541 We Shall Overcome
09/05/25
1970年前後に青春を謳歌したであろう諸兄にはなんともなつかしいというか、インターナショナルとともに血沸き肉踊る曲です。大学紛争の最中(さなか)、たいして活動したわけでもないくせに、そんな歌を合唱するたび、なんとなく、平和の戦士としての高揚感を満喫してしまったのはぼくだけでしょうか。折りしもベトナムで行われていた戦争への平和の叫びとして、米国のフォーク歌手、ジョーン・バエズなんかが熱唱。おそらくこのメロディーを知らないという人はいないでしょう。
この歌はもともと黒人霊歌(スピリチュアル)でした。いうならば米国民謡。それが賛美歌として教会で歌われるようになった。戦前には『We』でなく『I』であったらしい。それが1945年のサウスカロライナ州のタバコ労働者のストライキの折、『We』と歌われるようになり、労働運動での合唱曲になったといわれています。そして何よりそのすばらしくも力強いメロディーがたまりません。

ただし、1900年ごろ、この歌のメロディーは現在とはちがっていたようです。いつの間にかといえばいいのでしょうか、それから半世紀経ったころには現在の旋律で歌われるようになっていた。したがってこの歌の曲の作者は不詳ということになっています。題名である『We Shall Overcome』は聖書からの引用とされています。

『We Shall Overcome』この一節がもっとも劇的に使われたのは米国での人種差別撤廃を求めた公民権運動においてです。あのマーチン・ルーサー・キング牧師が1963年、歴史に残るワシントン大行進の際、ワシントン広場に集まった20万人の大衆に向かい『I have a dream 』で始まる歴史的な演説をしました。その中で彼は歌うがごとく『we shall overcome』と何度も力を込め、民衆に語りかけました。

キング牧師は1957年、テネシー州モンティーグルのハイランダー・フォーク・スクール(現ハイランダー研究教育センター)をその25周年に訪れた際に『We shall overecome』という歌に出会ったといわれています。

■ハイランダー・フォーク・スクール
この学園は白人や黒人が民族の壁を超え、働くものたちが連帯、自立、自己決定し、平等に生きることを目的に1932年、非公式設立。米国の公民権運動にも大きく貢献したといわれています。そこでは音楽を媒体とした教育が重要な位置づけとしてあり、We Shall Overcome もそこで歌われていたらしい。それが労働者によるストライキなどでも歌われるようになってゆく。さらにピート・シーガーなどのフォーク歌手たちによっても米国、さらに世界中に広められた。そして、反戦や自由、平等を求めるたたかいの場で、この歌は必ずといっていいほど歌われるようになりました。
■We Shall Overcome の意味
助動詞 shall が使われる場合、とくに一人称では強い意志が含まれてきます。そして overcome については、日本語訳では『勝利』となっていますが、本来は『克服する』とか『(困難などに)打ち勝つ』という意味で使われます。キング牧師は演説の中で次のように語っています。「かつての奴隷のこどもたちと、かつてのその奴隷主のこどもたちが、みな兄弟という名のテーブルで席を共にすることのできる日が来ることを夢見る」と。みなが人種差別問題を『克服』することこそ overcome なのだということです。

キング牧師は『非暴力』による運動を提唱し貫いた活動家でした。しかしながら、非常に残念なことに、1968年テネシー州メンフィスでの遊説の途で暗殺されてしまいました。39歳という若さでした。

キング牧師の葬儀では黒人歌手によるライブも行われたそうです。中でもマヘリア・ジャクソンの『We Shall Overcome』は圧巻で、その様子はインターネットで観ることができます。


542 第5回 遺伝子組み換えナタネ抜取隊
09/06/18

遺伝子組み換え食品を考える中部の会では09年6月7日、一般市民の参加をお願いしての第5回遺伝子組み換えナタネ抜取隊を行いました。

今冬の温暖と多雨の影響もあり、去る4/12の中部の会による下見調査では例年になく多数のセイヨウナタネが確認されました。そのため、今回はより大きな規模での抜取作戦とするため、とくに多くの市民の参加を募りました。お陰で84名の参加を得ることができ、今回の抜取隊行程の30kmを無事終えることができました。

午後1時、津偕楽公園には農家、生協関係、学生などの市民と幅広い層の参加者が集合。中部の会よりナタネの採取方法、交通安全についての注意などの説明が行われました。

国道23号線で四日市港から松阪市までの距離は40km余りあります。そのうち高架などで歩行者が侵入できない部分もあり、また一度に全行程は無理があるため、今回は鈴鹿市林崎(はやさき)町交差点から白子町、津を経て松阪市小舟江町北交差点までを対象としました。

●分離帯での撤去作業
先回11月の抜取隊より、関係機関からの許可を得、中央分離帯に自生するセイヨウナタネの駆除も敢行しています。この地域で最も交通量の多い23号線ということで、とくに危険のともなう分離帯での作業にあたっては、厳重な安全管理のもとで行いました。

