◇俘虜(ふりょ)(抑留者)生活
◆パヤジー収容所
昭和二十年十一月初め頃チェジャンジーの山の中の宿営地を後にして列車に乗り、ビルマの中南部地域にある、パヤジー収容所に到着した。
広い原野の中に有刺鉄線に囲まれた大きな収容所があった。数万人の旧日本兵がここに集められ、有刺鉄線の柵の外は自動小銃を持った英印軍兵士が厳重に警戒していた。収容所は竹と椰子の葉で屋根を葺いた小屋が沢山並んでいた。
いよいよ本格的な収容所生活の始まりである。有刺鉄線で囲まれた柵は旧日本兵の逃亡を防止するためと、現地人との接触を防止し警護をしやすくするためだろうが、厳重なものであった。
衛生管理を良くするために深い穴を堀り、便所として蚊や蝿の発生を防止しその捕獲に注意を払っていた。
また、防虫剤や消毒剤のスプレー散布がよく行なわれ、伝染病防止対策がなされていた。これは英印軍の方式によるもので、今までの日本軍では考えられなかったことである。
食料は少なく腹が減って困った。カロリーは十分あるというのだが量が足らない。全体の労働作業の出来ばえにより加減されるのだとか、いろいろ取り沙汰されたが、交渉したので少しだけ増やしてくれた。また配給されたバターやチーズを、ビルマ人が柵の外に持ってくる多量の米と交換し空腹を凌ぐことができた。英印軍の警護兵もこのような物々交換をするのを黙認していた。
日にちがたつにつれ与えてくれる食料は少ないながらも次第に増えてきた。
また、日用品も僅かだが配給された。炊事するための薪に困ったこともあったが、なんとか切り抜けた。服には背中にP・O・W(俘虜)と、大きなスタンプが押してあり、中古ながら清潔な物が支給された。戦争俘虜という烙印(らくいん)を押され、敗戦者という卑屈(ひくつ)な立場に置かれて、毎日労務に引き出されての生活は楽しいものではない。
しかし、食べる物がなく飢え死にしていたペグー山系の中の体の苦痛に比べればましである。労務といっても、病人や留守をする炊事当番などは作業に出なくてよかったのだから、負け戦の最中よりは今の生活の方が体に無理はなく楽だった。作業が相手側のためのもので自分の国のためのものでないことに抵抗を感じ、積極的になれず、言われた作業をすますと、宿舎にさっさと引き上げた。いつも作業が終わる時間が早く来ないかと思うような毎日だった。
パヤジー収容所にいる頃植田大尉が聯隊長として着任され「戦いに敗れたが、日本人としての誇りを持ち、耐えがたきを耐え、統制の取れた組織を保ち、頑張ろう」と挨拶と訓示をされた。
今もその時の様子をはっきりと覚えている。
なお、その頃は土の上に枯葉や枯草を敷き寝ていたが、初めて毛布が一枚ずつ配給され嬉しいと思った。なぜなら、転進作戦の途中から長い間、毛布はなく寒い思いをしていたので。
パヤジーにいる頃のある日、トラックに乗り作業に出た。ついでに、横に寝た姿で大きく有名なペグーの仏像を見た。寝た仏像は珍しいと思ったが、俘虜の身だから降ろしてもらえないので、トラックの上から遠く拝観した。
---戦後ビルマへ二度慰霊団の一員として行った時、再びこれを見て、俘虜当時を思い出し感慨深いものがあった。
◆メイクテイラーでの俘虜生活
パヤジーで二ヵ月を過ごし、二十一年一月に列車に乗りマンダレー鉄道で北に向かいメイクテイラーに到着した。ここは、マンダレーの南西約百五十キロの所で、雨量も少なく、さらりとした気候で暑いけれど住みよい地方だった。大きな湖があり鉄道交通の要衝で飛行場もあった。つい十ヵ月前には彼我の大激戦が展開された地域で、破壊された自動車が山のように一ヵ所に集められていた。町らしい所は見当らなかった。
少し前から、輜重聯隊を今までの一中隊、二中隊、三中隊でなく県単位の兵庫県、岡山県、鳥取県の三つの出身地別に、将校、下士官、兵隊を共に分け直し編成した。これは、今までの軍隊組織、上下階級の意識を多少でも緩和するためであり気分転換を図ったもので、このことはいろんな意味で成功だったと思う。そのようにして、秩序を保ち、節度を守り、抑留生活を過ごした。
我々は民家から離れた広い原野へ到着した。一両日すると大きなシートと、小屋を造るための木材と結束(けっそく)材料、それに竹などの材料その他副材料を沢山トラックで運んできた。比較的大きく丈夫なシート張りの小屋を建てた。今までの椰子の葉と竹だけで造ったものとは規模や頑丈さが違ううえに、衛生的な建物であった。
便所は、ここでも深い穴を堀り上に板を渡した簡単なものであったが、消毒剤が常に散布され蝿や蚊の発生を防ぎ、衛生的にされた。初めの内は小川で水浴をしていたが、後にはドラム缶を据えつけて風呂を造り、湯を沸かし入浴した。石鹸の支給もあり体を清潔に洗い、日常生活も次第に向上してきた。またこの頃になると、体の回復と共に、黄色い土色の爪とは全く異なった奇麗な新しい爪が伸びてきて、くっきり段がついた。四〜五ヵ月経ち全部奇麗な爪に生え替わった。
ここまで元気になると、特別な病気に罹(かか)れば別として、衰弱により命を落とすことはなくなったと自信が持てるようになった。健康になるのは本当に嬉しく、心に明るい希望が持てるようになった。

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