521 カンホアの塩
08/05/31

道長ではこれまで福建省塩業輸出公司の塩(中国福建省産)を使ってきましたが、今回ベトナム産『カンホアの塩』に換えることにしました。ただし、これは重要なこととして、福建省の塩は品質としては申し分なく、その点が今回の変更に関わっているわけではないことをここに明確にしておきます。道長では、せっかくこだわって原料を厳選しているからこそ、塩とその生産現場をもっと身近に感じられるほどの情報がほしいと長年思っていました。結局その機会がありませんでしたが、直接現地に見学に行こうかとも思うほどでした。

今から何年か前、カンホアの塩のセールスをしてみえる『かんたろう合資会社』さんとお会いする機会がありました。サンプルもいただいてその品質については納得はしました。しかしながら、その時点では使い慣れた塩をあえて換えようとは思いませんでした。しかしながら最近になって原材料について見直しをする中で、『塩』についてももっと多くの親密な情報が必要だと実感したのです。

カンホアの塩のこだわり
ぼくが関心したのは、実際に日本人が現地に赴いて、こだわりの塩を作るために、こだわりの塩田でのこだわりの製法を確立させている点です。

そのこだわり
製塩の途中で余計な加工過程がない
結晶を砕いて細かくするために石臼を使っている(塩粒に高い熱がかからない)
しっかりとミネラルを取り出すため、塩田に上薬(鉛を含みません)を塗ったタイルを敷き詰めている
カンホア塩の専用塩田に日本人の現地スタッフがいる。日本からも一年に1〜3回現地を訪れている
現地でも自主的に成分検査をしている。日本では公的機関で成分検査を行っている

ベトナムでの塩に対する考え方
『塩』は人間の生活に欠かせない物質です。ベトナムにも古来から塩田はあったはずですが、とくにフランスの統治下にあった時代に本国に送るための塩作りも行われてきたという経緯がまずあります。しかしながら、昨今の経済政策の中、塩の品質が調味料としての本来の目的ではなくて、純度、白さ、扱いやすさ(固まりにくい)などといった要求に即した『工業製品』として考えられてしまっている。そのため、カンホアの塩を企画するためには、塩田の改良以前に作業をしてくれるスタッフに理解を求めることに苦労したそうです。

そのため現在のような良質で均一なおいしい『カンホアの塩』が生産できるようになるまでに5年ほどの歳月を要したそうです。

カンホアの塩を使ってみて
道長では『石臼挽き』を選びました(ほかに結晶のままがあります)。漬物作りのための品質については申し分ありません。味的には福建省の塩と比べて若干辛味が緩和されている感じがする程度で、使い勝手はほとんど変わりありません。

『カンホアの塩』の生みの親ともいうべき『鹽屋』の下条氏の現地でのご苦労が目に浮かぶようです。それにはなんといっても『食』への熱い思いがあってはじめてなしえた事業ではないでしょうか。

地産地消としての塩
道長では漬物やそのほかの農産加工品について、地産地消の商品作りを基本に考えています。そのために国産の完全天日塩ソルトビーの『海一粒』を一部の漬物に取り入れました。しかしながらいちばん重要で使う頻度の高い調味料である『塩』について、国産にこだわることは非常に困難です。せめてより身近に感じられる塩を使いたい。よりコンセプトのはっきりした塩を・・という願いから、あえて15年間使ってきた塩をカンホアの塩に切り替える決心をしました。

カンホアの塩への切り替え
道長では7月までを目途に『カンホアの塩』への切り替えをしてゆきます。特に賞味期限が30日未満の漬物では早々に仕様書の内容変更を行いますが、本漬けの漬物についてはその漬け込みの時期との兼合いもあり、暫時変更をしてゆきますのでよろしくお願いします。

最後に、今回の塩の変更については、今まで使ってきた福建省の塩に不備があったわけではありません。カンホアの塩のコンセプトに強くひかれたことと、その塩を今後より身近なものとしてみなさまにご紹介してゆけるものと確信したため、あえて長く愛用させていただいてきた塩との別れを決心した次第です。

どうかよろしくご理解のほどをおねがいします。

鹽屋(しおや)のカンホアの塩には3種類のバリエーションがあります。
結晶のまま(天日で結晶化したそのままの荒い粒)
石臼挽き(使いやすい均一で小さな粒)
焼き塩(600度の石窯でじっくり焼いた)

