三 野戦部隊の出征

◇野戦部隊の編成
◆野戦部隊金井塚隊と留守部隊有元隊

昭和十八年四月初めに大規模な動員が下令(かれい)され、野戦部隊が編成された。姫路の輜重兵第五十四聯隊も、その編成の中に組まれ、金井塚中隊長以下殆どの人が動員された。それに加え今までに支那事変に行った軍歴のある人や、経験のない新兵など多くの人が召集され、部隊が編成された。
我々二月に入隊した教育中の者は留守部隊として残された。そしてこの留守部隊は有元隊と名付けられ、我々教育中の者の他に今までの金井塚隊の中にいた人も若干はその留守部隊に残された。それに加えて別に下士官や古年の兵隊が召集され、ここへも穴埋めに大勢入ってきた。
野戦部隊となった金井塚隊は全員姫路の北東二十キロにある青野ヵ原(あおのがはら)演習場の兵舎に集結し、内地を出るまでの間待機しながら訓練を受けることとなった。部隊名は五十四師団で師団長は片山四八閣下、通称「兵(つわもの)兵団」で、輜重兵第五十四聯隊は聯隊長太田貞次郎中佐で通称一◯一二◯部隊と称した。部隊の編成は聯隊本部の他に、第一中隊は輓馬(ばんば)中隊で中隊長金井塚久中尉、第二中隊は自動車中隊、第三中隊も自動車中隊となっていた。
私達はそのまま留守部隊有元隊で、引き続き橘教官の元で訓練を受けていた。しかし大仲助教と大森助手は野戦要員として出て行ったので、助教と助手は他の人に替わっていた。そのような中で私は消灯後の勉強をやっていた。
五月終わり頃のある日、留守部隊有元隊の人事係の大仲准尉(じゅんい)より急に呼び出しがあり「小田二等兵、お前はよくやっているらしいが、幹部候補生の試験を受ける気はあるか?」との質問があった。
これに対し「はい、有ります」と私は即座に答えた。かねがね、この時勢ならば軍隊に三年や四年は引っ張られるから、甲種幹部候補生の試験に合格し見習士官になり将校にならねばならぬと思っていたので、そのように答えた。
「そうか、優秀な者には元気をだし、幹候を通ってもらわなくてはならないんだ。だが、ここの有元隊は留守部隊で幹部候補生の試験は無いんだ」 「外地派遣の部隊五十四師団の輜重聯隊(しちょうれんたい)ならばその試験があるからその方へ行ってはどうか? 今まで金井塚隊にいたことでもあり、なじみもあろうから」と話された。私はいろいろ考え幹候を受けたいし、この間まで所属していた金井塚隊には親近感もあり、それに外地といってもジャワへ行くのではないかとうわさもされており、ジャワなら内地にいるのとあまり変わらないのではないか等と思い、にわかに金井塚隊へ転属することになった。

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