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各論 やおい共同体と京屋の傾向

 前章でとりあえず「やおい」の一般的概要はご理解いただけたと思います(「女性向けポルノで女が出てこないヤツ。んでもって少女漫画な話」です――ああ、どうして私のいい方ってこう身もフタもないんだろう)。で、ここではこの京屋のキャプテン翼におけるやおいについて述べさせていただくつもりなんですが、考えてみりゃそれほどご大層な話でもないような…。いやでも一部の方にとっては肝を潰すような話だったりいたしますし(笑)。
 まあいいや。とりあえずちゃっちゃと済ませちゃいましょう。

 原作からキャラクターその他の設定を借りて書く作品を、パロディ作品と申します。キャプテン翼はアニメ作品であったことから「アニパロ」と呼ばれております。で、パロディ作者である京屋はオタクで女でヤオイスキー。出てくる作品は当然ながら「やおい」な訳なのですが、ここに大きな問題が出てきます。専門用語乱発でオタク界人にしか判らないと思いますが。
 ええと、京屋は翼×ロベルトです。
※用語解説>>>
やおい関連の話題で「○○×□□」という書き方がされた場合(○○と□□には人名が入ります)○○が男役、□□が女役という意味になります。米国でも同様の文化があるらしく、あちでは“×”ではなく“/”が使われている模様。某SFスタートレックのK/Sはカーク船長がMr.スポックをコマす、という意です。これを某雑誌で初めて知った時は驚愕しました。アメリカにもいたのね…やおい乙女が。
※2002/9 ゲイ文化が市井レベルで浸透しているアメリカでは、日本のように受・攻の役割分担が絶対的ではありません。ここでいう男役は“主導権を握る方”であり、セックスで絶対的な男役を演じる訳ではないのでご注意。
<<<用語解説以上
ここで『ちょっと待て!』と思われた方、あなたは正しくやおい文化と「キャプテン翼」という物語を理解していらっしゃいます。正解です。
 ではそう思われなかった方のために今一度解説させていただきます。「キャプテン翼」という物語は、主人公・大空翼少年の“サッカーのプロ選手になって日本をワールドカップで優勝させたい”という思いを縦糸に、その翼と仲間たちの出会いを横糸に作られた物語です。ロベルト本郷は主人公・翼の師に当たる人物で、病によりプロを引退した悲運のプレーヤー。翼をコーチする事で第二の人生を歩もうと思いながらも、自分では翼の才能を伸ばしきれないと逃げ出してしまった気弱な指導者です。ちなみにロベルトは翼の10歳以上年長者。翼とは同い年の仲間たちがメインとなる登場人物の中で、かなり特殊な位置にいるキャラクターとなります。
 ええっとお…。自分で言うのも何なんですが、乙女の夢見る恋愛物語を書くには不適切な関係です。ロベルトが通常のスポ根マンガの指導者のような「強い」指導者であれば、それをテコに恋愛方向に舵を持っていく事も可能だと思います(いわゆる王子様)。しかしロベルト本郷はそういう書き方をされたキャラクターではなく、どちらかと言えば「夢追う」翼の対極である「夢敗れた者」としての位置にいる。そして翼少年の方はと言えば「世界一になる」事が目標で、それ以外何も見えてない。あきらかに「愛情」とは別のベクトルの関係なんですよ。それよりも「アイコンタクト」や「ボールに込めた意志を読む」チームメイトや(僕たちが出会ったのは運命なんだ)、「お前はオレが倒す」なライバル関係の方が(お前はオレだけ見てればいいんだっ!)、明らかに恋愛に近い。
 ダメ押しのつもりで書くならば、己のサッカー生命を絶たれたロベルト本郷はアル中となり、自殺未遂までやらかしてます。ついでに言えば無精ヒゲのオッサンで、年頃の娘さんたちの好みとはほど遠い外見です。ま、それを言うなら大空翼だって「スパークするサッカーバカ」だから「影のある美貌」だの「儚げな風情」などという乙女の夢とは完全に無縁だったりするんですが。
 早い話が…この二人を材料にする事自体、やおいの世界観からすると相当な横紙破りなんですよ。それ以上にとんでもねーのが、指導する立場のロベルトに女役を振ること。本末転倒も甚だしい。女役のキャラクターに感情移入する事も、男役のキャラクターに理想の男性像を見る事も、この組み合わせでは明らかに不可能。確かに「女性向けのホモセクシャル表現を含んだポルノ」としての形式は逸脱してない。しかし「乙女の憧れの恋愛」を見るにはどーにもこーにも不向きとしか言いようのない話になってしまってるんですね。京屋のやおいは。
 10年以上、ワタクシこの2人の話を書いておりますが、自分と同じような話を書いている方にお会いした事がございません。恐らく全世界に私一人と思われます(笑)。――それほどに、やおいの一般概念から外れた事をやってるらしいです、自分。
※2002/9 現在一名様が『翼×ロベルトを書きたい』と名乗りを上げていらっしゃいます。実現すれば10年以上前に私が洗脳した九州の某さんに続いて史上三人目の翼×ロベルト作家になりますか。いやあ、楽しみだ。

