551 崔 健
10/01/14
 いまから8年ほど前中国へ行った。その際、ぼくの数少ない土産物のなかには、ちゃっかりやっぱりCDがあった。最終日の上海でガイド役の方に、かっこいいロックバンドのCDはないかと訪ねたら(本人はあまり興味はなさそうだったけれど)2枚を選んでくれたのだった。中国語が読めないので、崔健というアーティストによる『一無所有』というCDだということしかわからなかったけれど、なんとなく期待させてくれるジャケットデザインだった。もう一枚は輪廻というバンド。

 家に帰ってきてから早速聴いてみた。それはいい加減なバンドなどではなくて、筋金入りのロックだった。特に崔健(ツイジェンと読む)。歌詞は付いてはいたものの、意味はさっぱりわからない。ただ冒頭の曲『一無所有』とは「何も無い」という意味らしい。そしてこの曲、かなり強烈なインパクトがあり、攻撃的なところがたまらなかった。しばらく聴きながら、中国ってこんなロックも許される国になってきたのかしらと感心もしたのだった。

 あとでわかったことだけれどこの崔健、中国でのロック創始者とまで呼ばれているらしい。彼は1961年、北京生まれで、北京交響楽団(歌舞団)のトランペット奏者として20歳から6年間在籍したことがあるとのこと。1986年、北京で行われた世界平和コンサートに出、『一無所有』を演奏して大反響を得たといわれている。ファーストアルバム『一無所有』の発売はさらに3年後の1989年。

 1989年といえば中国では6月に起こった歴史に残る天安門事件というのがある。あの偉大なる毛沢東が進めた文化大革命。古い中国の封建的な文化と米国的資本主義を批判し、新たな社会主義国家を創出しようというものだった。にもかかわらず、革命とはまったく皮肉。結局は人々の自由は奪われ、言論は抑圧されてしまうという状況に陥る。折りしも、この年11月にはベルリンの壁が崩壊し、世界は大きく変革してゆく。

 とにかくこの年、学生たちによるデモが弾圧されることとなった天安門事件の際、多くの若者たちによって圧倒的に歌われたのが『血染的風采』という革命戦士を讃える歌と崔健の『一無所有』であったとのこと。

 ぼくの買ったCDは中国製なので詞の意味はわからないけれど、どうやら恋した女性に「ぼくには何も無いけれど、自由と夢をあげる」と言うと、彼女はただあざ笑うだけ、というようなものらしい。言論が抑圧される中、この詞は権力に対する抵抗を意味する意志があったのかなかったのか。とにかくそのような状況の中、今までにありえなかった攻撃的な音楽は、不満を募らせた多くの若者たちの絶大な支持を得たことだろう。
 当然この曲とそれを作り演奏する崔健は当局にもマークされ、コンサート活動なども大きく制約された模様。だがしかし、出た釘は打たれるという諺があるけれど、出すぎた釘は打ち込まれにくいもの。今日に至るまで、若者たちのカリスマ的な存在であり続けている。欧州でのコンサートも数多い。

 ロック音楽とはなんだろう。世の中に、ロックっぽいポップな歌謡があふれている。でもロック音楽というのはちょっとちがう。ブルースが自由を求める切なる音楽だったのと同じで、世界の若者がどうしようもなくて発する抵抗と破壊のための平和的かつ非暴力的手段。『一無所有』は中国の若者にとって、抵抗の旗印なのだろう。



552 メートル換算器
10/02/11

 現在ここ旧音羽町の道長の作業所兼住宅に岡崎からぼくの母も引っ越して来、同居している。そのため岡崎にあった仏壇やなにか、もろもろの物も少しずつ、息子が仕事に通ってくるついでに運んでくる。

 そんな中、なんともなつかしい物が運ばれてきたのだった。それはぼくが小学校のころ使っていた勉強机。当時は西洋式の机腰掛といったスタイルは到底贅沢ということで、畳に直接座っての座卓式。引出しは天板の下にふたつだけの簡素なもの。この上にまともに乗ったらひとたまりもなくバリッといってしまいそうなきゃしゃな造りの割には、50年以上の永年を、しかも原型の造りを損なうことなく今日に至る。

