061 節 分
05/02/09
節分といえばまさに季節を分けるという意味にほかありません。今年の節分は2/3、したがって次の日が立春ということになるわけです。

節分というとなんといっても『豆まき』でしょう。この習わしはふたつの儀式がいっしょになっておこなわれるようになったといわれています。

その1:平安時代に中国から伝えられた『追儺(ついな)、鬼やらい』という儀式がもとになっているそうです。陰陽師が異様ないでたちで鋒(ほこ)と盾を持ってみえざる厄をはらうというものだったらしいのですが、いつのまにかそれが鬼に見立てられ、弓で射掛けて追い払うという儀式になった。

その2:古くからの神事で『散米、うちまき』というのがあり、邪気を払うために穀物をまいて供えるという儀式があったそうですが、これが豆まきに変化していった。

春の訪れを祝う節分を厄をはらってめでたい気分で迎えようというのには、まさにこの豆まきはふさわしい儀式といえます。真偽のほどはわかりませんが、以上ふたつの儀式が『豆まき』の由来となっているらしい、とのインターネットの情報です。

寒の最中、「鬼は外」の掛け声はなんとも気持ちも引き締まり、かつほのぼのとした気分にもなります。

そのほかにも節分の儀式があるようです。
■鰯の頭とヒイラギ:今ではほとんど見られなくなった行事です。鰯の頭を焼いてヒイラギの枝で目を刺し、門口に置くというもの。この儀式の由来・起源についてはいろいろ調べてみましたが、どうもわかりません。ヒイラギという木は西洋でも東洋でもそのトゲトゲしい枝や葉のイメージから、魔よけとして使われることが多い。それと臭いのきつい鰯の頭とのコンビネーションということになったのでしょう。

■太い巻き寿司:太巻きの寿司をその年の恵方(えほう)に向かって、笑いながら切らずにかぶりつき、食べるというもの。これは関西が発祥といわれていて、以外に新しい儀式かもしれません。1977年、大阪海苔問屋協同組合が節分のイベントとしたのが始まりだそうです。福を太く巻き込んだ寿司。縁を切らずに食べる。笑う。そして縁起のよい方角を向いて・・。なかなかうまく故事付けされていて、もっともではありませんか。

こうしてみると、節分の儀式はなにかの明確な宗教的なものを根拠にしているわけではなさそうです。にもかかわらず宗教性を感じさせる。

このほかにも一年を通じて考えてみると、これに似た事柄があったりします。正月明けの鏡開き、七草粥、節分豆まき、お節句、バレンタインデー、エイプリルフール、端午の節句、菖蒲湯、土用の丑の日、十五夜月見だんご、冬至カボチャ、クリスマスなどと、日本の儀式だけみてもいろいろあります。どれも和洋折衷で支離滅裂なところはありますが、その宗教性というか、なんでも許してしまう、取り入れてしまう国民性をあらわしてもいるのでしょう。

神道という何にでも神が宿るという自然神のような考えがあり、仏教というひたすら自分と向き合い、他を否定しない宗教を受け入れた民族は日本だけではないのだろう。けれどこうして一年を通して、儀式を通して、何かの食べ物をいただくというのが日本人の儀式に根付いているような気がする。

何もそれは日本に限ったことではないのでしょうが、自然界からの恵みをいただき、今までの一年に感謝して、これからの健康や幸福、安全を季節に合わせた儀式に託す。そんな精神性というか、文化というか、自然観を持つことのできる、きわだった四季の変化が日本にはある。

そんなゆたかな日本という地に生まれ、居合わせることへのしあわせをじみじみと感じてしまいます。


062 バレンタイン
05/02/16

日本ではすっかりなじみのあるセントバレンタインデー。社交辞令は無駄事と割り切って、義理チョコなどということはやめようという取り決めのおかげで、道長では三時のおやつもいつもと同様、おせんべい。

やはりちょっと気になるのでバレンタインの由来について調べてみました。
日本で最初にバレンタインデーの広告を入れたのは1936年。なんとモロゾフ製菓だったそうです。もっともチョコレートをそれにかこつけて普及するまでにはゆかなかったようです。