もっとも危険な分離帯での撤去作業を行うため、各グループは3〜4名の構成。1〜2名が記録と抜取り、1名が中央分離帯での抜取り、あと1名を安全監視員としました。内1名は熟練者。

図のように、国道23号線鈴鹿市『林崎(はやさき)町』から白子町、江戸橋、『上浜町2』より県道114号、その先『垂水』よりふたたび23号に入り、松阪市『小舟江町北』交差点までの30kmをA〜Kの11グループに分割。さらにそれぞれを道路東側、西側に振り分け、できる限り完璧な抜取り作戦を目指しました。中央分離帯での作業については東西の班が交互にあたりました。

今回の抜取隊で抜取り採取されたナタネは1129株。その中から各グループでそれぞれ10株ほどを各採取地点から選抜し、ラウンドアップとバスタ耐性GMナタネ検出用試験紙2種類を使用し、GMか否かの判定をしました。今回使用された試験紙はそれぞれ208本、合計416本でした。

●高木仁三郎市民科学基金
中部の会では昨年度より高木仁三郎市民科学基金からの助成を得られるようになり、検査用試験紙にかかる高額な負担を軽くすることができるようになりました。

高木仁三郎市民科学基金にも、この場を借りて深くお礼を申し上げます。



上の表から、今回ラウンドアップ耐性GMナタネの確率は全体の32.2%。バスタ耐性GMの確率は全体の29.3%でした。さらにGMナタネの確率は全体の60.6%でした。さらに特筆すべきは、今回の抜取隊でもRR/LL両耐性のGMナタネが2株確認されたことです(先回は1株)。この点について、前述の高木仁三郎市民科学基金のお陰で中部の会での検査の精度が向上したことにより、2種類の除草剤に耐性の交雑したセイヨウナタネの自生が確認される結果となっています。すでにRR、LL耐性2種の自生が混在する中、日本国内のどこかで交雑が起こっていてもまったく不思議のない状況です。

●遺伝子汚染に対する国の対応
1996年にGMナタネが輸入されるようになってすでに10年以上の年月が経過しています。その間、国からは「食品として安全性が確認されている」ことを理由に、GMセイヨウナタネの自生への対策は何ひとつなされていません。
ただ望めるのは、関連の企業や中部の会のような民間の組織による自主的な撤去作業だけという状況です。そのためにひたすら費やされる民間による無償の活動について、大きな疑問を感じざるをえません。
現在起こっている輸入農産物による遺伝子汚染が、今後国内の農業に大きな損害を及ぼす事態に発展する危惧を否めません。一体、その場に及んで、国はどのような対策を、補償をできるというのでしょうか。まさか関連企業にその責任を負わせるなど本末転倒。遺伝子汚染に何の対策も講じない国の姿勢に対し怒りさえも感じます。

ここ三重県では2種のGMナタネの、また愛知県の内陸部では在来ナタネやカラシナとの交雑種とみられる個体が確認されています。
このような交雑種が世代を重ねるうちに除草剤の効かない雑草として野生化し、回収不能となってしまう危険性を考えると、国による早急な対策が急務といわざるを得ません。

このままGMナタネの拡散を放置することによる、日本の農業と環境に及ぼす影響は計り知れません。

●ありがとうございました
今回の第5回GMナタネ抜取隊に参加、ご協力いただいたみなさまに深く感謝申し上げます。また、しばらくは継続せざるを得ないGMナタネ抜取隊に対するみなさまのご協力をお願いします。



543  
09/08/05

 「一生あなたを愛します」なぞという。愛する、恋愛、兄弟愛、人類愛、愛の遍歴、愛人、隣人愛、愛知県、愛欲なんかもある。『愛』とはいったいなんだろう。

 人が『愛』をもっとも意識するのは、若いうちなら『恋愛』なのではいかしら。ぼくにもだれにも経験のあること。また子を持ち親ともなれば「海より深い母の愛」なぞと・・。

 三省堂『大辞林』では「相手をいつくしむ、あるいは良かれと願う心」「異性に対する思慕の情」「何事にも増して、大切にしたいと思う気持ち」(以上要約)などなど。またアンブロース・ビアスの『悪魔の辞典』では「恋愛 Love :一時の精神異常だが、結婚するか、あるいは、この病気の原因になった外的な力から患者を遠ざけるかすれば簡単に直る・・」とある(一時の精神異常はわかるけれど、その後についてはちょっと疑問)。ふざけていても仕方がないので真面目に考えてみる。なにしろ神聖なる『愛』についてなのだから。

 ぼくの連れ合いの実家では79歳の母親『かづ』が寝たきりで家人の献身的な看病を受けている。先日容態が思わしくないため、普段訪問看護を受けている近くの病院へ入院。ぼくなぞ『第三者』と決め込んで、そのような状況にもたいして動ずることもなく、なかば無関心を決め込んでいたりするものの、今回は退院に付き合った。