 まずは空っぽ同然の引き出しの中身に興味集中。はっきり言ってどうでもいいようなガラクタ類。万年筆のインク切れ(母ちゑ子所有?)やちびた鉛筆、消しゴムなど。そんな中に『メートル換算器』なる物発見。円形の計算尺のような式で、台紙(基尺)の中心に一回り小型の小円形(小窓の空いた)の回転尺がハトメのようなもので取り付けられている。回転尺を回して目盛りをたとえば『1m』に合わせると、換算された数字『3尺3寸』が小窓に表示されるという仕組み。この『メートル換算器』、どうやら某電機メーカーの贈呈品の様で、『お部屋の大きさ』に対して推薦の照明器具の明るさを、たとえば『8帖』の部屋なら蛍光灯で『30w×2』電球なら『100w』という具合にやはり小窓に表示してくれるという優れもの。その裏を見るといろいろな条件、たとえば商店や工場、事務所、台所などで使うにはどんな色合いの蛍光灯が向くのかが一目でわかる円形の表が描かれている。なかなか気の利いたもの。どうやら蛍光灯が普及し始めたころの、販売促進用に配られたもののよう。この換算器を手元に置いて使ううち、時代遅れの白熱電灯から、我が家も蛍光灯に変えようかしらと思ったのかも知れません。

 蛍光灯といえば1960年後半ごろから一般の家庭でも使われるようになってきた白熱電球に代わる革命的な照明器。点が光るのではなくて線が光る。しかも明るい。さらに電気代が安いというので、その普及は速かった。ただし、点灯管という一瞬電気を通して蛍光管に放電を促すための回路のお陰で、蛍光灯が点るまでにしばらくの時間を要するという欠点がある。状況判断が遅い、合点までに時間がかかる人のことを『蛍光灯』と呼ぶきっかけともなりました。

 時はテレビジョンの出現、弾丸列車東海道新幹線開通、夢の東京オリンピックと日本経済の快進撃止まずの1960年代。

 そんな時代、ぼくも中学から高校へと進学。座卓式の勉強机は知らぬ間に家の隅のどこかに押しやられ、椅子に腰掛ける洋式に取って代わられてしまったのだった。姉の勉強部屋はせまい我が家の東側。ぼくは壁にしっかり西陽のあたる遠赤外線の効いた四畳の部屋。夏の夕方から夜半までの暑さといったらなく、うだるような暑さに夏は鉢巻タイプのアイスノン、締め切っても隙間風ヒューヒューの冬は電気炬燵に丹前という物々しい井出たち。勉学に勤しんだのかどうなのか、それは現在の姿をみれば推して知るべし、情けなし。


553 大 橋 屋
10/03/10

 名古屋に出る用事で最寄りの無人駅名電赤坂(めいでんあかさか)のホーム。旧音羽町赤坂の旅館『大橋屋』のご主人と出合った。大橋屋さんといえば、安藤広重の描いた東海道五十三次の江戸日本橋から数えて36番目の宿場として描かれていて、350年以上も代々続く由緒ある老舗。名古屋への車中同席。お陰で話がはずんだ。

 19代目の一洋氏はすでに70歳を過ぎ、さすがに体も言う事を効かなくなって来、名古屋へ用事で出れば3度に一度は帰りの電車で居眠り、乗り過ごしてしまうなぞと冗談まじりでおっしゃっていた。20代目も豊橋市で控えているとはいえ、今のところ大橋屋さんの継承に明るい材料がない。

貫禄のある由緒あるたたずまい

 永年代々の大橋屋さんだけれど、前を東西に伸びる旧東海道はかつての賑わいはすでになく、ここ赤坂宿も冬ともなれば北風小僧の御休処。ぼくはこの町に引っ越してきて15年ほどと昔の賑わいは知らないのだけれど、このあたりには40年ほど前には商店街もあり、スーパーだってあった。ご婦人たちは午後の昼下がりともなればここ赤坂に繰り出し、買い物だ、世間話と生活に必要な物や情報を仕入れるに躍起。おかげで界隈は店の呼び込みや人々の話し声でたいそうな活気に満ちていたことだろう。四季折々、商店には旬や季節の行事を当て込んだ品々が所狭しと並び、それを売らなければ今日一日が暮れてゆかないとばかり、売り声もひときわ高ぶるというもの。

 この街道、江戸よりさらに時代をさかのぼれば『鎌倉街道』とも重なっていて、古くからの日本の動脈といってもさしつかえない。それ以前にも、東西を結ぶ街道であったはずで、多くの旅人でごった返したにちがいない。