さらに1958年、東京のメリーチョコレートという会社がバレンタインにちなんで、新宿の某百貨店でフェアーを行なったとのこと。以後、チョコレート・ココア協会の商魂のおかげで2/14をチョコレートを売りまくる日としたというわけ。

もともとこのバレンタイン(バレンチノ)という人物は3世紀ごろのイタリア(ローマ帝国)の僧侶であったそうです。若者が戦争に行きたがらないのならば、結婚を禁止してしまえということになったらしいのですが、バレンチノ司祭はそれにそむき、若者たちの結婚の仲立ちをしていた。ローマ教会はプロテスタントを迫害していたので、バレンチノ氏を処刑してしまった。それが2/14だったというわけ。

イタリアはやはりどうも情熱の国のようで、男女の風紀が乱れやすい。500年頃、ルベルカーリアという男女の縁を取り持つ祭りを禁じた。女性の名前の代わりに聖人の名前を書いたくじを男に引かせ、それにあやかるようにという励ましをしたとのこと。その祭りがやはり2/15に行なわれていたため、バレンチノの命日とかこつけられたというわけ。


各国で行なわれているバレンタインデーの習慣で共通しているのは『男女の愛の仲立ち』といえるでしょう。

上の表にまとめてみましたが、それぞれの国々でのバレンタインデーの位置付けが大体わかります。
表の中で新聞記事(英国)とあるは、記事で告白をするの意。バラ11本(中国)は12本目のバラはボクですという意。音楽(メキシコ)は窓辺で愛の歌を歌うの意。

これからわかることは、女から男に贈物が贈られるのは日本と韓国ぐらいのものです。ほかの国々では男から女へ贈るのがならわしになっています。

タイ国などではただ男が女に貢ぐだけの日というような位置付けだったり、ドイツでは最近グローバル化の波からか、バレンタインデーが行なわれることがある程度。

イスラム圏などではこんなこともってのほかで、それこそ警察ににらまれるほどだそう。ただお隣の韓国では日本と同じく女から男へ。さらにホワイトデーもありで、さらにさらにブラックデーというのまで。これは義理チョコがないため、あぶれてしまった寂しい男が集まり、黒装束でジャージャー麺に黒いソースをかけて食べるというものだそう。

社交辞令反対。義理チョコ反対。なぞと言っていたらなんといつのまにか、本命チョコにまで見捨てられてしまったのだろうか。

ぼくにはチョコひとかけも御到来がないのでした。うーん。


063 竹島水族館
05/02/25


愛知県の三河湾に面した蒲郡市。そこにこじんまりとした竹島水族館があります。開館されたのは1956年(昭和31)と50年近くの歴史のある水族館。

魚を観るのが好きなぼくにとって子供のころ、蒲郡へ海水浴や潮干狩りへ行くという話しが持ち上がると、まず第一に頭に浮かぶのが水族館の大水槽(当時はそうだった)に泳ぐ大きな魚たち。小さな金魚鉢しかなかった当時にはそのような光景はまるで夢のようだった記憶がある。

当時蒲郡といえば観光地としてゆるぎない地位を獲得しようというまさにそのときであったのだった。三谷温泉という強力な武器を基礎に、水族館の他には競艇場の開設、三河湾を一望できる三ヶ根山展望台とそこへ通じるドライブウエイ、さらにはロープウエイの開通とまさに破竹の勢いそのもの。

おりしもこのころ、日本は高度成長という驚異的な勢いで発展をとげていたのだった。この水族館に隣接して当時流行の『ヘルスセンター』まで出現。温泉あり、食堂あり、買物あり、劇場では各種芸能もありと盛りだくさんの大衆娯楽の殿堂まで出現。さらに、さらにはあのロープウェイの始発地には『ジンギスカン鍋料理』なるものまで出現。どこかで回収してきたような巨大なタルを逆さにしたような小屋の中で、数人がマトンの鍋を囲むという風情。これも当時豪州からの輸入で話題だったマトンを使ったすき焼風の料理。ラジオの宣伝も手伝って、ジンギスカンはもう食べたかまだか、というような会話さえ交わされるほどの評判(ぼくも食べに行った覚えがある)。

