ビルマ全土で、我が軍は三十三万人のうち十九万人が戦死した。私の概算ではその内十二万人がマラリヤに直接間接関わりがあり、戦死したと言ってよいと思う。それ程までにマラリヤ蚊によって、大勢の兵士が殺されたことになる。
悪性マラリヤにかかれば、四十度の高熱が一週間ないし十日間連続し、亡くなる人が多い。マラリヤとアメーバー赤痢の併発で命を落とす人、間接には高熱で歩いてついて行けなくなり落伍してしまった多くの人々。マラリヤと疲労で弱ってしまい自決した人、マラリヤで体力が奪われ糧秣を取りにゆけず餓死した人も数限りない。マラリヤにかかり衰弱していたのでシッタン河を筏で泳ぎ切ることができなかった人達もある。考え方によるとマラリヤとの戦いに破れたとも言えるのである。
ところで、国が戦争で負けたので一括して捕虜になった場合は俘虜(ふりょ)と言うが、そのビルマでの俘虜生活では、間もなくアースとかD・D・T等が配給され、噴霧器による蚊の退治を徹底するようになり、しかも三ヵ月後には早くも、全員に個人用の蚊帳を配り、防蚊体制が整備された。
俘虜抑留者に対してこれだけのことができるのは大したことだと感心した。このように英印軍の環境衛生対策は、日本軍よりはるかに上であると思った。
戦争中の日本軍のように、「ビルマの山の中には、何でも食べるものがある、本来人間は草食動物であるからそれを食い生きてゆけるのだ。食うものが無ければ敵のを取って食え」と命令したことと比較すれば大きな相違である。人命尊重の思想が全く異なるのである。万事に大きな差異があることが次第に分かってきた。
マラリヤで多くの兵士が死んでいったのも、人命尊重の思想が乏しく安全衛生思想が低く、当然の結果であったとも考えられる。
◆山間へ移動収容
終戦後、英軍の命令により、戦後俘虜だから現地人の家を借りるには不適切であり、現地人に接触しない場所に集めるのが適切だと判断されたのかも知れないが、その後チェジャンジー地区内の民家から離れた山間に移動した。一つには、日本兵の逃亡を防止するためであったのかも知れない。
ここは野宿なので、細い木と木の葉で覆いをしただけの粗末な小屋をこしらえた。幸いにして雨期も終わり、雨も降らなくなっており、助かった。十月上旬から十月中旬にかけてここにいたが、毎日戦争し逃げ回ることもない。そこに休んでいればよいのだから休養ができ、助かった。
米と塩は旧日本軍の倉庫に行って、取ってくればよいので十分あった。しかし副食の肉類や野菜類は欠乏していたので、少し離れた民家の軒先に干してあるとんがらしや里芋の茎をもらってきて食べた。
少しずつ体が回復に向かっており嬉しい。皆の顔がやや丸味を帯びてきた。中には顔が腫れるようになる人もいた。急に沢山食べ調子を狂わす兵士もいた。でもこの頃はまだ、戦争中の疲労が回復しないまま息を引き取る人もあった。
◇草むす屍
◆金井塚輜重聯隊本部付少佐 元第一中隊長を葬る
前にも書いたが、金井塚少佐は五月上旬カバイン付近の戦闘で足を負傷し歩行不能となり、担架や牛の背中に乗せられ、その後は杖にすがりながら、長い苦痛な行軍に耐えてこの地点までたどりついたが、衰弱した体は病魔に冒され息を引き取られた。
昭和二十年十月六日、溝口指揮班長より「小田、お前はレミナにいる頃、中隊長と同じ家に住み、特別縁が深いから、今晩屍衛兵(しかばねえいへい)をやれ」と命じられた。自分は有難いことだと思った。
私が二年八ヵ月前の昭和十八年二月十五日に召集を受け、初めて金井塚中隊長を拝むような気持ちで見上げた時のことを思い、その凛々(りり)しい威厳に溢れたお姿、中隊全員に号令や訓示をされておられた堂々とした様子を思いだす。
また、十九年一月頃レミナの町で中隊長以下溝口曹長達八名で一軒の整った家を借り、通信班として和やかな雰囲気で任務に就いた時のことや、中隊長の人間らしさに触れ感激したことを思いだす。
屍の傍に立ち守っていると、今の姿は余りにもお気の毒である。顔を覆う白い布はどこにもないので、緑の葉が多くついた木の枝を折ってきて顔を覆ってさしあげた。冷たく硬直した体を見ていると、草むす屍を思い出し、命のはかなさをしみじみと感じさせられた。
埼玉県出身の陸軍士官学校出の青年将校、レミナにいる時、特に親しくして頂いただけに、悲しく、寂しく、いろいろのことを思い出しながら一夜を屍と共に明かした。最も重要な最後の、屍衛兵をさせて頂き、御恩に報いることができたことを感謝した。併せて溝口准尉のこの配慮を有難く思った。

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