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 でまあ、京屋としても「なぜにこうも自分の方向性が皆様から外れてしまったのか?」を考えてきた訳でございます。もうこれは個人的な傾向としか言いようがないんですが。

 さるセミプロ作家の方の本に書いてあったんですが――『「オズの魔法使い」と「西遊記」は同じ話である。「フランケンシュタイン」と「マイフェアレディ」は同じ話である』。これ、「物語」という物の本質を表す言葉だと思います。人々に普遍的に受け入れられる物語にはパターンがある。「悲恋」や「母恋」や「夢の成就」といった、人間の本質に感銘を与えるパターンを踏まない物語に(商業的)成功はあり得ない。
 やおいというのは、恋に恋する世代の女の子をターゲットとする物語です。受ける話立て・道具立てはおのずと決まってきます。おたく批評の中には「女の子はキャラクターではなく関係に萌える」という論旨があるのですが、恋愛方面に強烈なバイアスのかかった「友情」「信頼」「師弟」「ライバル」「依存」「主従」といった関係がやおい乙女の皆様の心を掴む。もっと言っちゃうとアニパロやおいというのは、自分の好きなキャラクターをこの関係図式にハメコむ事で成立するんです。
 京屋がはっきりやおいとの決別を感じたのは、自分で文章を書き始めて5年ぐらいの頃だったでしょうか。やはり京屋と同じくキャプテン翼の大空翼の物語を書いてらっしゃった同人の方のフリートークで『やおいってお伽話よね』という一文を見つけた時。それ読んだ時に「ああ、オイラお伽話が書きたい訳じゃないな」と思ったんですわ。王子様とお姫様のハッピーエンドや悲恋物語が読みたい訳でも書きたい訳でもない。自分はもっと別の物を書きたがってる。
 不遜にも、乙女の夢であるこの「物語世界」からの逸脱が、己のやりたい事だと悟ってしまった訳で。うーん、やっぱ他人に関心の薄いオタクの中でも並外れて唯我独尊だったんでしょうかねえ。あとやはり性的に変態だったからとか(笑)。下ネタ感性の特異は相当顕著に出るからねえ(笑、って笑い事にしていいのか自分!)。
 他人と同じ物書く位なら書かない方がいい。自分にしか書けない物語だからこそ、金も時間も使う価値がある。――最近知り合った国文院生の方にこの話をしたら『それは純文(純文学)に近いですね』と言われてしまいまして。そっか、自分はすでに滅びて久しい純文野郎だったのねと今更ながらに呆然。キャプテン翼で純文学! そりゃ浮きまくる訳だ(笑)。