おそらく当時はここ蒲郡に限らず、日本全国でこのような観光地展開が行なわれたもの。そしてなぜか、どの観光地も「一体どこからこんなたくさんの人間が繰り出してくるのだろう」と思うほどの人出で、まさにごった返していたのだった。おそらく観光地に限らず、映画館や動物園など、休日ともなると日本中どこへ行ってもそんな具合だった。

しかしながら、そんなお祭り騒ぎがうそのように一段落ついてしまう時代がやがておとずれることになる。それはおそらく東京オリンピック、大阪万国博覧会と進んでゆくころ。一体なにがそのような人々の娯楽をさらってしまったのだろう。人々の楽しみが多様化したのだろうか、はたまた高度成長で裕福になったためだろうか。

一段落ついてしまったあと、並み居るそのような観光地などは一気に下り坂を転げ落ちるがごとく、こんどは一転して『閑古鳥』の巣と化してしまうのであった。

おとずれるもののなくなった三ヶ根山の回転展望大食堂はその回転を止め、無人となり、落書きだらけの廃屋、ロープウェイは廃止となりその基礎だけがさびしく並び、ジンギスカン鍋の小屋は無残な姿をさらす。ヘルスセンターは取り壊しになるまでの長い間、荒廃ぶりをやはりさらし続けたのだった。

そんな中、かろうじてあり続けたのがこの竹島水族館とそれに併設のお土産屋と元祖ゲームセンター。ぼくなぞは魚を観るのがすきという理由で、折々、我が子と甥っ子たちをつれては水族館へ行ったもの。さびれ果てた周りの風景なのだけれど、やっぱりというかなぜか親しみのある水族館。

最近またふらりと竹島水族館をおとずれた。一時期存亡の危機もあったと聞く竹島水族館は今も健在で、その規模も縮小されはしたものの、なぜかけっこう見ごたえがある。

平日にもかかわらず、10時半から『アシカショー』開演。こじんまりとしたプールに4〜50名が並べば満員の観客席。そこに元気いっぱいのアシカと若い調教師のはつらつとしたショーが繰り広げられる。平日なのに朝から観客は20名ほど。マイクロホンは使わなくても、拍手と歓声は会場いっぱいにひびきわたる。アシカも調教師も、そしてぼくたちもおそらくは胸がいっぱいで、来てみてよかったと、つくづく思うのだった。

日本中がテレビジョンの普及で、娯楽のすべてを奪われるようになってしまった時代の到来。そんな中で竹島水族館はおそらく、必死でもがきつつ、しかし水族館としての使命をひたすらまっとうし続けてきたのだろう。その努力に、あらためて敬意を表します。

竹島水族館の公式HPはこちら
JR東海道本線蒲郡駅から徒歩15分。または東名高速・音羽蒲郡ICよりオレンジロード経由20分

竹島水族館のHP
http://www.kankou.city.gamagori.aichi.jp/aquarium/


064 アロエベラ
05/03/05

最近食用のアロエを知りました。以外に身近なところでもその栽培、出荷をしているものです。アロエはむかしから身体にいいからということで、捻挫、虫刺されや火傷、打ち身、歯痛などで痛めた患部にアロエの葉を削ぎ落とした葉肉の部分を当てておく。すると不思議なことにこれがよく効いて、腫れが引いたり、痛みが取れたりするのです。

アロエの種類は非常に多いそうで、700種をこえるといわれています。原産はアフリカやインドといわれていて、やはりむかしからその薬効が認められています。

アロエの歴史
紀元前の時代アレキサンダー大王率いる軍隊も、戦場へはアロエを携えて行った。日本に伝わったのも意外に古く、鎌倉時代ごろだといわれています。

アロエで代表的なのが、キダチアロエ、アロエベラなどです。キダチアロエは外用として、アロエベラは葉肉が厚くその味にクセがないため、食用としても利用されます。

アロエの生産者をたずねました
音羽町の東、豊橋市で食用のアロエベラを生産している生竹(いくたけ)さんという方がいらっしゃるというので、早速見学をさせていただきました。冬でも生産できるよう、ハウスのなかでの栽培です。ハウスの中はそれはそれは立派なアロエベラが育っていて圧巻。

