◆訓練

午後の訓練は三班と四班と一緒であった。教官は橘(たちばな)見習士官で我々四班担当の助教大仲伍長、助手の大森上等兵。三班にも助教と助手がついていた。
まず徒手(としゅ)の基礎訓練からである。不動の姿勢「気をつけ」「休め」の繰り返し、敬礼の仕方、歩行中の敬礼、停止敬礼等何回も何回も繰り返しやらされた。午後とはいえ寒風の吹く冷たい日であった。
訓練中に三班の谷田二等兵は教官の目を盗んで、冷たく凍えた手をポヶットに入れた。すぐに見つかり、教官が「コラ出てこい」と一喝したかと思うまもなくビンタ一つ。激しい一撃で彼はよろめき倒れそうになった。教官は皮の手袋をはいていて、いいなあと私は思ったが、仕方がない。今の身分は違い過ぎる。手がいくら冷たくても我慢我慢。その後は駆け足となり、庭を何回も何回もみんなで走った。走ることの苦しさはだんだん増したが、次第に寒さは感じなくなった。
午後の訓練が終わると、また厩行きだ。今度は馬を先ず出して繋ぎ、日中乾かした寝藁を馬房に運び込み、馬糧を桶に入れてやり、それから馬を連れ込むのだ。これらの動作もみな駆け足だ。歩いていると「こら!」と怒鳴られ叱られる。夕方の馬の手入れは簡単で、時間はあまりかからないが、私は馬の出し入れは怖い。やっと厩作業が終わったと思うと「集まれ」の号令、しばらくの間「軍歌演習」をした。先輩の兵隊達に先導され、我々教育兵も小さい声で軍歌を歌った。「知っている歌は大きな声で歌え」と活がはいる。その頃西の空には夕日が沈みかけており、一瞬故郷を思った。こうしていろいろの場面で気合いが入れられ、だんだん兵隊らしくなるのである。
やっと夕食の時間を迎えた。肉と野菜のこってりとした汁と漬物と、ご飯の山盛りだが、腹が空いていたのですぐに食べ終える。その後、めいめい食器を洗いに行くのだが、多くの兵が一度になるので混雑し時間がかかり、そのうえ肉の油でぬるぬるしたお碗は洗いにくかった。

◆入浴その他日課

それから、入浴しなければいかんぞと言われているので大急ぎで行った。風呂場には一杯の人が入っている。脱いだ服を盗まれることがあると注意を受けていた。そんなことにならないように、隅の方に脱いでかため、その上に眼鏡を置いて間違われないようにした。盗まれたらそれまでだ。風呂に入らない訳にはいかない。風呂の中では裸だから、二等兵か一等兵かの位を示す肩章を着けていない。うっかりすれば初年兵の我々は、上級の古い兵隊にいつ叱られるかも知れない。早く洗って出た方が安全だ。それに服を取られるのを防ぐためにも、早い方が良い。「烏(からす)の行水(ぎょうずい)」で、石鹸をゆっくり使う間もなくサッサと出る。風呂から出ても着替え等はなく、脱いだこの服のみである。同じ物を着て同じ靴下を履き、急いで班へ帰るのである。
靴の手入れをしたり寝床を用意していると、助教が「皆床の前に並べ、早く並べ」と言った。三人がまだ班に帰っていないことを確認の上、「整理棚の整理が悪いから直せ」と指摘され、みな懸命に直した。今着ている服が下装用の平生着(へいぜいぎ)で、その他に少し良い上装用の服があり、着替え用の下着も同じ棚の上に並べているのだが、それらの整理が悪いとのことである。服は四角になるよう板で叩いて、きっちり整理しなければならないのだ。
「お前のはなんだ、もっときちんとせい」「お前のは幅が広い。この整理棚に丁度になるようにするんだ」と一つ一つ注意され、やっと終った頃、三人が戻ってきた。
「お前達はどこへ行っていた」助手の厳しい問いに黙っていた。「返事をせい」と言われ「酒保(しゅほ)へ」と小さい声で答えた。「馬鹿者、はや酒保へ行きやあがって、靴の手入れも寝床の用意もできていないじゃあないか。それにお前の整理棚は何じゃあ!」といった調子。三人はあっけにとられていたが、急いで整理にとりかかった。
続いて「中隊長の名前を言える者は手を挙げよ」と問われた。私はすぐに手を挙げた。続いて五人ばかりが手を挙げた。他には手を挙げる者はいなかった。「お前達はもう忘れたのか、昨日教えたばかりなのに」「お前教えてやれ」と私が指名された。「金井塚久(かないづかひさし)中隊長です」と答えた。
「そうだ、皆よく覚えておけ」と助手は言った。このあたりから、私は助手に認めかけられてきたようだ。
---この時初めて「金井塚久中隊長」の名前を口にした私だったが、二年半後にこの方の最期を見届ける屍衛兵(しかばねえいへい)になり、しかもビルマの土地に埋葬する役目を勤めることになろうとは思いもよらないことだった。
点呼前になり助教の大仲伍長が入って来て「気をつけ」の号令に皆不動の姿勢になる。それから一巡回って顔と姿勢と服装を見たあと「今週の週番士官の実行方針は何か」と尋ねられた。みんなポカンとしていた。「まだ知らないのか、教えてやる。今週は森野見習士官が週番だ。一つ規律の厳正、二つ起床動作の敏速、三つ敬礼の正確である。よく覚えておけ」やがて点呼のラッパが鳴った。週番士官が赤い襷(たすき)をかけて入って来た。昨日と同じ人であった。大仲伍長が「第四教育班、総員三十名事故なし。現在員三十名」と報告をした。付き添いの週番下士官が記録をしているようである。森野見習士官は全員を目で追うようにしたが、「よし」と言って立ち去った。
その後も大森助手からいろいろの注意があり、消灯ラッパが鳴ると同時に皆ベッドに潜った。今日もこれで一日終わった。寝ている間は誰にも邪魔されない。

次の章に進む

TOPへ戻る