621 タクシー運転手
20/08/17
韓国映画『タクシー運転手』を観た。
1980年5月、軍部によるクーデターが勃発、当時の大統領金大中を逮捕。それに対し、韓国全羅南道光州市で民主化を要求する市民が蜂起。しかし、軍部による激しい暴行弾圧にあい、多くの死傷者が出たとされる『光州事件』がテーマ。

あるタクシー運転手(配役:ソン・ガンホ)、その契約料金の魅力に、ソウルから200km以上南の全羅南道光州市へひとりのドイツ人記者(ユルゲン・ヒンツペーター)のお供をすることになる。

おりしも光州市では、厳しい報道管制のもと、軍部による戒厳令の真最中だった。各所で道路封鎖される中、辛くも検問を通過し、なんとか光州市に入るものの、そこで起こっている実際の報道とは裏腹の惨事を目の当たりにするのだった。

光州市民や学生、労働者などの献身的な協力の中、ますます激化する軍部の弾圧をかわし、ドイツ人記者を載せたタクシーは光州市を脱出。辛くもヒンツペーターをソウル空港、日本へ脱出させたのだった。途中、手に汗握るシリアスなシーン、コミカルなシーンなど盛りだくさんな映画。

ただし、事実に基づいたとはいえ、ネットから得られる情報はいろいろだったりする。そのタクシー運転手は外国人記者の送迎をするプロで語学もできた。民主化運動の活動家だった?などなど、今となっても明確にならない事柄が多いようだ。その事実のはるか向こうには明かすことの出来ない、政治的な背景もあるからとも思える。

とにかく、当時の光州市の様子は今に語り継がれていて、そこで果たしたタクシーやバスの役割は、軍部との衝突の際のケガ人の搬送などを含め、献身的で、かつ壮絶であったとも語り継がれている。

暗くなりがちな光州事件なのだけれど、ソン・ガンホという韓国の名優の配役も相まって、人間味あふれるドラマとなっている。光州事件を韓国の現代史の中で、ちゃんと認識しようとする韓国人の気持ちのようなものも反映されているような気がする。

1970後半から80年代初頭、世界で民主化のあらしが吹きまくった。ドイツでは東西の壁崩壊。ソビエト崩壊。南北ベトナム統一、そして韓国光州事件、中国天安門事件など挙げれば切がない。

その中で、どれだけの犠牲が強いられたのか、どんな政治的駆引きがあったのかなど、時が経過し、冷静な判断も出来るのかもしれないし、闇に埋もれる事実も数多あるのかもしれない。

今はインターネットなどという、ひとりでに出来事が流布してしまう仕組みが構築されてしまっている。けれど、にもかかわらず、世の中の本当の部分は以外にも闇の中に隠されたままで明かされることがない。

戦後75年、その記憶も次第に薄れつつある。その事実を語り継ぐことが難しくなりつつある。そんな現実のなかで、一体なにが必要なのだろうか。ほんとうに語り継がなくてはならない平和教育とは何なのだろう。国がしてくれるのだろうか。かえって危ない気もする。

今、わたしたち一人ひとりが平和の意味を認識し、自分の住む地域、子孫に示してゆくという、個人個人に託された権利義務を果たすべく、昼夜しなくてはならないと思う。

主演の運転手役ソン・ガンホ


622 しらびそ高原の悲劇
20/09/23

絶景を誇る、日本のチロルと呼ばれる『下栗の里』のある長野県飯田市しらびそ高原。中部地方の坂バカ(自転車で山岳地帯を走るのが好きな人)が、いちどは訪れてみたいところ。

5月のある日、期待に胸膨らませ、ぼくら4人のチャリ友と各自の愛車を載せたライトバンは一路、現地に向かったのだった。そこで見舞われる災禍を知る由もなく・・。

ライトバンはあらかじめ許可をいただいた駐車場に止め、上村地区の国道152号上村橋付近からまずは下栗の里へ。ここまでは平均勾配7.6%と若干きつめの登りなのだけれど、最後の850mはつづら織の激坂になっていて、平均勾配12%と過酷。
これでもかで到着した下栗の里(標高960m)からの眺めはまさに絶景。と、まあこの辺りまでは順調に駒がすすんだかのように見えた。