栽培方法はもちろん無農薬、ボカシ肥中心で若干の化成肥料を使っているとのこと。生竹さんはそのみごとな外葉をポロッと取り、手早く切り、緑色の外皮を剥いてくれました。なんとそこには肉厚で透明なゼリー状のかたまりが現れたのです。見るからに水水しく、おいしそうなのですが、なにせアロエですからどうしても独特の苦味を連想してしまう。差し出された一切に躊躇してしまいましたが、勇気を出して口に入れました。心配したことは何もなく無味無臭。

アロエはその葉が傷ついたとき、傷口を守るために苦い物質を分泌します。アロエの葉をもぎ取ると、たちまち黄色の液が分泌される。これは非常に苦く、我慢できないほどです。でもそれは葉肉と外皮の間で出されるので、外皮をすばやく剥ぎ取ってしまえばあとに残るのは無味無臭の葉肉というわけ。

調理法
調理は基本的に加熱はあまりしませんが、衣をつけてサッと天ぷらに揚げるのもおもしろい。刺身でたべるならしょうゆにポン酢をたらしたタレを付けて。イメージどおりにトコロテンのように。細かく切ったアロエをリンゴなどのフルーツといっしょに、甘酢のシロップに漬けておくとなんと南国風のフルーツパンチ。ほんの少しワインを加えたシロップ漬にしてもいけます。

アロエベラ


キダチアロエ
薬効
アロエベラの薬効はゲル質の葉肉にあります。これに含まれるゼリー状の『ムコ多糖体』というのが重要。これは人間の消化器官では消化がむつかしいマンナン(食物繊維)の一種。この多糖体には免疫機能を強化したり、炎症をおさえたり、血液をサラサラにしたり、整腸作用などなどの効果が認められています。

食べたり、貼ったりすることで薬効を望むことのできるアロエベラ。お風呂に入れればお肌もツルツルという美肌効果もあるそうです。

道長でもただいまアロエベラについて勉強中。今後何らかの形で紹介して行けたらと思っています。




065 猫の好物
05/03/17


子供のころから我が家に飼い猫絶えたことがありません。そしてどうしても理解に苦しんでしまうのが猫の好物。今の我が家の猫はごくあたりまえのもので、魚、かつお節など。音羽の借家にいる巨大猫(体重を計ったことはないけれどかなり)はまだ付き合いが浅いため、はっきりわからないのだけれどまずは海苔が好物。

インターネットで調べてみると、やはり猫の好物あるいは変な好物についての記録がありました。それによると海苔が好物というのはめずらしいことではない様子。それに比べて変な好物をそこからピックアップしてみると

お菓子では:こんにゃくゼリー、あんこなど
野菜では:
きゅうりの漬物、トウモロコシ(ゆで、生)、キャベツ、レタス、アスパラガス、ブロッコリー、トマト、枝豆
果物では:スイカ、バナナ、メロン、みかん、パイン、イチゴなど
飲み物では:緑茶、ドリンク剤、オレンジジュース

その他に猫草というのがあります。これはえん麦などのイネ科の植物。猫はこれを毛玉を吐くためなどの健康維持のために食べるといわれますが、これが好物という猫もいるようです。

あたりまえに猫の好物といえば、かつお節や煮たり焼いたり生の魚。乳製品、食肉、たまごなどならば納得がゆくけれどやっぱりちょっと変。

とかく犬などとは性格もまったく違い、飼い主をご主人と考えていないところのある猫。行動も自分勝手で猫としてでさえ、性格が千差万別。まったく不思議な動物です。飼い主から見てもその行動の大部分がなぞめいていて、だからこそそのあたりが魅力なのかもしれません。


巨大猫
我が家の代々の猫のうち、変なものが好物だったといえば、『ゆでたてのホウレン草の芯』というのがいましたっけ。母がホウレン草をゆで始めるともうたまらない様子で、ニャーニャー鳴き通し。茹で上がってあつあつのそれの芯を放ってやると、ウーウーうなりながらハフハフしながら食べていました。