 入院をこのまま続けてしまうと、もう二度と家へは帰ってこられなくなるかもしれないというので、先日あえて病院からの退院を決行したのだった。家まで酸素ボンベと点滴なぞを付け、寝たままのため、装備のある介護タクシーにて。そのために主治医の先生や看護婦、ヘルパーさんなど、数名があたった。

 病室でその時を待つ間に、ほとんど意識のない『かづ』にみなが「家にかえれるよっ」と声をかけると、にわかに低く安定していた血圧がいいところまで上がってくるのだった。「気合が入ったね」とヘルパーさん。

 かなり時間がかかり、やっとのことで家に到着。男3人がかりで二階に上げる。『かづ』の夫氏もほんとにうれしそう。そして『かづ』の目からはたしかに涙がながれているのだった。

 もうほとんど意識がないのなら、いっそのこと病院に入院したままで完全看護を受けたほうがいいんじゃないかと、浅はかにもぼくは考えていたりした。けれどこのときはじめてぼくはつくづく『愛』というものについて考えさせられたし、おおいに納得もしたのだった。

 『愛』とはいったいなんだろう。それはまず相手を思うこと。そして相手もこちらを思い、お互いの思いがつながり合いたいと願うこと。

 ひとは『愛』のため、時に恨み、憎み、悲しまなくてはならないこともある。けれどそれは何かのまちがいや行きちがいでそうなってしまうことも多いもの。もしかするとあまりの『愛』の重圧がそう仕向けてしまうのかもしれない。時に平静であり、またはげしく燃え盛ることもある。それもみな相手があってこそ。『愛』はいつもだれかのために燃え続け、心があり続ける限り、決して消えることはないものなのだろう。



544 食・農そして環境
生物多様性条約第10回締約国会議とMop5 in 名古屋
09/08/05

日本では縄文のむかしから米作りがおこなわれてきました。そして日本人はそのために田畑を開き、豊な水を確保するため、山や森をも育ててきました。おそらく日本中で人の手の入っていない自然など、ごく一部の限られた区域にしか存在しないのではないでしょうか。つまり日本人の『環境』は『農』によって保たれているということなのです。

『食』とはもっとも身近な『環境』
日本人にとって『食』とは『農』を通じて、直接『環境』をからだに摂りいれる行為と言えるのではないでしょうか。『食』『農』『環境』の3つの関係がどこかで崩れるとき、日本の食文化は崩壊し、私たちの健康も大きく損なわれてしまうこととなる。残念なことに現在はまさにその瀬戸際です。

遺伝子組み換えに対してNo!
道長は愛知県豊川市の農村地帯で農産物を漬物に加工する仕事をしています。過去に愛知県の遺伝子組み換えイネの研究開発に対する反対運動に加わったのをきっかけに、食の安全、地元の農業を守るため、遺伝子組み換え(GM)に反対する活動をしています。愛知県では『遺伝子組み換え食品を考える中部の会(以後中部の会と略)』という活動組織があり、道長はその一員です。このNGOの構成は農業生産者、農産物加工、食品の流通業者、学校給食関係者など『食』に従事しながらも立場を異にする団体、個人。

GMセイヨウナタネの自生問題
2004年、茨城県鹿島港周辺でGMセイヨウナタネの自生が確認されたという農水省の発表を受け、中部の会では名古屋港、三重県四日市港周辺の調査を開始しました。しかしながら06年の調査でセイヨウナタネの拡散傾向が強まったため、以後抜き取りによる駆除を活動に加えました。現在年に二回ほど『遺伝子組み換えナタネ抜取隊』として、一般市民の応援を募っての駆除作戦を行っています。

現在、GM生物を貿易などで国際間を移動する場合、生物の多様性を保護するための国際的な取り決めとしてカルタヘナ議定書があります。しかしながら日本国内では、GMセイヨウナタネなどの陸路輸送途中のこぼれ落ちによる自生を規制するまでには至っていません。

COP10に向けて
2010年、名古屋で生物多様性条約に批准している国々の国際会議(COP10)が開かれます(前回は2008年ドイツ・ボン)。その中でとくに重要な位置づけとして、GM生物などを法的に規制するためのカルタヘナ議定書に調印している国々の国際的な会合(MOP5)も行われます。とくにこの条約、議定書の会議には、特にNGOなどの民間の活動組織の参加の場も用意されています。私たち中部の会では、その会合にNGOという立場での準備とホスト役、さらには参加をしてゆく予定です。そこで日本各地で起こっている輸入農産物による環境への遺伝子汚染の実態を訴えることで、法的な拘束力を勝ち取ってゆくための弾みとしたいと考えています。

私たちの地道な活動が、将来の日本の『食』『農』『環境』を守ってゆくための意志杖となることを願います。

COPとMOPについて
地球の生物的環境については上で示した『生物の多様性に関する条約』という国際的な約束があります。これは地球の物理的環境についてをカバーするための『気候変動に関する国際連合枠組条約』に対するものです。産業革命以来、人類の経済活動の過程で起こってきた環境破壊を止める目的で作られた条約です。そして、各条約の具体的な取り決めをするために作られている国際法が『生物多様性』では『カルタヘナ議定書』、『気候変動』では『京都議定書』です。『カルタヘナ・・』では、先に述べたとおり、遺伝子組み換え生物などを国際間で移動する場合の、『京都・・』では、温室効果ガス、とくに二酸化炭素の排出を制限するための法律。

