何も教えてくれず「そらやれ、そらやれ」だからかなわない。馬に触ったこともない召集兵ばかりでみんなオドオドしている。
「早く馬の手入れをせんかい、こうやるんだ」「よく見ておけ」といつて、古年兵は馬の前足を引き上げ手入れをし、続いて後足の手入れをした。案外たやすくやっているようである。
「わかったか」「そらやれ」と道具を渡された。あちらでも、こちらでも、馬の手入れがされている。
早くしないと叱られる、恐ろしいが、そんなことを言ってはおられない。何が何でもやらねばならないのだ。
古年兵が傍で見ているのだから仕方がない。恐る恐る馬に近づいた、馬が首を振ってもドキリとする。やっと、前足のところに行き中腰になり足首を持った。思い切って両手で持ち上げた。案外たやすく、足を曲げて持ち上げさせてくれ、先の古年兵がやったように、膝の上に足首を左手で持って乗せた。手が離れて滑り落ち、ポカリと蹴られはしないかと一生懸命だ。
「お前の持ち方は反対だ。逆に持ち替えろ」と注意された。持ち替えるとやはりそのほうがしっかり持てる。右手にへ・ら・を持ち馬の蹄(ひづめ)の裏の汚れを落とした。へ・ら・の当て方によってか、馬が時々足を動かすので無我夢中だった。水の入った鉄製の桶を引き寄せ、た・わ・し・で足の裏を洗った。
二月の水は冷たく手が凍えそうだ。手がかじかんでも馬の足だけは離してはいけない。離すと私の足を踏みつけたり、暴れることにもなる。洗った後は蹄油(ていゆ)を塗っておしまいだが、二本の前足をすましてやれやれと思っていた。
「こら、早く後足もせんかい」と怒鳴られた。前足より後足のほうが一層恐ろしい。一発蹴られたら大変だと思ったが仕方がない。そろりと左足を両手でつかみ引き上げようとしたが上がらない。もう一度力を入れて引き上げた。今度は案外楽に上げてくれた。滑り落ちそうになるのを引き上げ引き上げしながら、どうにか四本の足をすました。非常に長い時間のような気がした。
左右を見ると、今述べたようにして足を洗っている者や、馬の背中を刷毛(はけ)で奇麗にしている者もいた。上等兵達はみんな、のんびりやっているが、新入兵達は恐る恐るしている。
次に馬の胴体の手入作業に入った。大きな鉄製の金櫛(かなぐし)と大きな刷毛(はけ)を使って、胴体や足の方まで奇麗にするのだ。慣れた兵隊がやっているのを見るとわけないようだが、やってみるとどうにもうまくいかない。
刷毛には毛や垢(あか)が一杯つき、それをどうして落とすのか分からない。慣れないことばかりである。前に行けば咬まれはしないかと思い、後へ回れば蹴られはしないかと思い、馬が動けばヒヤリとして、恐る恐る触る始末であった。
それがすむと、馬糧(ばりょう)の豆粕(まめかす)、コーリャン、ボレーマツ、奇麗な藁を小さく刻んで水に漬けたものを混ぜて、馬房の奥にある桶に入れてやり、その他に乾草(かんそう)を一抱えずつ入れて置くのである。
「ヒョロ、ヒョロせずに駆け足でやらんか!」またも気合いがかかり、ドンドンやらされ息つく暇もない。次は馬を元の馬房に連れて入れるのだが、どの馬がどこの場所だったか分からない。
そこは古参兵「その馬はそこだ」「この馬はあそこだ」と、また「金甲は五番目だ」「その金錦は八番房だ」と、馬の名前を呼んで指示する。初年兵の我々は懸命に馬の鼻を捕まえて連れて入れるのである。
金具の外し方、掛け方も考えながらの動作であり、どうしても早くはできない。それに馬がいつどんな動き方をするか分からないから心配だ。やっと馬を全部厩へ入れた。手を充分洗う間も無く、うがい水でガラガラとうがいをしていると、早くも「集合、駆け足」の命令、それぞれの内務班(常に兵隊が起居する所)へ帰る。
朝飯までに、歯磨き洗面終了なのだが、丁寧にする暇はない。当番が、アルミの茶碗に飯を、アルミの汁碗に汁をついでくれている。各人に一杯ずつである。箸もアルミだから割れたり折れたりする心配はない。大急ぎで食べなければ間に合わないのである。味わうような食べ方をする暇はない。とにかく早いこと全部を食べて置かないと次まで腹がもたないのである。
食べ終わらないうちに「全員服装を整え、兵舎前の広場、舎前(しゃぜん)に集合」と助手の大きな声。ちょっと一服といってたばこを吸う間はない。
集合すると「右へならえ」 「気を付け」 「番号」これの繰り返しであるが、その前に「集合が遅い」 「最後の三人は、中隊の兵舎を一周走って来い」と、罰として労働を余計に科せられるか、ビンタかである。その時の風向きによると最後の一人には更に「もう一度走って来い」となる。その人はハアハア息をつきながらやっと帰って来たのに、もう一度とは泣けそうになるが仕方がない。続けてもう一度走りに行った。
その間じゅう、こちらはこちらで皆「気をつけ」の不動の姿勢のままで、服装の検査で帽子の被(かぶ)り方が悪い、服に名前がついていないなど、厳しく注意を受ける。二回兵舎を回った者がやっと帰ってくる。ハアー ハアーと息をし大変苦しそうである。「よし」と言ってやっと許してもらうが、私達教育兵は、いつ誰がこんな目に遭わされるかも知れないのである。昨日から始まった軍隊生活は、新兵の誰にとっても厳しいものであった。

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