またちがう猫はゆでた冷麦が好きで、つゆもつけないのを箸でつまんでたらしてやると、飲み込んでいる様子で止めどなく美味そうに食べたものです。

それにしても納豆を糸を引かせながらムニャムニャ美味そうに食べるという猫を想像してみても、何か変な感じがしてしまいますね。



066 ぬか漬
05/03/23

日本には漬物というすばらしい調理法があります。塩漬けの浅漬、ぬか漬、みそ漬、粕漬、酢漬、こうじ漬、醤油漬などと色々な種類の漬物があります。そして日本の漬物の重要な点はそれが発酵食品であることです。

そんな漬物の中でももっとも日本の漬物らしいものといえば、なんといっても『ぬか漬』でしょう。ぬか漬のためのぬかみそ、ぬか床の材料は米ぬかと塩、そして水。これだけのものを混ぜ合わせただけでつくったぬか床に野菜を漬けても、そうたいしておいしいものとはいえません。なんともいえないおいしさをかもし出すために醗酵の力が発揮されます。

ぬか漬はいつごろからつくられるようになったか
はっきりしたことはわかりませんが、文献からみると日本では天平の木簡や平安中期に残された『延喜式』のなかに『須々保利』という記述があるそうです。これは大豆や粟などを挽いた粉と塩で漬け床をつくり、それに野菜を漬け込むというもので、ぬか漬かみそ漬のようなものだったのでしょうか。もちろん冷蔵庫などない時代ですから、塩度もけっこう高かったと思われます。もしかすると野菜と漬け床をごはんのおかずにしたのかもしれません。『須々保利』とはどんな風味の漬物だったのか興味が尽きません。

中国では
6世紀上期の北魏の時代の『斉民要術』という農業書でも、ぬか漬についての記述があるそうです(この書は古来からの農を基本にした食文化を集大成したもので、完本で現存する農業書の中ではいちばん古いとされています。おもに畑作の作物の栽培法、畜産関係、糀、酒、酢、しょうゆなどの醸造法、食品加工の方法などが系統的かつ細密に記されている)。

醗酵菌について
ぬか漬になくてはならない菌に乳酸菌、酵母菌などがあります。これらの菌は酸素を嫌う(嫌気性)といわれていますが、まったくというわけでもないようです。ぬか漬の床をまったくかき混ぜないでおくと、すっぱくなるどころか今度は腐敗菌のような絶対嫌気性という菌に負けてしまい腐ってしまうこともあります。
好気性菌といえばこうじ菌や納豆菌などがありますが、こうじ菌などが増えすぎてしまっても、今度はアルコール発酵が始まってしまったりして都合が悪いこともあります。ですからただ闇雲にかき混ぜればいいというわけでもなく、かき混ぜないでもいけない。この辺がちょっとややこしいところです。
おいしいぬか漬を続けるコツは
@
毎日食べきれる量の野菜をつける
A
漬けた野菜は一晩かせいぜい一昼夜ぐらいの間に出して食べてしまう
B
漬けた野菜といっしょにぬかも減るので、ときどきあたらしい米ぬかを補充する
C
あまりたくさんの野菜を漬けすぎない

大好評です
道長の『つけ太郎 ぬか』
熟成したぬかみそを練りこんであります。
最初からおいしいぬか漬を楽しんでいただけます。
チャック袋入り。そのまま袋の中でぬか漬ができます。



067 リョコウバト
05/04/01


この地球上から一日に1種類の生物が姿を消しているといわれます。名の知られた動植物、知られることの少ない、あるいは名もない種類の生物が絶滅している。

明治時代以前には、日本中の田園にたくさんいたごくあたりまえのトキは乱獲がたたり、03年に日本から絶滅してしまいました。トキは赤い顔と足、純白の羽根をもったまさに日の丸を連想させる、日本を象徴する鳥だったといえます。

