大きいビルが所々に建っており、その間に椰子(やし)の木が高く伸びて葉を拡げていた。広い庭に緑の芝生を持つた豪華な住宅もあり、素晴らしい南国の都市は見ただけでも、長い船旅の疲れが癒(いや)された。
また、真昼の暑い最中に、夕立のような大粒の雨が三十分間ぐらい降るスコールが毎日あり、なんとも気持ちよく、暑さを忘れさせてくれ有難かった。
市街地から少し離れた場所を通ったとき、その広場におびただしいトラックや自動車の残骸があった。敵味方両方の物であろうが、ただ驚くばかりの量である。一年半前に日本軍がこの地を攻略した時の戦争の爪跡が、ここに鮮明に残っているのである。
シンガポールには南方軍総司令部の一部が置かれ、我々のいる兵営の近くにある立派な邸宅は将校宿舎として使用され、高級将校が乗用車に黄色や赤の旗をなびかせて出入りしていた。このように、街は日本軍の権力下にあった。
私が臨港倉庫の監視当番の任務に就いた時、その近くで英軍の捕虜が車で荷物を運搬している姿を見た。二十人ぐらいの集団を、鉄砲を持った小柄な日本兵が監視して、作業が行なわれていた。暑い熱帯の太陽光線を浴び、帽子も被っておらず、上半身裸である。白人の白い皮膚が赤色に日焼けして汗を流していた。
「哀れだ、気の毒だなあー」と一瞬感じた。「でも捕虜だから仕方がないではないか」と頭の中で肯定した。シンガポール陥落時の山下将軍とパーシバル将軍の会談の姿を思い浮かべた。勝者と敗者の立場の違いはどうすることもできない。二年後よもや逆の姿になろうとは、私は思ってもいなかった。
倉庫の監視当番をしていたが、いささか退屈し、波止場の方に行ってみた。そこでインド系の顔をした現地人と出会い、私の片言英語と彼のシンガポール英語で話を交わした。手真似足真似を加えながら、相対して話をするとかなり意味が通じる。「日本からいつ来たか?何歳か?お前の名前は?兄弟は何人いるか?」等単純な会話をした。しかし、彼はその後に「イングリッシュ、シュワー、ヴィクター」英国が必ず後で勝ち、日本が負けるだろう、と言った。
理由を言ったか否かは今では記憶にないが、戦いの広がりが急だったので、シンガポールでは、英軍の戦闘体制がまだ整わず、戦力を固めていない先に攻撃されたので負けた。しかし、根本的に両者の装備、近代兵器の程度の差を見て、彼らはそう感じていたのだろう。
私も入隊前に友人の内田君が「シンガポールで捕獲した戦利品のレーダーが優れた性能を持ち、日本はその真似をして試作している」と言っていたことを思い出し、嫌な情報としてこの予言者のことが頭の中にこびりついて離れなかった。
シンガポールのコカイン兵舎に駐屯中、特別の訓練はなく、次の命令待ちの状況で時間に余裕があり、のん気に過ごした。幹部候補生の試験のことは、常に頭の片隅にあったが、いつ試験があるといった情報もなく、目的が目の前に無い上に、戦地に向かう途中という気持もあり、それに切瑳拓磨(せっさたくま)する相手もなくて、つい安易な方に陥りがちで勉強らしい勉強もせず、漫然と日を過ごしていた。
南国の夜空は澄み南十字星やサソリ座が美しい。内地は今八月で蒸し暑い夜が続いているはずで、こちらの方がむしろさわやかなように思われた。
二十日ぐらいたったある日、乗船命令がきた。かねてから、ジャワは天国、ビルマは地獄と言われていた。ジャワは気候も良いし戦況も落ち着いているが、ビルマは気候が悪く、病気もまん延しており、しかも戦況が悪いという意味であったが、ビルマで使用する軍票(ぐんぴょう)、その紙幣が渡された。これで行く先は地獄のビルマと決まったのだ。セレベス丸と同じような貨物船を改装した輸送船に、今度も丸一日かけて荷物と馬を運び込んだ。その次の日に、シンガポール港の岸壁を離れた。美しい町よ、さようなら。
船団は六艘ぐらいか、よく分らないが北へ向かって舵が取られたようだ。ペナン沖で輸送船が敵の飛行機にやられ、無残な残骸(ざんがい)をさらしていた。それを目前に見て、我々の船もいつやられるか分からないと思うと、急に不安になってきた。戦地に近づくにつれて、飛行機と潜水艦の恐怖を一層感じるようになった。
更に北上を続けていると、突然「空襲警報」の声。甲板に上がってみると西の空に点々と飛行機が見えた。二機がこちらへ向かって飛んでくる。キラキラと太陽に輝いているなと思って見ていると、爆弾が落とされた。かなり離れた所にいた貨物船が攻撃され一艘が爆撃を受けて沈んだ。
あっという間の出来事で夕闇の迫る頃であった。幸いに我々の船団ではなかった。
翌日船団はラングーン港を目指し大きな河を上っていく。前方の森の上に金色に輝く塔を発見した。大西一等兵が「あれがパゴダだ」と教えてくれた。近づくに従いだんだんパゴダが大きく見えてきた。