が、そこからすこし登って昼食スポット『ロッジ下栗』のはずがなんとコロナの影響で全館閉店。空腹とともに先行き不安がよぎる・・。

その先は南アルプスエコーライン(名前だけはカッコイイ林道)を御池山噴石クレーターを過ぎ、南アルプスが一望できる(はずの)しらびそ高原天の川(標高1918m)までの14.8kmの上り坂で平均勾配6.8%の山腹伝いの若干ゆるめの坂。本来なら、その行程で絶景を楽しめる予定ではあったのだけれど。

だがしかし、御池山のクレーター付近に差し掛かったころ、天気はにわかに怪しくなってきた。雷雲があたりを被い、とうとう雨が降り出す。雨具を車においてきてしまった。寒い。ここはなんとかしらびそ高原のロッジ天の川までがんばろう。で、到着のころには雨は本降りとなっていた。

ここでとうとう止めの一撃。なんとここ天の川も完全閉館中。あったか〜い飲み物を提供してくれるはずの自販機すら停止。凍えるからだを軒下で雨宿りするも、この先、急な下り坂を自転車で22km以上走るのは大きな危険がともなう。この場から動けない。気温は12℃を下回り、正直、身の危険を感じてしまうのだった。

そうこうしているうち、愛知県からの日帰りドライブの夫婦連れの車到来。頭を平にお願いし、無理を言い、ぼくだけ下の駐車場まで送っていただき、そこから3人の残る『天の川』へライトバンで急行したのだった。「無事に帰れてよかった」とつくづく安堵のぼくたちだった。地獄に仏。愛知県のご夫婦「ありがとうございました」。

まったく、山の天気はあなどれない。今回の経験がぼくらに授けた教訓は、かなり強烈に身にしみたのだった。

コロナ禍のおかげで、世の中がおかしい。そんなことわかって行楽しなければいけないはずではあったのに、しらびそ高原から「来るな!」と拒まれた挙句、お仕置きまで。

歴史にのこるペストやコレラによる災禍を思えば、危険性を極力避ける意味での移動自粛、受入拒否は仕方ないのかもしれない。まったく、情けなくも悲しささえ感じてしまった日帰りサイクリングなのだった。
このときは上天気だったのに・・・


623 きっかけ
21/09/17

 どんな職業でも、企業でも、商売でも、初めがあり、きっかけがある。ぼくにも。

 あのころ、世間が変わり始めてきていた。1977年、2年強務めた会社員をやめ、姉夫婦の経営する愛知県岡崎の小さなスーパー(数軒の商店の共同店舗)を手伝って4年ほどが過ぎていた。そのスーパーは「コンビニエンス・ダイイチ」という名前だった。まだ、コンビニエンスストアというものが、あまり馴染みでないころだったため、岡崎の片田舎ではけっこう話題の店だった。なにしろ、朝10時開店、夜10時半閉店というのだからすごい。

 その頃、1980年春、名古屋で初めて、コンビニエンスストア「サークルK」が開店したというので、みんなで様子を見に行った。早朝から夜中まで店を開いていて、当座必要なものならなんでも買える便利な店、というのが評判だった。生鮮品もまともに扱わないこんな店、どうせ長続きするはずがない。こんなの競争相手にもならないし心配御無用というのが一同の感想だった(だがしかし、以後、コンビニは日本中津々浦々に増えていった)。

 だがしかし、本当の敵はコンビニなどではなく、大手出店の大規模店舗ショッピングセンターだった。関西系のユニー、地元名古屋のヤマナカなど、続々と「ダイイチ」の近くを攻めてくる。まだ、大規模小売店舗法なる法律があったおかげで、少しは歯止めにはなったものの、結局はすれすれの規模、営業時間で出店され、ぼくらの店はそのあおりを食らい、じわじわと客足を奪われてゆくのだった。

 その頃のぼくの一日はというと、朝8時ころまでに、塩乾物の卸問屋へ行き、名古屋から届くトラック満載の加工食品や乾物を物色し、開店前に店に帰り、仕入れてきた商品を冷蔵ショーケースに並べる。当時はまだ、バーコードを使うPOSレジがなかったため、商品一個一個にハンドラベラ―で値札を貼りつけながらの冷蔵ショーケースへの陳列。バックヤードでは塩鮭を切ったり、魚の干物をパック詰め。その仕事にひと段落をつけ、今度は商品棚で切れかけているインスタントラーメンや缶詰、調味料などの商品に値札を打って補充。そしてさらには(これが今のぼくの仕事の原点なのだけれど)、白菜漬やぬか漬までもぼくが漬けては店で売っていた。食品問屋の営業の相手や新聞の折り込みチラシの商品選び、店内広告の筆書き・・。
 そしてさらに、夜の勤務もあるのだった。夜の学生アルバイトの世話も。当然、閉店近くまで働いてもらうため、晩御飯を支度してやらなくてはいけない。売れ残りそうなギョーザ、アジの開きなど、手っ取り早く調理して食べさせる。