こうした国際条約の会議のことを COP(Conference of Parties)と呼びます。一方その細則を定めた国際法『カルタヘナ議定書』『京都議定書』などに調印している国々の国際会議のことを MOP(Meeting of Parties)と呼んでいます。頭文字の『C』と『M』の意味はそれぞれ『会議』『会合』とほとんど同義です。要するに区別するための違い程度に考えても差し支えないでしょう。
『食と農から生物多様性を考える市民ネットワーク
(MOP5市民ネット)』

今年5月、2010年のMOP5に向けて『MOP5市民ネット』が立ち上げられました。この組織としてのMOP5への関りは次のようなものです。

私たちの『食』と『農』というもっとも身近な文化としての環境と、さらにはそれを取り巻く地球環境が、とくに遺伝子組み換え生物などによる悪い影響を受けないようにするための働きかけをNGOという民間組織という立場でおこないます。

『MOP5市民ネット』について、詳しくは以下のアドレス
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/sa-to/mop5net_01.htm をごらんください。


545 四谷の千枚田
09/08/19

 道長で梅を仕入れさせていただいている愛知県新城市の小山柳二さんを訪ねた。旧南設楽郡鳳来町四谷地区。ここは日本に数ある千枚田(棚田)の中でもその規模もさることながら、風光の美しさでも知られたところ。

 そんな四谷地区にあって、おそらく小山さんのお宅ほどの眺望をみじかに感じていられる住宅はちょっとない。東向きの玄関を開ければどうでしょう、四谷の千枚田を額縁なしで一望の大パノラマ。玄関口には簡素だけれど応接用のテーブルと腰掛。ときどき小山さんの玄関先まで、カメラを携えた我を忘れた素人写真家諸氏が侵入とのこと。そういえば街道からの入口の坂道に「・・ご遠慮ください」の立札があったのはその意味なのでした。

 そんな千枚田のふもと辺りに、かつてはここも田んぼだった時代もあったであろう、畦の名残もある小山さんの梅畑。除草剤を使わないので草刈がたいへんだけど、そのぶん緑に包まれて気持ちもなごむというもの。そう、こんな風景をちょっとはなれたところから眺めれば、「自然っていい!」なんて言葉が出るんじゃないかしら。

 ではでは、日本人にとって『自然』とは一体なんだろう。原生林、原野、湿原など、日本にも手付かずの自然もあるのかもしれないけれど、ぼくらが外に出かけて自然を前に心なごむとき、そこにどこかしら『里』の気配がしていたりするのではいかしら。

 都会からの日帰旅行者たちはここ四谷に来て、千枚田とそれを取り囲む杉林、そしてその奥にそびえ立つ鞍掛山を眺めては『自然』を感じているのだろう。でもよく考えてみると、ぼくの前にあるのは、長い歴史の中で何度も繰り返されたであろう山津波とそれをなんとかなだめるため、また少しでも米を作って暮し向きをよくしたいという願いから積み重ねられてきた棚田という『究極的』なかたち。数多(あまた)考えを巡らせても、やっぱりこれよりほかに方法はなかったのではないかしら。山津波をそのまま放っておいてもそれはただの荒地、ただの悲劇の傷跡。人々の生活の場は狭められ、いずれ記憶が薄れたころ、さらなる豪雨で同じことが繰り返されるばかり。

 大雨でも水を暴れさせず、なだめゆっくりと流す。しかもそれが命の糧、米作りにつながる。集落中の田が、そこで労働する互いの姿が一望のもと、ふと仕事の手を休めればそれぞれの田からの風景が望まれる。棚田の仕事はたいへんだけど、こんな贅沢なひと時があればこそ、人一倍の汗も癒されるというもの。
 あの織田信長の時代から年貢米とりたてのため『検地』がおこなわれるようになり、でもこれだけちっちゃくてたくさんの田んぼだと、自主申告に任せないとお奉行さまも頭をかかえたことでしょう。安土桃山だか江戸時代だか、現代のぼくらが考えるほど物騒などではなく、以外にもっとのんびりしてたのではないかしら。

 今は夏、むせ返るような緑。やがて稲穂がこうべを垂れ黄金色の世界。秋には紅葉。そして生命の息吹をすっぽり包み込んでしまう冬、雪。萌える若葉の春。春夏秋冬、月雪花。名もない人々の生活の繰り返し、その証しとして受け継がれてきた千枚田。

 ああ、やっぱり自然っていいもんだ。こんな風景を後の世にも受け継いでゆけるようにしたいと思う。

小山さん宅から望む四谷千枚田。一番奥は鞍掛山(標高883m)