 千年近くの間そうであったとすれば、現在のこの変貌振りはどうだろう。一体誰が想像したことだろう。世の中が便利になり、乗り物ができ汽車電車、自動車となるにつれ、人と物の流れは鉄道だ国道、高速道と、大量かつ速い方に移る。買い物もそれに連れ、離れた大きな町へと。世間話もさらに情報量の多いテレビで済んでしまう。昔の商店街の人波はそのまま全天候型、けばけばしくも安売り大手スーパーの売り場に移ってしまった。

 これはまったく残念なことだけれど、長年受け継がれてきた、ここ赤坂宿の文化が消え去ろうとしている。大橋屋のような旅館もあったことだろう。食堂や菓子屋、文具に表具、寝具、刃物鍛冶、医者、床屋とその町並みで、日本の文化のすべてがまかなわれ、受け継がれていたのではないかしら。それを思うとさびしさが湧き上がる。

 戦後の復興と高度成長を進めるあまり、またそれとの引き換えに、日本人は歴史の中で着々と、脈々と受け継いできたものを何の検証もなしに淘汰してきてしまったのではないかしら。

 世の中がエコだ環境だ、生物の多様性だというのなら、本来の人間のあり方に進みたいのであれば、もう一度、あの賑わいのあった時代に立ち返るべきだと思う。千年、いやもっとむかしからあって、今、ここ数十年で途絶えようとしているものを、ここでなくしてしまっていいのだろうか。

 この3月いっぱいでまた一軒のうどんを食べさせてくれる食堂が赤坂の町並みから消える。この街道をこのまま放っておいたら、ぼくらは取り返しのつかないものをなくしてしまうような気がする。

 もう一度、あの賑やかさをとりもどせたらと思う。

53次36番目の赤坂宿は『大橋屋』がモデル


554 奥歯の詰め物
10/04/27

 歯間ブラシというのがあり、これを使うと歯ブラシでは届かない部分のクリーンアップが可能。なんといっても清潔第一、お口のエチケット。てなわけで今夜も歯間ブラシを愛用しているとなにやらポロリと変な感触。あら不思議、奥歯の詰め物(インレーと呼ぶ)があっけなく脱落してしまったのだった。とほほ。

 早速明朝歯医者で復旧作業の予約をお願いしないといけません。そういえばこの詰め物、1年ほど前にも外れて「今回だけはそのまんま」と再装着、現状復帰で事なきを得ていたのだった。でもまあ、たぶんそんなこと歯医者氏も忘れていることであろうから、今回も「今回だけは」てな具合でいけるだろう。とにかく、歯科に行くのもいやなら、通うのはもっといや。だから一回で済ませたい。てなわけでポロリの詰め物をティッシュで包んで小型プラ容器にいれ、大切に保管。明日に備えたのだった。

 明けて朝一番、歯医者さんに緊急の予約はめでたく11時に決まり。さて外れた詰め物は…と、「どこへ置いたかしら」。こんなとき、我が家の弱点。要るのか要らないのかわからない物でごった返した台所のテーブル、その後ろの卓上ステレオとCDの棚、テレビの台とひととおり探すものの見当たらない。そういえばあれからレコードを聴きにステレオの部屋へ行って炬燵に入ったのでした。そこにも…ない。そんなはずはないとあっちもこっちも探すもののあら不思議、どこにも見当たりません。

 こういう時には決まって我が奥方の登場。経験上、多くの場合奥方の起用でそれなりの結果につながることが多い。今回も大いに期待をするところ。この起用があたる理由としてはふたつか三つある。ひとつはそこらへんに置きっぱなしのものを、奥方が某所に片付けた(のだから当然見つかる)。もうひとつは『岡目八目』の理屈。仮にもうひとつあるとしたら『第六感』というか、特別に備わった能力(それはない)。

 ところがその奥方の登場をもってしても、あの小型プラ容器に入った奥歯の詰め物、さっぱりどこにも音沙汰もない。最近の奥方、どこかへ片付けたところまではいいけれど、その「どこへ」を忘れることが多い。かくして、とうとう制限時間の午前11時間近となってしまったのでした。仕方なく歯科。
 歯医者氏との対面で「外れたのをどこかへなくしちゃいましてね。いくら探しても・・・」。「よくあることでそれは残念」ときっぱり歯医者氏。奥歯の詰め物にお金を出して新調しても楽しくもなく、うーん。「次回で入ります」と土曜日の午前に予約で一安心はしたものの、なんとなく「やられた」という感は否めない。

