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アポトキシン4869

 アポトキシンというのはアポトーシス(細胞自死)とトキシン(毒素)からなる造語と思われる。人間の体細胞に無条件に自死(アポトーシス)を促す薬らしいが、詳細については不明。
 ここではこの謎の薬が一体どのような物であるかを考察し、その疑問点・問題点も合わせて考えてみたい。

 アポトーシス(細胞自死)は概念自体それほど古いものではない。細胞の死として古くから認められていたのはネクローシス(細胞壊死)のみであり、アポトーシスに関してはネクローシスの一形態として現象のみ知られていたようだ。
 ネクローシス(細胞壊死)とは、何らかの外的要因に対する細胞の死滅を表す言葉だ。たとえば打ち身や切傷・熱などにより細胞機能が阻害され、細胞膜が傷ついて内部の細胞質・イオン・リソゾーム等が細胞外部に流失する事を言う。いわゆる細胞の“事故死”とも取れる破壊であり、浮腫や発熱、ウィルスによる化膿などを引き起こす。このような明らかに目に見える現象が古くから知られていたのは当然であり、細胞の死についてはこれのみが全てであると長く思われていた。
 これに対してアポトーシス(細胞自死)は、細胞が自ら消滅し、周囲の細胞に取り込まれるような形での細胞の死滅を表現する。たとえばオタマジャクシがカエルに変態する時の尻尾の消滅がそうである。人間の手指の形成も最初にグローブ上の物ができ、後に指間の細胞が死滅することで手指が形作られることが知られている。このような生命の変態段階・発生段階でなくとも、放射線や薬物により異常を起こした細胞が自ら死滅する事や、増えすぎた細胞が間引かれる事、寿命が尽きた細胞が自死する事など、ごく日常的にこのアポトーシス現象は起こっている。
 周囲の細胞に多大な影響を及ぼすネクローシスと違い、アポトーシスは非常にスマートに行われる。自死する細胞は核の中のDNAも含め細かに分断され、非常に小さな断片にと変化する(アポトーシスという現象が確認される前、この現象を“凝固壊死”と呼んでいた。細胞が小さく固まり死滅する状態を表した物と思われる)。そしてこの断片は速やかに周囲の細胞に吸収されてしまう。周囲に迷惑をかけず死に、その死体は周囲のエサになると思ってもらえばいいだろう。
 アポトーシスの面白い点は、細胞自身が死を決断し実行する所にある。たとえば前述の手指の形成などでは、死滅する細胞は周囲からの情報により「自分はいらない細胞である」事を認識する――この仕組みはまだ解明されていないが、グローブ状の状態で上皮細胞を除去すると手指の形成が損なわれることから、皮質を通じて“その細胞が不要である”旨のメッセージが伝達されるらしい――。あるいは放射線などにより、不可逆な変化をしてしまった細胞が「自分は異常な細胞であり、分裂して増殖してはならない」との判断を下す。
 このような判断が下されると、その細胞内のDNA上にある“死の遺伝子”が活性化され、その細胞をアポトーシスのプロセスへと導く。現在そのような“死の遺伝子”は数十種類ほど報告されており、そこから情報をコピーされて作られるタンパク質の機能解明が行われている。ここで作られるタンパク質こそが、細胞を自死させる直接の要因だ。
 アポトーシスは、増えすぎた不要な細胞を除去するため、あるいは望ましくない突然変異を起こした体細胞が増殖し生命を脅かすことのないように、細胞自らが判断し死を選ぶ現象を指す。ゆえに“自死”と訳される。

 現在、主にガン研究の見地から、アポトーシスを引き起こす薬品の研究が進められている。ガンは本来アポトーシスによって消滅するべき細胞が増殖することによって引き起こされる病であり、そこに正常なアポトーシスの機能が働けば、ガンの治癒が可能だからだ。現在使われている抗ガン剤というのは、増殖したガン細胞のアポトーシスを誘導する薬品に他ならず、その副作用とは正常な細胞にもアポトーシスを誘導してしまう事に他ならない。

 アポトキシン4869は体細胞の爆発的なアポトーシスを引き起こす薬品であるが、副作用として若年者(おそらくは20歳未満の者)が服用した場合、身体年齢がほぼ10歳若返る事例が報告されている。はたしてそのような事は可能だろうか?