『カンホアの塩』について、詳しくは
http://www.shio-ya.com/ をごらんください。


522 動物の害
08/06/18

 道長のある音羽では動物による農作物の害が日常的。そのため獣害対策のための防護柵を張り巡らしたりするのだけれど、それに鹿が角を引っ掛けたりして絡み、抜けられなくなって死んだりする。獣道の辺りにエサでおびき寄せ、中に入ると扉が閉まり出られなくなる檻に猪や鹿が掛かる。逃がしてやるわけにもゆかず、結局動物の解体のできる人に処理をお願いしたり、そのまま埋葬という結果になる。

 せっかく植えたイネや果樹の苗、野菜など、夜な夜な現れる野生動物に荒らされ、あっさりと壊滅的な被害を受けたりすれば、農家としてもやられっぱなしでいるわけにもゆかない。だから捕獲された動物の末路は死しかありえない。ぼくら一般人からすれば、なんとも可哀そう。動物園で出会う動物たちの目はなんとも可愛く、それを殺すなど、それこそ動物愛護の観点からも許されないことのように思える。

 道長が植えた梅の木も再三の被害にあっている。その相手は鹿。当初防護網を張ったからやれやれと思っていたのだけれど、どういうわけかいつまでたっても梅の苗木が貧弱のまま。よく見れば新芽や若葉がやられる。枝が折られるといった具合。なんと防護網の内側に鹿のフンが・・・。それでやっと、1m50やそこらの高さの網ではかんたんに飛び越えられてしまうことを知ったのだった。挙句の果て、ある日オス鹿が網に角を絡ませ七転八倒。あまりの迫力に手をこまねくぼくの目の前で暴れた挙句、オス鹿はショックのためかそのまま絶命という惨事。

 道長のように梅の木がやられるくらいはまだ序の口だけれど、植えたばかりのイネの苗がその柔らかさゆえにすべてやられてしまったらまったくやりきれない。イノシシが入った日には、親子そろっての運動会のお陰で田んぼ一枚がそれこそめちゃくちゃに荒らされ、完全に再起不能となってしまうほど。

 動物による害はこの20〜30年の間に飛躍的に増えたといわれる。その原因にはいろんなことが挙げられるかもしれない。農業の担い手が減る状況で、耕作しにくい山着きの畑は放棄され荒れ放題となり、里と山の境目がぐっとこちらに引き寄せられる。針葉樹植樹の影響もあり、秋から冬の木の実の不足から、動物たちは里に活路を開くことになる。とかなんとか理由付けもされている。

 戦後間もないころまで、山村といえども農村はけっこう活気があった。人々は百姓に、山仕事に忙しかった。けれど、だからといってその時代に動物の害がひんぱんではなかったという理由付けにはならないような気がする。要するに、当事いたはずの天敵がいまはいないというのがいちばん大きな理由ではないかしら。その天敵とは、ぼくの推測では『犬』。むかし、どの農家でも特に夜なぞよく犬を放したもの。また野生化した野良犬集団が里山に居着いていたほど。その分、里山には緊張感があったのではないかしら。

 犬は必ずつなぐこと。野良犬はすぐに保健所が捕獲。不要な犬は保健所へ、てな具合で里山が平和になった分、山の動物たちも平和になったのかもしれません。お陰で獣害頻発。複雑な気持ちはぼくだけでしょうか。

網に角を絡ませた牡鹿はぼくの目の前でショック死


523 ぽんつく
08/07/04


 ぼくが子供のころ、よく小川へタモとブリキのバケツを持って魚とりにいったもの。みんなそれを『ぽんつく』と呼んでいた。家からちょっと西には生活廃水で極限に汚れた通称『どぶ川』があった。魚なぞめったに居ず、ヘドロで底なしのため、そこに入る子供はいなかった。だからぼくらはそこからさらに西へ500mほど向こうの通称『たて川』までぽんつくにいった。その川もたいしたものではなかったけれど、それでもちょっと頭を使えばけっこうコブナやハヤがとれるのだった。

 低学年だけではそんなこととても無理なのだけれど、上級生がいっしょの時には特別に大掛かりなぽんつくをすることができた。2mほどの本流『たて川』に田んぼの畦から入ってくる水路があり、川と田んぼをはさむ農道の下を太い土管でくぐっていた。こどもたちの気配に、辺りの魚はその土管の中に逃げ込み息を潜めている。特別な遊びというのは『かいぼり』というのだった。