そのほか日本で20世紀に絶滅した主な動物はニホンオオカミ(1905年)、リュウキュウカラスバト( 1936年)、ニホンアシカ(40年)などがいます。
日本ではなじみのない名前ですが、かつて北アメリカ大陸に50億羽いたといわれた渡り鳥に『リョコウバト』という鳥がいました。リョコウバトが渡りをするときには、その群れが数日間におよんで空を暗くするほどであったといわれています。白人による開拓が進むにつれ、リョコウバトは居場所を追われ、作物を荒らす害鳥の烙印を押されてしまう始末。駆除されるばかりか食肉としても扱われ、19世紀後半から激減。1914年、とうとう最後の一羽がケベック州の動物園で死んだそうです。

どうしてそんなにたくさんいたリョコウバトが一気に減り、絶滅ということになってしまうのでしょう。
リョコウバト(あんもないとHPより)

動植物が絶滅するための要素
@
環境の変化(環境破壊、気象の変化)
・・魚類など
A
乱獲(食用、羽根、毛皮、狩猟、宗教の理由など)
B
生息地が狭められる(開発、戦争など)
・・沖縄にいたリュウキュウカラスバト
C
天敵の出現(移民などで連れてこられた動物などにより)
・・オーストラリアなどで絶滅した生物
D
伝染病(ジステンパー、狂犬病など)
・・ニホンオオカミ

自然環境とのバランスがとられている状態では、ある生物がそれ以上増えることもなければ、減ることもありません。しかしながら上にあげたような理由でそのバランスが崩されると、生物はあまりにももろくその勢力をうしなってしまうものです。そしてそれらが複合的に重なると、さらに致命的にはたらいてしまう。

地球の歴史は45億年ほどといわれています。その間、自然環境や隕石の衝突などが原因で実に多くの動植物が絶滅したといわれます。たとえば6千万年以上前の白亜紀に起きた巨大惑星の衝突では、地球生物の約75%が失われたともいわれます。

そのように地球の動植物の絶滅が繰り返されたとはいっても、その頻度は数百万年に数百万種といわれるほどゆっくりとしたものです。

しかしながら、地球上に人類が栄えるようになり、産業革命が進んだ挙句、現在起こっている生物の絶滅のスピードは、太古に起こっていたそれとは比べものにならないほど早いのです。おそらく今起こっている動植物の絶滅に人類がかかわっていない例は皆無といっても過言ではないでしょう。

人類はそのわがままのために、多くの動植物を絶滅に追いやってきました。それらが人類のおかげだったのだとすれば、その当事者である人類もまた人類のおかげ絶滅の危機に直面しなければならないときが来るのかもしれません。今までの地球の歴史の中で、自らが原因で絶滅した動植物はもしかするとなかったのではないでしょうか。

人類は自らが自らを絶滅させた最初で最後の恥ずべき生物として、この太陽系の歴史に刻まれてしまうのかもしれません。その日が来るのか来ないのか。人類が自らの努力で、もう一歩さきまで進化しなければ、その日は間違いなく訪れるのだと思う。



068 複合耐病性遺伝子組み換えイネの隔離ほ場栽培実験
05/04/27


新潟県上越市の独立行政法人 農業・生物系特定産業技術研究機構 中央農業総合研究センター・北陸研究センターというところで、イネ特有の病気『縞葉枯れ病』や『いもち病』に抵抗性をもたせたという『複合耐病性遺伝子組み換え(GM)イネ』を開発研究しています。そして今年、隔離ほ場での栽培実験が行なわれることになっています。

このGMイネはカラシナに由来する(※注:)ディフェンシン遺伝子を『どんとこい』というイネ品種に組み込んでつくられました。とくに寒冷地ではいもち病などは避けて通ることのできない病気でもあり、それを克服するため、今回のGMイネがあるということになっている。

かつて愛知県でもGMイネが研究されたことがあります。愛知県農業総合試験場では長年懸案の不耕起乾田直播きという農法(田越しをせずにそのまま籾をまいて田植え作業を省いてしまう)には、イネが芽をだした後にも除草剤を施用する必要がある。除草剤耐性のイネを作ることが命題となったわけです。