546 エアーディナー大会 in 豊川
09/08/10

 ここ愛知県豊川市音羽地区(旧宝飯郡音羽町)も長い梅雨が明け、お盆前の酷暑の時期となった。商工会主催、恒例夏の宵まつり『華あかり』のイベントとして、今年はじめて『エアディナー大会』開催。エアディナーとは、エアギターから発案された競技。身振り手振りだけで道具を使わず、いかに感謝して食べているか、いかに喜んで食べているか、いかに楽しい雰囲気で食べているかの三点を競う。日本国内での食糧自給率が40%を切る中、地産地消、食育に対する意識を喚起するきっかけとなればというのがその主旨。

 商工会理事会で開催決定後、会長自ら関西で過去2回、楽しい雰囲気の同大会を観たとはいえ、ここ、愛知県の片田舎でのエアギターならぬエアディナーの企画は少々無謀なのではないかとの観測もあった。事実、広報を行うも大会参加者がさっぱり現れない。新聞への折り込み、地元ケーブルTVでの広報を行ったもののさっぱりといった状況。

 これにはほとほと困り果て、とうとう実力での参加者獲得ということに。地元事業所、各施設、文化サークルなどと、宴会部長や自他共に認めるパフォーマーを求めて酷暑の中を巡回(巡礼?)。無理かと思われた参加者探しだったが努力の末、10名(グループ)を獲得することができた。

 こういった催しでは司会者も肝心ということで、これだけは少ない予算から費用を捻出。プロの出演もお願いし、大会に臨んだ。

 2009年8月8日、かくして『第1回豊川市エアディナー大会』の幕は切って落とされた。大会に至るまでの不安は大会開始と同時にあっけなく払拭。飛び入り参加の女子高生を含め11の個人、グループの演技は意外なほどにおごそかにしかも白熱。観客の気をひきつけることができた。中にはパンダの着ぐるみをまとっての参加者も登場。会場の雰囲気をもりたてた。
工夫を凝らした各参加者の演技の結果、1等は豊川信用金庫音羽支店の西岡さんに決定。アツアツのお好み焼きを感謝しながら、喜び、そして楽しく食べる姿が決定的となり、審査員3名全員一致の高得点を獲得。地元産ブランド米『音羽米』10kgが贈呈された。

 関西での『ノリ』とは若干異なる部分もあったが、和気藹々とした、にもかかわらず手に汗握るエアーディナー大会となった。商工会長は「苦労の甲斐あってエアーディナー大会を楽しく開催できた。みなさまのご協力に感謝する。この大会を機に地元の食を大切にし、その意識を再確認するきっかけとなればうれしい。知名度のない企画で苦労はあったが、来年もまた行うので一人でも多くの参加をお願いする」旨のあいさつで、『第1回 豊川市エアディナー大会』は幕を閉じた。


547 約束の旅路 仏映画
09/10/05

 ユダヤ人とはイコールユダヤ教徒といってもいいほどで、現在のイスラエルに大部分住んでいるのがユダヤ人。世界にユダヤ教徒(人)は数多居、アフリカ系、ヨーロッパ系、中東系など肌の色も実は様々。

 エチオピアでの大飢饉の際、1984年、エチオピア系ユダヤ人を救出するためイスラエルが行った『モーセ作戦』というものがあった。これは旧約聖書にある紀元前『出エジプト記』でエジプトからの迫害を逃れるため、イスラエル人をイスラエルへ導いたといわれるモーセ(モーゼ)という活動家にちなんだもの。

 エチオピアから隣国スーダンの難民キャンプに逃れてきた母子が居た。このままでは行き所がなく、我が子の将来は何もない。そこからユダヤ人だけがイスラエルに脱出できると知り、せめて我が子だけでもと他人の母(ユダヤ人で我が子を亡くしたばかりの)に託す。しかしその義母もイスラエルに着いて病死。やっと9歳の少年にとって父や兄の不遇の死や母との離別、そして孤独という境遇はあまりにも過酷だったため、イスラエルでは学校などでの社会生活で他人を受け入れることができない。ひたすら残してきた母親への思いが募るばかり。

 幸い左翼系の家族(無宗教で戦争反対)に引き取られ、自らをユダヤ人と偽ったまま主人公シュロモはさらに少年期と青年期を過ごしてゆくのだった。その間、同じユダヤ人なのに黒人としての差別を受けたり、ロシア系ユダヤ人の娘との恋もし、フランスにも渡り就学もし、医師になり、そして戦場にも。

 この映画ではシュロモという黒人が荒れた世ではあたりまえかもしれないけれど、悲痛で波乱万丈の経験をしつつ、さまざまな人たちと係りながら成長してゆく姿を映している。世の中には(ほんとうにありがたくも)ひたむきで、自分に正直で、勇敢で、思いやりがあり、賢く、正義感のあるシュロモを応援してくれる年長者がちゃんと居てくれる。難民キャンプでひたすら我が子のしあわせを祈っているであろう実母。短い間でもイスラエルまで同行してくれた女性。イスラエルでの家族。義理の母、父、祖父母、兄弟。そのほかにもたくさん。
 この平和な日本ではこの映画の主人公シュロモのような経験なぞ考えに及びもつかない。けれどこのような痛烈な経験は飢餓や戦乱の地では日常のこととして度重なってゆく。主人公シュロモの、何のために生きているのかという問いに、彼を親身に思っていてくれる、やはりエジプトから逃れてきている老人は「(若い)お前に尽くすために」と言ってのける(彼にも肉親との悲痛な別れがあり、その重荷を背負って生きている)。

