにもたぶんこんなふうに答えたのだった。「クラリネットはフルートに比べ表現力に欠ける」とかなんとか。当然のことぼくの要求は受け入れられず、気まずい経過となったからか、長女は吹奏楽部をやめてしまったのだった。

 今になってもなお、ぼくはちょっと愚かしい発言をしてしまったものだと思い返す。クラシック音楽という長い歴史の中で、フルートにしろクラリネットにしろ、バイオリンにしろチェロにしろコントラバス、それぞれの楽器がその個性を生かして、また他の個性と絡み合いながら崇高な音楽を表現してきた。そしてそれぞれの楽器が持つ長所がほかの楽器の短所を補いつつ、持ちつ持たれつで巧みに織り成してオーケストラという完成したひとつのかたちをつくりだしている。まことにすばらしくもよくできた音響システムなのではないかしら。

 よく世界の言語で、日本語ほど繊細で表現力のある言語はない、なぞと言われることがある。ひとつひとつの単語のいかに豊富なことか。また時と場合で使う語句を選ぶことで、多くの表現力を得ることができる・・・、のかもしれない。では英語やロシア語、中国、イヌイット語などは表現力に欠けるとでもいえるものかしら。もしそうだとしたら、日本語はさぞや心や感情を人に伝える力に富んでいるということなのかしら。

 いえいえそんなはずはこれぽっちもないのだと思う。英語やフランス語の持つイントネーションの美しさはそのまま音楽のメロディというかリズム、そう音楽そのもののようなすばらしい表現力さえあるのではないかしら。だからその流れの美しさを保つための単語が選ばえらばれたりする。黒人ブルースでは、まったく無意味な詞の羅列「1+1が2、2+2が4」なんぞというくだりがあったりする。この場合、意味より語呂や韻を重視。

 要するにどの国の言語も同じようにすばらしい表現力をもっている。ただし、いくら言語にすばらしい表現力という潜在性があったとしても、表現する能力がなければどうしようもありません。いえいえそれ以前に、相手に伝えようとする意思、はっきりとした考え、思想、思い、心がなければ、言語に意義すらないのだから。

 世の中には叩くだけの楽器もあれば、ただ弾くだけの楽器もある。電源を入れていくつもの調節をしないと音を出せない楽器もある。ボーカルという究極の楽器もある。それぞれの楽器がその能力を如何なく発揮し、他と調和したとき、音楽はさらにすばらしいものになる。

 あのときの娘の顧問の先生、おかしなことを言ってしまい、ごめんなさい。


516 甥っ子の結婚式
08/03/10


 甥っ子の結婚式があった。甥っ子といえばぼくには2人いて、その弟。名前は亮太。高校を卒業して以来、31才の現在まで美容師をしていておなじ職場の女性と恋をし、10年来紆余曲折の末結ばれた。結婚式の何ヶ月前だったかにぼくのところに二人で報告にやってきたのだった。

 話は一気に跳び、結婚式の当日。ぼくはごくあたりまえに黒の礼服、白っぽい生地にストライプの目立たないネクタイといういでたち。連れ合いも同様。

 そもそも礼服とはなにか。それは烏合の参加者の中でいかに目立たず、にもかかわらずちゃんとここに御座候という、ちょっと理解し難い自己主張をするための装束なのではないかしら。いえいえそうではなく、葬儀にしろ結婚式にしろ、主役より目立ってはいけないという、単に気遣いであるのかもしれません。

 そんなことはともかく、式場はといえば今に流行りのざっくばらんな教会式。だからというわけでもなさそうだけれど、なんとなく出席者の雰囲気がちがう。第一にみな若い。どうやら親戚関係の出席は極力しぼられていて、そのほとんどがちゃきちゃきと若い。職場の同僚、同級生なんぞであふれかえっているのだった。

 思い起こすにぼくは、あれは確か23のとき、俗に言う『ゴールイン』というのを経験している。もっともそれも艱難辛苦、紆余曲折、粒粒辛苦、悪戦苦闘、臥薪嘗胆、青息吐息、苦心惨憺。とにかくそれに付随しておとずれるであろう幾多の試練、受難、苦行の『スタートライン』に到達したまでのこと、なのかもしれないのだけれど。とにもかくにも結婚式。青空でたとえるなら『一点の曇りもなく』の語にもふさわしく、甥っ子亮太の結婚式は執り行われるのだった。

