◆食物
食糧の支給は、英印軍のもので小麦粉が主体でバターやチーズ、それに食油類が多く、羊や魚、野菜の缶詰等であった。カロリー的には足りるのかも知れないが、我々日本人は米が主食だから、食べる量が足りない。それに若い最中だから腹が減る。
我々が収容されているキャンプの柵の外にビルマ人が米を持って来て、これをバター類と物々交換をした。ビルマは米の産地で幾らでもあり、現地人の中には英国製の缶詰や珍しい物を食べたい人もあり結構交換が成立した。ビルマ人の日本人に対する好意もあり、それに見張りのインド兵も黙認の形をとっており、お陰でひもじさを補うことができた。
この頃は炊事をする人が専門に選ばれ、皆の分をまとめてしてくれるので、大いに助かった。その人達が物々交換も一括してくれるようになり、次第に食べることの心配がなくなった。
収容所生活では、重い患者は英印軍の病院に入院し、病人と日常の炊事班、班内当番、その他若干の者等何パーセントかの人を残し、あとの全員が使役に出て行くのである。また、全員休日の日も決められ、無茶な労働が強いられた訳ではなく、俘虜に対する扱いとしては苛酷ではなく、比較的正しく扱われたと思う。我々にしてみると、初めの数ヵ月は一生、労働させられるのではないかとの不安があった。しかし、その後はいろいろの情報から、待っていればいつかは内地に復員できるとの希望が出てきた。でも、その時期については全く分らなかった。
余談になるが英印軍の食料は清潔で運搬しやすいように、殆ど全部が缶詰で供給されていた。
戦争中の我々ビルマ前線の飢餓状況を思う時、食糧補給態勢が全く違い、その差異の大きさに驚くばかりであった。
それから食料品の缶詰等の運搬や、倉庫からの出し入れ作業の時に上手に少し失敬して帰ることもあった。これを見つけて怒るニグロ兵、知らぬ顔をしているインド兵等いろいろである。
我々も一年を過ぎると食物が少なくて飢えているのではなく、運搬中に数をごまかしたり少し盗んだりして、実益とスリルを楽しんでいる節もあった。だが、美味しい物を沢山食べたいのは人情であり、若い俘虜にありがちなことである。
食べることに続いて飲むことだが、キャンプ生活が落ち着き、日にちがたつと、器用な人が酒を作ることを始めた。黒い板砂糖から醸造するらしいのだが、案外簡単にできるようであり、酒の好きな人は喜んで飲んでいた。ただしメチルアルコールで悪酔いする傾向があった。私も一、二回飲んでみたが、まあまあの味だった。早く復員して畳の上で日本酒を飲んでみたいと思った。
◆作業
英国印度軍の指示による労働作業であるから、日本の国や自分達のためのものでなく、すべて相手側のためのものだから、釈然(しゃくぜん)としないものがあった。しかし、俘虜の立場では仕方のないことであった。
作業は、近くのメイクテイラーの駅に行き、貨物の上げ降ろしをする作業が多かった。炎天下でする作業は楽ではなかった。でも昼休みは一時間あるし途中で十分間の休憩時間もあった。
時々メイクテイラー空港に行き輸送機へ荷物を積み降ろしする作業もあった。飛行機に乗るのは初めてで珍しかった。その他穴堀り、草取り、土木作業、重量物運搬等いろいろの作業をした。
遠くへ作業に出る時はトラックが来て我々を運ぶのだが、一度に大勢運べるし、必要なら何台でも来て、作業場へ短時間で連れて行くので誠に能率的に作業に取りかかれた。
ちなみに、私がビルマに来て戦争中の二年間で、輜重隊におりながら、私は一中隊で輓馬隊だが、二中隊も三中隊も自動車隊なのに、トラックに乗せてもらったことは殆どなかった。ただ、通信技術の教育を受けるためタンガップからラングーンの往復に乗せてもらったことがあっただけである。それ程日本軍はトラックの輸送力が貧弱であった。我々はいつもテコテコと日数をかけ疲労困憊して歩くだけであった。
俘虜になり作業に出てみて、彼我の輸送力に何百倍もの違いがあり行動力の桁が全然違うことを痛感させられた。
また、作業のことだが日本人が今までに見たこともない超大型の運搬車を持ってきて必要な特殊運搬をするので、全く比較にならない能率である。それに、土木作業には大型、中型、小型のブルトーザーを持ってきた。人間五十人分にも相当する作業を一気に片づけるのだから全く驚異である。新しい道路を建設するぐらいのことは造作がないのである。
日本兵が百人がかりで十日かかる仕事を、二、三日で完成してしまうのである。我々日本軍がスコップとつ・る・は・し・で、汗を流し流しするのと雲泥の相違である。作業能率が二桁以上違う。こんな相手と戦争をしたのだから勝てるはずがない。相手を知り驚くばかりである。
ともあれ、このような大型機械の間で人の手で出来る部分を割り当てられ作業をした。
作業はいろいろあり、便所の穴堀りから、時には英人将校の日常生活、掃除の手助けを割り当てられることもあった。当たり前だと割り切ればそれまでだが複雑な心境であった。
変わったところでは、私を含めて三人が本隊より離れて泊まり込みで、英印軍の馬二十頭余りの飼育管理の手伝いに十日程行ったことがある。私は通訳をするうちに、二人のロンドン生まれの兵隊と仲良しになり、だんだん会話がよく通じるようになった。

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