◆東京よ さようなら

内田君の家に一泊させて頂き、ゆっくり休ませてもらった。お父さんも内田君も普通の通りに勤めに出て行き、お母さんと静江さんが北浦和駅まで、見送って下さった。ホームで「小田さんお元気に、頑張って下さい」と、お母さんの目にキラリと光るものがあった。静江さんはいくらか赤い顔になり、うつむき、悲しみをこらえていたようであった。私はお母さんの健康と静江さんの幸せを祈り、男らしく大きな声で「では元気で行って来ます、どうかお元気に。さようなら。さようなら」と言っている間に電車は動きだした。
明治神宮にお参りし、玉砂利と高い杉の林の中を歩いて行くと、心も体も清められる心地がした。そのあと宮城にお参りしたが、夕暮れ前のせいか宮城全体の景色がぼんやりとして、涙ぐんでいるように見える。気のせいか、曇り空のせいか、冴えない影をしている。私はなぜか不吉な感じを覚えた。そんなことを考えてはいけないと思いつつも、大変な戦争だ、負けるのではないか? 一瞬そんな思いが頭の中をよぎった。
夜になり、東京駅に行った。私は国民服に日の丸の襷(たすき)をかけ、トランク一つ提げ、凛々(りり)しい姿になっていた。八時半頃になり勤務先の会社の方々、川添課長を始め斉藤さん上甲さん達も次々に見送りに来て激励の言葉をかけて下さった。内田・中村・黒沢・林君達の学友も揃って来てくれた。
「皆さん、有難うございます。お忙しいところを本当に有難うございます」と何回もお礼を言った。
あちらでもこちらでも入営者を送る集団が出来ており、東京駅は軍国調に塗り替えられて、沢山の出征兵士が送り出されていた。ホームには入れないし、混雑し迷惑にもなるので、改札の手前で送ってもらうことにした。
どこからか軍艦マーチのメロデイーが聞こえてきて、いやが上にも志気は高まっていた。
私を囲んで大きな円陣が出来ていた。「小田君、頑張れ」と激励の大きな声がかかったり、沈黙の瞬間もあったが、時間もそろそろ近づいたので、私はひときわ大きい声を出し「大変お世話になりました。遠路のところ誠に有難うございました。心からお礼申し上げます。では元気で行って参ります」と最後の挨拶をした。
誰かが音頭をとってくれ「小田敦巳君の健闘を祈って、万歳三唱」とリードした。「万歳」「万歳」「万歳」と大きな歓声が挙がった。歓呼の声が東京駅の中央口ホール一杯に沸き立ち、私は身の引き締まる思いがした。大きく揺れる旗の波、お世話になった方の顔、顔、顔に別れを告げ、改札を入った。いつまでも去ろうとせず見送って下さった。
急行列車は汽笛と共に緩やかに動きだした。東京よさらばだ。東京の人よさようなら。この駅でどれだけ多くの人が肉親、知人と別れて行ったことだろうか。そしてどれほど多くの人が永遠の別れとなったことだろうか。
就職以来一年一ヵ月間世話になった東京。大東亜戦争が起きてから一年三ヵ月が経過し、戦時下で物資も不足し、暮らしにくくなってはいたが、若い私には魅力ある街であった。なんと言ってもわが国の政治と文化の中心地であり、大きなビルや劇場もあり、学ぶ人にも、働く人にも、また遊ぶ人にも恵まれた環境のこの都会であった。汽車は横浜を過ぎ、大船を通過し、夜の東海道をまっしぐらに走り続けていた。リズミカルな音を聞きながらいつしか眠っていた。

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