 上級生の「ヨーイドン」の号令を合図に土管の田んぼ側の水路を一気に土でふさぐ。それと同時にこちら側でも扇型にせり出して土や石を積み、大急ぎで堰(せき)を作る。さらに全員のバケツで堰の内側の水をこれまた大急ぎ、無我夢中でかい出すのだった。この作業は早くしないと田んぼの側の堰が増水に耐えかねて切れてしまう。

 あんなにあった水が減りだし、土管の中の魚が耐え切れずこちらに出て来れば、金や銀の横腹をこちらに見せて跳ね回る。ぼくらは震える手で逃げ場を失った獲物を急いで捕まえるのだった。手の中で跳ねる魚の感触にもう興奮も極致。もっとも、低学年のチビたちは後ろに追いやられ、高学年のとりこぼしの小魚やドジョウなどをバケツに入れるのが精一杯。土管の向こうで堰を見張っていた下級生が「切れるぞー」と大声でさけぶと一堂大慌て。一気に水が流れ込み、あらまあ、第一巻の終りと相成るのだった。

 終わってみると瞬く間、にわかづくりの堰は田んぼからと本流の流れで、なんとも弱弱しい痕跡をのこすのみとなるのだった。かろうじて獲得したせっかくのおこぼれを自分のバケツに、早く帰らないと夏の炎天で死なしてしまう。これまた足早に、ぼくらはさっき来た道を引き返すのだった。水が入ってしまった黒いゴム長はガボガボして歩きにくいけれど、炎天で灼熱して焼け付くよりはずっとまし。折りしももっと向こうのレイヨン工場の引込み線を貨物を曳いたジーゼル車が重々しく戻ってゆく。そろそろ夕方が近い。

 その『たて川』の向こう。レイヨン工場のすぐこちらには矢作川からの湧き水を集めてながれる『早川』があったけれど、めったに行った記憶がない。こちらは流れも冷たくて速く、水量も多く怖い。ぽんつくもできたのかもしれないけれど、遠かったし、バケツとタモを持っての往復はぼくらにはつらかったのかもしれない。

 さらにいちばん遠くの矢作川ともなると夏休みくらいしか行く機会がなかったけれど、暑いあの夏の日々に水遊びはいちばんの楽しみだった。ザブザブ水の音、燃えるような草の道。キラっと輝いた今はもう帰れないあの夏。


524 母の終戦
08/07/29

 夏の暑さが盛りになるころ、今年も終戦記念日の夏がやってきた。ぼくの生まれたのは愛知県岡崎市で昭和26年(1951)。当然生まれたころのことは何もおぼえてはいないけれど、そのたった6年前に終戦があり、その1ヶ月前、岡崎もB29の地獄のような空襲で焼き尽くされたのだという事実に大きな驚きをおぼえてしまう。

 『岡崎空襲体験記』という本(全3集)が岡崎空襲を記録する会から出された。それにぼくの母の文が載っているというので数巻を購入。あらためて戦争の悲劇を思い知らされたのだった。

 ぼくの母ちゑ子は昭和元年生まれ。その父磯松はぼくの母が赤ん坊のころ他界。祖母しげはぼくの母を連れ、知人を頼って横浜へ行き、辻占せんべいを作って生計をたてていたそうだ。そして再婚し、ぼくの母は本当の父親だと信じていた義父幸平(ぼくの母が17の時卒中で他界するまで知らされなかった)に相当可愛がられて育った。

 ぼくの母は19の年(1944)、戦火も激しくなる気配で横浜を引き揚げ、祖母しげと共に岡崎に帰郷。親戚をたより、岡崎市の中心地近くの倉庫を空けてもらい住んでいた。やはり親戚の口利きで岡崎税務署に就職できたお陰で、ぼくの母は軍需工場(豊橋工廠などでは多くの若い学徒が爆撃でやられた)に勤めずにすんだのだった。

 そして昭和20年(1945)7月19日の深夜、敵機襲来、焼夷弾爆撃ということになるのだった。人々は着のみ着のままで逃げ出すのが精一杯。命からがら避難した川の土手から、炎で真っ赤に染まる我が家のあるであろう方角の空をただ言葉もなく見つめるばかりだったという。焼け出されたしげとぼくの母は矢作川の西に移り住んだという。その後母は常一と結婚。長女を産み、しばらく市内の義姉を頼っていたが、ぼくが生まれたのを機にいまの住所に家を建て移り住んだのだった。その数年後より、なんとなくぼくにも断片的ではあるけれど記憶として残っている。

