一 青春の分岐点
◇召集令状
◆電報

電車が京浜線田町駅に止まり自動扉が開いた。私は反射的に読んでいた夕刊を折って上着のポケットに入れ、ホームに降りた。もう一年一ヵ月もこの駅で乗り降りしている。いつものように改札口を出て明治製菓の前を通り、箏曲の家元である女優高峰三枝子さんの邸宅の横の道を通り抜け、下宿屋宮木館へ帰った。今日は会社で残業をしたので、帰ったのは八時過ぎだった。
玄関を開けた瞬間、女中のおなみさんが出てきて、「小田さん電報よ。今少し前に受け取ったのよ」と言って差し出した。電報!デンポウ、私はもしかと胸が高鳴った。早速開けて見ると、「コウヨウ キタ 十五ヒ ハイル アトフミ」(公用 来た 十五日入る 後 文)ついに来るものが来たと一瞬思った。召集令状が家に来たことを、父が、東京に住んでいる私に、急いで電報で知らせてくれたのである。二月十五日に入隊せよとの召集令状は、速達で後から送るという意味である。
満二十一歳の誕生日を二月四日に迎えた翌々日、昭和十八年二月六日のことであった。この時勢に、兵隊に入れないのは病弱か、体のどこかに欠陥があるか何かで、使いものにならない男だと一般に言われるような時代であった。だから、私は誇らしいような気がする。しかし、その反面、重くのしかかる現実が待ち受けていることを感じ、その心境は微妙で、表向きは入営したい気持ちであるが、内面は行かずにすむなら行きたくないという気持ちがどこかにあった。
早速、内田富士雄君に電話した。彼とは学生時代からの親友で、学生の頃は同じ下宿の同じ部屋に泊まり共に学び共に遊んだ仲だった。社会に出てから現在彼は浦和の自宅から東京へ通勤していた。私がその時住んでいた宮木館も、区役所に勤めておられる彼のお父さんが見付けて下さったという程の親しい間柄であった。従って、何か事があると気心のよく通じる彼に相談していた。電話をかけた私の言葉はうわずっており、自分の言っていることがよく聞き取れないのではないかと思った。しかし、彼はすぐ「おめでとう、大いに張り切ってやれよ」と言い、「明日夕方勤めの帰りに寄るよ、元気をだして待っておれ」と励ましてくれた。
黒沢茂治君にも電話した。彼も同じく学生時代からの親しい友達で東京へ勤めるようになってからも、よく電話したり、お互いの下宿へ行ったり来たりし、勤務の状況、将来のこと、戦況などを語り合う仲であった。彼は「僕より君のほうが早かったね。一歩遅れてしもうた」などと冗談を言い、「元気でやれよ、送別会を同志でやろうぜ」と勇気づけてくれた。電話のある廊下から自分の部屋に戻ったが、今は何をしてよいのか分からない。
そのうち、女中が夕食を運んで来てくれた。下宿で、しかも食物も配給制で乏しい時節であったが、特に今日はお頭付(かしらつ)きの小さな赤鯛が別に一皿付けてあった。しかし、気持ちが高ぶっており、いつもとは味が違いザラザラとして喉を通りにくい。お汁で流し込むようにして食べた。
やがて、女中のおなみさんとさつきさんが、二人揃ってお膳を下げに来て、「おめでとう」と言って慰めてくれたり、元気づけたりしてくれた。
うつろな下宿の部屋の中は余計にうつろで、何をしてよいか分からない。考えるでもなく考えないでもなく、立ち、また座り、机の上にふんぞりかえってもみた。
町へ出て、慶応大学前の電車通りをしばらく歩いた。もう人通りも少なくなっていた。その内、急に甘いお菓子が食べたくなったので、小さな喫茶店に入りコーヒーとケーキを注文した。軍隊に入ればこのように落ち着いて静かな時を楽しむこともできないだろうと、しばし瞑想にふけった。外に出ると霧が出ていて街灯が乳色ににじんでいた。この景色をいつまた見ることになるだろうかと、感傷的になった。俺は行くのだ兵隊にと、手を握りしめた。
宮木館に帰り、再び机の上の電報を見直した。「醜(しこ)の御盾(みたて)となるのだ」と、力強く一人で言ってみた。
しばらくして階段を上がって来る足音がして、私の部屋の前で止まった。その足音で誰であるかすぐに分かった。この下宿屋の主人である。外から「小田さん」と声がかかる。「どうぞ」と言うと、戸を開けて主人が入って来た。平素からこまめによく働く人でなかなか愛想もよく、小柄だがすっきりとした感じのよい方である。
主人はいつもとは少し改まって「お邪魔します」と言ってきちんと正座し、「小田さん、この度は召集令状が参ったそうで、誠におめでとうございます。今時の人は、兵隊に行かないようではつまらんです。どうせ行くなら早い方がよいですよ。私なんかどうも」と言い、その後「小田さんなんか学校を出ておられるんだから、すぐに幹部候補生で見習士官になるんだ。しっかりやって下さい。いや日本は勝ちますよ、きっと。今日もニュースで米国の航空母艦一艘と駆逐艦二艘やっつけていましたよ」と勇気づけてくれた。

次の章に進む

TOPへ戻る