 そんなこんなで夜も更け、明日仕入れなくてはならない商品を問屋に注文し、やっとのことで一日が終わるのだった。なんと12時間以上の勤務時間。

 まもなくして、小規模の寄合いスーパーは先の見込みの立たない、きびしい時勢への片道切符となってゆくのだった。時に、1980年秋、「この世界に残ってはいけない」と、無謀にも漬物屋になることを決意。以後、今日に至るまでの波乱に満ちた40年余りへと突入してゆくのだった。この「つづき」は又の機会に・・。
漬物屋を始めたころ



624 成 味 屋 (623のつづき)
21/09/21

 無謀にも、約4年お世話になった姉夫婦の『コンビニエンス・ダイイチ』を辞めてしまい、漬物屋を始めようと息巻いたまでは良かったのだけれど。

 漬物屋を始めるにあたって、揃えなくてはいけない物や事があった。それには先立つものが要るというのが世の習いというもの。短かったけれど、会社員の時期とダイイチでの勤務で、多少のたくわえがあったものの、それも大したことはなかった。すでに三人目の子供が生まれていたため(その後、また一人増える)、生活のひっ迫がすぐ目の前に予測される。

 なけなしのたくわえで、とりあえず必要な物、事を支度する。場所、水場、冷蔵庫、自動車など、いざ揃えるとなると大変だった。駄目とわかったらいつでも辞められるように、とりあえず的な、にわか作りの設備が精一杯だったのかもしれない。屋号は今の道長ではなく『成味屋』だった。

 まず場所。今まで借りていた屋根付のガレージを貸主にたのんで、にわか作業所に改装。トタン屋根の、二台分のスペースのそこに、隣との間仕切りをトタン板で張り、シャッターを取り付けた。さらに、水道を引き込み、水場を作り、電気も引き、ちょっと大きめの家庭用冷蔵庫を置いてできあがりというもの。

 そこまでできたのはいいけれど、これから先どうするということになる。製造したものは販売しなければいけない。とりあえず、引き売り(移動販売)を思いつく。当時、牛乳の移動販売が盛んだった。そこそこ以上の規模の団地へ移動販売車で赴き、音楽を合図にお客を呼び寄せ、牛乳だけでなく、日常になじみ深い食品も合わせて販売するというもの。

 わが成味屋も、中古のマツダボンゴバンを緑色に塗り、カーステレオに拡声機をつなぎ、カセットテープに録音した「ドラえもん」の主題歌、レジスターも取り付けた。

 たまたま、知合いの干物屋氏のお世話で、名古屋市近郊の知立市にある知立団地の集会所での週一回の販売をさせてもらうことができた。自家製の漬物だけでは種類が足りないので、塩乾物問屋で仕入れた漬物も販売した。そして、結構売れた。

 これに味を占め、三河地方の団地やその集会所を日替わりでめぐることになるのだった。団地の集会所に着いて荷物を降ろし、長机などに漬物などを並べる。子連れの連合いが店番をし、ぼくは車で「ドラえもん」を掛けながら団地を回り、集会所での販売を告げて廻るのだった。
 売れてばかりならいいけれど、そうは問屋が卸さない。今日の秋空は抜けるような青。心も晴れ晴れならいいけれど、さっぱり訪れない団地のお客。いったい全体、大丈夫なのかしらと、出るのはため息ばかり。これではいけないと、しばらくの後、団地の集会所での販売は知立団地だけにして、ほかの日は移動販売にきりかえた。一日に40〜50軒のお客さんを回ったと記憶する。出来立てのパンや無添加のはんぺんなども売った。

 それで、そこそこ売れるようになったのはいいけれど、今度は家に帰ってその分を作らなければいけない。仕事はさらに忙しくなる。諸刃の刃、二兎を追うものは一兎をもえず。またも出るのはため息ばかりなりなのだった。

成味屋の販売車
キャンプに行った時の写真



625 引越貧乏 partT(前号からのつづき))
21/10/25

 よく、引越し貧乏という言葉を聞く。度重なる引越しを余儀なくされ、揚句、そちらにお金がかかってしまい、結局、貧乏暮しが繰り返される、というような意味。

 道長の歴史もそれが的確で、現在に至るまでに、かれこれ3回の引越しを繰り返した。一回目は岡崎の実家近くで、大家が賃貸マンションを建てるというので、作業所代わりに借りていた駐車場のガレージを、11年の経過後追出される。