 世の中というのは不思議だ。平穏な時代には正義だとか悪意、偏見、愛、勇気、憎しみなどという感情のかたちはさほどの重みで発揮されることがない。なのにこの映画のような世の中では、人々はなんと悪意、偏見に満ちている反面、やさしく、愛に満ち、強いことだろう。それらの感情の狭間で成長してゆく子供、青少年たちは、いかに多感なことだろう。そしてその人たちはいかに偉大なことだろう。

 この映画に込められた『思い』はあまりにも現実的で深く、そして強烈、感動的。人種とは何か、宗教とは、愛、正義、平和とは。そしてそれを守るには、命と引き換えにするほどの勇気が必要なのだとこの映画は教えてくれている。




548 Mop5/1年前記念集会
09/11/26

2010年生物多様性条約/カルタヘナ議定書締約国会議1年前記念集会
『遺伝子組み換え生物は生物多様性を脅かす』
09/10/24   名古屋
食と農から生物多様性を考える市民ネットワーク(略称:MOP5市民ネット)による、来年10月の生物多様性条約(COP10)の国際会議の1年前を記した集会がおこなわれました。

この記念集会に、ドイツからこの条約と議定書に対してNGOの立場として大きく影響力を及ぼす活動をしているクリスティーヌ・フォン・ヴァイツゼッカー女史を招き、基調講演としてこの国際会議とは、とりわけMOP5で議論されるカルタヘナ議定書について、現在焦点になっている問題とは何かなど、ごく基本ではあるけれども重要な問題についてお話していただきました。

また集会の後半には今回で4回目となる『GMナタネ自生調査全国報告集会』が行われました。

生物多様性条約/カルタヘナ議定書にはなにが求められているのか
生物多様性条約/カルタヘナ議定書では次の3つの重要項目が深くかかわっています。
1.予防(precaution):新技術の利用に際し、予防をするという姿勢がなければ危機を防ぐことができない
2.予防原則(precautionary principle):危険を及ぼす可能性のある新技術に対し、それを予防するための規制措置をとらなければならないという考え方
3.汚染者負担の原則(polluter-pays principle:PPP):汚染を起したものがその修復のために費用を負担する。この場合の『汚染者』とは広義な意味合いも含まれる

以上の3つのうち、どの項目の解釈が欠けても新技術について、そのリスクを防ぐことはできない。これらを基に生物の多様性に脅威となりうる遺伝子組み換え技術について、適切なリスク評価をし、対処する方法を定める必要性から1995年、ジャカルタ/マンデートで行われた第2回生物多様性条約締約国会議で作業部会が設置され、1999年コロンビア/カルタヘナでの会議で議定書の完成・採択を試みたがならず、翌2000年モントリオールでの会議で正式に採択された。

議定書とは、条約よりもさらに実効力、拘束力のあるもので、気候変動枠組条約には京都議定書、モントリオール議定書がそれぞれ会議が開催された地名にちなんで付けられた名前です。

『責任と修復(救済):Liability and Redress 』
2008年のドイツ/ボン会議COP9でのMOP4では、実際にカルタヘナ議定書を実際的に法的に拘束力を持たせるべきかどうかが論じられました。結論としては拘束力を持たせるものとするということになり、そのために2010年10月までに2回の作業部会をおこない、名古屋MOP5で決定することになっています(名古屋補足議定書となるかもしれない)。

カルタヘナ議定書は調印国が50に達した2003年に発効。日本の調印はその年の11月で準備期間の3ヵ月後の翌04年2月に日本について発効しました。このようにこの国際法はまだまだ生まれて間がなく、さらに今後科学技術が及ぼすかもしれない危機に対し、それを未然に防ぐ意味でも、カルタヘナ議定書の果たす役割は大きいのではないでしょうか。これは気候変動枠組条約の京都議定書についてもそうですが、議定書の果たすべき拘束力について非常に曖昧となっています。批准国が二酸化炭素などの削減のための目標値を達成できない場合、あるいはそれに違反する行為などがあった場合の罰則についてはまだ何一つ決定されていません。

2010年のMOP5で『責任と救済(修復)』について明文化された場合、それは国際的にはじめて拘束力を持つ法律の実現とも言え、大いに意義のある法律となります。しかし反面、現在までGM推進国である米国やカナダなどの批准については、今後ますますその可能性がうすくなるのかもしれません。

現在に至るまで、科学技術(工業)の革新にともない健康被害、自然環境の破壊など、多くの危険が生み出されてきました。アスベストによる健康被害や水俣病など、挙げたらきりがありません。

