◆留守部隊有元隊から野戦部隊金井塚隊へ転属

私の外に教育兵から二十名ばかりの者が選ばれて転属することが決まった。この転属が後に大変な運命の岐路(きろ)になったのだが、その時は想像もできなかった。
橘教官を初め同期の教育兵達が、みんなで送別会をしてくれた。送別会といっても別に酒や料理があるわけではない。酒保(しゅほ)から僅かな菓子を買ってきて食べる程度のことであったが、野戦へ行く者を心から送ってくれた。その折、橘見習士官が別れを惜しみ歌を歌って下さった。
「今宵(こよい)出船(でぶね)か〜 お名残(なごり)惜しや〜 暗い波間に〜 雪が散る〜 船は見えねど〜 別れの辛さ〜 沖にゃ鴎(かもめ)も〜 啼(な)くわいな〜」と。
---今でもこの歌を歌うと、その時の光景や橘教官の面影が思い出され、言い知れぬ懐古の情が湧いてくるのである。
転属の日、私は同期の兵隊約二十名を引率して、留守部隊の人に挨拶をすませた後、トラック一台に乗り青野ヵ原の輜重聯隊の聯隊本部に到着し、申告(上官へ申し出、伝えること)をした。その時、各人の配属先が指示され、それぞれの中隊、小隊、分隊、班に分かれて行った。
私は金井塚中尉の率いる第一中隊の中の瀬澤少尉の率いる第二小隊で、藤野軍曹の第四分隊で、その第十二班で班長寺本上等兵の配下に編入された。班員は二十名だったと思う。
参考として、輜重聯隊の総数は約八百名で、その内第一中隊の総数は約四百名であった。
第一中隊の中には、編成前の金井塚隊にいた川添曹長(かわぞえそうちょう)や藤野軍曹、助教だった大仲伍長や木下上等兵など、知った顔がさきざきにあった。十二班には寺本班長の次に古参の上等兵や一等兵が約半数おり知らない人ばかりだった。残りの半数はこの度初めて入隊した新兵であった。私も新兵の部類だった。寺本班長は、私が入隊して以来今日までのことや、教育訓練中のことを知っていたらしく、そのように皆に紹介してくれた。みんなも快く受け入れてくれ、殆ど違和感はなかった。むしろ、特に親切にしてくれたように思われた。
南方に行くのだから、それなりの服や装具や兵器が支給された。また、厩に行くと元の金井塚隊から連れてきた馬だから見覚えのある馬が沢山いた。十二班には十七頭の馬とそれに見合う輓馬用車両が十数台あつた。馬には「金月」とか「金並」とか「金紫」等と名前がついており「金月」は橋本二等兵が担当し「金並」は松本一等兵が「金紫」は田中一等兵が担当するようにに責任者が決められていた。いろいろ様子が分かった頃私には「金栗」という名前の馬が割り当てられた。
毎日の訓練や、内務班での生活や厩の作業も、留守部隊の有元隊でしていたこととあまり変わりはなかった。
戦友の誰彼とも仲良くなってきた。馬の運動のため乗馬してかなり遠い小野の町あたりまで行くこともあり、緊張もするが楽しい時でもあった。

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