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 同じ作品を好きになる人間は、同じような価値観を持ってる訳じゃないですか(同じ物に感動してる訳だから)。で、その感動を伝えあう手段として“物語”を持っていて、それを具体的に発表する場所として同人誌があったりHPがあったり。でもって同人誌即売会のような形で直接ファン同士が顔を合わせる機会が持たれたりいたします。そこでお互いがお友達になり、そんなこんなの繋がりが一種のコミュニュティみたいな物を形成する。――これがいわるゆる「同人誌界」として、アニメ・マンガ・ゲームの市場を支える土壌となっております。それこそ何十万人規模の「好きな物に金をかける」事を厭わない世代の集団ですもん。カモですよ、企業にしてみれば――。
 このコミュニュティ、非常に細かく大変親切に分割されております。好きな作品がゲームかマンガかアニメか。主人公が好きか脇役が好きか。友情に萌えるかライバルに萌えるか。その中から一番好きな物を選べる形になっている。どこへ行ってもハズレなし。同じ作品を好きになって、同じキャラクターを好きになって、同じような図式の話を書いてる者同士。盛り上がれない訳ないっすよね。おまけにその物語の中には、エロというかなり身内意識をそそる内容が入ってもいる。同じSMクラブの客同士の交流関係みたいな物っすかね(例え悪すぎだぞ自分)。
 で、こういう母集団の中で、認知された関係図式(無論ホモ)に則って書かれた物語が「アニパロやおい」。読者と作者が「同じ作品が好き」「同じ場所に集まる」という近しい関係の中で、あらゆる物理法則とあらゆる生物学的諸問題と『そりゃねーだろ、普通』というツッコミをすっ飛ばして認められた物語でございます。パロディ作品でありながら原作の力よりもはるかに強く、この共同体である母集団の認識が優先される(アニパロやおいにおいて、原作とは似ても似つかんキャラクターが横行するのはこのせいです)。ゆえに母集団の大多数であるやおい乙女の皆さんの好みが(恋愛観とか価値観とか時代とか)顕著に反映する物語。
 以前SM雑誌に載ってた小説読んだことあるんですが、いやもう「ンな訳ねーだろッ!」の連続でした。で、その時に思ったのが「やおいって、興味ない人が見たらこんな感じなんだろうなあ」ってコトで。同じ趣味、同じ憧れ、同じ幻想を持つ人のみの中でしか認知されない物語、とでも言うんでしょうねえ。
 そう言えば確か「不思議の国のアリス」って、たった一人の女の子のために書かれた物語でしたね。そういうお話があれだけの普遍性を持っているあたり、なんか不思議な気がいたします。抱腹絶倒のギャグをこれだけ頻繁に目の当たりにしていると、ちょっと信じがたいかな。

 で、まあ本題なんですが。京屋の書くお話というのは、これら母集団における暗黙の了解事項、いわゆる「同人誌界のお約束」完膚なきまでにけたぐり倒しているようなんでございますね(号泣)。
 今でこそ開き直ってますが、昔はけっこう辛かったっす。なんで自分は皆と同じ物を好きになれないのか、なんで皆は自分がいいと思う物をあっさり見逃してしまうのか。――開き直るのに、5年ぐらいかかったかな(笑)。自分と他人の好きになる物が違うのはアタリマエだ、と腹に落とすのにそれくらいはかかってる。頭じゃ当然と思ってても感情がどーしても嫌がるんですわ。おかげで友達なくしたりしてるし、今でも友達少ないし(笑)。
 それもこれも大きな世界から見れば、小さなコップの中の嵐。


 こうして客観的にやおいを語れるのは、そういう番外地にいたからこその事でしょう。やおいにどっぷりハマってる人に「あなたはどうしてやおいを読むのですか」と問うても、答えが返ってくる確立は相当に低い。これは男性に「あなたはなぜヌードグラビアを見て興奮するのですか」と聞くに等しい質問ですからねぇ。答えるには、自分以外の視点を意識しなきゃなんない。セクシャリティが絡むと、これが相当難しくなる。
 京屋が一般人歓迎オタクサイトなのも、根っこはそれだったりいたします。「やおい」のような身内色の濃い物を公開するのは、そりゃあやっぱり恥ずいです。んでも、京屋の場合、身内である同人社会で受け入れてもらえないという事情がある。だったら違うセクシャリティを持つ人に向かって投げるっきゃないっしょ? 恋に恋する女の子には受けないかも知れないけれど、他の人ならまだ面白いと思ってくれる可能性がある。
 「やおい」コミュニュティの境界線をはみ出しちゃった人間の前に、すでに「一般常識」の国境は存在しない(ちょっと待て!)。あとは自分の技量次第。とりあえず「ジュブナイル作品」としてどれだけ納得してもらえるか、って所から入ろうと思ってます。