今や経済のみならず、農業も大きな力でグローバル化されようとしています。そしてその規模はさらに大きく拡大されようとしています。そんな中、ひとつ間違えば私たちの健康やそれを取り巻く自然環境が被るかもしれない危険は計り知れず、取り返しのつかないものとなりかねません。

企業が負担すべき修復のための責任は膨大となりかねず、対象は国家単位、地球規模の場合すらあります。これは科学技術が進めば進むほど起こりうることで、地球の温暖化、そして生物多様性の問題としてまさに危機はグローバルです。

科学がさらに発展するであろう21世紀になれば、あらゆる病気が克服され、平和がもたらされるだろうと、20世紀には誰もが夢見たのではないでしょうか。しかしながら相変わらず大国による世界支配の野望は止むところを知らず、それに対抗するテロリズムは後を絶ちません。経済のグローバル化の名の下に、さらなる貧富の差を広げています。そしてまさに、それでしか経済の至上主義は満たされることがないのです。

21世紀は『環境の世紀』だといわれたばかり。気候変動枠組条約と生物多様性条約のふたつが果たす役割は非常に重大であるし、それの骨格というべき、京都議定書とカルタヘナ議定書がいかに機能するかで人類の未来が決まるともいえます。来年10月のCOP10を意義ある通過点とするため、わたしたち民間の果たすべき役割は大きいのではないでしょうか。

遺伝子組み換えナタネの自生とMOP5
今回の記念集会には『GMナタネ自生調査全国報告集会』も併せて開催されました。今年も全国でGMナタネの自生調査が行われました。報告集会でとくに注目すべき点は、ほかのアブラナ科の雑草や作物との交雑による雑種が確認されるようになってきたこと。さらに検査キットによる簡易検査ではGM判定が陰性でも、PCR法などのDNA鑑定では実は陽性と判定される例が続出しているという新たな事実が指摘されました。

2004年、GMナタネの自生が農水省により発表されて5年以上が、そしてすでにGMナタネの日本への輸出が始まって13年が経過しました。そして現在、GMナタネの自生問題も新たな局面をむかえており、さらに予期せぬ方向へと複雑化しています。私たちの目の届かないところでこのような汚染が広がり、収拾のつかない状況へと向かっているのかもしれません。この問題をカルタヘナ議定書の『責任と修復』にあてはめたとき、どういった解釈が下されることとなるのでしょうか。その意味も含めて、来年10月までの準備期間に私たちNGOのなすべきことをひとつひとつ行ってゆく必要があるのではないでしょうか。
カルタヘナ議定書の成立のために議論を交わした多くの人たちの努力を熱く語るクリスティーヌ・フォン・ヴァイツゼッカー女史


549 捨て猫
09/12/09

 猫との縁が深いのか、引越しをする前の旧作業所(ここから約700mの距離)でもそうだったけれど、捨て猫との遭遇がやや多い。ここ15年の間に今回で4回目。そのうちの2回、計3匹は現在の里親である音羽の我が家に居候。

 その4度目、今回の場合。いつものように仕事をしていると、モンスーンの冬型季節風の風音にかき消されながら、なにやら子猫のものらしきかすかな鳴き声。それは作業所の真横を走り抜けている往来のはげしい県道の向こうの草むらのあたりで聞こえて来るらしいというスタッフ一同の意見。

 捨て猫を拾ってしまう場合、なぜか需要と供給という経済の基本とは大きく食いちがう流れというか、非常にまずい状況に陥ってしまったという感じ。要するに厄介者なのに、その愛らしさ故、とりあえず、何はともあれ、とにかく何とかしてやらなくてはという親心というか、はたまた博愛、慈悲の心からか、自らの正常な判断の付かぬまま、つい拾ってしまう。

 先回は新しい作業所の建設の最中、2匹の捨て猫の世話をしてしまったのが運の尽き。可哀そうだからというのですでに居る巨大猫のエサを与えてしまった。朝夕それをあてにやってくる2匹に、すでに「可愛ゆい」という意識が芽生えてしまったのがいけません。これはまずいことで、最悪、まあいいや、家で引き取っても・・という安易な選択肢を頭のどこかで用意してしまい、結局はそうなってしまった。お陰で使わせていただいている借家は、縁側のガラス、計28枚の障子、襖など、張り替えた数日後には現状復帰。すでに修復の気力も失せてしまった。要所の柱や建具など、爪研ぎでこれも修復不可。冬なぞ猫に引き戸を開けっ放しにされ寒くてたまらんというので、要所の戸には猫専用のカーテン付き出入口を建設。これも人間がノコギリで穴を開けてしまったので修復不可。