 戦争が終わってから、ぼくは生まれた。しかもその傷跡を何も見ることもなくぼくは育った。ぼくにとって戦争の名残といえば、あちこちに残っていた防空壕の跡だとか、天神参りやお花見などに連れて行ってもらったときに出会う傷痍軍人くらい。どうして片足や片腕の人たちが軍服を着て、ラッパや太鼓を鳴らしているのかしらと不思議に思ったほど。ぼくは父から戦地満州での話しや、母から空襲爆撃を受けたときの話を聞いたことがないわけではなかった。けれどふたりから、思い出したくない、語りたくない記憶についてあからさまに伝えられたことはほとんどなかったように思う。

 ぼくと同年代で育った者たちの中で、父や母の戦争体験に匹敵するような悲惨な経験をしたことのある者もめったにいないのかもしれない。そんな経験をした者としない者が年代を隔てていまもこの同じ世界に、同時代に生きている。そしてぼくは今頃になって母の口から、ぼくの知らない、ぼくが生まれる少し前の話を聞いている。母の文章の終りに「何年経ってもこの日のことは忘れない。」とつづられている。ぼくの母は早川の土手から赤く染まった東の空を見つめ、ただすべてを失い、放心する人々との時間を共有したのだろう。

 その炎の向こうの空にその日も昇ったであろう朝日は、どのように母の心に焼きついたことだろう。
町を焼き尽くす炎は火柱となって空に巻き上がった


525 ゲンザウ
08/08/30

 道長の作業所を山陰川を挟んだ東側の区域。そこに道長所有の畑があるため、見回りを兼ねた我が愛犬キクの散歩道ともなっている。大部分が畑作に向かない湿田のため、作物を植えることができず、農作業といえばその一部を除いてただ草刈作業をするだけとなってしまっている。池なぞ作ってビオトープなんかもいいのだけれど、もともと水に恵まれた沢でもないため、これまた日照りが続くと水の流れが途絶え気味となってしまうため難しい。そんなわけで、一段高くなった山付きの畑にシカ除けネットで囲んだ梅の木が8本植えてあるだけ。

 この区域、誰がそう名付けたのか『ゲンザウ』と書いてゲンゾウと読む。そのゲンザウ、実は最近シカやイノシシにとってやりたい放題になってしまっている。このゲンザウ地区、湿田が多い割に沢を流れてくる水の量はというと、田植えや日照りにすべての田を潤すに余りあるとはとてもいえない。また沢から見上げれば工業団地、さらには東名高速道路を隔てた向こうには数年前、県から操業停止命令が出された悪質産廃処理場の廃虚があったりで、健康的な農業を推進するにはいささか不利な条件ばかりが目立つところ。

 そんなゲンザウだからか、最近米作りを休んでしまっている田がめっきり増えてしまっている。道長がここに農地を得たころ、それぞれの畑は雑草の要塞ともいえそうなほど、笹とセイタカアワダチソウ、ブタクサが生い茂り手が付けられないほどひどかった。はじめてぼくらが命からがら草刈を完了したとき、周りの畑の人に「やっときれいにしてくれて感謝」旨のお言葉までいただいたほど。そしてまる2年間、草刈を繰り返すうち、なんとかここまで回復させたという感じ。だがしかし、この区域のほかの田畑はといえば、その半分以上で耕作が休止され、遊休農地なのか耕作放棄地なのか、もうどうとでもしてくれというほどに荒廃が進んでしまっている。だから愛犬キクの散歩道、高いところからゲンザウを一望するにつけ、なんともさびしい気持ちになってしまう。

 だがしかし、そんな荒れ野をよろこんでいるのが里に進出してきているシカ、イノシシ、サルを始めとする動物たち。ここ愛知県豊川市萩町では、すぐ西に岡崎、東に豊橋へ通ずる騒々しい国道1号線が通るほどの、中山間地とは呼びにくいようなところ。それなのにここよりももっと山奥の山間地より、もっとひんぱんに獣たちが出没しているのではないかしら。獣害対策用の防護柵を張り巡らさないと作物を育てるのは難しいというのが現実。

