「お前元気だったか。いよいよ赤紙がきたので、速達で送ったが召集令状を受け取ったかい」
「受け取った。持って帰ったよ」
「会社の方は仕様がないが、まあしばらく、兵隊生活をしてくるんだなあ。早く将校になるように、よく頑張るんだなあ」と父が言った。
やがて夕食もでき、両親と私の三人で飯台に並んだ。久し振りに母の料理、母の給仕で食べる御飯は美味しかった。私が生まれてから永年育てて下さった母の味であり、それに輸入米でなく、田舎で取れた純粋の白米だったせいでもあった。妹の静がおればみんな揃うのになあ、と思いながら食べた。近所の様子や、東京の土産話等をした。その晩は幼い頃から住み慣れた我が家で、足を伸ばして休んだ。
次の日は、近所や親戚に挨拶と顔見せに行って、田舎の話を聞き、東京の話をし、軍隊の話を聞いたりしているうちに日が暮れた。夜になり、三つ年上の河本梅雄さんが家に来て下さった。
「敦巳(あつみ)さんいよいよ入営だそうですね、それはおめでたいことです」まず当時誰もが交わす、常識的な挨拶をした。「わざわざ、お忙しいのに来て頂いてすみません。こちらからお訪ねすればよいのに」と言うと「いやいやお疲れでしょうから、それにどこで話すのも一緒ですから」と、頭の良い彼は、一年前輜重隊に入っていた時の模様を順序よく、しかも詳しく教えて下さった。
「敦(あっ)ちゃんと昔、子供の頃一緒にやっていたチャンバラごっことは、ちょっと様子が違いますからね。軍隊という所はこの社会とは違った所ですから、ここでは考えられないようなことが、沢山ありますよ」と前置きがあった。
「まず兵隊では、要領が良くなくてはいけないんです。要領の悪い人は叱られたり、殴られたりする回数が多くなりますから、なんと言っても要領が第一です」
父もこの話を一緒に聞いていた。そのうち母もどんな所かと仲間に入り、心配そうに聞いていた。
「入ってしまうと朝から晩まで追い回され、自分の時間など取れないから、今のうちに、軍人(ぐんじん)勅諭(ちょくゆ)を覚えておいた方がよいですよ。軍人勅諭とは、軍人として守らなければならない五ヵ条からなる教訓で、かなり長文ですが」
「それから員数合わせということが大事なんです。員数とは各個人に与えられている品物、それには鉄砲、帯剣(たいけん)等の兵器を始め、帽子、軍服、脚半(きゃはん)などの衣類それに雑嚢(ざつのう)、飯盒(はんごう)、水筒、針刺し袋に至るまで、多くの持物の数を常に揃えておかなければいけない。時々その数の検査があるが、その時不足している物があると大変なことになり、いろんな罰が与えられることになるんですよ」
「人の物を盗んででも、自分の持ち物の数、即ち員数を確保して、おかなくてはいけないし、盗むにも、夜寝ている間にとか、人がちょっと脇見している間にサッと盗み、知らぬ顔をしておくこと、これが要領がよいことになるんですよ」
「取られた人、即ち員数の合わない人が、叱られることになっているのですよ。軍隊という所は、取られたらすぐ取り返せ、相手が誰であろうと見つからねばよいのです。軍隊とはそんな所と思っていなさい」と話してくれた。
更に彼は、「自分の良い所を、要領よくこなし目立つように振るまい、まずい所は隠してしまい、知らぬ顔をするんだ」また、「いろいろの動作を荒くても迅速にすることが肝心なんで、サッサッと早くすることが一番、ノロノロしていると叱られるから人より早くすることだ」等と具体的に教えて下さった。
何も知らずに行ったのに比べれば、大変な得をしたことになった。これでビンタ(頬を殴られること)の三つや四つは助かったはずである。夜の更けるまでいろいろ話を聞いた。それから、手に入れた軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ)の本を二、三回読んでいるうちに眠った。
事前に経験者によく聞いておくことが、どれくらい得になるか、後になってよく分った。

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