小雪がパラパラ降ってきた。右にも左にも兵舎がある。ガラス窓には全部紙が貼られており、薄汚く寒々としていた。
私は第一中隊教育隊の第四班で、第一中隊は馬部隊であることが分かった。第二中隊と第三中隊が自動車の部隊であることも分かった。馬の部隊とは馬で荷物を運ぶ役で輓馬(ばんば)中隊と称するものであった。
第一中隊は一班から順に身体検査を受けることになった。医務室前に並ばされ、「裸になれ」「待っていろ」と言われ、上半身脱いだ。長い間裸のままで待たされた。廊下はよく風が通り寒かった。
やっと順番がきて室内に入った。姓名を名乗り次々と見てもらうのだ。内臓関係、目、耳、口等それから痔と性病関係、いやな所もあからさまにして見せねばならない。まごまごして叱られる者もいる。寒かったがやっと検査も終わり、服を着ると暖かくなってきた。
数名の者が即日帰郷(ききょう)を命じられた。体の状態が良くない人で、入隊が許されず、その日に家へ帰らされるのだ。せっかく歓呼の声に送られて来たのに、体が悪くては仕方のないことで、命ぜられるままに帰らなくてはならない。どのような気持ちだろうかと察し、気の毒に思われた。でも反面、数多い中にはそれを願う人がいないでもないのである。誰しも心の奥の片隅にはその方を願う気持ちがあるのではなかろうか?
他人のことを心配する暇はなかった。私達は元の広場に帰って昼飯をせよとのこと、寒い露天で、お湯も無く持ってきた弁当を食べた。
午後は被服の受領に行った。服の上下二組、襦袢(じゅばん)・袴下(こした)・帽子・靴・靴下などを受け取った。いずれもかなり古いものばかりで、私のように体の小さい者には服も靴も大きかった。しかし文句は言えない。与えられた服に早速着替えた。今まで、個々別々の服装をしていたが、みんな同じ服装になり、兵隊らしく見えてきた。そして階級章も一つ星即ち二等兵のものをもらい、そして今まで着ていた各自の服は風呂敷(ふろしき)に包んだ。更に毛布を四枚ずつもらった。
助教と助手の先導で、中庭からそれぞれの教育班ごとに分かれ、指定された部屋に入った。真ん中が土のままのたたきの通路で下足のまま、両側が三十センチ程の高さの板張りで、一人一人にマットが敷かれていた。マットは厚い布の中に藁(わら)を入れたもので、厚さ約十センチぐらいで、殆ど間隔を置かずに並べてあった。番号の順番にマットが決められた。
参考に教育隊第四班の教育係の担当助教は大仲伍長で助手は大森上等兵で、大仲伍長は別に下士官室がありそこが定位置で寝起きし、助手の大森上等兵はこの部屋の一番奥の位置のベッドに寝起きしていた。
マットが決まったので、毛布を整理して窓側に置き、私物の風呂敷包みを所定の場所に掛けた。上等の服を上装用(じょうそうよう)と言い、平常の服を下装用(かそうよう)と言うが、それ等や下着類を、助手の指導を受け、几帳面に四角にたたんで整理棚に乗せ、その上に上装用の帽子と下装用の帽子を並べて乗せた。
軍隊では、服のたたみ方まで一様にしなければならない。そして、折り目を着けて奇麗に整理しなくてはならないのだ、とは聞いていたが、まさしくその通りである。整理棚には衣服の外に、手箱が各人に一個ずつ与えられており、本や文房具や小物等を入れ整理することになっていた。大森助手の細かい指導を受け、やり方が分かり、整頓をすませ、これで一応落ち着くことができた。
「十分間休憩する」と助教が言った。小便に行く者もあり、服の整理をやり直す者もあった。私は自分の左右の人を改めてよく見た。左は難波という眼鏡をかけた丸顔の男で、右は新谷という背の高い顎(あご)のやや張った男であった。他の人達もみんな初めての環境で、知らない者同士、多くを語る人もいない。鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。そのうち誰かが「今日は寒かったのう」などと、ぼつぼつ話し始めた。
学生時代には、学校の寄宿舎が大分お粗末だと思っていたが、兵舎はそれの比較ではない。一室の人口密度は高く、僅(わず)かにマット一枚分が自分に許されたスペースだ。即ち、幅二・六尺(八十五センチ)奥行は整理棚を含めて六尺(二メートル)が与えられた面積である。畳は無く板張で、何か不潔で、窓はあるが薄暗い。私達の兵舎は平屋建であるが、屋根は低くもちろん天井は無い。隙間があちこちにあり、風通しがよく寒そうであった。

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