 あらゆる技術が革新されるなか、接着の技術も。にもかかわらず、歯科ではせっかくくっつけたものをいずれ治療で外さなくてはならず、ぜったいに外れない詰め物なぞありえない。にもかかわらず外れてほしくない。これは未来永劫、歯科医に課せられた大いなる課題であり、また歯科医が抱え続ける大いなる矛盾でもある。また外れてくれなくては商売にならないという、これまたごくデリケートな部分でもあり続けるのだろう。

 その後不思議なことに、未だあのプラ容器は見つかっていない。


ちょうどこんな形。どなたかご存知ないですか


555 小 松 菜
10/06/12

古来より多くの作物が中国から伝来しました。そのなかで、とくに交配のしやすいアブラナ科の菜類は品種改良がすすみました。ごく一般的な小松菜も『くくたち』というカブの一種を品種改良するうち、野沢菜や青梗菜などとともに作られたといわれています。

江戸時代初期の綱吉将軍の頃、現在の江戸川区小松川地区を訪れた将軍が調理されたこの菜(当時『葛西菜』と呼ばれていた)を気に入り、その地にちなんで『小松菜』と名付けたという話があるそうです。
またこんな逸話もあるそうです
当時江戸川を『葛西船』という長さが約8.5m、幅2m強の船が上流と下流を往来していた。下りへは上流でできた農産物が運ばれ、上りでは生活物資など、ともうひとつ重要な物資が運ばれた。それは野菜作りに必要な肥料、つまりし尿『下肥』。で、それが『くさい』ため『葛西菜』=『くさい菜』というゴロを連想させてしまうということで、当地『小松川』から『小松菜』となったとも言われています。

『下肥』の流通
江戸時代初期、江戸市民のし尿は川や堀に捨てられていましたが環境の悪化を配慮し、その後禁止となり、トイレ掃除と引き換えに農村に無償で引き取られるようになった。

18世紀になり、専門の業者が現れるようになり、さらに葛西船による流通がなされるようになると今度はし尿自体が売買されるようになりました。その後、その価格がつり上がるようになり、今度は農村からし尿の価格引下げの嘆願がしばしばおこなわれ、江戸末期まで繰り返されたといわれています。

こうした農産物と肥料という、江戸川などの大河の上・下流域の循環システムは明治・大正、さらには昭和20年ころまで続きました。その後のシステムは上下水の完備とともに消えることになります。消費エネルギーの大部分を輸入にたよる現代社会にとって、地域循環型社会の模範ともいえる江戸時代の理念に、その多くを学ぶべきではないでしょうか。

下肥運搬用『葛西船』模型
(葛飾区郷土と天文の博物館)


556 文七元結(もっとい)
10/07/11

 左官屋の長兵衛は、どうしようもないほどのばくち好き。このばくち好きというのは、不思議なことに今も昔も金持ちということを聞いたことがまずありません。この長兵衛も例に漏れることなく、借金を方々へ作ってしまいどうにもならない。しまいには、職人の命とも言うべき道具箱も取られてしまい、仕事もできない始末。

 ある暮れの日、その日もばくちに負けてみぐるみもはがされてしまい、半纏一枚で賭場から長兵衛が帰ると、妻のお兼が泣いている。話を聞いてみると娘のお久が出て行ったきり、帰ってこないとのこと。お久はどこへ行ったのかと夫婦喧嘩をしていると、世話になっている吉原の女郎屋から来客。そのお久がうちに来ているから長兵衛に来て欲しいという。

 お久、なぜこんなところに。おっかぁが心配している。早く帰ろう。と長兵衛が言うと、女郎屋の女将が長兵衛にお久が来たときのことを話す。お久は「借金がたまりにたまり、もううちは年を越せません。このままでは一家で路頭に迷ってしまいます。若い娘は高く買っていただけると聞きました。私を買って下さい。」と言ったのだという。女将は長兵衛に、いくらあれば年を越せるのかと聞き、50両もの大金を出し「これを盆までに返せ。それまでお久には雑用ばかりをやらせておくから。しかし、盆を過ぎれば客に出す。それを忘れず改心するんだよ。」そう言って長兵衛を送り出す。

