私も、戦争は次第に苛烈の度を増していて、ここで我が国民みんなが頑張らねばいけないのだと強く思っていたので、「入隊したら元気でやりますよ」と言った。そうは言ったものの、軍隊生活は並々ならぬものがあると聞いていたから、これから先の不安が私の心の大半を占めていた。
「それで、お勤めの会社の方は?」と主人は尋ねた。私は、「今までの人がみんな応召(おうしょう)中は給料がもらえているので、もらえるはずですが、明日会社に行ってみないとはっきりしたことは分かりません」と答えた。
「郷里は岡山でしたね、いつこちらをたたれますか?」さすが主人、私の郷里も覚えているし、下宿代の関係、配給米のこともあり、細々(こまごま)と尋ねた。私はまだぼんやりしたままで、そんなことを決めるまで頭の中が回っていなかった。
「そうですね、まだはっきりしないのですが、四、五日先になると思います。会社関係の仕事の整理、いろいろの手続きやゴタゴタとした片付けもありますし、送別会もあるでしょうから:Z:」と話しているうちに、しておかなければならないことが頭に浮かんでくるようになった。
主人は要点を話し終えると、「どうかゆっくりお休み下さい」と丁寧に挨拶をして出ていった。
もう十一時を過ぎていたので寝床に就いた。
私は徴兵検査(ちょうへいけんさ)の結果第二乙で輜重兵(しちょうへい)と決まっていた。軍隊に入るランクは体格により甲種・第一乙・第二乙の順である。当時甲種と第一乙は現役として四月に入隊し、第二乙は現役ではなくそのうち召集されるのである。
輜重兵は弾薬や食料や戦争に必要な物資を輸送運搬する兵科で、馬によるのと、自動車によるのと二種類あると聞いていた。馬によるのは輓馬(ばんば)と言って荷物を載せた車を馬に輓(ひ)かせるのと、駄馬(だば)と言って車の行かない細い山道を馬の背中に荷物を載せて運ぶやり方とがある。馬を扱うより自動車の方がよいと思い、暇をみてはこの一月から自動車教習所へ通い始めていたが、まだ三、四回しか行っていなかった。こんなに早く召集令状が来るのであれば、もっと早くから習っておけばよかったと思ったが、後の祭りであった。姫路の輜重(しちょう)聯隊(れんたい)に入るのだろうが、手紙が来なければ、はっきりしたことは分からない。それに馬の方になるか自動車の方になるかは入隊してからでないと分からないことで、二月十五日の入隊の日を待つだけである。
ここで参考までに、同じ専攻学科の同級生三十三名のことを言うと、大多数の者は昭和十六年十二月初めには、既に満年令で兵役適齢である二十歳になっていたので、十二月下旬の繰り上げ卒業直前の在学中に学校で一括して徴兵検査を受け、十七年二月には既に大部分の人は入隊しており、一年が経過して、ぼつぼつ見習士官になり始めていた。
しかし私や内田君、黒沢君、中村君達三、四名の者は、俗にいう七つ上りで、その時まだ兵役適齢に達していなかったので、検査もなく、卒業と同時に東京辺りの官公庁や会社に普通に就職し、約一年一ヵ月を経過していた。その間の昭和十七年八月頃私達はそれぞれの本籍地で一般の徴兵検査を受け、現役入隊をするか、またはいつ来るか分からない召集を覚悟していた頃であった。
そんな時、私に、現役兵より二ヵ月も早く召集令状が来たので驚いたのだ。後日聞けば、内田君、黒沢君はその後四月に現役兵として入隊し、中村君は一年以上も後に召集令状が来たということであった。
私達は一般の徴兵検査だったために適材適所等でなく適宜(てきぎ)の兵科に分類された。私は背が低い方なので、輜重兵へ分類されたのだろうと思われる。

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