翌日は溝口指揮班長の指揮により草原に穴を堀り、屍を埋葬し墓標を建て、ねんごろにお別れをした。墓標はどこから用意されたのか、材料も大工道具もないこの宿営の中で、よくぞ用意されたものとだと感心した。
残念だったのは、皆弱っている上に分散して露営していたので、十四、五名ぐらいしか埋葬に加われなかったことだ。号令一下というわけにいかなかったことだ。本来、日本軍の華やかなりし頃の中隊長の葬儀であれば、中隊四百名全員が正装して厳粛盛大な葬儀が行われたのだろうに、敗戦の今は生き残りの兵隊も少なく、命絶え絶えで仕方のないことだった。金井塚久少佐殿、安らかにお眠り下さい。
---あれから五十二年の時が流れたがその時の状況が彷彿(ほうふつ)として思い出される。遠く過ぎた悲しい夢であり、戦争の歴史も遥かに遠ざかってゆく。今でもあの埋葬した草原に草が生え茂り、灼熱(しゃくねつ)の太陽が照りつけているだろうか。合掌。
◆幻想
終戦後の当時、野営中も弱った者を一ヵ所に集めて病室としていた。私も以前より回復してきたが、まだ弱っているのでその病人のいる室に入れられていた。病室といっても別に変わった建物ではなく、地面の上にお粗末な小屋があるだけであり、患者を集めて寝かせているだけのことである。
別に薬がある訳でもない。ただ、炊事を自分でしなくても、誰かが、粥を作ってくれる。それに衛生兵が近くに居るので心丈夫だったし、作業に引き出されることはなかった。いわば患者が枕を並べて寝ているだけだった。
私の隣に井上上等兵が休んでいた。もう三十歳ぐらいで私に比較すれば世間のこともよく知った人であった。「いつまで英印軍に使われるのだろうか、いつ帰れるだろうか」とか、「帰れば花子さんが待っている」とか、「日本の若い女の肌は忘れられない」、「リンゴのような頬にカジリつきたい」などと、面白く話をしていた。特に体調が悪いようでもなく、私も同じようなことを考え、話したり聞いたりしていた。
その夜中、彼が独り言で「船が迎えにきた。ほれ、あそこに復員船が二艘来ているぞ。早く乗ろう。波止場に早く行こう」と言いだした。「あの島は内地の島だ」等と。初めは寝言かと思っていたがどうもおかしい。起きて歩こうともする。薄暗い夜中で明かり一つないので表情が分からないが、どうも気が狂っている。急に脳症を起こしたらしい。衛生兵を探してきたが手の施しようもない。当時薬を持っていないし、成り行きに任せるより仕方がなく、押さえつけて寝かせた。しかし二、三日たった後に息を引き取り、それきりだった。
今我々は俘虜の身であり、いつ内地に帰れるか、一生労働者として使われるか見当がつかない。
あるいは、き・ん・抜・き・にされるのかも知れないと思った。すべては戦勝国側の意志次第であり、誰にも先のことは分からなかった。
◆奇遇だ 勇気を出そう
私の隣の患者はひどく弱っているようだ。年令は私より十歳程上で軍曹の階級章をつけているが、見慣れない顔である。尋ねると岡山の歩兵聯隊所属とのことである。どうしてその聯隊の人がここにいるのか分からないが、とにかく混じっているのだ。
青息吐息なので、あまり話しかけなかった。でも私が「自分は岡山県の赤磐郡の出身だが、岡山県のどこの出身ですか?」と尋ねた。彼は「和気郡(わけぐん)本庄村(今は和気町)の出身だ」と答えた。私が「和気郡山田村(今は佐伯町)に親戚がある」と言うと彼も「山田村に親戚がある」と言う。私が「康広(やすひろ)、という家で、私の母の出所だ」と言うと彼も「康広は親戚だ」と答える。えらい近い話である。私は「母の父は康広治四郎といって山田村の村長をしていた家です」というと、彼の返事が弾んで「そこが、叔母さんが嫁いだ家です」と答える。私は「村長をしていた治四郎は私の祖父で私は外孫です」と言うと「それではお互いに、親戚ではないか」ということで一気に親しくなった。世の中は狭いもので、私の従兄(いとこ)の「栄さん」をもよく知っており本当に懐かしくなった。
お互いに元気になって必ず復員し、山田村で会おうと約束した。これが大きな励みと勇気づけになった。三、四日の後、国友政夫軍曹はどこかへ転出して行った。復員後聞いたのだが、その時野戦病院に運ばれたとのことであった。幸いに彼も私も元気になり、二年間の抑留生活を別々の所で送ったが、二人とも無事復員でき、約束どおり再び山田村(現在の佐伯町)の康広家で会うことができ、お互いの無事を喜び合った。

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