 お久にこれほどの思いをさせてしまうとは、さすがに改心した長兵衛。しかし、この帰り道に登場するのが、文七という男である。文七はある大店の奉公人なのだが、この日お得意様に集金に行った帰りスリにあってしまい、50両とられてしまう。こうなってしまっては主人に会わす顔がないと橋から飛び降りようとしている、そこへ長兵衛が通りかかってしまうのである。とにかく死ぬな、死んでしまってもお金は戻ってこないのだからと長兵衛が説得をするのだが、どうあっても死ぬという。長兵衛は迷う。お久が身を売って作ってくれたお金。しかし、お久は金を返さなくても死ぬことはない、この男は金がなくては死ぬ。断腸の思いで文七に金を押し付け逃げるようにその場を立ち去る長兵衛であった。

 その後、文七がなくしたお金はただ忘れてきただけだとわかり、文七は主人と長兵衛を訪ねてきます。文七の主人は、こんなに気持ちがいい人には会ったことがない、うちと親類の付き合いをしてほしい、文七を息子にしてやってくれ。とどんどん良い方向へと話は進んでいきます。お久も大店の主人が身請けをしてくれ、万事一件落着。

 ぼくは、この落語を聞いている最中、涙がとまりませんでした。長兵衛もお久も、女郎屋の女将、文七、文七の主人。この全員が人情にあふれているではありませんか。その場にいて自分がこんなことができるであろうか、と考えてみると情けなくてまた泣けてきてしまいます。

「情けは人のためならず」なんて良く聞く言葉。いつか自分もそんな人間になれたらなぁ。

一本ずつを髪を結うときに使う

daisuke


557 五 十 肩
10/07/11

 いろんな疲労がたたったのか、今までに経験のない激痛が右肩を襲ったのだった。どんな動作がきっかけだったかはわかりません。野球選手なら『引退?』と、進退にかかわることを考えなければならないのかもしれないけれど、いい加減かつぐうたらな一生を送っているわが身においてはただ「どうしよう」。こんなことで釣り竿が持てるのかしらんとか、仕事になるのかしらとか、ただあせるばかり。

 さてその夜、床についてみても痛く眠れず、我慢できず。空きっ腹に鎮痛剤。翌朝食後に胃散と鎮痛剤。自動車の運転は自動変速装置のおかげで『可』なのだけれど、右手が方向指示器のレバーの高さまで上がりません。これではいけないと、そのまた翌朝いちばん、地元の治療院に予約を取ったのだった。

 その治療院氏、音羽商工会の監査役ということもあり、一度は訪問をと思ってはいたものの、まさかこんな形での面会となってしまうとは・・・。

 実はこのぼく、ハリ、整体、マッサージなどの類には非常になじみが良く(でもけっして好きなわけではありません)、今までは実家のある岡崎の治療院が『駆込寺』だった。生まれてこのかた半世紀、骨折(これはほねつぎ)、捻挫、ぎっくり腰、腱鞘炎、四十肩など、そのことごとくを東洋の技の治療院で見事克服。今回、なじみの治療院から離れるについてはいささかの不安はあったものの、近い、商工会の会員さんという条件で即断即決。

 いざ施術でその感想はというと・・・「これはいける!」かも。とにかく刺す(針を)、もむ、電気と地獄という責め苦の1時間で身も心もへとへとなのだった。その日は一日三角巾(急ごしらえの風呂敷製)で右腕を吊り下げるというなんとも無様な格好。「なんとかしてくれーい」。その夜もやっぱり鎮痛剤で眠りに就いた。とほほ。

 この世には奇跡というものがあることを知ったのだった。翌朝の目覚め。なんとありえないことが起こっていたのだった。痛くない。なんと腕が・・・高く上がっちゃうではないか。驚き、信じられない、あら不思議。感謝感激雨あられ。東西南北、半信半疑、喜怒哀楽、神社仏閣。通常、この手の症例(五十肩)は完治に100日やそこらかかっても仕方ありません。

 とにかく、治療院師いわく、「1回で治ってしまう人が稀にいます」とのこと。その稀が今回のぼくなわけで、炎症を起している部分の痛みがとれるだけでも時間がかかるはずなのに。おそらく、緊張のあまりの腱の痛みと多少のダメージですんでいたのかも。

 この手の症例に慣れ親しんでいるぼくの経験から。やってしまったら放っておかず、とにかく間をおかず、まずは東洋の技の治療院に相談しましょう。そこで「手の打ちようがない」という診断を受けてのち、医療機関のお世話になるというのがよかろうというもの。ぼくの場合、ことごとく東洋の技のおかげで今日に至る。