 その中にあって、ここゲンザウはとくに荒れている。この夏、愛犬キクの散歩の折、時々シカやサルに出会ったり見かけたりするようになった。キツネを見かけたこともある。また夜中に暴れまわっているらしい夜行性イノシシの痕跡も鮮明。シカなぞ草むらから山の斜面を伝って、その大きな身体を実に身軽に駆け上がってゆくのを目撃したりする。茂みの向こうでこちらをうかがっていることだってある。サルなぞ、20〜30頭の群れでかなりの広範囲を移動していて、忘れたころこのあたりへやって来、せっかく育った作物や柿、枇杷なぞを持ち去ってしまう。ロケット花火なんぞで追い払っても効果のあるのはそのときだけで、知らぬ間にやられてしまうという有様。

 日本の農業を象徴するかのような我がゲンザウ。動物たちの楽園と手放しで喜んでいるわけにはいきません。
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画面中央あたりにシカが(さっき愛犬キクと通り過ぎたばかりの道)

526 食の安全
08/09/17


 食の安全という人が生きてゆくうえでもっとも基本的な部分が大きく揺らいでいる。最近問題になっている『汚染米』の流通もその典型。一体全体食の安全管理はどうなっているのだろう。確かに大きく揺らいでいるのは最近のことだけれど、ではもっとむかしは食の安全が守られていたといえるのかしら。この問題を考えるとき、食が安全でなくなったきっかけについて考える必要があると思う。それはいったい何時からなのだろう。

 たとえば江戸時代やそれ以前、やっぱり食は安全とはいいきれかなった。たとえば生ものなど、食べずに置きすぎれば悪くなってしまうし、それを食べればおなかをこわしてしまう。そんなことは今もむかしも同じだけれど、新しいか古いかの見分けがつかないわけでもなく、古い時代に食の安全は問題にならなかったのかもしれない。

 世の中に化学物質が出回るようになってまだ100年そこそこといったところ。またひんぱんに利用されるようになっても久しくはない。思うのに、食の安全は化学物質や科学技術が『食』に利用されるようになって以来、危うくなってきた。

 化学物質や科学技術を食に応用する場合の使い道を考えてみる。@手間が省けて大量生産が可能となる。A保存性を高める。B食味食感を高める。C見栄えをよくするなど。というような目的が得られるようになった結果、食の安全が保たれなくなったといえる。なぜかといえば化学物質や科学技術は、そのほとんどが生産者、製造者や流通業者のためだけに利用されているため。そしてわるい事にその流通をつかさどる国についても、『便宜性』は消費者のためにではなく、むしろ経済性を追求する立場の業界、国に与えてしまっている。なぜなら、行政にとって経済の好調は自らの人気のバロメーターなのだから。要するに安全性は二の次にされてしまっている。

 産業革命があたかも錬金術のように発展したことの結果として、どうしようもなく危険な副産物もたくさん生み出されてきた。またその使い道も(平和的とはいえないけれど)考案されてきた。

 ぼくが幼少のころ(今から50年ほど前)、世の中の食品に大きな変革が起こっていたように思う。今までありえなかった物質のおかげで食べ物が大きく変わった。おそらく当時の食品は今より多量に食品添加物が使われていたのだろう。同じように農業の現場でも大量の化学肥料・農薬が使われていた。そして食品でないものにも大量の化学物質が使われてきた。

 食の安全が危うくなっている。これにはそれを扱う業者やそれを管理する行政関係者のモラルによるといってしまえばそれまで。それよりも
、こう考えたほうがいいんじゃないか。つまり、世の中が安全でないものによって、その大方を占められてしまっているのではないか。これ以上隠し通せない、取り繕えない、飽和状態ということなのではないかしら。

 できることはひとつしかないのかもしれない。化学の部分を減らすこと。つまりは有機に向かう以外に方法がないのだと思う。また『善』を守ることができる。それが人にできるというなら話は別だけれど。


527 母ちゑ子
08/09/26


 昭和元年生まれ。今年11月で82歳になるぼくの母ちゑ子。自動車も運転するし、元気なのはありがたいけれど、敬老の日を前に怪我で救急車で運ばれ、岡崎市民病院に入院。大腿骨頚部(大腿骨の付け根、ボールジョイントの球体のくびれの部分)の骨折のためPFNという金属部品で固定する手術を受けたのだった。曾孫を連れて買い物に行ったのはいいけれど、ふざけて不意に突進され転倒してしまったため。