愛知県での研究は、「日本人の主食のコメに対して遺伝子を組み換えてまで研究開発をすべきでない」という市民の強い要請で02年12月中止が決定されました。

今回の上越市での研究は、とくに縞葉枯れといもち病に耐病性をもたせようというもの。そのための遺伝子組み換えというわけです。

しかしながらたとえば愛知県では、すでにこのふたつの病気を克服できるコメ品種を作出する技術を、遺伝子組み換えをせずに可能にしているのです。これは旧来の掛け合わせの技術で作り出されたもので『SBL(縞葉枯れといもち病に耐性)』と名づけられています。たとえば愛知県の開発品種に『葵の風』というのがありますが、これにSBLの性質をうえつけたのが『葵の風SBL』です。新品種にありがちな、年が経るにつれSBLの効果が衰えるというようなことがないといわれています。

目的の性質を得るために、ありえない生物の遺伝子を組み入れることで、本来不可能な品種を作出できる。これは品種改良のためにはまことに便利な方法といえます。

しかしこの技術には大きな問題点があります。つまり研究の進行・成就、さらにはビジネスという経済性という目先の目的が、安全性という食品には欠かすことのできない条件を二の次にしてしまう可能性がある。これはあってはならないことですが、研究者、バイテク企業にはありがちな意識といえます。つまり、遺伝子組み換え食品には常に不確実なものが付きまとうことになる。

今回の上越市の研究機関で行なわれているGMイネの研究について、本来必要でない方法で、多額の費用をかけて、しかも商品化されないであろう新品種のために続けることの無意味さを明確にすべきではないでしょうか。単にデータを得るためだけの研究に、屋外での栽培実験は必要ないはずです。

隔離ほ場での実験は、すでに基礎的な研究が終了していてはじめて望めるものです。それをあえて屋外での実験という、米どころ新潟のブランドに汚名をさすような方法をとるべきではありません。

おそらく新潟県上越市の大多数の市民は、遺伝子を組み換えたイネを望まないでしょう。基礎研究という段階を終えた今、『中止』という勇気ある決断を望みたいと考えます。

上越市の独立行政法人 農業・生物系特定産業技術研究機構 中央農業総合研究センター・北陸研究センターで行なわれるGMイネの隔離ほ場実験の中止を申し入れる『意見書』を次のホームページで発信することができます。詳しくは『反GMイネ生産者ねっと』のHP『遺伝子組み換えイネ研究会』のトップページをご覧ください。
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/sa-to/index.htm

※注:ディフェンシン遺伝子:抗菌作用のあるタンパク質をつくる遺伝子で、一部の植物や昆虫などが持っているといわれる




069 夕焼け小焼け
05/05/05



ぼくの年代に限らず、真っ赤に染まった西の空を見ながら、この歌を歌いながらだれかと家路をたどった、という情景を思い出せないという方も少ないかもしれない。その情景とはいつ、誰とのものなのか、ちょっと記憶に呼び覚ますのはむつかしいのだけれど、なぜかとてもなつかしい。

この歌を作曲したのは草川信という人。1893年長野県松代郡の生まれ。ぼくもよく知っている歌には『夕焼け小焼け』のほかには『風』『汽車ポッポ』『どこかで春が』『ゆりかごの歌』など。

『夕焼け小焼け』がつくられたのは1921年で、草川信が東京音楽学校卒業後、東京で教師をするかたわら。

彼は幼少のころは相当な腕白であったらしく、後年の回想記『想い出の記』でその様子を知ることができるそうです。

草川信が作曲活動を始めたころ、折りしも鈴木三重吉が『赤い鳥』を創刊してあまり間もないころでした。『赤い鳥』は新しい児童文学を創出しようという多くの文学者(泉鏡花、小山内薫、高浜虚子、芥川龍之介、北原白秋、島崎藤村・・・)によって支持されるようになり、その運動には童謡を手掛ける作曲家作詞家たちの参加も活発に行なわれるようになる。そんな中で草川信は代表的な作曲家に挙げられるようです。

それはともかく、この歌は『夕焼け小焼け』と歌いだすわけですが、この『小焼け』というのはいったいどういう意味なのでしょう。こういった『こ』の付くわけのわからない単語に、やはり童謡に出てくる『仲良しこよし』というのもあります。この『こよし』とは一体どういう意味なのでしょう。

