二 軍隊教育
◇入営
◆入隊当日

昭和十八年二月十五日午前九時、輜重兵(しちょうへい)第五十四聯隊(れんたい)前の城北練兵場には、大勢の人が集まっていた。応召者(おうしょうしゃ)と付き添いの者である。空は灰色で太陽の顔は見えず、練兵場の風は冷たい。やがて、衛門(えいもん)から少尉(しょうい)を中心に見習士官、下士官、上等兵等三十人が一組となって出てきた。
他の組もあったかどうか覚えていない。少尉の指揮の元で役割が決められていたようである。向こうの方ではもっと偉そうな中尉(ちゅうい)が全体を眺めていた。
立て札を持った兵隊が、一定の間隔で並び、一〜三十、三十一〜六十、等と書いた看板を立てた。
やがて胸を張った少尉が大きな声で、「応召者は各自の荷物を持って立て札の所に並べ。付き添いの者は、混雑するから後に下がって待て」と言う。この命令が終わると、応召者は各自の番号の所に移動し始めた。しかし、全体では三百人近く、それに付き添いの人もおり、荷物のこともあり、なかなか進まない。みんな右往左往していた。
「ぐずぐずせずに早くやらんか」と、大きな声がした。古参軍曹(こさんぐんそう)であろうか、大きな声が出るものだとびっくりした。ざわめきが止まり、皆急いで自分の所を探している。番号順なので、前後に来る人を確かめ合っている。「付き添いの人は、列に近づくな」と、また大きな声が飛んできた。
一応指示された番号の前に並び終わった頃「これから番号を調べに行くから、番号と姓名を言え」大きな声だからよく聞こえる。その頃には一組ごとに下士官一名、兵隊一名が配置され、二組ごとに一名の見習士官が付いており、その他には先程の少尉の所に台帳を持った軍曹と上等兵が付いていた。
応召者をどのようにして調べてゆくのだろうかと思っていると、先に立札を持っていた兵隊が札をそこに立てておいて、「真っすぐに並ばんかい」と言って前から後まで見て回った。その後を、各組ごとに名簿を持った下士官が、前から順に見ながらやってくる。入隊者が、「一番 大賀俊雄」 「二番 井上弥治」 「三番 山田哲雄」等と告げると、「よし」 「よし」と言いながら顔を覗(のぞ)き込むようにして名簿にチェックしてゆく。番号のみ言って名前を言わない者、名前だけ言って番号を言わない者があり、その都度叱られていた。
私の所は九十一〜百二十番の所で、私は九十三番であった。調べに来ている下士官は伍長(ごちょう)の肩章(けんしょう)を着けており、四角な顔をし一重まぶたの細い目をした人で、体は中背、がっちりとした体格の方であった。一人一人点検を受けた。「九十三番 小田敦巳」と言った。じろりと顔を見られた。「よし」と、太い声が返ってきた。
先程からいろいろ指示や注意があったが、どの言葉も命令的で威圧的である。それだけにはっきりしている。私は今まで殆ど、こんな言い方を聞いたことがなかった。見送りにきた人は、どんな気持ちでこれを聞いたのだろうか。
私が中学(旧制)五年生の頃、岡山駅で、一人の伍長の指揮下にいた三、四名の兵隊が無断でホームに降り、買物をしていた。それを見付けた伍長が大きな声で「貴様達何をするんだ」と怒鳴り、兵隊は震えあがった。そんな光景に接し、物凄いなあと感じたことがあるが、今日も、さすが軍隊は命令用語が多いと感じた。一巡、検査が終わったが、更にここで「前より番号」と号令がかかった。
「一」 「二」 「三」 「四」 「五」::と番号を唱えた。伍長と上等兵はもう一度名簿と人数の確認をした。各組共、同じように念入りに点呼がされていた。
その頃、黒いピカピカの皮長靴を履き背の高いかっぷくのよい中尉が現れて、手を後に組み全体の様子を監督していた。軍曹が全体をまとめ終え、少尉は確実に掌握(しょうあく)できたのだろう、中尉の所に行き敬礼をして、異常の有無を報告した。後で分かったのだが、この中尉が聯隊本部付きの手島中尉であった。
「これから営内に入るから忘れ物のないようにせよ」と少尉が私達に命じた。少尉は見習士官を集め指示を与えていた。第一中隊教育隊一班及び二班、担当見習士官::から始まり、第二中隊教育隊一班::、第三中隊教育隊一班::、重ねて申し付けと確認をした。私達は順序よく営内に入っていった。

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