 ちょうどその折、ぼくは釣りの友と焼津漁港で竿出し中ではばかり中。その知らせを泣き崩れる娘(曾孫の親)から携帯電話で受けてしまい、ぼくの心中に乱気流発生。お陰でぼくの釣竿は仕掛けを振り込むたび、不協和音を奏ではじめるのだった。潮回りの悪さ=釣れないという条件も手伝ってか、同行の釣友諸氏「おふくろさんが気掛かりだからもう帰ろう」とのありがたい進言で帰路。とはいえ、もう病院へ向かうには遅すぎる時刻。連合いも入院用具の物色で岡崎帰宅。ぼくは音羽に帰宅するも落ち着かず、なにやらん浅い眠りの一夜を過ごしたのだった。

 翌日病室の母、気持ちはしっかりしていて一安心なのだけれど、今後のことが折り重なって思いやられ、ぼくの頭の中をめぐりはじめていてこれはちょっと大変な事態。

 母ちゑ子は70歳の年、連合い常一に76で先立たれたけれど、その5年前、65歳でS字結腸のがんで大腸を30cmほど摘出(これは大変な手術だった)。70でなにやらうまく物が掴めないというので右手の手術。さらに75で転移ではないものの乳がんの摘出手術。というような具合で、すでに過去3回も自分のからだにメスを受入れていて、今さらどうってことないと今回の手術もすんなりと受けたのだった。

 手術後、主治医より説明を受けるうち、レントゲン写真を見てびっくり。ボッキリ折れたボールジョイントの根元のくびれ(頚部)と大腿骨の中心にしっかり差し込んでねじ止めした太さ1cmはある金属棒と、折れて離れたボールの部分をこれまた太いねじで固定するという大胆な方法。こうでもしないと早期の接合が難しく、治療に時間をかけては高齢者にとってリハビリも困難となりかねないということもあり、即手術ということなのだろう。

 今週中には抜糸。おそらく来週にはリハビリ専門病院へ転院といそがしそう。それにしても母ちゑ子、ガリガリで吹けば飛ぶようなきゃしゃな割りにはなんと幾多な病を克服してきたことだろうと感心する。なんといっても母ちゑ子にとってもっとも大きな病暦といえばぼくが生まれたころに患っていた結核だったろう。戦後まもなくの新薬『ストレプトマイシン』のお陰で命拾いはしたものの、たいへんな経験であったにちがいない。

 80を過ぎての手術。しかも大腿骨の付け根。息子のぼくにできることといえばせいぜい見舞いに行くくらい。ベッドの脇で居眠りをするか、テレビでもみて時間をつぶすだけ。ぼくの連合いや孫娘たちのように甲高い無駄話をして意気投合するわけでもないけれど、これでも精一杯の親孝行をしているつもり。リハビリでも何でもおれがやってやる、なんぞという心持は胸の奥にしまっておいて、今夜も無愛想な見舞いとなるのだった。
以外にしゃんとしている
こんな感じの釘が大腿骨の根
元に差し込まれているらしい
(あくまでもイメージ)
 母ちゑ子の今の夢。「ひとりでトイレに行けるようになること」。これもまた切実。


528 スピーカー
08/10/13

 もう20年以上も前のこと、ぼくは音楽を聴くための音響装置を財政困難の中、すべて中古品でそろえたことがあった。まことにもって涙ぐましい努力であって、そのためにレコード棚からお金になりそうな、しかもこれなら…というのを泣く泣く手放したりして音響機械のために現金工面をしたのだった。その中でも清水の舞台から飛び降りるつもりで購入したのがスピーカーだった。

 とかく真の音楽ファンというのはお金に余裕がない場合が多い。なぜかといえば、なけなしの財のほとんどがレコードやCDなどにつぎ込まれてしまうため。良い音で音楽を聴きたいのは山々なのだけれど、いかんせん、高価なオーディオ機器に手が届かない。だから、小手先でできる限りの改良でだましだまし聴いている。

 レコードによっては内容はすばらしくても、残念なことに録音状態が悪いと良い音では聴けない。そんな場合、どうしてもそのレコード盤がプレーヤーのターンテーブルに乗せられる機会が遠のいてしまうというもの。音楽は『音』ではなくて『内容』で聴くものといえばそうだけれど、そこが苦しいところ。

 この20年以上の時を隔て、最近なつかしい人I氏と再会。やはり音楽ファンであるとともにオーディオにはとくに詳しい方。しかしながらあの当時、ぼくは彼と知り合いになったばかりにもかかわらず、付き合いはそれきりになってしまったのだった。いきさつをのたまっても仕方ないけれど、とにかくある理由でせっかく築き上げた音楽の絆で結ばれた『ある人』との付き合いを断ち切ってしまったからだった。付き合いを切るとなるといい加減なことではだめで、完全にそうしないとまたずるずると回復してしまう。そんなわけですべての関係者との付き合いもきっぱりとやめてしまったのだった。