 対症療法というか、痛ければ鎮痛剤、それでもだめなら手術という方法では、症状の根本的な解決にはつながりません。それがすべてとは言わないけれど、やってしまったら、まずはお近くの治療院へどうぞ。


558  喫 煙 車
10/08/03

 世の中に愛煙家というのがいるけれど(ぼくもかつて)、昨今はそうとう肩身のせまい存在となってはいる。けれどその最低限?の身分というか人権確保のため、せめて喫煙を許す場所が用意されている。新幹線では喫煙車、公共の場では喫煙所、喫煙席、喫煙室、家庭ではベランダなどがあてがわれている。ぼくの住んでいる地域の豊川市役所の音羽支所には喫煙室は無理なようで、その代わりに裏口を出た一角に灰皿が用意されている。愛煙家諸氏が二人三人、雨の日も風の日も、春夏秋冬。せっかくの喫煙タイムなのにだれかがその横を通り過ぎるたび、諸氏は決まって談笑をやめ、なんとなくもきまり悪そうな面持ちであっちそっちに視線をそらせ無言の一刹那。そんな場面にこちらも「そこまでしなくても」と思っちゃう。

 一度だけ間違って新幹線の喫煙車両に乗り込んでしまったことがある。客室に入って「しまった!」と思ったがすでに遅かった。とはいえ、ちょうど夕刻の混み合う時間帯で、いまさら禁煙車両に移っては座れるはずもなく、「まあいいか」となんとか座席確保。なるほど喫煙車両は独特の臭気。まるでむせかえるよう。

 他の所では散々禁煙を強いられているからかどうなのか、この喫煙車に集まる愛煙家というのは「ここぞ」とばかり、その全員がタバコに火をつける。愛煙家としての閉鎖感、閉塞というか差別、束縛から一気に開放、出エジプト、人間性回復。ここでは同郷の好、類は友を呼ぶ、旅は道連れ世は情け、同じ穴のむじな、『愛煙家』という共通点こそが強い絆となっているのか愛煙家諸氏、無言でただ吸い続ける。タバコの火が途絶えたかと思うと次の一本に点火。まるで常夜灯の灯を切らしてはならじとでも言いたげ。喫煙車に乗るから吸うのか、吸うから喫煙車に乗るのか。まあどうでもいいけれど、それにしてもよくもまあこれだけ吸うもんだと感服。この車両の端から端までを地球の水平線にたとえたら、濃霧か黄砂、光化学スモッグ、まさに暗中模索、五里夢中。
 ぼくのとなりにはちょっと年のいったOL風の女性が座席確保。大胆に足を組んだかと思うとやっぱり点火。ここで一気に開放モードにスイッチが入ってしまったのか、その吸いっぷりもけっこう大胆。えてして女性が喫煙する場合、その吸い方にはけっこうな『粋さ』が要求される(傍で見ていて、そうでなくては困る)。だがしかし、夜の喫煙車両ではそんなことどうでもよく、タバコの煙を深く吸い込みそして排気するの深呼吸のくり返し。ぼくは別に横目で見てるわけでもないのだけれど、確かに彼女の2個の鼻の穴からは元気よくタバコの煙が二本、スカーッ、スカーと排出されているのだった。こんな姿、喫煙車だからさらけることができるのだろうけれど、会社や知り合い、はたまた家庭に帰って家人の前でもちょっとはばかる。どうせもうじき中年だし、今さらかわいらしくとか粋に振舞ってもしょうがない。おそらくは気候変動枠組み条約、京都議定書ではこのような公然での温室効果ガスと煤煙の大量排出は断固許されざる行為。

 それにしてもこんな密閉された空間での燻煙、いや燻蒸処理車に間違って乗り合わせた嫌煙家のぼくには耐え難く、その日からしばらくはいぶしたような臭気から逃れることができなかったのだった。


559 豊かさ
10/10/07

 辞書によれば『豊か』とは、@満ち足りて不足のないさま、十分なさま。A経済的に恵まれていて、ゆとりのあるさま。B心や態度に余裕があって、落ち着いているさま(以上 goo辞典)とある。「戦後、日本は成長を遂げ、日本人は豊かさを手に入れた」「豊かさにあふれる瀬戸内の海」「豊かな黒髪」など。