このいずれの場合にも、やけ→やけ、よし→よしという風に同じ意味の単語を繰り返しています。一説によると文法的に解釈すると、『こ』というのは大して意味は無いけれど、単に語調を整えるための接頭語だろうという説もあります。ようするにごろ合わせということです。

しかしながらインターネットを探してみると、次のような説もありました。つまり、太陽が赤く輝きながら沈んでゆく『夕焼け』の後、太陽が沈んでしばらくしてから、もう一度西の空が赤く輝いて見える現象があります。これを『小焼け』としたのではないかという説もある。なるほどとうなずける話でもあります。

『赤とんぼ』という唱歌にも「夕焼け小焼けの赤とんぼ」の一節があるように、なんとなくこの『小焼け』のなかには、幼き日のおぼろげな思い出、一生ついてはなれないこころの、原風景、失ってはいけないなにかのような意味が込められているように感じます。

あれは姉に伴われてだったか、あるいは友がきだったか、ぼくの見た夕焼けは、すりガラスのむこうにおぼろげに見える電球のような、あったかでなつかしいあかり。いつもそこに帰ってしまうような、やっぱり心のふるさと。

そう、夕焼け小焼けと歌いながら、拍子をとりながらだれかとつないだ手を振りながら、家路をたどったのでした。

東京都八王子市上恩方町はこの歌の作詞家、中村雨紅にちなんで『夕焼け小やけの里』の町になっています




070 母の日
05/05/10

古くはギリシャ時代、レアと呼ばれる神々の母に感謝する春の祭りがあったそうです。また17世紀のイギリスでは、復活祭(イースター)の40日前の日曜日を『母の日』と決めていた。家から離れて働く使用人たちが、里帰りして母との時を過ごすことが許されたのだそうです。復活祭というと、春分後の最初の満月のあとの日曜日ということになっているので、その40日前というと、5月の第二日曜の母の日とはちょっと日にちがずれている。

1905年の米国、アンナ・ジャービスという人の母親が亡くなったとき、教会で白いカーネーションを配った。彼女の『母の日』普及活動もあり、これが米国で広まり、1914年、時のウィルソン大統領が5月第二日曜を『母の日』に定めたということです。

日本では明治末期に『母の日』が行なわれ、キリスト教会で行なわれるようになり、少しづつ広まったといわれています。1937年、森永製菓の宣伝活動のおかげで一般的になったそうです。ただし、昭和初期から戦後しばらくのあいだ、皇后の誕生日3月6日が母の日とされていたとのこと。

もっとも西洋では使用人、日本では丁稚や子守娘が里帰りを許された盆と正月などは同じような意味合いがあったのかもしれません。

ぼくが小学生のころにもやはり『母の日』がありました。小学校で、あれは配られたのか、買わされたのか(そんなはずはない)、安全ピンのついた紅色のカーネーションの造花だった。その色は妙に印象的で、なぜか共同募金の赤い羽根の『紅』とイメージが重なるのはなぜだろう。

とにかく『母の日』は日頃のお母さんに感謝し、ありがとうの意思表示のために造花のカーネーション。そしてこれは今ではちょっとどうかと思うのだけれど、母親の無い子供には、白いカーネーションが配られたのを記憶しています。でも当時のぼくらには、白いカーネーションを胸に付けた同級生を、かわいそうとは思えど、それ以外には考えなかった。

それに対して『父の日』というのもできた。しかも米国での1905年より遅れること1909年。米国で正式に祝日として『父の日』が定められたのは苦節約50年というのでしょうか、1972年だそうです。

母をイメージしてみなさい。といわれて思いつくことはたくさんあるでしょう。ひとそれぞれ、それにふさわしい言葉があるのでしょうが、父親をイメージしろと言われると少々複雑です。ぼくは父親をすでに数年前に亡くしてしまいました。それでも父親にふさわしい言葉を見つけにくい。健在の母親についての言葉は今ははずかしいから言わないとして、父親については『重い』という言葉があてはまる。いったいどういう意味で重いのだろうと考えてしまうのだけれど、それがぼくにとっての父親のイメージです。

もういない父親への父の日は先のこととして、とりあえず母の日には感謝をしないといけません。