 愛知県三河地方の若き美容師たちが一堂に会したとも思しき彼の結婚式ともなると、それぞれ各人カラフルな井出たち。まさに個性の万国博覧会といったところ。古風な和太鼓の演奏があるかとおもえば、新郎参加のバンド演奏。親族を隅に追いやってしまう勢いの大騒ぎ。列席のおじいさん、『お前ら、無礼千万』なんぞと怒鳴ってしまい、しまったと思っても後のまつり、なんてことも昔ならあったかもしれません。

 でもそんなこと心配することもありません。やはり満場の老若男女が甥っ子亮太を祝福しようという気持ちには変わりなく、和気藹々として宴の時は流れるのだった。

 そもそも結婚式とはとか、はたまた葬式とは、入学式、卒業式などなど、定義付ければそれもできるのかもしれない。けれど時と場合、時代の流れなどにより、その様式というか建て前が大きく変わってもそれはそれでいいのではないかしら。肝心なのは本音、本意の部分なのだから。

 ぼくも自身、個性的な人物だと思っていたけれど、黒の礼服にストライプの白ネクタイ、ワイシャツなんぞというなんとも個性を主張するには不似合いな井出たちの自分に「やられた」と思った甥っ子の結婚式なのだった。


517 減農薬米運動と音羽米
07/03/26


 わが音羽町・・と書き出したいところだけれど、もう音羽町は豊川市に変わってしまったため複雑。その音羽で減農薬米の取り組みがはじまって今年で20周年だそうだ(道長が音羽に移転する6年も前)。それを記念して6月には大きな式典が予定されている。そこで、音羽米研究会(正確には『音羽米を育てる研究会』)発足時の記念講演にお招きした宇根豊氏(福岡県『農と自然の研究所』主宰。当時はまだ農業改良普及員をしてみえました)に再度登場していただくことに。氏には基調講演とシンポジウムへの参加をお願いし、音羽米研究会の再確認と未来への提言をするためのお手伝いをしていただこうというもの。

 2006年12月、『有機農業推進法』が国会で可決された。これは日本が国として有機農業を進めようと意志表示をしたはじめての法律といえる。現在各都道府県でこの法律を推進するための動きが始まっている。
この法律で『有機農業』について定義されているのは次の2点。

化学的に合成された肥料・農薬を使用せず、遺伝子組み換え技術の利用をしない農業
環境への負荷をできる限り低減する農業

 ただしこの法律では、行政は有機農業を推し進めなければならないと明示してはいるけれど、あくまでもその主導は『有機農業者』『その関係者』『消費者』であるということになっている。要するに、国としては有機農業をしようとする自主的な動きに対して、それを応援する姿勢を示したことになるというわけ。

音羽の減農薬米運動
 音羽米研究会の運動が地道に今日まで発展し続けて来られたのは、ひとえに、生産者と消費者の固い繋がりと向上心があったからこそといえる。平成7年改正の『音羽米を育てる研究会規約』によると、その第1条『目的』に「・・・自然環境、とくに農業生産環境を自ら改善、保全をする活動によって地域や消費者、生産者自身の生活を潤し、関係する社会との共存、ひいては人と自然にやさしいやりがいのあるバランスのとれた農業の実現につなげること・・・」としている。

音羽米20年の歴史から
 音羽米研究会はその歴史の過程で大きく分けて次の二つの事柄について運動してきたと思う。
・より安全な米作りのため、減農薬をさらに推し進めるという努力。
・音羽という農業地帯の自然環境を守るための努力。産業廃棄物処理やゴルフ場建設計画への対策。

 ここで明記しておかなくてはいけない点は、この二つの運動がつねに消費者と音羽米生産者の自主的な協調関係によっておこなわれてきたということ。今にして思えば、音羽米の減農薬米の運動は、ここで例をあげるとすれば、あの『有機農業推進法』の定義・理念を今から20年遡って実行されたわけで、今さらながら感慨を深めてしまう。

