◆橘(たちばな)教官のこと

ある夜、みんな床についた消灯後、教官である橘見習士官が「小田、やってもらいたい用事があるから、将校室に来い」と、第四班の入り口で大きな声で私を呼んだ。今までに何回か書き物や図表等を作成する作業を手伝ったことはあったが、何だろうかと思いながら将校室に入った。当然のことながら電灯は明るくついており他の見習士官(みならいしかん)は本を読んでいた。
「小田、これを食え」と言って出されたものは、箱に一杯入った鮪(まぐろ)寿司ではないか。赤く輝く魚のトロがこんもりと波打っていた。私は思わず胸が迫った。なぜ、私をこんなに可愛がって下さるのだろうかと思いながら「ハイ」と、やっと返事ができただけである。
「遠慮せずに食え」と言われ「有難うございます」と返事はしたものの、教官のあまりの温かさに胸が震えるのである。
「さあ、食え。あまりおそくなってもいかん。早く食って帰れ、今日町へ出てきた時に買ったのだ」と勧められた。
「では、遠慮なしに頂戴いたします」一つ摘(つま)んで口に入れた。久しぶりに食うトロの味はまた格別で何とも言えない美味しさだ。鮪(まぐろ)寿司は大好物で、米沢にいた時も東京にいた時もよく食べに行ったものだ。
入隊後は、初年兵の厳しい訓練を受けているので、毎日腹が減ってペコペコになっているのだから、これ程うまいものがまたとあろうか。ペロリと喉をこし、また一つ摘んでムシャムシャ食べた。とろけるような鮪の舌触り、四っばかり食べたがまだいくらでも入りそうだ。でも、この辺で遠慮しなくてはいけないと思い、一度辞退した。
「遠慮するな、もっと食え」と勧められ更に手を出した。厳しい軍隊の中で教官と初年兵とでは、天地程の隔たりがあるのに、このように特別可愛がって頂き涙が出る程有難く嬉しく、橘教官の情を骨の髄まで感じた。仮に私が教官と同じ立場になったとしても、初年兵に対してこのような温かい心配りをすることができるだろうか? ただ教官のお心に頭が下がるだけであった。
その後、ある時「小田、お前勉強するのなら、将校室の隣に小さい部屋があるから消灯後そこに来てしたらよい」と言われた。当初から幹部候補生の試験は受けたい、それならば、他の人が寝ている間に勉強しなければいけないと考えていたので、本当に有難いことだと感謝し、早速毎晩その部屋を使わせてもらうことになった。
昼間の厳しい訓練で疲れている、その上に勉強するのは容易ではなかったが、頑張った。誰がこんな便宜を与えてくれるだろうか。厳格な軍隊組織の中、融通のきかない堅い兵営生活の中で、橘教官にしても同僚や他の人に気兼ねはあろうに、よくぞ私のために、小室を使わせて下さったことだ。
教官は、召集兵のそれまでの学歴、職歴等を何かの書類で知っているのだろうか?どういうふうになっているのか私には分からないが、少なくとも私から公式に学歴を言った覚えは一切ない。
ただ、その時見習士官をしている人は殆(ほとん)どの人がそれぞれ学校は異なるが、昭和十六年十二月に旧制専門学校や、旧制高等学校を卒業した人で、私と同級生ということになる。私は俗に言う七つあがりで、順調に進学していた結果、在学中に徴兵検査(ちょうへいけんさ)の適齢に届いていなかったので、学校卒業前に検査を受けられず、一年遅れて一般の人と同じく昭和十七年八月頃、本籍地で徴兵検査を受けた。
ところが、この度、私は一般現役の人より少し早く召集を受け、入隊することとなったのである。
橘教官は、私が同学年の旧制専門学校卒業者であることを知って、不憫(ふびん)に思われたのだろうか。
今も感謝の気持ちで一杯である。
いろいろな苦労と訓練を経験をしている間に、桜の花が咲き始め、馬の蹄(ひづめ)を洗う水も冷たさが緩み凌(しの)ぎ易くなった。兵営生活にも馬の取り扱いにも大分馴れてきた。でも、次第に程度の高い訓練となり、それなりに気合いを入れてしなければならない状況の中で、教育が続けられていく。

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