 やむなく、引越し先を探し、近くの住宅街の一画の、元自動車整備所の建屋を借りることができた(1992年)。やれやれ。この建屋はそこそこの広さがあったため、当時としては作業に余裕を持つことができた。プレハブの冷蔵庫も据え付けたし、エアコンも。ただし、建屋の改築まではしなかった。しなかった理由は、何となく将来、引越すことになるのかもしれないという予感が兆したからなのかもしれない。何しろ、新作業所を構えた場所が、かつての長屋から発展した同族意識の高い住宅地であり、その一角で漬物屋なぞが営業するような立地とはいえなかったから。

 とにかく、自宅から歩いて一分ほどの近くで、願ったり叶ったりの立地ではあったのだった。だがしかし、やっぱりというかまさかというか案の定、今度は大家が自分の住屋を建てるので、立ち退いてほしいと言い出した。こんなところに長居は無用。仕方なく、今度はちゃんとしたところに引っ越そうと、いろんなところをさがしまわり、とうとう、奥三河の農家の空家までさがしにいったもの。

 方々探訪したものの、都合のよいところが見つからず困り果てる。だがしかし、引越し先は、意外に身近なところで見つかってしまった。いつも、米ぬかを分けていただいていた、宝飯郡音羽町(現豊川市)の減農薬・音羽米の生産者、Sさんが「それなら音羽へくればいい」と二つ返事で引き受けて下さったのだった(ありがたい)。
 これはまさに『渡りに舟』と、話は一気に進展。早速、ご提案いただいた空き地(地目は『山林』となっていた)を見分。かような地目にはたして建物が建つのでしょうか。心配になってSさんに聞いてみた。なんとその解答は簡潔明瞭なものだった。「そんなもん、建ててしまえばいい」?!「えっ?」。とのぼくの問に「あとで始末書を書けばいい」の一言だった。問:「で、でも、どうしたら」。答:「そんなもん、改造した(海上)コンテナを置いてしまえばいい」。

 なるほどと納得な即答に、話は一気に実現へと進む。

 その日は晴れで、建機のリース屋へ行って、ユンボ(パワーショベル)を借りてくるつもりで、現地に着いてみると…。なんと、Sさんは、すでにユンボで基礎のためのコンクリートを入れる溝を掘ってくれていたのでした(驚)。
つづく



626 とらちゃん逝く
22/02/08

 わが家の老齢トラちゃんが逝きました。2022年1月28日早朝でした。
 今年は『寅』年なので、新年のごあいさつに登場して健在ぶりを見せてくれていましたが、老衰による死期は意外にも駆け足で訪れました。残念でなりません。16年8か月の生涯でした。

 思い起こせば、故郷岡崎から音羽に引越しした最初の作業所が手狭になったため、同じ町内の今の場所に移転、作業所を新築するため、既存の家屋の一部を取り壊すことになったのでした(2006年)。そのとき、二匹の子猫が居ついていることがわかり、やむなくわが家の住人に加えたのがはじめでした。新作業所は車の往来の激しい県道沿いで危ないので、二匹とも家の中だけの生活となった。その一匹がくろちゃん(健在雌)で、もう一匹がとらちゃん(雄)。

 その後、まもなく岡崎の次女宅に居たオス猫まるこ(2000年に音羽で拾われた)も、同居の実妹猫みつに対するDVが問題となっていたことから、わが家に引き取られることになり、計3匹に増えたのでした。

 トラちゃんに話を戻す。トラ(ここからは敬称略)は、とくに成長期、常日頃、変なところに入り込んだり、顔を突っ込んだり、家から脱走したりと人一倍好奇心が強かった。そのためか、鼻の周りに黒く煤けた汚れが染みついていたもの。

 あるときなど『天井板崩落事件』を連日にわたり(二回も)演じる始末(その時の様子はこちら)。そのくせ、小心者で、家を脱走するたび、隣家の倉庫の一角に入り込んでしまい、結果、救出を求めて泣きさけぶというのが常だった。その割に、成人してからは、兄貴分のまるこの弟分として平穏に10年以上過ごしました。