 現在、音羽米は減農薬からさらに、有機へと歩みはじめている。これは飽くなき安全への追求であり、かつての農業がすべてその形で行われていたことへの回帰でもある。

 有機農業とは何だろう。単に農薬や化学肥料を使わない農法を意味するだけだろうか。音羽米を育てる研究会の規約にもどって考えて見る。そこには『有機』という語は記されてはいないけれど、それは農業のより基本的な方向をめざすことと、そして、さらに人と人とのもっとも基本的な繋がり、つまり有機的な関係をめざそうという意志がある。まさに人と人、自然との有機的な繋がり。そこにこそ循環の基本がある。

 今後もさらなる音羽米のあゆみが、この豊川市のさらには日本の持続可能な社会への貢献となってゆくことを祈願します。


518 釣 具
07/04/07

 
 釣りをするものにとってその行為をより楽しくアカデミックに、スマートにとりおこなうため、なくてはならない必須アイテムとして釣道具というのがある。欠くべからざるといえば釣り竿に始まり、釣り糸、鈎などというところだけれど、あにはからんやむしろ当然、それだけにとてもではないけれど留まらないのが釣道具の奥の深いところ。てなわけで時代に遅れてはならじと時々は釣具店に顔をだしておかなくてはいけない。

 いにしえからその基本は変わらないところだけれど、釣りほど釣り人をくすぐる要素をもっている遊びも少ないのではないかしら。第一に、相手が見えないところをもって想像力、第六感をめぐらせての『漁(猟)』であること。第二に、腕の差が歴然としてその釣果にあらわれること。第三に、にもかかわらず、そうばかりでもない場合もあること。第四に一本の釣鈎、糸、竿を介して、あのめくるめく魚信を味わうことができること。さらには、釣れば釣ったで自慢ができること。

 また釣りほどわけのわからない不謹慎な趣味遊びもないのかもしれない。それは釣りに夢中の当事者とその家族をのぞいて、一般に釣りとは大自然と向き合うことごとく健全な趣味娯楽だと思われていること。ぼくもそういう例をよく知っているけれど、本人は新興宗教にでも凝ってしまったかのごとく、炎天だ、寒の行だとよろこび勇んで出かける始末。家族は当の本人の一生治らぬであろう不治の病にもはやあきらめの気味。『馬鹿に付ける薬はない』のことわざが腹の中で幾度となく繰り返されることだろう。

 そんなこんなで今日も『釣りたい』という一途な望みで海や川へ釣り人は詣でる。ケチな割には自分のコンビニ弁当より高価なエサを仕入れ、ろくに釣れもしないくせに大自然への貢物にはけっこう張り込む。

 貢物は海だけにしておけばよいものを、よりにもよっそれとはまったく筋違いの『釣具店』への貢物もまた馬鹿にならない。今までの釣具、まだ使えるはずなのに、古くなっただ、使いにくいだ、飽きただ、釣友は皆持ってるだなんだかんだといっては、真新しい釣具を購入。そんな諸兄の品選びの様子を伺うと、そのまなざしはこの上もなく真面目一本、一意専心、真剣勝負。そのような態度が仕事にも向けられていたら、いまだにウダツがあがらぬと家人に陰口を叩かれずに済むものを。

 それにしても釣具とはなんと巧妙に作られたエサであることか。これほどに釣り人の心をくすぐることのできるアイテムもちょっと他にないのではないかしら。最新の技術から作り出されたという超高圧カーボン使用、掛かった魚が自然に浮いてくるという新鋭釣竿。ボールベアリング?個使用、スムーズな取り込みを約束するかっこいいリール。釣りベストから取り出したときキラリと光るアイデア小物入れ。エサ箱、ウキ、水汲みバケツ・・。「うーん、迷っちゃう」。海川に詣でて魚を釣ろうとする前に、『お前はすでに釣られている!』。

 あんな諸兄とはちがってこの私、厳正な品選びの結果、伸ばすと6mになる高所堤防での必須アイテム玉の柄を買おうと思ったけれど、持参金不足のため、本日、しぶしぶあきらめの帰途と相成るのだった。
玉の柄(先に網を付ける)


519 奇妙な果実
08/04/16


多くのミュージシャン、反人種差別活動家に影響を与えた歌手にビリー・ホリデーという偉大なジャズ歌手(1915−1959)がいます。ビリーというと男性のように思えますが、ジャズ・ギタリストの父(父とは名ばかりの)に『男みたいな娘』という意味で『ビル』と呼ばれていたためだとのこと。ホリデーは父の苗字。