 豊かとはいいもので、不足は一般に嫌われる。道長もなかなか縁が切れないけれど、やっぱり貧乏はよくない。夫婦仲は険悪になるし、マイナスなこと、良からぬことを考えるようになり、結果として人相や日常の態度にもあらわれるようになる。

 かといって豊かさも度が過ぎてもいけません。『豊満』という言葉があるけれど、これはある意味『臨界』いや『限界』とも言っていい気がする。「豊満な肉体」などと言えば聞こえはいいけれど、その状態でおやつなど食べ続けると「肥満な肉体」ということになってしまいます。

 一方、「豊かな自然・海・森」などという場合、これはちょっとちがってるような気がする。「豊かな自然」なぞはそのまま放っておいても豊かだし、その均衡というのは保たれる。熱帯雨林やツンドラ地帯など、人跡未踏の原生林では太古の昔から大きな変化はなく現代に至っている。

 日本人にとって『自然』とはそんな手付かずの状態とはちょっとちがっているような気がする。日本人が思い浮かべる自然の風景には山があり、川が流れ、田畑があり、人が住む…。春夏秋冬、自然はその表情を変え、折々の『雪月花』に日本人は『趣』を感じ、愛(め)で、生を実感する。

 そんな日本のこじんまりとした自然とはどんなものかしら。これもやっぱり『豊かな』という言葉をつけることができると思う。でもしかし、そんな自然観とは裏腹に、今、日本の自然は荒廃の一途をたどってしまっている。経済が発達し、人は山里を離れ、田畑が放棄され…。有史以前から、日本人は稲を作るため厳しい自然とせめぎ合ううち、なんとかして自然と折り合いをつけてきた。山に入り、間伐をし、薪を切り出し、里を拓き、田畑を耕し生活の糧を得、豊かな自然を守ってきたといってもいいと思う。
 俗に言う『豊かさ』とはおそらく、放っておいて保たれる場合とちがって、人が努力(?)して得ようとする幸福というか平安、富のようなものと考えていいと思う。

 日本の自然もそうだと思うけれど、『豊かな自然』のために開発のしすぎもいけないし、耕作放棄や放置山林なども同じこと。いったん手の入った自然ではその状態を保つため、保全をするしかない。ただし『しすぎ』の手前に保つことが肝要。要するに『八分目』あたりがいいのかもしれません。

 食べることの好きなぼくは、どうしても腹一杯食べてしまいます。いけないけない。人間にとって『豊かさ』とは、要するに『八分目』が宜しかろう。


560 COPとMOP
10/10/30


生物多様性条約の国際会議が名古屋で行われています。その前哨戦ともいえるMOP5(カルタヘナ議定書第5回締約国会議)は一応の決着をし、大きな成果を残しました。

MOP5での懸案はなんといっても『責任と修復』問題。GMO(遺伝子組み換え生物)などが国際間を(貿易などで)移動する際に起こるGM汚染などのリスクに対し、その責任と修復(弁償や補償)をだれが負うのかを判定するための国際法を条文化することでした。

GM作物などの開発会社やその輸出国を訴えの対象にできることで、農作物の輸入を余儀なくされている国々にとって『泣き寝入り』することなく、相手を告訴することができることになるわけです。

この条文を『名古屋・クアラルンプール補足議定書』(この補足議定書の議論が始まったのが6年前のクアラルンプールだったため)という呼び名で採択されました。この議定書に批准する国が40ヶ国に達してから90日後、その効力が発効します。そのためには各国がその国内法の改正を済ませて後ということですから、実際には4年くらい先になるだろうといわれています。

『責任と修復』の例/三重県では
こんなニュースが報道されていました。三重県の談。菜花の里三重県ではその栽培が盛んで、日本一の生産力を誇っている。今までは農家が栽培する菜花の種子は、県内で採取していた。しかし最近三重県の幹線道路沿いで遺伝子組み換えナタネの自生が目立つようになってきた。そのため交雑による種子のGM汚染が心配となり、その遺伝子検査をやむなくされた。種子採取には苦慮している。

当然のことですがこの場合、三重県としては何らかの損害を被っているわけで、『責任と修復』問題にあてはまります。

カナダの農家シュマイザーさんの例
パーシー・シュマイザーさんといえば、自らの畑に除草剤耐性GMナタネが見つかったというだけで、あのモンサントに特許侵害で訴えられ、98年から6年間も裁判で戦い、とうとう04年に最高裁にまでもちこされました。