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 ごくごく最近の事です。これはワタクシ相当に驚いたんですが、「あなたはなぜこのキャラクターが好きなんですか」と問うた時、きちんと答えられないお嬢さんがいらっしゃいました。いやあ、好きになった作品のために給料全部使い尽くすオタクの常識では、考えられない事なんですけどねえ。そういう時代なんだなあと隔世の感(しみじみ)。
 好きで好きでたまらない相手が、よりによって2次元のキャラクターであったといたします。実在の人物なら、振り向いてもらうためにモーションかけたりするじゃないっすか。2次元相手の場合、どうなるか? キャラクターグッズを集める? 原作者やアニメーターとお友達になる? やはり同じようなファン仲間とつるんで、夜通し己の愛を熱く語る(笑)?
 「書くこと」は直接そのキャラクターと繋がる事だと思います。自分の中のその人物に対する妄想を「書く」。「書く」ことでその人物を自分のモノにしてしまう。自分の一部をその人に孕ませ、その人の一部を自分が孕む。二次元相手じゃ、それ以外に相手にアクセスする方法はないでしょう。今改めて考えてみれば、ほとんど相手を強姦するに等しい行為だよなあ(笑)。
 「パロディを書く」ってのは元々はそういう作業でした。人は世につれ…。今はちょっとばかり違ってきているみたい。

 みんなと仲良く作品について語りたい。エッチな話で盛り上がりたい。仲間だという同胞意識が持ちたい。だからやおいを読む。共感を得やすい関係パターンにキャラクターをハメコんでお話を書く。みんなが飽きたと言う作品はさっさと古本屋に売り払って、新連載の新しい作品に関心を移す。作品は好きだけどこだわる気はない(苦笑)。うん。たぶんそれが今風なのかも知れない。そうやって面白い物をスキップして、お友達と笑い会っていららればいいのかも知れない。たかがマンガ、たかがアニメ。ディープでコアなオタクなんて冗談じゃないのかも。どう考えてもオイラよりそっちのが健全そうだ(ちょっと鬱入っちゃうぞ)。
 だからこれは年寄りの繰り言になっちまうんだけど…オイラ的にはもうちょっと足場固めて欲しいかな、と思ってます。好きな物を批評されると自分の価値観否定されたみたいに傷ついたり、感情的に怒り狂ったり。共同体意識が強すぎて、個人の「好き」がうち消されてる感じがちょっとイヤ。誰かに肯定して貰わなきゃ言えない「好き」や、人にケナされた位で壊れる「好き」って、なんか情けない気がするしぃ。
 まあ「世界中で誰もやってないカップリング」をあえて10年も続けてきた変態が言うとしたらそういう事になっちまうんだよなあ(笑)。人はみな絶海の孤島。橋をかけるのが「繋がり」ならば、作品は「のろし」か「流れ着くヤシの実」か。するってえと「やおい」って「共同幻想の低い雲」。上げた「のろし」を吸い込んでデカくなる(笑)。

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 世代的に京屋は、偏差値重視の管理教育まっただ中に育ちました。押しつけられる枠組みがやたら窮屈でねえ。だからきっと何かと対峙する意識が強いんでしょう。作品と対峙する事も、キャラクターと対峙する事も、自分の中の「好き」と対峙する事も、「やおい」に名を借りた自分の一番好きなストーリーパターンも、あるいはあの教育の賜物だったのかなあ(と、取って付けたような論理武装)。尾崎豊まんま、教室のガラス割るヤツとか校舎の屋上から飛び降り自殺するヤツとか職員室に放火するヤツとか…色々いたよなあ。
 今やおいの主要読者層世代は、どっちかと言うと個性重視の教育受けてきた人たちですね。押しつけられていた枠が取り払われて『どこでも好きな所に行きなさい』と言われたはいいが、どこへも行けず。とりあえず人の輪の中で中庸を尊しとするような、優しい若い人たち。で、トレンドがヒッキーとイジメ。…いいんだか悪いんだかって感じだなあ。
 心優しき若者の皆様、どうか尖った年寄りを嫌わないでね。いや、嫌われたからってヘコむような神経の持ち合わせはないけれど(笑)。

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 人は世につれ世は人につれ。行く川の流れのよどみにオタクは集い、また流れ。するってえと京屋は一人ぷかぷか浮いているドザエモンか?
 …そんな訳でございますので、特にキャプテン翼の同人事情を知っらっしゃる皆様には少々戸惑うだろう物語が、この先には転がっていたりします(一般常識的観点からは、そんな壊れた物は置いてないつもりなんですが)。「それでもいいわ」って方だけ、同人部屋にお進み下さい。



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