ビリーの生まれ故郷はメリーランド州フィラデルフィア。この州は南部ではないものの、むかしから人種差別の強い奴隷州。13歳でニューヨークに移り、さらに15歳にはジャズ歌手としてデビューする。それほどに彼女の才能は類稀であったということだろう。

1933年にはコロンビアレコードと契約。若きクラリネット奏者ベニー・グッドマンやカウント・ベイシー、アーティー・ショウ楽団をはじめとして、数々のジャズスターと競演。ジャズ歌手として大成功を収めることになる。また白人のジャズオーケストラとの仕事を最初にした黒人でもある。

ジム・クロウ法と南部諸州
当時ニューヨークでは出演者も観客も人種を問わず同席できるという革新的なナイトクラブ『カフェ・ソサエティ』ができ、その専属としても歌えるようになった。とはいえ、巡業で南部を旅する際には人種差別を象徴する『ジム・クロウ法』の厳しさゆえに、楽団といっしょに歌えないばかりか同じホテルに宿泊することすら許されず、巡業を中断せざるをえなかった。

『奇妙な果実』ルイス・アレン詞
1935年、若きユダヤ人高校の教師ルイス・アレン(ペンネーム)の書いた詩と曲『Strange Fruit-奇妙な果実』と出会う。その詞は実に衝撃的で、人種差別を激しく告発するに余りあるもの。その詞が『カフェ・ソサエティ』の支配人の知るところとなり、専属歌手ビリーに紹介される。ここに示した訳詞でもわかりますが、比喩でも隠喩でもなく、まさに差別を糾弾するリアルな内容です。この詞をメロディーに乗せ、たとえそこが『カフェ・ソサエティ』であろうと、ショーの中で観客に歌って聴かせることなぞ、とんでもないことであったに違いない。

この歌『奇妙な果実』がビリーのステージでの最後の締めとして初演されたとき、ナイトクラブ『カフェ・ソサエティ』は静寂に包まれたといわれています。そしてその静寂を破るひとりの観客の拍手がきっかけで、一堂割れんばかりの拍手が沸き起こったと記録に残っているそうです。この歌の録音はインディーズのコモドアを通してコロンビアからの発売が許され、大ヒットを記録。

そしてこの歌はさらに20年後、50〜60年代に起こった黒人の権利を主張するための公民権運動への火種にもなりえたのではないでしょうか。まさに虐げられた人たちの怒りを象徴する歌として。

その後、彼女が44歳で没する1959年に至るまで、彼女の人気は紆余曲折するも衰えることがない。波乱万丈ともいうべき彼女の人生は歌と酒と麻薬の織り成す綴れ織りそのもの。

人種差別は理屈もなく、まことに卑劣な行為です。そんな恐ろしい慣習に真っ向から決然と闘った彼女。その苦闘を支えた偉大なる音楽。人種差別は音楽としての彼女を抹殺することはできませんでした。彼女を死へといざなったのは、結局は酒と麻薬。それは彼女にとって、決して彼女を裏切らない拠りどころだったにもかかわらず。

ジャニス・ジョプリン
このビリー・ホリデーに影響され、ブルース歌手を目指した白人女性にジャニス・ジョプリンがいます。数枚のアルバムを残し、アルコールと薬物漬けの中、27歳で孤独な死を遂げた悲劇の歌手。1943年テキサス州に生まれる。ビリーが没した年にジャニスはもっとも多感な17歳。おそらくビリー・ホリデーは偉大な存在であったことでしょう。

彼女については色々なメディアで紹介されているためあえてここでは書かないけれど、一言で言うなら、白人に生まれながら音楽のしかもブルースに惹かれ、それを歌いきるため、黒人になりたくてなりきれず、酒と麻薬と音楽に命を燃やした娘。

これはまさにビリー・ホリデーをそのまま映したかのような歌手人生ではないでしょうか。ビリーはもしかするとその一端に人種差別という厚い壁に耐えるため、酒と麻薬に依存した一面もあったかもしれません。

それに対し、ジャニス・ジョプリンはブラックミュージックに魅せられるも、人種の壁を越えることができず、同様な歌手人生を辿ってしまった。でも考えをもう少し深めてみるならば、それほどに尊敬するビリーという歌手に近付くために、それは必要な体験であったのかもしれません。