 最近仕事場を県道沿いに移転し、はじめて看板を掲げたことがきっかけで、時々この道を通るI氏の目にとまった。そしてついこの間I氏と再会。実は20年以上前に張り込んで購入したスピーカーというのが、I氏がオーディオ店に下に出したものだったのだった。確かにすばらしい音響を奏でてはくれていたものの、不満を抱えたままレコードを聴き続けていることを、ぼくは正直にI氏に伝えた。

 ここからが心苦しくもありがたく、I氏、ぼくのオーディオの不満点を解決すべく、一肌ぬいでくださったのだった。そしてなんと彼所有の、ぼくの音楽環境にちょうどあてはまるスピーカーと、今までぼく使用のを交換してくれてしまった。ぼくも良い音で聴きたい一心もあり、彼に言われたことのすべてを実行。そしてその結果、というより、各行程で音質は見る見る改善というか変貌、豹変し、そのたびに新たなる感動。そして以前と比してまったくの高次元に来てしまったという感じ。あらためてI氏の技に感銘を受けてしまったのだった。そして感謝。

 ただひとり、あらためて愛聴盤をすばらしい音で聴く。時は一気にさかのぼり、たちまちあのときの感動が呼び起こされた。そして知らぬ間に涙があふれた。ああ、今此処に彼が居てこの時を共有できていたなら。しかし今はもう取り返しも付かず、2年前彼はあの世に逝ってしまいもういない。さびしさが夜寒に冴え渡るのだった。


529 黒潮町
08/11/12

 国産で完全な天日塩を作っている高知県黒潮町のソルトビーさんを訪ねた。わが愛知県豊川市からは高速道路伝いで高知自動車道の終点『須崎』を降りてさらに西へ1時間余りのところ。全行程7時間余り。黒潮町のさらに人里はなれた生活雑排水の心配のない入り江。雄大かつ紺碧の太平洋を眼前に企業組合ソルトビーの製塩所がある。

 平成14年の立ち上げ以来、メンバーの共通の思いは天日塩を特産にして、もっと黒潮町を活気ある町にしたいというのが彼らの思いであったとオーナーのひとりが語ってくれた。そのために修学旅行の学生を受け入れ、塩づくりの体験教室もしている。なんと関東方面からも。今も各地に残る塩浜、塩尻、塩釜、塩原などの地名が数多あるけれど、それほどにむかしは身近に塩をつくるための塩田があったはず。海洋汚染が進む中、昨今では日本中あらゆる条件で製塩に向いた立地を備えたところはやたらあるはずもない。その意味で黒潮町はその名も示すとおり塩の町にふさわしい。生物が生きるのに欠かせない、また塩なくして考えられない食文化。そのたいせつさを広く人に知らせるのもソルトビーの仕事。使命感にも似たオーナーたちの語りに痛く感銘。

ソルトビーのオーナーさんたち(結晶ハウス前にて)

 また、その夜の宿をとらせていただいた『海生丸』さんという漁家民宿でも、同じような思いを女将さんから聞かせていただいたのだった。日本ではカツオの代名詞を土佐市にうばわれてしまっている黒潮町(旧佐賀町)だけれど、実はカツオの水揚げでは日本一。そんな黒潮町をカツオの町として知ってほしいという思いから。またカツオはこんなに美味しい魚なのだということを人に知ってもらうため。なによりもこんなにおいしいカツオをこの町に来て食べてほしい。そんな願いを込めた新鮮カツオのたたきを体験してもらうための施設『黒潮一番館』の実現にまでこぎ着けたお話をうかがった。ソルトビーのオーナーの一人、山本さんも交え『地元』『産物』『消費者』『漁業者』『生産者』について熱い会話が行き交った。

 消費地、消費者に対して産地、生産者とはなんだろう。ただ空腹やグルメの欲望を満たすため片や消費し食し、片や生産し出荷し需要と供給の営みがおこなわれるという無機的なものではないはず。


『海生丸』さんにて。女将の明神さん(中左)とソルトビー山本さん(中右)