 話が中断してしまったけれど、今回の場合。第一次捕獲作戦には失敗したものの、どうやら物置の床下に居ついたらしく、餌付けには成功。その後、それは茶トラの混じった三毛と判明。ここで、これはもしや『オス』かもしれないという期待がよぎるのだった(三毛猫のオスは遺伝学的にあり得ず、突然変異での出生率は三毛のうちで1万分の1以下)。もしそうなら50や100万円でも、すぐにでも買い手がつくといわれるほど(子供の頃1匹だけ見たことがある)。まあその夢は第二次捕獲作戦の結果あっけなく失せてしまったけれど、今回、幸運にも早々里親決定(道長にも大根を納めてくださっている高柳さん)で目出度し。彼女、たった一夜ではあったものの我が家に一泊。思ったとおりとっても「可愛ゆい」。そして翌日、あっけなく里親参上で引き取られていってしまったのだった。

 数日後、高柳さんからEメールで子猫の写真が届いたのだった。名前は『りぼんちゃん』。早くも幼少の子等(まだ子猫に手が出せない)の相手をしてくれているとのこと。

 ペットを捨てるとはまったく恥ずべき行為。ゴミとはちがい『生命』。自分の責任の尻拭いを赤の他人に押し付けられたのではたまったものではありません。生物多様性条約だ気候変動枠組条約だ、コップだモップだといったって、この世に捨て猫が絶えない限り、そんな無責任な輩がいる限り、地球環境の行く末なぞ議論の余地もないのかもしれません。


550 炬燵(こたつ)と正月
10/01/05

 むかしぼくがまだ幼少だったころ、冬の暖房器具といえば炬燵(こたつ)と火鉢だった。炬燵といえば、ぼくが小学校のころ電機炬燵がデビュー。でも我が家では父親の苦心作、自家製掘炬燵が風靡(ふうび)席巻していた。

 朝早々、母は石油コンロで火起しした炭を掘炬燵の真中に固定した小型火鉢にセット。その炭火の遠赤外線効果による圧倒的な暖かさといったらなかった(実は電機炬燵が買えなかった)。それになんといっても足をリラックスできる腰掛スタイルがいい。我が家では同居の猫も家人とともに炬燵で暖を取る。でも猫の場合、とくに気をつけないといけません。密閉された炬燵の中では炭素の燃焼が完璧に行われるわけではなく、酸欠というか一酸化炭素中毒という症状に見舞われること必至。炬燵の中が熱すぎたのか、はたまた酸欠か、出てきた千鳥足の猫、朦朧(もうろう)のいまわの際からご生環。

 気をつけなければいけないのは猫ばかりでなく、人間もいっしょ。気持ちよく掘炬燵に潜り込むあまり、落ち込む形になるとこれまた危険。なにやら変な気分で汗ぐっしょり。頭痛と吐き気はやはり一酸化炭素中毒の症状。

 足元はあったかいけど腰から上も冷えてはならじと、やっぱり冬の暖房といえば火鉢が欠かせません。こちらにも母が起してくれた炭火がとろとろ。

 火鉢では間近で炭火と対面できるとあってさらに魅力満載。それにしても炎というのは、その傍らにいてそれを見ているだけで気持ちが落ち着くというもの。炭火の炎というのか、緩やかに燃える炭の奥のほうを見ていると、なんとなくあっちの世界に行ってしまいそうな、既視体験にでも陥ってしまいそうな妙な気持ちになってくるから不思議。気付いてみれば顔は火照りで(たぶん)真っ赤になってしまっていて、気分もちょっと朦朧。あぶないあぶない。

 火鉢の火で餅を焼く、するめを焼く、みかんを焼く、芋きりを焼く。ほかに思いつくものを何でも焼いてみる。炭火を見ながら焼いてみる。さっき食べた焼みかんの皮や紙切れも。そのうちボッと炎があがって前髪を焦がしてしまうこともあったけれど、これほど間近に炎を見る、さらに長い時間見つめることのできる場所もちょっとないかもしれません。みかんの汁で紙になにやら絵書いて乾かして、炭火にかざせばあらふしぎ。あぶり出し。
 猫も負けじと火鉢の縁に乗っかっていい気持ち。でもこれも気をつけないと滑らせた足を火鉢の中に突っ込んで大慌て「あっちー」。そうでなくても、火鉢の縁で暖をとるつもりが、火勢が強すぎたりするとその熱が地肌まで伝わってきたころにはなんと毛皮が焦げはじめてました。そのときの猫の慌て振りもちょっとなかった。 

 でも隙間だらけの安普請の家だから、密閉状態の炭火、酸欠、一酸化炭素中毒ということにはまずなりません。それほどの暖をもってしても、隙間風スースーには勝てなかった。

 ラジオからは新年恒例の初笑い東西寄席。炬燵の上には山積みみかん。餅もあるしするめだってある。元旦にもらった(ささやかだけど)お年玉だってある。クリスマスにサンタからもらった『世界一周ゲーム』をしようか、それともトランプで七並べ。お昼には焼き餅と山盛りの数の子、昆布巻、玉子焼。昼から風が吹いたら凧でも揚げようか。それともこのまま掘り炬燵でぬくぬくするのもいいな。今から50年くらい前のお正月。