黒人であることの苦しみを歌ったビリー・ホリデー。その逆の立場の苦しみを歌ったのかもしれない娘ジャニス・ジョプリン。その苦しみを救いえたのはやはり酒と麻薬だったのでしょうか。音楽はよろこびである場合もあるかもしれませんが、反面、苦しみでもあり得るのかもしれない。それほどに音楽とは重いものでもあるということなのかもしれません。
Billie Holiday & Janis Joplin

『奇妙な果実』はこちらで聴けます
http://www.youtube.com/watch?v=h4ZyuULy9zs


520 おばちゃん
07/05/07


 かつてぼくが幼少のみぎり、愛知県は岡崎市能見町のぼくの叔母『能見のおばちゃん』のところによく遊びに行ったもの。腹ちがいとはいえ、ぼくの母にとってたった一人の姉。能見のおばちゃんは、ぼくが遊びに行くといつも決まって何か買ってくれ、それが楽しみで必ず母についていったもの。おばちゃんの家へはぼくの家(同市井田町)からは柿田川(通称ドブ川)の堤防の小道伝いに1キロあまりの距離。ただし途中人通りのない草だらけの細道もあるため、ぼくひとりではとても行けなかった。もう一本東の伊賀川(こちらは水もきれいで『川』と呼ぶにふさわしい)伝いの道路は家も並ぶし商店だってあるけれど、かなりな遠回りとなるため、こちらもひとりではとうてい無理な道程だった。

 能見のおばちゃんの住む能見町からは、さらに足を延ばせば岡崎でいちばん人の集まる康生町へ行くのも夢じゃなかった。そこまで行かないにしても、伊賀川を渡ってちょっと出ればすぐ街で、映画館が2軒もあり、洋食屋や中華だってある。それになにより『世界館』という洋画専門の映画館のとなりの『カド屋』という駄菓子屋が何よりの楽しみ。世界館のむこうの『公設市場』の帰りには、必ずおばちゃんがなにかを買ってくれる言わば関所。大箱のオマケつきグリコだミルキー。巻き玉火薬を仕込んで100連発の鉄砲。一本ずつ選んで買う花火。店のおばあさんがビンや木枠ガラスのフタを開けて出してくれるあめ玉やせんべい。奥のテーブルで食べるお好み焼やカキ氷、小粋なビンで飲むミカン水、ラムネ。何か真新しいものはないかしらと、こどもの目は爛々と輝くのだった。

 公設市場の向こう隣には川魚専門の魚屋さんがあり、店先にはドラム缶を半分に切ってドジョウがいっぱい入れてある。かわるがわる水面に空気を吸いにドジョウが上がったり下がったり。それを見るとなんとも哀れに思えて仕方ない割には、焦げたタレとあいまる香ばしい香りに「うっまそー」。で、おばちゃんに買ってもらってその場で3匹仲良く串に刺さったのを「いっただきまーす」。

 その魚屋さんから50mほど行って右に曲がると、そこにも映画館『友楽座』。こちらは邦画専門。扉を開けて暗幕を押し分けると館内はすでに立ち席でいっぱい。『柳生一番』だか『丹下作善』だか知らないけれど、チャンバラ映画に興奮の熱気と夏の暑気でムンムン。天井の扇風機はそれをかき混ぜるばかりでとにかく「暑ちぃ〜」。それにしてもどうしてこんなに人が多いんでしょう。

 そういえば洋画専門の『世界館』。こちらで観た映画、なぜかひとつだけ覚えているのは『サーカス小僧』だか『・・物語』。空中ブランコで場内が沸いたのを記憶。

 かくて時代は駆け下り、あの界隈を埋め尽くしていた人々の波はどこかに消えうせ、なぜか静かなたたずまいが今はあるだけ。映画館も失せ、『世界館』はその後ミュージックホールに転進するも今はもうない。公設市場はセルフのスーパーになってしまった。そしてあの『カド屋』はしばらくはそのたたずまいだけは残していたものの、いつのまにか世界館の後にできた給油所に飲み込まれ今は跡形もない。

 まだ幼稚園にも上がらないぼくの心をときめかせた熱気と活気に満ちたあの街角。今も夢見ることがある。
おばちゃんとぼくの娘たち