◇青野カ原(あおのがはら)出発

◆瀬澤小隊長の出発号令

いよいよ出発の日だ。慌ただしい数時間が経過し「出発」の号令がかかった。
第一中隊第二小隊は乗馬の瀬澤小隊長を先頭に、第三分隊、次に第四分隊の十班十一班そして私の属する十二班の出発、いよいよ私の番になった。持った手綱を少ししゃくった。私の馬、「金栗」は前へ一歩を踏み出した。引いた輜重車(しちょうしゃ)がゴトリと音をたて動きだした。力強いスタートである。長い長い輜重車の列が続いた。
乗馬は小隊長、分隊長、班長達。輜重車には兵器を積んだ車、弾薬を積んだ車、装具を、食料を、馬糧等を積んだ車が、長蛇の列を作って進んだ。実に壮観、勇ましい征途(せいと)である。

◆見送る人、見送られる人

街道にはあちらこちらに大勢の人が出ていて、見送ってくれている。雄々しい姿ではあるが、六月末の太陽は容赦なく照りつける。これだけの大部隊が行進するのだから砂塵(さじん)はもうもうとたち、体は汗にぐっしょり濡れ、目ばかりがギョロギョロする感じであった。
でも、私達は殊更(ことさら)に元気よく、見送ってくれる人の前を通り過ぎていった。遠くで田植えをしている人達も仕事を止めてこちらに向き、手を振って送り励ましてくれていた。
その時私はその人の名前は知らなかったのだが、有吉獣医下士官も埃(ほこり)にまみれて行軍していた。ふと見ると、その傍(そば)に上品な着物を着た女性が懸命に歩いている。有吉下士官の奥さんであろう。主人を見送るために来て馬部隊についての行軍、離れずついて行かれる姿を見て、大和撫子(やまとなでしこ)の心意気、夫を思う心の熱さに感激した。
他に、そのような父母、兄弟らしい姿を幾組も見かけたが誰々とは記憶していない。夕方姫路の市内に着き、一晩露営(ろえい)した。
次の日は、朝から貨物列車への積込み作業。先ず輜重車を分解して乗せた。次に兵器、弾薬箱、食糧、馬糧、それに各種器材の搬入をした。次に馬を一つの貨車に六頭ずつ積み込むのだが、馬も我々も馴れないことで、案外時間を費やし夕方までかかった。
私は先日両親と別れをしたばかりであるし、会えば別れが余計に悲しくなるので連絡をしなかった。この日は遠い所からわざわざ送りに来ていた方も多かった。
自分と同じ班で、いつも並んだ場所におり、助けあっていた橋本二等兵の奥さんが、二歳位の男の子と年老いた両親を伴って送りに来ていたが、胸の中はいかばかりかと察するだけでも気の毒であった。
そこは鉄道線路脇のバラスがごろごろした貨物の荷揚げ場で、汚くごみごみしていて屋根もろくにない。女や子供にはそこにいるのが痛々しく気の毒に思われた。それに湿度の高い暑い日であった。奥さんの着物は、白地に桔梗(ききょう)の花が紺色に染め出されたすっきりした柄のもので、何故か印象に残っている。
私は未だ一人身だが、こうして愛しい妻があり可愛い子供があれば、どんなに別れが辛いことだろうかと思うと、気の毒でたまらなかった。この五人の家族が元気で再び会えればよいがと、考えずにはいられなかった。
互いに別れを惜しんでいたようであったが、忙しい積込み作業中であり、初年兵の一兵卒に充分な時間は与えられなかった。彼はみんなに気兼ねもあるので早々に別れて積込み作業に加わった。橋本君こそ私と一番仲良しだったので、私はこの時の様子をいつまでも鮮明に覚えている。
やっと握り飯で夕食をすませた頃は、夏の日も暮れていた。それから馬の当番だけを残し、中隊全員で姫路護国神社に参拝し、武運長久(ぶうんちょうきゅう)を祈り黙祷(もくとう)をした。闇夜で不気味なぐらい静かであった。灯籠(とうろう)の薄い光だけが心に残った。もう何事も決まっているし決心も既にできており、静かに祈りを捧げるのみであった。
それから姫路駅横手から次々に客車に乗車した。何回か人員の点呼があった。もう夜のことでもあり一般人は誰も近づけないようにしており、駅員以外誰もホームにいなかった。汽車が動き始めた。向かいのホームに憲兵が三人立っていた。
列車は堅く鎧戸(よろいど)をおろし、山陽線を西へ下って行った。向かいの席に腰掛けていた久保田二等兵が「いつまたこの汽車に乗れるだろうか」と、私に向かってつぶやくように言った。
しばらくすると、平田古年兵が包みから、ぼ・た・餅・を出して「今日おやじが持って来てくれたんだ。一つだがあげよう」と言ってくれた。我が子可愛さに一生懸命に作ってきたぼ・た・餅・だ。砂糖がよくきいており特別おいしく頂いた。皆は一日の作業で疲れたせいもあり誰も無口になっていた。
私は、この内何人帰れるのだろうか?とそんなことを思っていたが、いつしか単調な列車のリズムに誘われ眠っていた。

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