しかし、何かしら戦争の重圧が次第にのしかかって来て、押され気味の感じがしないではなかった。もちろん、私は日本のすべての報道が歪められているとは思わなかったが、黒沢君は少し違う批判的な感じ方をしていたようであった。
「こうやって、いつまた会えるだろうか。同級生でも学校を卒業してしまえばなかなか会えないのに、戦争に行ったりすればなおさら会えなくなるだろうなあ」こんな思いは誰の胸の内にもあった。戦況に暗雲が垂れ込めており、すっきりしないからこんな言い方になるのだ。
「戦争でも終わりみんな元の職場に勤めるようになれば、会えるさ」
「しかし、この戦で、散りじりバラバラになれば分らないさ。でも、お互いに手紙だけは出そうぜ」
食事もすみ外に出て夜の銀座をみんなで歩いた。戦時中で以前よりネオンが少ないが、それでも美しい店が並んでおり、今度はいつ来ることだろうかと思いながら歩いた。
「明日は、九時三十分発下関行き急行だから八時半に表中央口で会おう」と約束して別れた。
私は、もう下宿を引き払っており、寝る所がない。内田君の家に泊まらせてもらうことにしていたので、浦和の彼の家に行った。学生時代から何回か、夏休みには実習期間の二十日間もお世話になったことがあり、家族の人とも親しくなりよく知っていたので、余り気兼ねしないでお邪魔することにした。
内田君の御両親と、同居の従妹(いとこ)の静江さんが、入営を祝い励まし勇気づけて下さった。特にお母さんは、ぜ・ん・ざ・い・をして待っていて下さっており、一口食べると非常においしいと思った。この頃はもう砂糖の配給が少なくなっており、下宿していた私は、殆ど砂糖の味を長く味わったことがなかった。お母さんは、貴重品の砂糖を私のために使って下さったのだろう。真心のこもったぜ・ん・ざ・い・を頂戴した後、寄せ書きに名前を書き込んで頂いた。
彼の御両親も、私の応召は特別身近に感じられ、やがてくる我が子の入営を二重写しにされていたようであった。
「元気を出してやりなさいよ、小田さん。小田さんが少し楽になった頃に、うちの富士雄が入るんですから、本当に楽しみがよいですよ」とお母さんが言うと、
「軍隊は叩いたり、ひどい目にあわせるんだってね」と静江さんが心配してくれる。
「当たり前だよ。それがなくては、軍人精神が入らないんだってさ」と内田君が男らしく説明する。
「若い者は一度苦労して来るのもよいさ。富士雄のようななまくら者は::」とお父さんが言うと、
「全くねえ、男の子は兵隊に行かなくちゃあならないし」と母親の実感がしみじみと会話の間ににじみ出てくる。
「大変お世話になりました。一生懸命やって来ますから。また、お手紙を送ります」と私は挨拶をし、夜も更けてきたので休むことにした。
別室で内田君と二人で枕を並べて横になるとすぐに、彼は「お前彼女に知らせたか? 早く知らせておけよ」と言った。それは、西澤とよ子さんのことである。西澤家は山形県の米沢市で上杉藩の上級士族の直系にふさわしい風格と奥ゆかしさを感じるお家であった。一、二年前の学生の頃私と内田君が一緒に下宿し大変お世話になったその家の娘さんのことで、私がほのかな思いを寄せていたのである。「まだだが、早速知らせよう」と自分のうっかりしていたのを恥じながら答えたが、急に彼女が懐かしく思われた。
続いて、内田君が学生の頃から恋愛関係にあった米沢の大和田常子さんのことについて話した。学校を卒業してから一年少々になるが、彼は将来を約束し、手紙などかなり頻繁にやりとりしていること、三回ばかり会いに行ったことなど、愛する人への心の動きを細かく話す。そして彼も四月に入隊が決まっているが、その先どうなるか心配だとの話で、私は聞かされ役ながら、彼と彼女の先々が幸せになることを祈った。
内田君と語り合ううちに、夜は更けていった。

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