◆ビルマ人の好意
戦争の当初、日本軍がビルマ全域から英国軍を駆逐し、我が軍の勢力下に収めた頃はビルマ人が歓迎し好意を示したのは当然であり、その後平穏な頃も引き続いて良好な関係が続いていた。 しかし、昭和十九年の後半から日本軍が劣勢になってくると、軍票の値打ちも下がり遂にただの紙切れになり、これで物を買う訳にいかなくなった。二十年に入ると我々はいよいよ戦闘態勢に入り、山の中で生活し現地人との友好的接触も無くなり、軍票を使用するような機会も閉ざされた。
食べる物が欠乏し、もらったり、拾ったり、失敬したりしなければ生きて行けなくなり、この頃からビルマ人に迷惑をかけることとなった。こうなるとビルマ人の中の一部の人や、被害を被った地域によっては、日本軍に対して反感を持つ者も出てきた。しかも日本軍が敗れ武装解除され、俘虜収容所に入れられてしまえば全く知らぬ顔でよいのだ。
しかし、そこがビルマ人、仏教国で仏心があるというのか、あるいは同じ黄色人種の親しさからか、あるいは一時にしろ英国を排除した力を尊敬したのか、大多数のビルマ人はいつまでも我々に親切にしてくれた。収容所の回りに張りめぐらしてある有刺鉄線の外に来て物々交換をしてくれたことが、日本兵にとっては大いに助かった。英軍から配給になったチーズやバターなどを沢山の米と替えることができたのは有難かった。
また我々が英軍のトラックに乗せられて、作業のために少し遠い所に出て行った時など、印度兵が運転しているが、休むために部落の中に止まるとビルマ人がすぐに差し入れに来てくれるのだ。
日本兵が俘虜生活で可哀相だと思い、ビルマたばこのセレーを沢山持って来てくれ、バナナやマンゴをくれるのだ。握り飯まで作ってくれることもある。
負け戦の最中には大きな迷惑をかけているのに、すまないと感謝した。印度兵が自動小銃で警備していても、それにかまわず俘虜の我々に与えてくれるのだ。この温かいビルマ人の心を忘れることはできない。私は感激し今も忘れられない思い出である。
このように現地人から恩を受けている私達は、できることがあれば報いたい気持ちで、心よりビルマ人の幸福を願うものである。

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