なお、この最高裁での判決では、シュマイザーさんがモンサント社が特許を持つ除草剤ラウンドアップ耐性GMナタネ(RRナタネ)を意図なくして栽培したことが『特許侵害』にあたるという裁定が下され、モンサント勝訴ということになってしまいました。日本での常識では考えられない判決です。

シュマイザーさんはGMナタネを栽培したこと(実際は彼の畑は汚染された)で何の利益も得ておらず、むしろ被害をこうむっているのです。

結局、シュマイザーさんはモンサント社の訴訟費用については支払う必要はなくなったものの、累積した自らの公判費用の2千数百万について自己負担ということになってしまいました。

その続報
ただし、その後シュマイザーさんは反対にモンサント社を告訴。彼の畑に自生しているRRナタネの撤去を求めたのです。そして08年勝訴し、そのための費用をモンサント社に支払わせることができたのです。

これこそは大きな勝利であり、MOP5が求めている『責任と修復』をそのまま法的に判断し履行させた最初の例かもしれません。

もうひとつの会議の焦点
ABS(利用と利益配分:Access and Benefit sharing)

今回の条約会議ではもうひとつ大きな議題が掲げられました。それがABSで略される『利用と利益配分』問題。これは生物(遺伝)資源の豊富な南半球からそれを収奪し、利用し、儲けてしまおうとする北半球の先進国との関係から『南北問題』とも呼ばれています。この問題はさかのぼれば奴隷時代の人身拉致の問題にまで発展します。

西欧諸国が生物資源の豊富な国々から医薬品などの特別な成分を得るために貴重な生物を持ち出しながら、相応の代償を支払うことをせず、しいては深刻な環境破壊にもつながりかねない。生物資源を持ち出される側の国々はたまったものではない。そのためのきまりが必要だというのでCOP10で議論されました。

COP10が始まってみると結局は大きな焦点はMOP5で論じられた遺伝子組み換え生物(GMO)『責任と修復』と『利用と利益配分』のふたつに集約されています。

生物多様性条約とは何か
その前にもうひとつのCOP、つまり『気候変動枠組み条約』について考えてみます。この条約の目指すものは地球の自然のうちの大気の保全についてですが、そこでは特にCO2などの温室効果ガスをたれ流している国に対する規制を目指しています。それを条文化し、批准した国々が守るべきことを国際的に法制化しようとするのが『京都議定書』です。

一方、地球環境の保全のためのもうひとつの条約が『生物多様性条約』です。そこでは特に国際的に守られるべきこととして、遺伝資源の取り扱いをどのようにすべきかを『カルタヘナ議定書』で決めようとしています。

ここまで考えるとなんだかわかったような気がします。つまりこれら二つの条約は、利己的な国々の私欲から環境や自分の国を守るのが大きな目的であるということ。そこには大きな利害が含まれる。今回の名古屋での条約会議で問題になっている『責任と修復』の矛先がどこに向けられているのかを考えてもわかることです。

今、世界は武力による戦争のほかに、『経済戦争』ともいうべき熾烈な戦いが繰り返されています。そこには世界の食と農を独占してしまおうとさえする『農業戦争』まで。

日本の立場とは
太平洋戦争以後、日本はひたすらアメリカの資本を受け入れることで歩んできました。そこでは工業製品を売ることの見返りに穀物などの農産物を自由化し、輸入するというもの。結果として国内の農業は衰退の一途をたどり、現在40%そこそこの食料自給率しかありません。

二年前のドイツ・ボンでのCOP会議から名古屋での会議の間に、フレンズ会議とばれる予備的な会議が何度も昼夜を徹して行われてきました。要するにこれら二つの条約会議は『食うか食われるか』の瀬戸際で行われている戦いなのです。
これらの会議には張本人のアメリカは不在ですが、議論の矛先は間違いなくアメリカを始めとした巨大資本を傘にする大国に向けられていることがわかります。

一見自然環境の保全のための条約会議のように見えますが、ふたを開けてみれば『利害』が渦巻く国際論争の様相を呈しているのです。こんな状況で果たして環境問題が本当に解決の方向に向くのでしょうか。

私たちは何を守るべきか
そんな中、私たちが本当に守るべきものとはなにか。人類は今、何をするべきかを理解し、これらの条約会議に対して明確な意思表示をしてゆくべきです。食と農はその中でもっとも重要な意義を持つ、人類にとっての環境問題ではないでしょうか。