◆内田君と学友達のその後
ビルマ戦線に直接関係の無い余談であるが、学友達のその後についていささか述べておきたい。
まず内田富士雄君であるが、彼は頭も良く勉強も良くできたうえに、理工科系の人には珍しく、人間の情緒、豊かな知識、幅広い教養を身につけた明るい人となりであった。私は彼から多くのことを見習い感化を受けてきた。私の人間性を創るのに、彼が大きな要素となったことは事実で、今でも彼に感謝している。
彼の恋人であった大和田常子さんとは、彼が入隊後も文通は当然継続した。
少尉に任官し内地勤務だった彼は昭和二十年八月十五日終戦となり、間もなく浦和の自宅に復員し、元勤めていた逓信省(ていしんしょう)に復職した。将来を約束していた二人は希望に燃え、浦和と米沢では少々離れていたが、幸福な会う瀬を楽しんでいた。ところがある日、彼女は友人と登山をして雨に濡れたのがもとで、急性肺炎にかかり、終戦後の薬の無い頃で、二十一歳の若い命をはかなく終えてしまったとのこと。私は自分がビルマから復員して後の、昭和二十二年の秋になってから、彼と四年半振りに会い、初めて彼の口から細かく聞かされた。
あまりにもドラマチックな二人の出会いと別れを聞き、唖然とせざるをえなかった。その時は彼女が亡くなってからもう一年以上も経っていたが、私は彼を慰める言葉を探せなかった。
親友内田君の痛手はいかに大きかったか、どんなに悲しいことだったかと思う時、『人生は小説よりも奇なり』と言うが、奇であり起きてはならないことが起きるものであると、私は、人の命のはかなさをしみじみ感じさせられたのである。
黒沢茂治君も、私の召集より二ヵ月後の四月に現役兵として入隊した。彼は早くから、大本営の発表は正しくないという見解を持っていたが、別に反国策分子ではないし、真面目に軍隊生活をして少尉に任官し、内地で終戦を迎え、元の職場である国際電電に復帰し順調に戦後の勤務に取り組んだ。
中村君は第二乙だったので、現役ではなく、ずっと遅く召集がきて、内地勤務だった由であるが、大手メーカーに勤務し順調に戦後を生き抜いてきた。
林君は健康上のことから軍隊には関係がなかったようで、引き続き放送関係に勤務した。
丸山君は岡山二中(岡山操山高等学校の前身)時代からの同級生であり、米沢高等工業学校へ一緒に入学し共に学んだ間柄で深く親しい学友であった。彼は温厚で世の中のことを何でもよく知っていたので、しばしば相談相手となってもらったものだ。彼も現役で入隊し将校になり軍務に服したが、内地勤務だったので、終戦後早く復員し時世の移り変わりをよく知っていた。私は、終戦後二年経過してから内地に復員したので、世情が全く分からず、方向感覚がつかめなくて、どのような気持ちで生きていけばよいのか見当もつかず苦悶した時があった。その時も早速丸山君を訪ね、敗戦後の社会に処する心構えを聞いて大変助かったことがあった。大切で頼りになる友達で、同じ岡山市に住んでいるので、今も時折旧交を温めあっている。
学友達にも若干の戦死者があったが、大部分の者は復員後、従来の勤務先に復帰し、または新しい職場で、戦後の復興と社会の発展に取り組んできた。
今、福岡県出身の河野君、北海道出身の高田君、加茂君、東京都出身の佐藤君、岐阜県出身の野口(旧姓林)君、横浜在住の松田君、京都在住の長(ちょう)君、大阪在住の関口君達は健在のようであるが、歳月の経過と共に、さきに掲げた内田・黒沢・中村・林・石川君等は今より十〜十五年前に他界し、他の学友達も近年急速に減りつつあり、時の流れを感じる昨今である。亡き友人のご冥福をお祈りし、わが人生の終焉(しゅうえん)近きを思う。