 人間を初めとする生物の体細胞には分裂限界という物がある。ヘイフリック数と呼ばれるこの数値は、分裂に充分な環境を与えられた細胞がそれ以上は分裂できない限界の尺度として使われる。これを決定しているのが、DNAの末端に付随している「TTAGGG」という末端塩基(テロメア)の数だ。DNAが細胞分裂によってコピーされるごとにこの末端塩基の数は減り、この塩基がある一定数以下になるとそれ以上細胞分裂(DNAコピー)ができなくなる。
 生まれたばかりの赤ん坊の細胞にこの塩基の数が多く、老人の細胞にこの数が少ないことから、この塩基数が老化を司るのではないかと言われている。まだ仮説段階であるが、これ以上分裂できなくなった(老衰した)細胞のアポトーシスについて次のような推論がある。
 テロメアのすぐ近くにアポトーシスを抑制する遺伝子があり、テロメアが長いうちはこれが正常に機能するが、短くなると機能しなくなり、これ以上分裂できなくなった(寿命の尽きた)細胞に対してアポトーシスを誘導するという物だ。
 もしもアポトキシン4869が上記の原理を応用したテロメアを分断する薬品であるとしたら、そして一定年齢以下の若い細胞に対しては、分断され過多になったテロメアの元でテロメアの伸張現象が起こるとしたら…この副作用は納得できるのではないだろうか。
 面白い報告がある。ガン関連遺伝子として報告されているc−mycという遺伝子についての物だ。この遺伝子は細胞増殖を促進させるよう働くものだが、この遺伝子の活性化した細胞から増殖要因を取り除くと、アポトーシスが誘発されると言うのである。つまりc−mycは状況に応じて細胞増殖の促進もするしアポトーシスの促進もする。全く逆の働きを状況に応じてやり仰せる。
 アポトキシン4696によって爆発的なアポトーシスが進行している状況では、多くのc−mycが活性になっていると思われる。が、この遺伝子は一転して細胞増殖に転じる可能性がある訳だ。この遺伝子が、体細胞を殺すと同時に甦らせる働きをするという仮説はかなり魅力的なものだ。
 つまりテロメアの分断によって細胞は自らが老いた死すべき細胞である事を判断し、c−myc遺伝子を活性化させる。しかし一定以上のアポトーシスが進行すると、今度は活性化したc−mycがテロメア伸張によって若返った細胞の増殖を促進する働きに転ずる――。若年化の副作用を考えると、これが一番もっともらしいプロセスと思われるがいかがな物であろうか。

 無論問題点はある。あるどころか問題点だらけだ。
 まず、いくら若い細胞が増殖したからと言って、それで若返る事にはならない。理論で考えれば無秩序に増殖するガン細胞と同じく、身体機能を損ねるような細胞の増殖になる事は目に見えている。身体に身体としての外見・機能を与えるならば、それを示唆する何らかの信号が(前述の手指の形成のような)必要な訳で…アポトーシスと細胞増殖が平行して進行するような状況で、そのような信号が正常に伝わるかは怪しいものだ。「何の細胞をどれだけ作れ。増えすぎた細胞はここまでの数になるまでポアせよ」という大変デリケートな指令が、アポトキシン4869の影響下にある体の中でどこまで正常に伝わっていくだろう?
 小学生の外見だからこそ“名探偵コナン”だが、これがガン細胞の固まりみたいな外見だったらホラーマンガになってしまう。
 次に神経細胞の問題。受精数ヶ月で形成され、その後分裂増殖しない神経細胞に対してアポトキシン4869は作用しない事になっているが、日に平均10万個の脳細胞が死んでいるのはまぎれもない事実である。これはアポトーシスとは意味合いが異なることからアポビオーシス(細胞寿死。寿命死)と呼ばれているらしいが、これも細胞内の死のプログラムが働いての死には違いない。無条件のアポトーシスを誘発するアポトキシン4869が、神経細胞だけをその例外とするというのはかなり不自然である。
 よしんば神経系に対して何ら影響を与えなかったとしても、その事に対しても問題はある。人間はおおよそ10歳前後から二次成長が始まり、性的な成熟を見せる。これを司どるのが脳下垂体視床下部。7歳児の体に視床下部から男性ホルモンが分泌されれば若年生成成熟という現象を引き起こす。早い話、ヒゲや陰毛を生やし、成人男性並の性器を持った小学一年生が誕生する訳だ。
 ついでに言うならば、受精後に形成され、その後は分裂も増殖もしない細胞が他にもある。心筋細胞がそれだ。もし神経細胞と同じく心筋も何ら変化を起こさないとしたら、7歳児の体に17歳児の心臓を持つことになり、循環器系に重篤な傷害を引き起こす。しかし心筋細胞が体に合わせて7歳児レベルまで退行したとすればさらに問題で、そのような激しい変化を甘受した細胞が正常でいられるとは思いがたい。恐らく遠からず心不全で命を落とすだろう。

 余談ではあるが…17歳の体から7歳の体に変化するとき激しい発熱があるのはいいが、7歳から17歳に変化する時発熱があるのは、体の質量からしてエネルギー保存の法則に反しているという議論があった事を付記しておく。これには変身時には周囲の重力場が歪み、そのエネルギーを吸収して発熱しているのだという推論が提出されているが、無論検証はされていない。

 いずれにせよこの不可思議な現象を引き起こす薬、基本論理だけでも学会に提出すればノーベル賞は間違いあるまい。近年ものすごい勢いで延びている(非常なホットな研究ジャンルである)分子生物学に、大きな一石を投じる研究課題であると思われる。

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