◆村役場や近所回り

次の日の二月十三日の午前中は役場、農協、駐在所を挨拶に回った。
内田村長は「それはおめでとう。入営の時にはわしも一緒に行きますから」と言われた。
私は「それは、お忙しい所を大変お世話になります」と答えた。
「あんたは今、どこへ勤めておられるんですか?」と尋ねられた。
「東京無線電気という会社に勤めています。東京にあるんです」と答えると、
「応召中は、月給なんかはどうなるんですかね」と更に尋ねられた。
「支給されることになっています。毎月家の方に送ってもらえることになっているのです」と答えた。
「それは結構ですなあ。田舎で百姓だけしていたんでは、何もありませんからねえ」と返事をされた。その時改めて、会社の措置(そち)、月給を応召中続けて下さることがどんなに有難いかをはっきりと感じた。
それから村長は、「入営の前日に皆で送って、その晩は私も姫路市内に一緒に泊まり、朝九時までに兵営に行くようにしたいが」と言われた。
私も大体そのようにすればよいと父から聞いていたので、入営の前日十時三十分に万富駅発の列車に乗る予定とし、そこで村長と会うことを約束して家に帰った。
午後は昨日残っている部落内の家々を残らず挨拶して回った。「この度、召集令状が来たので、入隊します。平常こちらに住んでいないのでご無沙汰しています。留守中よろしくお願いします。明日出発します」というような挨拶をした。
「敦巳さん、この度はおめでとうございます。わざわざ来て頂いてすみません。何とぞ元気でやって下さい」と励まして下さった。
短い言葉の中にも、もろもろの感情が通い合い、多くの人の言葉の端に、この人もまた兵隊に行くのか、小さい子供の頃、この田舎で走ったりころんだり、戦争ごっこをしたりして遊んでいたのに、こんなに大きく立派に成長して。しかし、ここで兵隊に取られては、親もさぞかし惜しくもあり寂しくもあるだろう。でも、これも国を挙げての戦争で致しかたのないこと、どうか無事に過ごすようにと願い、励まして下さっているのを有難く感じた。
次々に家を歩いた。もう既に兵隊に送り出した「出征軍人の家」もあり、支那事変で戦死された「誉(ほま)れの家」もあった。当時はそのような表示を、家の入り口に掲げていたのである。
その後、先祖のお墓に参り、入隊の報告をし、守って下さいとお願いをした。
こうした間にも、軍人勅諭を丸覚えするように頑張った。なかなか長い条文で一生懸命にやらないと、覚えられなかった。これこそ軍隊生活で最も重要な基本となる定めであるから、入隊までに覚えておくと大変助かり、その後の負担も軽くなるし、殴られる回数も幾分少なくなるというので、何回も何回も読み、また書き、学校の試験勉強をするつもりで覚えた。
◆水入らず親子四人
多忙なうちに日暮れになった頃、岡山の学校に行っている妹の静が帰ってきた。立派な学生になっている。大きくなったものだなあと感心した。この間まで子供だと思っていたのに、もういい娘である。ただ一人の妹、例えようもなく懐かしく感じた。
「お兄さん、遅くなってご免なさい。今日やっと帰ることができました」平素は比較的よく話をする方だが、今日はあまりおしゃべりはしなかった。でも、久しぶりに親子四人、全員揃っての水入らずであった。物資が無い時代、食物の材料を母がいろいろと工面してくれ、そのうえ鶏を一羽屠(おと)して、手のこんだご馳走をしてくれた。
「敦巳よ、腹一杯おあがり、兵隊ではご馳走もないだろうし、忙しくてゆっくり食べられないだろうから。静もしっかりおあがり、寄宿舎では不自由しているのだろう」母は自分ではあまり食べないで、子供達や父に少しでも多く食べてもらおうと勧めるのだった。父も私も酒好きという程ではないが、今晩は一本つけてもらい、ほろ酔い気分になった。
日の丸の旗の寄せ書きに、武運長久(ぶうんちょうきゅう)を祈り、父と母と妹が名前を書き込んでくれた。千人針(せんにんばり)へ母と妹が必勝と健康を祈り、固く結び目をつけてくれた。また、今日までに父母が何ヵ所かの神社のお守りを頂いて来ており、母が「このお守りが敦巳、お前を守って下さるから」と言いながら、しっかりと手渡してくれた。両親の祈りが凝集(ぎょうしゅう)したお守りであった。
---このお守りのお陰で、幸運に恵まれ、私は九死に一生を得て無事復員できたのである。敵弾をくぐり抜け、汗と雨と泥にまみれて、ボロボロになっているが、激戦の跡をそのまましるした大切な宝物として、今も我が家の貴重品箱に収めてある。

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