ソルトビーのHP

黒潮一番館のHP
 どんな人でもただ生きているわけではないのだろう。泣いたり笑ったりするうち、みなよろこびを求めて生きているにちがいない。食べるよろこび、はたらくよろこび、何かをするよろこび。つまり生きるよろこび。決して苦しみやむなしさであってほしくない。

 はたらくことはつらいことでもあるけれど、「おいしい」といってもらえば作ったひともうれしい。そしてそういった関係がドラマチックであればあるほど、お互いの「おいしい」と「うれしい」もひとしおなのではないかしら。よろこびは大きいほうがいいじゃないか。そんな最大限のよろこびをほしいと思う産地の人たちと、消費地の人たちが出会う、集う。そんな場所が産地にある。地元にある。黒潮町のソルトビーがある。黒潮一番館がある。

 ソルトビーと黒潮一番館のキーパーソンとその熱い思いに出会い、ぼくの心も奮い起こされ、いつの間にか第二のふるさと音羽とぼくの仕事について熱く語ってしまった。熱い熱い夜は瞬く間に過ぎてゆくのだった。


530 カノン
08/11/19


 クラッシック(古典)音楽のバロックなんぞについて詳しいわけではないのでえらそうなことがいえないのだけれど、カノンというのがある。これはもとになる主題の旋律をいろいろな方法でずらせ、重ね合わせたような演奏法で、合唱でよく行われる輪唱などもそのひとつ。

 カノンといえば哀愁に満ちたメロディーを思い浮かべてしまうほど、曲名は知らなくても馴染み深い曲がいくつかある。そんな中、パッヘルベル(1653〜1706)のカノンは誰もが聴いて知っていて認めるであろう名曲。いわゆる『パッヘルベルのカノン』と言われている曲は『3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ』の第1曲目『カノンニ長調』のなのだそう(なにかそれにふさわしい曲名でもあればよかったし、後でだれかが俗称なんぞつけてしまえばよっかったのに)。

 ドイツ・ニュルンベルグに生まれ、音楽を学び、ウィーンやシュトゥットガルト、ニュルンベルグなどの大教会や宮廷の音楽家として活躍したといわれるパッヘルベルがこのカノンを作曲したのは1690年ごろだといわれている。またあのヨハン・セバスチャン・バッハの父親とも知合いでバッハの兄に音楽を教えているし、バッハの音楽にも大いに影響を与えているそうだ。

 パッヘルベルやバッハの時代。音楽は教会や宮廷で演奏された。楽譜が出版社から発売され(今ならCDデビューというところ)、あるいは演奏会でのチケットなどからの収益で音楽家が生計をたてるという時代以前だったから、音楽家は音楽学校で生徒に教える以外は教会や宮廷に専属として勤め、演奏したり作曲した曲を献呈するという方法で暮らしていた。だから音楽家の志向というものは布教やお抱えといった、ある意味、何かの目的、意に沿うものでなくてはいけなかった。音楽の好きな一般民衆の心をくすぐるためというなものではなかった時代。

 これはロックでの話だけれど、ビゼー『アルルの女』の『ファランドール』やハチャトゥリアン『剣の舞』なども演奏している70年代のロックバンドがあるのをぼくも知っている。なかなかスピード感がありかっこいい。

 実はこのパッヘルベルのカノンもロック化?されている。インターネットで『You tube』という映像を勝手に投稿するサイトがあるけれど、それで『カノンロック』と索引してみるとずらりと出てくるからおもしろい。このカノンロック『Canon Rock』は台湾の JerryC というロックギタリストがアレンジして、自ら演奏する様子を You tube にアップロードしたものが評判になり、世界中のギタリストの腕比べのための曲になったらしい。次々に登場するカノンロックをあれもこれも聴いてみるとなるほどこれはりっぱなパッヘルベルのカノン。

 17世紀、このカノンは高貴な宮廷のサロンかどこかで、ごく一部の人々にだけ披露された曲だったのかもしれない。または厳粛なミサの途中で。しかしながら名曲というのはいかんせん、そういった狭義をはるかに超えてしまうもの。いつの間にかこのカノンは人々に口ずさまれるようになり、今日まで伝承されてきたのだろう。でもまさか、パッヘルベルさん、エレキギターでロックのリズムに乗せられ、こんな風に演奏されることなんぞ想像だにしなかったことだろうし、きっと跳んでよろこぶんじゃないかしら。
JeryyC のカノンロック
Jerry C の Canon Rock は
http://jp.youtube.com/watch?v=by8oyJztzwo
で聴けます