 2018年、老衰でまるこが逝ってしまった後も、妹クロや岡崎の実家から(ぼくの母ちえ子に付いて)引越してきた老猫かま(2014年他界)をいじめることもなく、飼主を煩わせることもない、至っていいオス猫で居てくれたと感謝する。一昨年(2000年春)わが家に居候をはじめた親子猫のたま、ぴー、にこの三匹(いずれも雌)にも暴力をふるうこともなくやさしかった。
 そんなトラだったけれど、昨年夏ごろから、老齢のためか体重が減りはじめ、優勢を誇った若かりし頃とは打って変わって骨と皮が目立ちはじめてきたもの。もっとも、これは高齢な猫では致し方のないことで、余分な贅肉があるとご老体にかかる負担が減ってちょうどいいのかも。現在、妹クロも同じように骨川筋子です。

 死期が訪れる一か月前くらいから、とらちゃん、人目に付かない家のどこか(人気のない、暖房もない二階の一番奥の物置など)に身をひそめるようになってきた。今冬の寒さに、これはいけないと、夜はぼくらの寝床でいっしょに寝かせてやるものの、昼間、ひとりにしておくと、羽布団におしっこをしてしまうようになってしまった。そのたびごとに、夜、コインランドリーに走る始末。
 結局、寝床と紙の猫砂を入れたトイレを大きめのケージに用意して、就寝以後はその中で過ごすことに。今年、一月の早朝、ひっそりと逝ってしまった(ぼくらが気付いた時にはまだ温もりがのこっていた)。

 妹くろちゃん、時々、新参親猫たまの敬意を込めた軽い猫パンチを平気で受けながらもしぶとく生きている。

 同じ屋根の下、ともに暮らすわれら運命共動体。悲喜交々(ひきこもごも)の時間を楽しんでゆこうと思う。



627 映画『シェイン』
22/06/20
『シェイン(shein)』原題『crock of gold(壺いっぱいの金)』という映画を観た。2時間ちょっとの長い映画。

シェイン(Shein MacGowan)というのは、アイルランドのパンクロックバンド『The Pogues』を率いてきたミュージシャンで、生粋のアイリッシュ。6歳から酒浸り、人前でアイルランド音楽を歌わされ、青少年期にはシンナー、覚せい剤も。映画の中でのインタビューの間中、酒を離さないという徹底ぶり。だれが見ても救いようのない人。

大英帝国との関係を、これでもかというほどドキュメントするほどに、アイルランドがいかに搾取され、虐げられてきた民族なのかが表現されている。アイリッシュはその圧力に対して、徹底的に抗戦してきたという歴史についても。

ゲルマン人の台頭でヨーロッパ各地に追われ、ケルト人(の末裔?)は、西の果てのブリテン諸島にもたどり着く。とりわけ、アイリッシュはケルトの好戦的な気質を受け継いできたのかもしれない。イギリスによる搾取に耐えかね、さらに西のアメリカ大陸に移民するも、その船旅の途中で、半数の彼らが命を失ったと言われる。

あれほど迫害と侵略を受けながら、大英帝国から独立(南アイルランド)しているだけあって、大した、誇り高き民族といえる。

そういった国民性を、アイリッシュ音楽を基にパンキーなロックとして表現し、活動してきたのが pogues ということ。

シェインを肯定できるわけでもないけれど、幼少から酒を与えられ、飲んだくれ、反抗的ロッカーとして存続してきた彼の精神はさすがかもしれない。
彼は今もアルコール漬けで、身体もガタガタの車いす生活。ミュージシャンの生活からも遠ざかってしまい、年齢は64歳。この先、長い寿命とも思いにくい。

だからといって「だめじゃん」とも言い切れない。事実、本人が「後悔していない」というのだから。

芸術性とかストーリー性をこの映画に問う必要もないのかもしれない。一人の人物のドキュメンタリーとして解釈すれば、ちゃんと意味もあるのだとおもう。

決して、ひとりのアイリッシュの生き様を弁護しているのでもなく、ただ、ドキュメントとしてはちゃんと成立してると思う(でも、どうしてもシェインを憎めない)。たとえ、通常と違ったコースを選んでしまったとしても、振り返らず、後悔せず、進んでいけたらそれもいいと思う。

人は人、自分は自分、人がそれを評価するもんじゃなく、自分で納得できる一生は、この映画の原題でもある『つぼいっぱいの黄金』なのではないかしら。

ぼくの人生、大したものでもないけれど、自分で納得できるような人生を歩めたらいいと思う。というような映画『シェイン』でした。冷静に、この映画はこれでいいんじゃないかなというぼくの感想。


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